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歌う少女――とある酒場にて

 夏のある日。


 まだ日没直後だというのにイアシスの街にある酒場は今日も盛況だ。


 「おい姉ちゃん! 酒だ酒!」

 「はーい、只今!」

 「そりゃないぜ、こっちが先だろ?」

 「そっちもいま行きます!」


 ――儲かるのは(まこと)に喜ばしいが、こう雑然とした夜が続くのは余り好きじゃないねぇ。

 酒場の女主人(ミストレス)、ラクタルは店の奥にあるカウンターで小さく息を吐く。

 ――うーむ、もう少し給仕を増やすべきか。




 「わ、ラクタル、今日もいっぱいだね」

 声に振り返ると、裏口から入って来た幼い顔立ちの少女がラクタルの背後でにこにこしていた。短めの黒髪に黒い瞳。おまけにフードの付いた黒い服、スカートだけは赤。



 「お、来たね」

 「うん。いつもありがとうね、ラクタル」

 なに、こっちこそさ――女主人もリーンに笑いかける。







 酒場の壁際に(しつら)えられた小さな長方形の舞台(ステージ)――と言っても板を工作して床から少し高くなっているだけの場所。そこへ、先程の少女がゆっくりと上がる。


 店内の照明は全てランプだが、舞台への照明にだけは魔法光(ライト)が使われ、ひときわ明るく彼女を照らす。



 どよめく店内。

 「おおっ! 待ってたぞリーン」

 「いや、まさか今日だとは。ツいてるぜ」

 「くーっ、生きてて良かった」

 彼らが座るテーブルから、舞台は少しだけ離されている。



 客席の後ろ、少女から見て向こう正面には先ほどのカウンターがあって、女主人(ラクタル)彼女(リーン)を見つめていた。



 上着を脱ぎ、店員に渡す少女。下から現れたのは真っ赤なドレスシャツ。

 スカートと合わせ、これでステージ衣装と言うわけだ。

 


 「えー、皆さん、今晩は」

 リーンは少し抑えたトーンの、しかしよく通る声を出した。

 それだけで、騒がしかった店内が一気に静まり返る。



 目を閉じるリーン、直立不動で息を吸い、無伴奏(ア・カペラ)で歌い出す。

 「お、おい、何だ、これ……?」

 「しっ、黙って聴いてろ」

 ある者はじっと耳を傾け聞き入り、ある者はまず戸惑い、やがて音の波に包まれていく。例え歌を聴いたことなどなくても、歌詞など、意味など分からなくても。



 理由(わけ)は知らない。ただ、この歌には何かがある。聴く者の胸元に迫り、心をあらゆる方角にざわつかせる何か――歌い手(リーン)が、相当な歌唱力の持ち主であることは明らかだった。



 カウンターでは、ラクタルがグラスに入った酒を(あお)っている。

 ――うむ。やはり、酒場とはこうでなくては。

 誰一人無駄口を叩かず、いい歌を聴き、旨い酒を飲む。ラクタルは月に何度かのこの舞台が堪らなく好きだった。




 一曲目が終わり皆、彼女に拍手を送る。

 だが客の何人かは不安そうな表情(かお)。隣の客に拍手のやり方を教わり、見よう見まねで手を叩き始めた。



 ――全く、おかしな習慣だねこれは。

 ラクタル自身も手を叩きながら苦笑する。だが、では今の歌をどうやって讃えればいいか――言われてみればリーンから教わったこの『拍手』という奴が一番しっくりくるから不思議だよ、と女主人は思う。






 次の曲。

 今度は先ほどよりも速いテンポ。皆、身体を動かしたり足でリズムを刻んだりして曲に聴き入る。

 ――ほんとに、不思議な()だ。

 女主人、少しのあいだ感慨に(ふけ)る。





 一年前。

 「歌ぁ?」

 とつぜん店にやって来て、歌を歌わせてほしいと言う少女。二人は店の奥、カウンターで向かい合って椅子(スツール)に座っている。



 「あ、最初は無料(タダ)でいいの」

 お金は気に入ったらでいいから、と言う少女に、ラクタルは戸惑った顔を向ける。



 ここは街でも外れにある酒場で規模こそ大きいが、毎晩、席は半分も埋まればいい方だ。



 「やー、大きくて良い街だね、イアシス(ここ)は。前の町は小さくてさ、歌なんて誰も聞いてくれなかった――あ、私、リーンって言います。宜しく!」



 「いや、そうじゃなくてさ、ええと、リーン?」

 ラクタル、戸惑いの色を倍増させて。



 三十代後半の彼女は美人で背も高く、目当てで毎晩通う客もいるほどだ、が。



 「その、歌って、何だい?」



 今の顔ではとても常連などつくまい――「歌」などという理解不能なことを言われ、ひどくおかしな顔でリーンに問いかけるラクタル。



 するとリーンは大して驚いた風でもなく、椅子から降りるとそこから少し離れたところに立って目を閉じ、歌い始める。



 ――な?



 ラクタル、耳に取り込まれる新感覚に思わず身を震わせる。

 とても緩やかな音の連なりだ。海をゆらゆらと揺蕩(たゆた)うような、そよ風に吹かれて大草原でうたた寝するような――リーンと言う少女の声が複雑な律動(リズム)で揺れ、ラクタルを包み込む。その心地良さは、今まで体験したことのないものだった。






 やがて音を発するのを()めるリーン。

 閉じていた目をゆっくりと開き、女主人をにっこりと見た。



 「取り敢えず、ワンコーラス」

 「そ、それが、歌、って奴かい?」

 リーンは頷き、女主人に近づく。彼女の目の辺りに手を伸ばし、ぽつりと言った。

 「涙」

 驚いたラクタルが自分の目元に手を遣ると、果たして涙が一筋、頬を伝っていた。



 ――何てこと。

 自分でも気づかぬ内にとラクタルは頬を拭う。



 「どうかな? 取り敢えずお客さんの前で何度か歌わせて貰って――」

 ラクタルは何となく辺りを見回す。開店準備に忙しいはずの給仕たちが全員手を取め、呆然とこちらを見ているのが目に入った。



 ――あの一瞬でこれかい。

 「いいだろう。今晩、またここにおいで」

 「わ。いいんですか? ありがとう!」

 ラクタルの手を取ったリーンは、余程嬉しかったのかぶんぶんと上下に振った。









 リーンがラクタルの店で歌うようになり、ここが不思議な「音」の聞ける酒場としてちょっとした有名店になるまでそう時間はかからなかった。

 以来、この酒場は連日満員が続いている。

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