遠征――ツアー
万雷の拍手で現実に引き戻されるラクタル。
二曲目が終わったのだ。立ち上がって拍手する者さえいる。
今回は、さっき見よう見まねだった客も率先して手を叩いていた。
――今日も絶好調だね、リーン。
ラクタルは舞台で頭を下げているリーンに目を細める。そこには、自分の店を繁盛させてくれる娘、と言う以上の感情も含まれているようだった。
「では、次の曲を――」
リーンの言葉は途中で止まる。
「お、おい、何だ……?」
中ほどのテーブルに座っていた一人の女が立ち上がり、リーンの立つ舞台に進み出た。
四十代後半だろうか、白い半袖の襟付きシャツに灰色のロングスカート、こんな酒場にはあまり似つかわしくない格好。
「あんた! 何やってんだ、リーンが歌えないだろ!」
一応、酒場には歌唱中のリーンに近づいてはならぬという不文律がある。だが女は意に介する様子もなく進み続け、舞台の前で跪いた。
リーン、しゃがみ込んで、女の顔を覗き込んで。
「どうか、されましたか?」
その声に、顔を上げた、女は。
静かに、滑らかな涙を双眸から流していた。途切れることなく床に落ちていく。
「あ、あの。あなたの、今の、その……」
「歌、ですか?」
「え、ええ、そうです。歌を、是非……」
うちの母の前で、と言った後、女は両手を顔で覆って泣き崩れた。
結局、舞台はそれでお開きとなり、ラクタルは気前よく客を全員追い出し女の為に臨時休業にした。
「ありがとう、ラクタル」
「なに、いいってことさ。で、あんた、何か飲むかい」
先程まで泣き続けていた女はようやく落ち着いてきたのか、客席のテーブルの一つに座って俯いている。ラクタルはグラスを三人分並べ、そこへいつも自分が飲んでいるボトルから酒を注ぎ、全員の前に置いた。
「あ、あたしは未成年だから水でいい」リーンは笑う。
「その、あんたが時々言うミセイネン、ってのが何なのか、未だに分からないんだが……」
ラクタルはリーンの前に水の入ったグラスを差し出す。
「へへへ、若いってこと」
「あの……」
女が顔を上げる。
「はい。落ち着きましたか?」
リーンの明るい声。女は少し相好を崩す。
「この娘に何の用だい?」
女は置かれたグラスを取り、中の液体を少し飲む。
「私、ホラックラーに住んでいるヤシュアといいます」
「そりゃ、えらく遠いところだね」
――馬車でも一週間、下手すると二週間ってとこか。
「遠いの?」
「そうだね、なかなかの距離だ。そんなところからわざわざ?」
ヤシュアは頷く。
「実は、旅の者に、イアシスの街に奇妙な音を聞かせる酒場があると伺って」
「ああ……」
そんな所にまで噂が届いていたのかとラクタルは少し驚く。
「それでヤシュアさんはわざわざ聴きに来てくれたの?」とリーン。
「ええ、私は噂を確かめたくて」
「噂通りだったかい?」
頬杖を付き、ラクタル。
「いえ、噂以上でした」
「えへへ。嬉しいな」リーンは頭を掻く。
「今夜はごめんなさい、中断させてしまって。他のお客さんにも……」
「いいさ。ただ、今度はちゃんと最後まで聴いとくれよ」
――余程の事情ありかな。
ラクタルはそんな風に見ている。
と、ヤシュア、リーンをじっと見て、縋るような目線で。
「リーン、さん。初対面のあなたにこんな事を頼んでいいものか迷うのだけれど」
女、またグラスの酒をちびりと含む。
「どうか、私と一緒にホラックラーまで来てはいただけませんか? 歌を、母に聴かせて欲しいんです!」
リーンはラクタルと顔を見合わせる、が、すぐに笑顔になって。
「つまり、遠征ってこと?」
ほんの一瞬だけ、遠い目をした。
次の日、早朝。
ラクタル、リーン、ヤシュアは街の入口に当たる大きな門の前で集合した。ここから馬車に乗りホラックラーを目指す。
と、リーンは馬車の側に見知らぬ男が立っているのを見た。
「お、あんたが例の娘か」
男は武装している。腰に差した剣が物々しい。着ている鎧も部分的なプレートメールとはいえ本格的だ。
「あの……?」
「ああ、そいつはね、ファンテと言って私の古くからの知り合いさ。道中女二人では不用心だから、連れて行くといい」
ラクタルはファンテの背中をばしんと叩いた。
「いててて。そう言うわけだ、宜しくな」ファンテはリーンに目配せ。
二十代だろうか、無駄に爽やかな顔立ちの青年は軽やかに御者台に乗る。ヤシュアは客車、リーンは――何故かファンテの隣に座った。
「ここ、いい?」
きらきらした目で、リーン。
ファンテが頷くと、やった、いっぺんここに座ってみたかったのよね、と笑顔を零れさせた。
一行はラクタルに見送られ、イアシスの街を出た。
「なあリーン、イアシスに来る前はどこにいたんだ」
「え? えーとね、テンスタ、って所」
道中。ホラックラーまでは基本的に街道が整備されているため、何もなければ一週間の道行きだ。尤も、今は雨季の終わりで天候に邪魔されそうではあったが。
「またそれは随分と田舎だな」
「うん。誰も歌に興味なくてさ、困ったよ」
――テンスタ、ね……。
ファンテは半信半疑だ。その後も詳しく聞けば、乗合い馬車でイアシスに辿り着いたらしい。が、だとしても、テンスタは余りにも街から遠い。
――どう見ても十代の女の子一人、無事で済んだわけが……。
「ねぇ、ヤシュアさん! 私、ホラックラーで何を歌えばいいんですか?」
ファンテの考えをよそに、リーンは客車に振り返る。
「実は……この所、母の体調が優れないのですが」
ヤシュア、思い詰めた顔。
「もう、私が誰かも分からない様子なんです。それに、夜になるとずっと何かぶつぶつ言うようになって」
ある時、ヤシュアは聞いた、それは何か、と。
「そうしたら、『おや見知らぬお嬢さん、これは歌だよ』、って。若い頃、よく歌ったんだよ、って……」語尾が涙に溶ける。
リーンは考え込む様子だったが、何も言わなかった。
「わ、私は、母の言っている『歌』というものを、聴かせてあげたいのです」
「――うん、分かった。ヤシュアのお母さんにその歌が何なのか、直接聞いてみる」