復讐
二章:復讐
久し振りに歩く鷺ノ宮の街は、僕の記憶に有るまま殆ど変わっていなかった。時折吹いて来る湿気を帯びた生温い風に、もうすぐやって来る雨の気配を感じた。空を見上げると、重く垂れ込める灰色の雲が空を覆っていて、僕の気持ちを重たくさせる。
今朝見た母の顔が目の前をちらつく。母には就職活動の為に、東京へ行くと伝えてある。母は心配そうだったが、最後には笑って送り出してくれた。僕が今からしようとしている事は、母の笑顔を裏切る行為だ。僕は頭の中から母の笑顔を追い出そうと、少し早足で歩いた。
目の端に見慣れたアパートが見えて来る。僕は一旦アパートを通り過ぎた後、周りに人がいないかどうかを確認し、素早く自分の住んでいた部屋の前まで行く。そして誰も住んでいない事を確認した。人が死んだ部屋になど誰も住みたがらない。
僕は、電気メーターの収まっている鉄で出来た箱の蓋を開けると、背伸びをしてメーターの裏に手を回す。頼む有ってくれ。指の先にガムテープのぬるりとした感触を感じる。
「おい、あんた何やってんだよ」
急に掛けられた声に、僕はびくりと身体を仰け反らせる。その時に、手首を鉄の箱に引っ掛け、痛みと共に血が出たのを感じた。声の聞こえた方を見ると、いつの間に現れたのか、男が僕の事を、不審者を見るような目で見ていた。僕が住んでいた頃には見た事は無いが、どうやらこのアパートの住人のようだ。
「はい、何でしょう?」
僕は手首を押さえ応える。
「だから何をしてんのって聞いてんの。あんた泥棒? な訳無いか、スーツ着た泥棒なんて聞いた事ないしね。て言うか、その部屋誰も住んで無いけど?」
男は軽薄そうな出で立ちで、発する言葉もまたそう感じられた。
「あっ、いや、私不動産管理会社の者で、次に住まわれる方の為にメーターのチェックや、部屋の様子を見ているのですよ」
「へえ。ここに誰か住むの?」
いかにも興味津々といった感じで、男は訊いてくる。
「いや、そういう訳では。メンテナンスも私どもの仕事ですので」
「だよね。こんな所に人来ないよね。人、死んじゃってるもんね」
チクリと胸が疼く。急に振られた男の軽率な発言に、僕はそうなんですかと応えるのが精一杯だった。
「あれ? 知らない? 何かさあ、変態カップルがお互いの事カッターで切り刻んでたらしいよ? そんで、頭おかしくなった男が、彼女の事切り刻んで殺したんだって。それから夜な夜な女の無念な声が聞こえて来るんだってさ。俺は聞いた事無いけど。本当に知らない? 有名だよ?」
僕の顔から血の気が引いていく。代わりに、先程出来た傷が、拍動に合わせて疼き出す。
「す、すみません。新米なもので……」
「あっごめんね。新米さんなんだ。驚かせちゃった? 嫌な仕事はだいたい新米さんに回って来るよね。俺もさ……」
「すみません。まだ仕事が残っているものですから」
話を続けようとする男を遮り、僕は言った。僕の声は怒りで震えていた。男は少しむっとした様子で、何か言おうと口を開きかけたが、僕の様子を見ると、申し訳なさそうに「邪魔してすまなかった」と言い、二つ隣の部屋に入って行った。僕の声の震えを、怯えと勘違いしたのかも知れない。どちらでもいいが。
僕は素早くメーターの裏のガムテープを剥がし、ガムテープに付いた鍵をシリンダーに差し込む。そして、なるべく音を立てずに部屋の中に入った。部屋の中は、一切の荷物が無かった。楓と座ったソファーも、楓と一緒に眠ったベッドも、そこには無かった。当然の光景だが、僕は戸惑いを押し殺す事が出来ず、そこで暫らく立ち尽くしてしまった。
——玄関先で気持ちが落ち着くのを待ち、僕は靴を抜ぐと、「ただいま」と、誰もいない部屋に声を掛けた。何も無い部屋に僕の声が反響し、僕の声は、何処か他人の声のようにも聞こえた。
部屋に上がると、床にはもう埃が積もっていて、僕の歩いた後には足跡が付いていた。これから僕がしようとしている事と、この部屋が繋がるとは思えないが、念の為、部屋を出る時には床を拭いておいた方がいいだろう。
襖を開け、天井部分の板を外す。楓のボストンバッグは少し埃を被っていたが、前に見た時と変わらずそこに有った。それから、なるべく音を立てないようにボストンバッグを引き摺り出すと、中身を確認する。間違い無く全てが揃っている。そして僕は荷物をまとめ、僕のいた痕跡を全て消した事を確認すると、部屋を後にした。
スーツ姿に、楓のボストンバッグは派手過ぎた。僕は近くの雑貨屋で手頃な大きさの紙袋を買うと、ボストンバッグの中身を全て移し替え、ボストンバッグは駅のゴミ箱に捨てた。楓の持ち物を勝手に捨てるのは少し心が痛んだが、これも楓の為と、僕は自分に言い聞かせた。そして、そのまま僕は新宿伊勢丹に向かった。
新宿伊勢丹に着くと何軒かのブランドを見て回った。なるべくシンプルなデザインで仕事が出来そうに見えるブランドは……。
「——楓、ごめん。お金借りるね」
僕はクッキーの缶に謝り、バーバリーというブランドの店に入ると、スーツと靴を試着する。
「お似合いですよ」
爽やかさを絵に描いたような店員が、鏡越しに声を掛けて来る。これで少しは、仕事の出来そうな格好になっただろうか。
「すみません。ではこれを下さい」
レジの前に立ち、後ろの棚に並ぶ鞄を見て、それも追加で購入する事にした。次は名刺だ。
駅前に有る、スピード名刺承ります。と大きく看板が出ている店に入り、名刺を注文する。肩書きは『NPO法人楓の会ボランティアスタッフ柚木茂』名前は偽名。住所と電話番号もでたらめだ。
次に僕は、大型家電量販店に向かい、ボイスレコーダーと小型集音マイクを購入する。これで準備は整った。家電量販店を出ると、頬に冷たい物がぶつかり、僕は空を見上げた。目の中に冷たい刺激を感じ、視界が歪む。雨だ。
新宿の街を歩いていると、あの時の事を思い出す。極彩色のネオンに彩られた街の中を、楓が歩いて行く。日本有数の色街が有るこの地に於いて、楓がその色に染まらなかった事は、奇跡的な事なのかも知れない。
「すみません。今お時間有りますか?」
背後から突然声を掛けられ、僕は少しだけ驚き振り返る。そこにはモデルの様な容姿の女の人。手にはハガキ大の紙。
「ワンパターンなんだな」
僕は呟いた。
「え?」
「すみません、今急いでいるので」
軽く躱すと、僕は再び歩き始める。そして少し離れた場所まで来ると、さっきの彼女を振り返った。すると、既に他の男に声を掛けたのか、男が守備良く連れ去られて行くところだった。あの時の僕もあんな感じだったのだろうか。そう言えば、あの時の絵はどうしたのだろうか。実家で見た記憶は無いから、もしかしたら、捨てられてしまったのかも知れない。
予約していたビジネスホテルにチェックインすると、僕は、今日購入した様々な物をベッドの上に並べて、足りない物は無いかと念入りにチェックする。ボイスレコーダーの使い方も一通り試しておかなければ。
「——楓。僕は明日、あの男に復讐をする。これは、楓が望む事とは違うかも知れない。だから僕の個人的な恨みになるかも知れないが、僕にはあの男を許せそうも無い。僕から楓を奪ったあの男に、僕は明日復讐をする」
レコーダーの停止ボタンを押し、今の声を再生してみる。かなり囁くように喋ったつもりだが、集音マイクの性能がいいのか、僕の声は、はっきりと聞き取れた。レコーダーのスピーカーから聞こえる僕の声は、何処か他人の声にも聞こえて気味が悪かった。そして、僕はレコーダーのデータを消去した。
シャワーを浴びる為に、衣類を脱ぎ捨てバスルームに備え付けて有る鏡の前に立つ。鏡越しに見る自分の身体には、至る所に傷が有り、その傷の一つ一つに楓の、「ごめんね」「痛いよね」と言う言葉が染み込んでいる気がした。
僕は、その一つ一つに指を這わせながら目を瞑る。こうしていると楓の声が聞こえてきそうな気がする。治っている傷、治りかけている傷、様々有るが、その全てに楓との思い出が詰まっている気がした。
僕はゆっくりと瘡蓋を剥がした。一枚一枚丁寧に。そして最後に、楓の為に自分で付けた手首の傷の瘡蓋をゆっくりと剥がす。手首からはじわりと血が滲み、洗面台の中に滴っていく。そして、薄くピンク色に染まった水が、排水口の暗い穴の中に、渦を巻いて吸い込まれていく。
僕はその渦の中心に、そっと指を差し入れ、指先がくすぐられる感覚に身を委ねる。穴の向こう側に繋がる暗い世界は、きっと僕のこころだ。暗い穴の中からこちらを伺っているものも、きっと僕のこころ中の何かだ。
翌日早朝、僕はあの男の住む街に向かった。特別大きくも無く小さくも無い街の駅前には、程良く整備された公園が有り、その公園の端に有る公衆電話から、後藤の病院に電話を掛ける。
「はいもしもし、こちら後藤小児科クリニックです。どうされましたか?」
事務の女の人だろうか。中年くらいの女性の声が、受話器の向こう側から聞こえて来る。
「朝早くから申し訳ございません。そちらNPO法人光の子供会会長の、後藤先生が経営されていらっしゃる、後藤小児科クリニック様でしょうか?」
「はい、そうですが」
「あの私、埼玉の方に有るNPO法人楓の会と言う児童養護施設で働いている、柚木と言う者ですが、後藤先生のご活動に深く感動致しまして、同じ児童を支援する職に従事している者として、是非とも一度お会いして、お話などを伺えましたらと思い、電話した次第でございます。大変お忙しいとは思うのですが、本日のご予定などを、お聴かせ願えますでしょうか」
「まあそうでしたの。それでは先生に伺ってみますね。少々お待ち頂けますか?」
事務員らしき女の人は、そう言うと電話を保留にしたのだろう、受話器の向こう側から、電子音で構成されたクラッシックが流れて来る。僕はその音を聞きながら公園をぐるりと見渡した。楓が且つて住んでいた街。平日だからだろうか、人はそんなに多くない。そして近々選挙でも有るのだろうか、街の建物の角々に、選挙用のポスターらしきものが貼って有る。何と無くそれを見ていると、一人の女の子がその一枚を真剣に見ていた。
珍しいな。知り合いか誰か出馬するのか? 考えを巡らせていると、受話器からの電子音が急に途切れ、男の声が聞こえて来た。
「はい。私が後藤ですが」
てっきり先程の女の人が出ると思っていた僕は、いきなり本人が電話に出て、返事に窮してしまった。
「もしもし?」
「——あっ、ああすみません。てっきり先程の方が電話に出られると思っていたので、びっくりしてしまいました。まさか尊敬する御本人がいきなり出られるとは。私埼玉の方で……」
「ええ聞いていますよ。楓の会の柚木さんですね? しかし埼玉には私もよく行くのだが、楓の会とは聞いた事が有りませんね」
後藤の声に猜疑の色が籠る。
しまった。もっとこの街から遠くにしておけば良かったか。つい楓の事を思い埼玉にしてしまったが、よくよく考えてみれば、後藤が楓の事を引き取ったのも埼玉の施設だった。
「え、ええ最近出来た施設でして。それで運営に当たって調べていく内に、後藤先生のご活躍の事を知りまして、私達施設の者一同、先生のご活動にいたく感激してしまったと、そういう訳でして。そして、出来たら一度お会いしてお話を伺えたらと思い、連絡した次第なのです」
不思議と口からでまかせが出てくる。何故なのか。目的が定まっていれば、人間は意外と何でも出来るものなのかも知れない。
「なるほど。それは大変光栄ですな。ところで、柚木さんはこの街に知り合いなどはいるのですか?」
僕は、後藤の質問の意味が分からなかった。しかし、わざわざ聞いて来ると言う事は、知り合いがいた方が都合がいい何かが有ると言う事なのか。
「——ええ、いますよ。学生時代には、この街にも住んでいた事が有りますから。その時はまだ人生の目標が定まらず、恥ずかしながら先生の事を存じませんでした。今思えば本当に勿体無い事をしたと思います」
「そうですか、学生時代に住んでいたと。なるほど。で、聞いた話によると私の今日の予定を知りたいとの事ですが。——丁度良かった。実は今日の十五時から、市の体育館で私の講演会が有るのです。そちらの方に来て頂けたらお時間を作りますよ」
——講演会。出来たら人気の無い所で会いたかったのだが、仕方が無い。まずは会って話をしないと。
「そうですか! それは丁度良かったです。後藤先生のお話を聞けるとは光栄です! 是非行かせて頂きます!」
「そうですか! それでは講演会の後にお会いしましょう!」
受話器を置くと、僕の手はぐっしょりと汗をかいていた。電話ボックスの中で深く息を吸い込み吐き出す。それを何回か繰り返した後、僕は、先程の女の子が見ていたポスターの方に足を向けた。
『創ろう福祉の街!! 無くそう悲しい現実!! 時局講演会:7月27日(木)15:00〜講演会場:高崎市公民体育館 弁士/後藤久嗣ゲスト講演/民友党幹事長:高柴正邦』
——これは何の冗談なんだ? あの男が、政治家だと? 無くそう悲しい現実だと? ふざけるな! 胸の中に激しい怒りの感情が湧き上がり、あまりの感情の昂ぶりの為に、僕は吐き気を覚えた。
講演とはこの事だったのか。それで知り合いがいるのかと聞いたのか。ポスターの中ではあの時テレビて見た男が、拳を振り上げ笑顔を振りまいていた。——講演会。行ってやろうじゃないか。
僕は、講演会が始まるまでの空いた時間をどうしようかと考えた。そして取り敢えず、後藤の個人病院を見ておこうと思い、調べておいた住所を頼りに歩いて向かった。
後藤の個人病院は、自宅も兼ねているらしく、かなりの大きさだった。遠巻きに見ていると、子供連れの母親が病院の中から出て来たので、僕はそれと無く病院の評判を聞いてみる事にした。
「すみません」
「はい?」
いきなりスーツの男に声を掛けられた母親は、訝しむような声で僕に応える。その不穏な雰囲気を察したのか、足下にいた小さな女の子は、母親のスカートの裾をぎゅっと掴み、僕に挑むような視線を向けて来る。僕は慌てて言葉を続けた。
「あっ、すみません。今度この辺に引っ越して来る者なのですけれど、私にも子供がいるのですが、ここの病院の先生が大変素晴らしい方だと聞きまして。ちょっと聞いてみたんです」
僕の話を聞いて少し安心したのか、母親は警戒を解いた風だった。
「そうなんですね。良かったわ。てっきりセールスか何かだと思っちゃった。——ええ、ここの病院は評判良いですよ、後藤先生も立派な方だし」
「やっぱりそうなんですね。良かった。後藤先生は子供さんにも優しいですか?」
変な質問だっただろうか。少しだけ母親の顔に影が射す。
「ええ、とっても優しいですよ。それはもう自分の子供のように接してくれますから。でも最近は、あちらの方で忙しいみたいですけれど」
母親は、壁に貼ってあるポスターを見た。それは先程見た、後藤の講演会のポスターだった。
「突然声を掛けてしまい、すみませんでした。ありがとうございます。参考になりました」
母親に礼を言うと、母親は「いいえ」と言い去って行った。足下にいた女の子は僕に小さく手を振ってくれた。僕は、それに小さく手を振り返しながら呟いた。
「自分の子供のようにね……」
「ねえ、あんた若いけど本当に子供いるの?」
「え?」
声に振り返ると、そこには中学生か高校生くらいの女の子がいた。そして戸惑う僕に、更に声を掛けて来る。
「だから、本当に子供いるの? さっきから見てたけど、どうもそう言う風には見えないのよね。まるでこの人の事聞きたかっただけみたい」
女の子は後藤のポスターを指した。
「いるとも。ただ少しだけ用心深いだけだよ。大事な子供に、何か有ってからでは遅いからね。僕はこれから行かなきゃならない所があるから、失礼するね」
僕はそう言うと足早にその場を去った。出来るだけこの辺りの人間に、印象は残したくない。
暫く歩いて振り返ると、彼女は僕とは反対側を向いて、何処かへ行くところだった。僕はその後ろ姿を見て、何故か何処かで見た事が有るような気がした。
講演会場には既に多くの人達がいて、中には記者のような人間もちらほらいた。僕は会場に入ると、一番入り口近くの席に着き、講演が始まるのを待った。
何気なく周りを見回していると、先程僕に声を掛けて来た女の子が、斜め前の少し離れた席に座っているのを見つけた。
中学生や高校生が来る場所じゃないよな。そんな事を考えていると、周りから拍手が沸き起こり公演は厳かに始まった。
「……でありますから、後藤先生ほど素晴らしい人材は、滅多にいないと、私はそう思うのです」
お前に後藤と言う男の何が分かると言うのだ。
したり顔で講演する男を見て僕は思った。周りから拍手が沸き起こる。どうやら一人目のゲスト講演が終わったらしい。ステージ脇ではいつのまにか司会が現れて、大袈裟に拍手を煽っていた。
「お待たせしました! 次は我が市が誇る次世代のリーダー。後藤久嗣先生の登壇です!」
周りから大きな拍手が沸き起こるが、僕の中の芯の部分は、それに反比例するように急速に冷えていく。ついにあの男が現れる。そう思うと、周りから音が消えた。激しく拍手をする観衆の中、僕だけが静かにただ座って見ていた。——僕だけが?
僕は先程の女の子を見る。彼女も拍手をしていない。そして険しい顔でステージを見ている。あの子は何なのだろうか。女の子の顔が更に険しくなる。そしてその視線の先を辿ると——。
「——後藤」
僕の耳に音が戻って来る。相変わらず拍手は止んでいなかった。
「本日は、私の為にこんなに沢山集まって頂き、感謝の念が絶えません! 本当にありがとうございます! 私はこの街を変えていきたい! いや、この街から変えていきたい! そう思っております! それには、皆様のお力が是非とも必要になって来るのでございます!」
僕の耳には、後藤の声は全く届いていなかった。それはそもそもにして、あの男の戯言を聴く気が無かったのもあるが、前に座る女の子の態度が、どうにも気になるからだった。
何故あの子はあんなにも険しい顔で、後藤の事を見ているのか。
「あっ」
講演の途中にも関わらず、急に彼女は立ち上がる。それを見て、思わず漏れた僕の声に、隣の人が訝しげに見て来る。
「すみません」
僕はそう周りの人に言うと、彼女を追って会場を出た。あの後ろ姿。公園にいた女の子なのか?
「どうしたの? まだ終わってないよ?」
僕は何故か彼女の事が気に掛かり声を掛けてしまった。すると彼女は、はっとした顔をして、僕の方を振り向いた。
「あんた、何でここに……、やっぱりさっきの嘘だったの?」
ここまで来て声を掛けてしまったからには、隠しても仕方が無いだろう。
「——そうだね。そう言うことになるね」
「あんた何者なの? あの人に何か用事?」
用事。確かに用事だ。ただその内容は、この娘には言えないが。
「ああ、この後会う約束をしてる」
何故か彼女の顔は険しくなる。
「そうなの。でも会えないかも……」
「何か事情がありそうだね。良かったら話聞くよ?」
「知らない人に話す義理は無いよ」
彼女はそう言って行こうとする。
「待ってよ、僕はこういう者なんだ」
名刺入れの中から名刺を一枚取り出すと、彼女の前に回り込み、それを渡した。彼女は名刺を見て、なぜか複雑な顔になる。
「楓……」
「え?」
不意に名も知らない女の子の口から、楓の名前が出て僕は驚いた。
「楓の会って変わった名前だね。何でこんな名前なの?」
なるほど。名刺の名前を読んだだけだったのか。
「それは名前の由来って事なのかな?」
「うん。私、この楓って名前の人にすごく励まされたから」
ずきりと、僕の胸に何かが突き刺さったような感覚が沸き起こる。
「君、楓と会った事有るの?」
完全に失言だった。彼女の思わぬ言葉に、僕は冷静さを欠いていた。しまったと思った時には、既に遅かった。
「なんであんたが楓さんの事知ってるのよ」
「いや、その、もしかして君後藤先生の施設の……」
「後藤先生なんて呼ばないで! あんな奴先生なんかじゃない!」
女の子の声が辺りに響き渡る。
「取り敢えずここを離れようか」
僕は、辺りから突き刺さる視線から逃げるように、女の子を促しその場から離れた。女の子は少しだけ逡巡したようにその場に留まっていたが、すぐに僕の後をついて来る。確かここに来る途中に、喫茶店が有ったはずだ。
「アイスコーヒー一つ。君は?」
「オレンジジュース」
「かしこまりました。ごゆっくりどうぞ」
店内には、平日の昼間と言う事もあってか、二、三組の主婦と思われる客がいて、子供の事や旦那の事について、騒がしく愚痴を言いながら、日々の鬱憤を晴らしていた。
「——すまないね。えっと、まず君の名前は何て言うのかな?」
彼女は僕を品定めするかのように見た後、「さき。花が咲くの咲一文字で咲」と、下の名前だけを小さな声で言った。そして再び僕に、先程の質問を繰り返す。楓の名前を出した以上ごまかす事は出来なさそうだ。
「——非常に説明が難しいんだけど、どう言ったらいいのかな。僕は東京で楓と一緒に暮らしていた事が有るんだ」
「それって恋人って事?」
こちらばかり情報を与えるのは、今後の僕の計画に差し支えるかも知れない。この娘がさっき執った態度から、敵で無い事は分かるが、だからと言って味方とも限らない。
「フェアじゃないな。僕ばかり答えるのは僕が不利だ。今度は僕の質問だ。君は楓の事を何故知っている?」
「フェアって、これ試合かなにか?」
口を尖らせ咲は言うが、僕は譲らない。というか譲れない。この計画にミスは絶対に許せない。
僕は咲の目をじっと見つめる。どれくらい見つめていただろうか。僕の覚悟を悟ったのか、咲は諦めたように、ぽつぽつと話し始めた。
「——もう分かってると思うけど、私はあの男の施設に預かられてる。であの施設で、ある日すごく嫌な事が有って、自分の部屋にずっと閉じ籠ってベッドの上にいたのね」
咲が眉根をひそめる。僕も、咲の身に起こった惨事を想像して顔をしかめた。
「それでベッドの上をね、ゴロゴロ、ゴロゴロしてたの。目を瞑ってね。目瞑ってそんなことしてたら、分かるよね。目が回っちゃってさ、それで勢い余ってベッドから転がり落ちちゃったのよ」
咲は少し笑った。何故か僕は、楓の事を思い出した。
「そしたらさ、ベッドの下のちょっと見ただけじゃ分からなような所に、本みたいなのが挟まってて、何だろうって思って、私、ベッドの下を這ってったのね。そしたらその本は、楓って名前の人が書いた日記帳だったの。私、その日記に何度も助けられたり励まされたりしたんだ」
咲はオレンジジュースを飲み干した。そのグラスの下には結露の水溜りが出来ていた。その水溜りのせいなのか、景色がぼやけて見える。——楓。
「はい答えた! 次はあんた……って、あんた何で泣いてるの?」
「え?」
僕は意識していなかった。自分の顔に手をやり、初めて自分が泣いている事に気が付いた。それ程までに自然に流れ落ちた涙だった。
「——ごめん。質問だったね。楓は……かえ、ごめん。ちょっと待ってくれるかな」
僕は涙を掌で拭うと、目の周りを強く揉みほぐし、無理にでも涙を止めようと眼球を強く押した。そしてコーヒーを一口飲む。周りの主婦達は、自分達の話に忙しいのか、僕達の方には目もくれていなかった。
「大丈夫? 私、何か変な事言った?」
「ああ、いやごめん。楓の事を思い出してしまって」
「別れちゃったの?」
別れた。その表現は或る意味では正しい。ただ正確ではない。正しくは『死に別れた』だ。だがそれをこの咲と言う娘に話す事は、今後の展開を見極める為にも、彼女の立場を正確に把握しなければならない。
「君が、後藤先、いや後藤の事を良く思っていない事は、さっきの君の態度を見て分かったけど、その後藤を良く思っていない君が、何故後藤の講演会なんかに来ていたのかな?」
「ずるいよ。私の質問にまだ答えてない」
そう言って咲は横を向く。
「そうか、そうだな。僕は楓の事が好きだった。楓も僕の事を好きだと言ってくれたが、恋人かどうかと聞かれると分からないよ。——さあ僕の質問に答えてくれ」
咲は、答えようとしなかった。
「じゃあ質問を変えよう。君はあそこで、後藤に対して何か不利になるような事をしようとしていた。違うかな?」
咲の横顔がピクリと揺れ、目だけがこちらを向く。
「当たり……見たいだね」
「——そうよ、あいつに復習してやるのよ。邪魔しないでよね。邪魔するんだったら、今ここで大きな声でも出して、あんたの事警察にでも何でも捕まえてもらうから」
咲はこちらを向き、僕に挑発するような目を向ける。
「心配しなくていい。僕は君の味方だ。場合によっては力になれるかも知れない」
「——それってどう言う事よ?」
咲は、疑う様な目を僕に向けて来る。
「僕は後藤の事を憎んでいる。楓はあいつに殺されたんだ」
「そんな……、嘘でしょ」
咲はそう呟くと、ぽかんと口を開け動きを止めた。喫茶店の壁に掛けてある時計は、午後四時を回ろうとしている。何をするにしても時間が無い。僕は止まったままの咲を置いて、清算を済ませた。
「時間が無い。後は歩きながら話そう」
僕達は店を出た。
「ねえ、さっきの話なんだけど、後藤が楓さん殺したって本当?」
僕達は会場に向かって歩いていた。最初のゲストが二十分、その後の後藤の演説が三十分だとして、もしその後、質疑応答などがあっても、少なくとも講演会自体は全部で一時間半程度で終わるだろう。残りは三十分弱。
「ねえ、聞いてんの?」
「取り敢えず今は時間が無い。君はあそこで何をしようとしていたんだ?」
「駄目。先に後藤の事を聞かせてよ」
僕は溜息を吐いた。
「ある日の事だった。僕と楓は二人でテレビを見ていた。するとテレビに後藤が現れた。それを見て楓は、僕の前で手首を切って死んだ。だから、後藤が楓を殺したも同じだ。——側にいて楓の事を救えなかった僕も同罪だけどね。さあ話した。君はあそこで何をしようとしていたんだ?」
「そうなんだ。そんな事が有ったんだ。でもそれって、あんたが悪い訳じゃ……」
「今はその話はいい。時間が無い」
僕は咲を遮る。
「……別に、別にこれと言って、何かって訳じゃないけど、マスコミとか来てたから、そこで騒いでやろうかなって思ってただけよ」
僕は耳を疑った。
「騒ぐって言ったって、何と言って騒ぐつもりなんだ?」
「何って。あいつが私にした事をみんなの前で言うのよ」
信じられなかった。この咲と言う娘の神経構造は、どうなっているんだ。下手をすると、一生癒えない傷を負う事になる。
「恥ずかしく無いのか? 人前で言うんだぞ? それがどういう事か分かっているのか?」
「恥ずかしいわよ! 恥ずかしいに決まってるわ!ああんなロリコン親父と一緒にお風呂に入ったなんて……」
僕の周りの景色が、スロー再生のようにゆっくりと動く。風呂? 風呂だって? 今、この娘、風呂って言ったのか?
「風呂? 風呂ってそれだけ? もしかして、さっき言ってた嫌な事って……」
「そうよ、悪い? もしかして私が、あいつに犯られたとでも思った?」
「僕はてっきり……」
「言ったじゃない。楓さんに守ってもらったって」
どういう事なんだ、楓が守る? 咲は、楓と直接面識は無いはずだ。
「それに、あいつが作った施設の子供の私が騒げば、きっと注目されると思わない?」
駄目だ。この娘を放っておくと僕の計画の邪魔になる。楓の事は気になるが、今は時間が無い。
「思わない。あいつは医者なんだ。その気になれば、君の頭がちょっとおかしいっていう診断書くらい、すぐに用意出来る。君の話は大きく取り上げられない。それじゃ駄目だ」
「私、頭おかしくなんか無い!」
「分かってる。例えばだ」
「じゃあどうするのよ?」
咲はさも不服といった感じで僕に訊いて来る。
「取り敢えず今は時間が無い。後で必ず全てを話すから、今回は僕のする事を見ていてくれ、携帯電話は持ってるかい?」
咲は首を振る。
「持ってない。持ってたけど後藤に取り上げられた」
「じゃあ、さっきの名刺あるかい?」
咲は服のポケットから僕の渡した名刺を取り出すと、僕に寄越して来る。僕は名刺の裏に自分の携帯電話の番号を書きこんで、再び咲に渡した。
「ユズキでいい。頃合いを見て電話してくれ」
咲は、名刺の裏と表を交互に見た後こう言った。
「あのさ、さっきも思ったんだけど、この柚木茂って名前なに? これって本名な訳? それと、表に印刷して有る番号と、あんたが書いた裏の番号違うんだけど」
「名前は本名じゃ無い。水木しげるから取った。僕は昔から妖怪が好きだったんだ。ついでに言っておくと、その名刺の内容は全部でたらめだよ。とにかく、今は時間が無い。絶対に余計な事はしないでくれ」
咲は、暫く不服そうにしていたが、「名前馬鹿みたい」と呟くと、拗ねたように何処かに向かって歩き始めた。僕はその背中に向かって、声を掛けようか迷ったが、咲を信じる事にして講演会場へと急いだ。
講演会場に着くと、観衆が丁度出て来始めていた。まさかもう終わってしまったのか? 僕は、内心焦りながら会場に入った。しかし会場の出口には、出て来る観衆全員と、握手をしている後藤の姿があった。間に合ったか。
観衆が出て行くのを待ち、会場内に残る最後の人間が出て来るのを確認すると、その後ろに僕は並んだ。
後藤に段々と近づいて行くに連れ、緊張で鼓動が高鳴っていく。まずは二人きりで話をする機会を作らねばならない。それには、どう後藤に声を掛けるか、それが勝負だ。絶対に警戒させてはいけない。不審に思われてしまえば、僕の作ったハリボテの経歴なんかはすぐに剥がされる。勝負は一瞬だ。
そして僕は、後藤の前に立った。
「後藤先生! 講演大変素晴らしかったです!」
僕は、後藤の差し出した右手をしっかりと両手で握り、目を見据えた。そしてそのまま、手を離さないでいると、後藤は困惑したような笑顔を浮かべた。
「これは失礼致しました! あまりの感動に、挨拶を忘れておりました。私、先程電話でお話させて頂いた、柚木と申します!」
僕はそう言うと、スーツの内ポケットから名刺を取り出し、後藤に差し出した。後藤は名刺を見るなり納得したという顔をした。
「おお、これはこれは来て頂けたのですか! 有難うございます! しかし、意外とお若いのですね。こんなにお若いのに立派です! して、どうでございましたかな? 私の講演は」
お前の話なんて聞いちゃいないよ。
「なんて言っていいのやら、感激で言葉も有りません! そして、私にその感動を与えてくださった先生とお話出来るとは、今日は私が生きて来た中でも最高の日です」
「いやはや、そこまで言ってもらえるとは。私もこうして貴方とお会い出来て良かったですよ!」
本当に良かったよ。あんたに会えて。
「もし先生が良ろしければ、この後大学の同期の友人で集まって、今後の日本に於ける児童育成問題について話し合おうという会合が有るのですが、どうでしょう? 参加して頂けませんか?」
後藤の顔に、困惑の色が蘇って来る。焦り過ぎたか。いや、後藤は少しでも新しい票が欲しいはずだ。必ず乗って来る。
「いや、行きたいのは山々なのですが、私もこれから予定が有りましてな……しかしその友人達と言うのは、何人程来られるので?」
よし。焦らずに。
「友人自体は十名足らずなのですが、友人達も僕と同じ様な仕事に就いていまして、そのスタッフや御家族を合わせると、五十人程度でしょうか。ただ今回急に連絡したので、この街の者しか参加出来ませんが。しかし、後藤先生にも御予定が有りますよね。大変厚かましいお願いをしてしまい、申し訳ございません。残念ですが今回は諦めます」
心底残念そうな顔で僕は言った。これでどうだ。
「そんなにいらっしゃるのですか? して、その方達に、私の事は伝えて有るので?」
「ええ、約束は出来ないが話はしてみると言っておきましたが、やはり駄目だったと伝える他有りませんね。お気遣い有難うございます」
後藤は、獲物を狙う様な不適な顔付きになり、更に僕に言った。
「いや、それだけの方々が私の事を待っておられるのであれば、断るには忍びないですな。何時からですか? 時間が空けば是非とも行ってみたいのだが……」
来た。
「そうですか! 皆喜びます! 時間は夜の七時からなのですが、先生が来て頂けるのであれば、連中には幾らでも待たせますよ!」
「いやいや、それには及びません。夜の七時ですか。その時間であれば大丈夫かも知れませんな。それで場所はどちらで行われるので?」
「場所ですか。先生に来て戴けるのであれば、何処となりと私がお迎えに上がりますよ」
「そうですかな。それは有難い。では夜の七時に私の診療所に来て頂けますかな?」
その時突然、僕の携帯電話が鳴った。画面には公衆電話とある。咲か。取らなけれはこちらから連絡する術は無い。
「すみません。ちょっと失礼——何だ?」
僕は後藤から離れ携帯電話に向かって話す。
「ねえ、まだ? まだなんだったら、私さっき言った事、やっぱりやるよ?」
「いや、それには及ばないよ。先生は来てくれるそうだ。ああそうだな、でもそれは止めておいた方がいいよ。皆に迷惑が掛かるからね。もちろん僕にも。取り敢えずもうすぐ戻るから、さっきの喫茶店で落ち合おう。先生の講演はとても素晴しいものだったよ。じゃあ切るよ」
「え? ちょっと待ってよ何言ってんの? 訳わかんないちょっ……」
僕は、喋り続けている咲からの電話を切り、後藤に向き直る。
「いや、今日集まる連中です。先生は来て戴けるのかとうるさくて。でも来て戴けると伝えたら、それはそれで嬉しかったのか、やっぱりうるさかったので切ってやりましたよ」
後藤は特に何の疑問も持たない顔で、口元を綻ばせた。
「そうですか、それは良かった。心配されずとも、必ず伺いますとも! では、私はこれからスタッフと打ち合わせやら、記者に挨拶やら有るので失礼致しますよ」
後藤は終始笑顔のまま会場を出て行く。僕も少しして、後藤の後に続いた。外に出ると、既に後藤は記者達に囲まれていて、後藤は、僕に首だけで挨拶をしてくる。僕はその脇を、お辞儀をしながら笑顔ですり抜けた。
そして暫く歩き、もう一度お辞儀をしようと後藤を振り返ると、もう後藤はこちらを見てはいなかったが、僕は深々とお辞儀をした。頭を上げると、後藤は秘書らしき男に何かを渡しているところだった。
「ちょっとなんなのよさっきの電話! 意味わかんない!」
僕の顔を見るなり、咲は不満と怒りの声を上げた。そんな咲を制して、僕はアイスコーヒーを頼む。
「そう言う割にはちゃんとここに来ているじゃないか」
咲は、手元に飲みかけのジュースを引き寄せると、拗ねたように手を使わず、口とストローだけで一口飲んだ。
「で結局、ユズキだっけ? ユズキは一体何がしたかったのよ? あいつにへこへこ頭下げてただけじゃない」
「見てたのか?」
「当然じゃない。私の計画を邪魔するだけしといて、代わりに何をやってくれるのかと思えば、握手しておべんちゃら言って、頭下げながらへらへらしてただけ。私に偉そうに言っといて何なのよあれ」
ウエイターがアイスコーヒーをテーブルに運んで来て、興味深そうに僕達の事を一瞥すると、ごゆっくりどうぞと声を掛け去って行く。あのウエイターの目に、僕達はどう写ったのだろうか。
僕はシロップとミルクを入れコーヒーをかき混ぜると、それを一気に飲み干した。後藤に相対した緊張で、僕は異常に喉が乾いていた。
「君は……」
「咲でいいよ! さっきから君君君君気持ち悪いよ」
「気持ち悪いって……じ、じゃあ咲。取り敢えずここを出ようか」
出会ったばかりの女の子の下の名前を呼び捨てにする。僕にはかなり抵抗があったが、気持ち悪いと言われるよりはマシだった。
「何でよ? 今来たばっかりじゃない」
咲の声に、ウエイターが何事かと、ちらちら様子を伺ってくるのが分かる。
「咲の声は大き過ぎる。周りの人に、今回の事はなるべく知られたくないんだ」
僕は伝票を掴むとレジに向かい精算を済ませた。ウエイターが僕達の事を不思議そうな目で見ている。さっきも思ったが、一体僕達は、傍から見ればどう見えるのだろうか。一見中学生にも見える咲と、スーツを着たサラリーマン風の男——中学生? もし咲が中学生だとしたら、学校はどうしたのだ? こんな当たり前の疑問に今頃気付くなんて。
「ちょっと待ってよ」
僕は、慌ててジュースを飲み干す咲を横目に店を出た。
「何なのよさっきから! 勝手過ぎるよ!」
「一つ訊きたいんだけど、学校はどうしたんだ?」
店から咲が出て来るのを見るなり、僕は訊いた。
「何よ今更。さぼったに決まってるじゃない。こんな時に学校なんて行ってらんないよ」
「無断で休んだのか? 学校から連絡が有るんじゃないのか?」
「うちの高校は規定甘いから大丈夫だよ」
高校生だったのか。僕は改めて咲を見る。
「何よ変態。ジロジロ見ないでよ」
「いやごめん。そんなつもりじゃないんだ。この辺に人気の無い所はあるかな?」
高校生にしては幾分……、いやだからこそ後藤も……。
「人気の無い所に私を連れてって、どうするつもりよ?」
これでは話が全く進まない。とにかく今は時間が無いのだ。
「頼むからその事は一旦忘れてくれないか? これからの話をしたい。楓の事も聞きたいし、後藤の事も相談したい。とにかく時間が無い。人に話を聞かれない所なら何処だっていい。何処か無いか?」
「そっちが言い出したんじゃない……」
咲はぶつぶつと言いながら歩き始める。すまない。僕は心の中で咲に謝った。
咲は、僕の五メートル程前をどんどん歩いて行く。次第にその道は、賑やかさを増していく。どうやらここは、この街の繁華街らしい。
「咲、何処に連れて行くつもりだ?」
咲は、僕の方をチラリと見た後、そのまままた歩き始め、ゲームセンターなどが入っているテナントビルに入って行く。僕は仕方なく後に続く。人気が無いどころか人間だらけだ。
咲は、ビルのエレベーターの前に立つとボタン押した。すぐに扉は開き、中に二人で入ると咲は『カラオケボックスパンプキン』と書かれたプレートの階のボタンを押した。
なるほど、ここなら人に話を聞かれる心配もない。友達のいない僕には、選択肢の候補にも入っていなかった。
カラオケのフロアに着くと、やる気の無さそうな店員の男が、一人だけ受付にいて、携帯電話を弄っていた。
「すみません、今から一時間いけますか?」
咲が声を掛けると、男は、携帯電話に落としていた視線を僕達の方に向け、面倒臭そうにルームナンバーと部屋の地図を書いたプレートを寄越した。
「二名様っすね。当店ワンドリンク制の料金前払いになってますんで、千六百円になります。そこのメニューから飲み物選んでもらえますかー」
男は話し方さえも気怠そうだった。男の後ろに置いてあるルームプレートを見ると、部屋は殆ど埋まっていないように思えた。平日の夕方という事も有るとは思うが、この店が流行らない原因の一端を、僕は見た気がした。
僕は財布からお金を出すと、カウンターに置いてあるキャッシュトレイに入れ、二人分の飲み物を頼んだ。それからプレートの地図に沿って部屋に入る。部屋自体は三畳程の部屋で、入り口のドアは磨りガラスで出来ており、外からは中が見え難い造りになっていた。
咲は部屋に入るなり、タブレット型のリモコンを操作し始める。どうやら最近のカラオケは、本を見ながら番号を押すというシステムでは無いよらしい。
カラオケボックスなど、大学の新歓以来来た事が無かった。それに、人前で歌を唄う事など、僕にとっては拷問のようなものだ。もし仮に僕に友達がいたとしても、こんな事がなければ、自分から進んで来るような事は無かっただろう。
「咲。遊びに来た訳じゃないぞ」
「いいじゃないせっかく来たんだし、それに何か唄ってないと不自然でしょ?」
そう言うと咲は、今流行りの歌だろう。聞き覚えの有る曲を唄い始めた。僕はその曲のメロディーは聞いた事は有ったが、誰の何の曲かは全く分からなかった。咲は、僕の事などお構い無く、気持ち良さそうに歌を唄っている。そんな咲を見ていると、今から行おうとしている事が、急に何処か遠い世界での事のように感じた。
何となくそんな事を思っていると、先程のやる気の無い店員が、飲み物を持って入って来て、気怠そうにテーブルに並べる。そして並べ終わると、僕と咲の事をチラチラと見ながら部屋を出て行った。僕達はあの男の目にどう写ったのだろうか。
僕は、咲が唄い終わるのを待つ間、今から行う事を頭の中で整理した。時間は午後五時を少し回ったところだった。
「で、結局何をする訳?」
結局咲は、僕の知らない曲を三曲も歌い、それで漸く満足したのか、やっと本題に入る事が出来た。
「——この後七時に、後藤をタクシーで迎えに行き、人気の無い場所で一緒に降りる。そこから、後藤と話をする。その時、後藤から今までの悪事を自白させ、このボイスレコーダーでそれを録音する。大雑把に言うとそんな所だ」
「……本当に雑だね。でもどうやって自白させるのよ? 縛り上げて、ボコボコにして無理やり聞き出すの? それだったら、私の友達何人か呼ぶよ! それから私もその中に混じっていい?」
咲は僕の方に体を乗り出し、目をキラキラさせながら言った。
「それじゃ意味が無い。無理矢理言わせたんじゃただの脅迫で終わってしまう」
「じゃあどうするのよ?」
咲は不服そうだ。
「僕は楓の本名を知っている。そして、楓が後藤に何をされたかも。それをネタに上手く話を持っていけたらと思っているけど、相手は百戦錬磨の大悪党だ、奴の気持ちを揺さぶる何かが欲しい。そこで、楓の日記を僕に見せて欲しいんだ。そこに書いてある内容によっては、それが武器になるかも知れない。日記帳は今持っているかい?」
「何だか間怠っこしいなあ……」
咲は、ブツブツ言いながら鞄の中を探ると、一冊の冊子を取り出した。その冊子は、何度も何度も読み込まれたように草臥れていて、僕は楓の持っていた『こころ』を思い出した。
「それがそうなのか?」
咲は、何も言わなかった。一見大学ノートのようにも見えたそれは、表紙にもどこにも日記という文字は書かれていない。
僕は、咲の持つ冊子に手を伸ばす。
「だめ。この日記の中を見せるには、楓さんの事話してよ。でないと見せられない」
咲はそう言って、僕からは見えないように、冊子を背中の後ろに隠した。時間が無いというのに。と心の中で思うが、その思いに反して、僕の頭は、楓の事を思い出し始める。
楓の事。僕は楓の事について語れる程多くを知っているのだろうか。僕と出会う前楓は何をしていたのか。そういった事を、楓は殆ど話そうとはしなかった。僕も僕で、楓が話そうとしないとう言う事は、きっと何か楓の闇に触れる事なのだろうと、無理に訊こうとはしなかった。
思い返せば、僕は楓の事を殆ど知らない。僕は、楓の表面上の事だけを見てすべてを理解しているつもりだったのか。もし、楓の全てを本当に理解していたのならば、あの時楓の命を、僕は救う事が出来たのかも知れない。それなのに僕は、自分が傷付く事を恐れ、本当の楓の事を理解してやる事が出来なかった。もしそうだとしたら、僕の罪は、後藤よりも遥かに重いものなのでは無いだろうか。そんな考えが僕の頭を巡る。
「ちょっとどうしたのよ急に黙り込んじゃって。時間が無いんでしょ?」
咲の声に僕は我に返る。
「——ああ、すまない。でも僕が話せるのは、殆どが楓と出会ってからの事だけだ。それでもいいかい?」
咲は頷いた。僕は気を取り直し、分かる範囲で楓が僕と出会う前の生活と、僕達がどう出会いどう過ごし、楓がどう死んでいったかを咲に話した。ここまで来たならば、引き返す事は出来ない。僕は再び覚悟を決めた。
話の内容の殆どは警察に何度も話した内容なので、どこか事務作業をこなすような冷静さが僕の中にはあった。その冷静さが咲にも伝わってしまったのか、僕が話し終えた後、咲は「悲しい話なのに悲しくないね」と妙な感想を述べた。しかし、後藤の話の下りになると、僕に向かって激しい怒りの声を上げた。咲も、僕に当たっても仕方が無いことは分かっているとは思うが、誰かに怒りをぶつけなくてはやっていられないのだろう。そして咲は、僕に楓の日記帳を渡すと、後藤への怒りをぶつける様に、激しく攻撃的な歌を唄い始めた。
僕は騒がしいBGMをバックに、楓の日記を読み始める。楓の日記を読むという事は、僕にとって、僕の知らなかった楓と相対する事と同じだった。その行為は僕を、今はもう会えなくなってしまった楓と再会したような気持ちにさせた。
「——これ本当なのか?」
楓の日記を読み終えると、僕は日記の一ページを咲に向かって見せる。
「本当だよ。だからこそ私も無事だった訳だし」
咲は、カラオケのモニターと日記を、同時に器用に見ながら言う。
「信じられない。あいつは医者だぞ……」
「ね。本当ヤブ医者だよね」
僕の独り言を聞いた咲の声が、マイクを通して聞こえてくる。信じられない事だが、これが本当ならば、楓の一連の言動にも説明がつく。やはり楓は後藤に殺されたんだ。
タクシーで後藤の病院に乗り付けると、既に病院の灯りは消えていて、中には誰もいないようだった。
僕は自宅の方の呼び鈴を鳴らし、玄関の前で気を付けの姿勢で待った。暫くすると、インターフォン越しに男の声が聞こえて来る。その声は後藤の声ではない。
「はい。どちら様でしょうか?」
「あの、今夜七時に約束していた柚木と言う者が来たと、後藤先生にお伝え願えますか?」
「少々お待ちください」
どこか事務的な響きがある声に、僕は、昼間見た後藤の秘書らしき男を思い出した。
僕はスーツのポケットに入れてあるボイスレコーダーと、楓の日記帳のコピーに手をやり、これから自分が執る行動のシュミュレーションを、頭の中で行う。ボイスレコーダーの扱いは、ポケットの中に入れていても操作出来るように、何度も何度も練習した。楓の日記も、全てのページをコピーして、本物は咲に渡して保管してある。大丈夫なはずだ。僕はやれる。
その時、玄関に明かりが灯り、中で人の動く気配がした。ついに後藤が現れる。
「お待たせ致しました。先生が上がる様にと仰言られていますので、どうぞお上がりください」
玄関から出て来たのは、後藤ではなく、講演会場で見かけたあの秘書らしき男だった。声を聞くに、インターフォンの声もこの男のようだ。しかし上がれとはどういう事だ。後藤にはタクシーで迎えに来ると言っておいたはずだ。僕は断るべきなのか? しかし、変に断ると怪しまれるか。
「どうか致しましたか?」
男は特に感情の籠らない声で言った。
「いえタクシーが……」
僕が言い終わらないうちに、男はタクシーに近寄り、運転手に一万円札を握らせると追い返してしまった。
「どうぞ」
唖然としている僕に男は言うと、玄関の扉を大きく開けた。これでは、家に入らない訳にはいかない。僕が玄関に入ると、扉に鍵を掛けたのか、背後で、シリンダーの回る金属音がした。急に僕は不安にかられる。
なぜ鍵を掛けるのだ。僕は後藤をパーティに呼びに来た人間だ、その事は後藤にも伝えてある。ならば僕を家に入れる必要は無いはずだ。
「何分物騒なもので、少しの間でも鍵を掛けるようにと、先生からは言われております」
僕の心を見透かした様に、男は背中を向けたまま僕に言う。僕の中に、不快な何かがじわじわと広がっていく。そして、首筋から頭にかけてちりちりと痺れるような感覚が襲い、僕の心の中を乱していく。
「こちらへどうぞ」
男はそう言い、僕の前を歩き始めた。
今なら鍵を開けて逃げる事も出来る。僕の中に有る、弱い自分の考えが沸き起こる。だめだ、今日を逃したら後は無い。僕は男の後について行くことにした。
「——ここは病院と施設、そして自宅も兼ねておられるのですよね?」
沈黙に絶えきれず、僕は男に声を掛けた。男は言葉少なに「そうです」とだけ答えると、その後の質問はもう受け付けないという風に「詳しくは先生にお尋ね下さい」と続けた。
男はそのまま廊下を歩き、医院長室と書かれた扉の前まで来ると、立ち止まりノックをした。廊下に響いたノックの音は、その扉の重厚さを示すような重い音だった。
僕はポケットに手を入れ、ボイスレコーダーの録音ボタンを押す。ここまで来て自分の計画が予定通り進んでいると思う程、僕は馬鹿じゃない。
「先生お連れ致しました」
中から入ってくれと声が上がり、男は扉を開けると、僕を中へと促した。
部屋の中には壁一面に難しそうな本が並び、応接用のソファーと机、その奥にいかにも高級そうな机と椅子が置いて有り、そこに後藤は座っていた。
僕に続いて男が部屋に入って来ると、背後で扉が重い音を立てて閉まった。
「さて、単刀直入に聞こうか。君は何者だ?」
後藤の声からは、どんな感情も読み取れなかった。ただ僕を威圧しようとする声から、僕の事を良く思っていないという事だけは、容易に読み取れた。
喉の奥がひりつき、声が上手く出せない。
「答えられないか。まあそうだろうな。こんな薄っぺらな紙切れ一枚で、私を騙せると思ったのか?」
後藤はそう言うと、僕が渡した名刺を机の上に滑らせた。昨日出来たばかりの名刺は、音も無く机の上を滑り、机の端まで来ると、ハラハラと床に落ちて行った。
「楓の会? そんなNPO法人は存在せん。そもそもにして、この電話番号も全てでたらめだ。念の為に住所も調べたが、よく分からん工場が有るだけだったぞ。大方私の事を詐欺にでもかけようとしたのだろうが、こんな物に騙される程私が馬鹿に見えたかね?」
不快感を隠そうともせず後藤は言うと、苛立たしげに煙草に火を付けた。僕は床に落ちた名刺を見ながら、この名刺の役目はもう終わったのだと悟った。
「どうした何も言えないのか? まあそうだろうな。——もういい。藤井、今すぐ警察を呼べ。それからこの間抜けを引き渡してやれ」
後藤は、言葉を投げ捨てるように男に言った。男は藤井と言う名前らしい。藤井は携帯電話を取り出した。
警察を呼ばれてしまえば本当にお終いだ。
「いいのですか? 警察なんか呼んで。警察を呼んで不利になるのは、寧ろ貴方の方かも知れませんよ?」
後藤と藤井の動きが止まる。
「どう言う事だ。身分詐称のお前より、市政に飛び出そうとしている私の方が不利になるとはどう言う了見だ。はったりはよせ。見苦しいぞ。おい藤井、早く警察を呼べ」
椅子に仰け反る後藤の命令に、藤井は無言で応える。
「佳苗さんと言う娘をご存知ですか?」
後藤の顔に影が落ちる。
「おい! 藤井待て!」
藤井は困惑した様子で携帯電話を切ると、ポケットにしまった。
「——藤井、少し席を外してくれるか。どうやらもう少しだけこの青年と話をしなければならないようだ」
後藤は渋々といった感じで声を上げた。
「分かりました。ドアの前にいますので、何かあれば声を掛けて下さい」
藤井はそう言って部屋を出て行こうとする。
「待て、秘書室にいてくれ、何か有れば内線で呼ぶ」
「分かりました」
そして藤井はそのまま部屋から出て行った。どうやら楓の事は、当然といえば当然だが、秘書である藤井にも聞かれてはまずい事の様だ。ドアの外から藤井の足音が遠ざかって行くのが聞こえ、建物の何処かで、扉の閉まる音が聞こえた。
「何故お前、いや柚木君だったかな。何故柚木君が佳苗の事を知っている」
後藤の態度は、先程とは明らかに変わっていた。
「今日私は、佳苗さんという娘から或る相談を受け、佳苗さんの代理人としてやって来ました。佳苗さんは今東京にいます」
後藤は煙草を消すと、椅子から立ち上がり、こちらに向かって歩いて来る。そしてソファーを手で示し、僕に座れと促すが、僕はその場を動かなかった。
「座らないのか? では、私は座らせてもらうよ。確かに佳苗という娘は私の施設で育った。で、その佳苗から何の相談を受けたのかね?」
後藤は新しい煙草に火を付けながら、僕の方は見ずに言った。
「何の相談かは、あなたが一番よく分かっているはずだ」
後藤は余裕を示す為か、ゆっくりと煙草の煙を燻らせる。
「分からんね。生活費か何かかね? もしそうなら、私の金庫から勝手に持ち出した金が有るはずだが?」
「お金の事では有りません。それに私はそのお金の事を知りません。佳苗さんは、この施設にいた時に、後藤さん貴方から暴行を受けたと私に話してくれました。私はその事に関して、貴方に事実かどうかを聞きに来ただけです」
暴行と言う言葉に後藤は少しだけ反応する。
「ふむ、なるほど。では答えよう。そんな事実は無い。これで満足かね? 満足したら、とっととここから出て行ってくれ」
話は終わりだという風に後藤が煙草を揉み消す。灰皿の中から煙が上がり、煙草の火が消えた瞬間に生じる、独特の臭いが辺りに漂う。僕はこの臭いが嫌いだ。
「分かりました。貴方がそう言う態度を執るのなら、私にも考えが有ります。東京に戻って弁護士と話をします。それから貴方とは、法廷で戦うとしましょう」
「ふん。そんな事が出来るのなら、初めから弁護士を連れて来ればいいだろう。それが出来ないから貴様は身分を偽ってまでここに来たんじゃないのか?」
図星だった。楓はもうこの世にいない。強姦罪は親告罪だ。訴えようにも、訴えるべき本人がいないのであれば、罪は成立しないどころか、存在すらしない事になる。後藤に楓がもうこの世にいない事を悟られてはいけない。
「確かに私は身分を偽りました。だがそれは、弁護士よりも先に、貴方と直接会って話がしたかったからだ。もし私が、ただその辺にいる一般人だったとしたら、貴方は時間を割いてまで会ってくれましたか? 貴方は話すら聞いてくれなかったはずだ。それに、佳苗さんの名前を聞いて、藤井さんという人をこの部屋から追い出した。それは、佳苗さんの話は身内の人間にすら聞かせてはいけないと、貴方自身が思ったからなのでは無いのですか?」
後藤は苦虫を噛み潰したような顔で、また煙草に火を付けた。
「佳苗は何と言っているんだ?」
「貴方に復讐したい。そう言っています」
楓は本当に復讐など望んでいるのだろうか。本当は僕が後藤の事を憎んでいるだけなのではないか。後藤に言った後、ふとそんな考えが頭をよぎるが、僕はその考えを頭の中で握りつぶす。今は目の前の事に集中すべきだ。
「復讐か。……はて、私は佳苗に復讐されるような、そんな酷い事を何か私はしたのかね?」
頭の中で、何かがぶつりと音を立てた気がした。頭に上るはずの血が何故か逆流し、急速に身体が冷え込んでいくのが分かる。身体が——冷たい? 怒りとは、本当の怒りとは、冷たいものなんだ。
「あんた、あんた何言ってんだ! お前がかえっ、佳苗さんを! 佳苗さんに暴行を! 強姦をしたんだろうが! 何しらばっくれてんだ! お前が! お前が!」
「大丈夫ですか!」
遠くから誰かが走って来るような音が聞こえ、それから扉が勢いよく開き、藤井が駆け込んで来る。そしてそれを見たと思った次の瞬間には、僕は部屋の床を見ていた。床に敷いて有る毛足の長い絨毯は、僕の顔を五分の一程も飲み込んだ。そして、背中に人間の重みを感じ、右肩に、声も出ない程の激痛が走る。単なる暴力とは違う、感情の無い無機質な痛み。その痛みに僕の観ているものの全てが涙で歪んだ。これで、これで僕は終わるのか?
「藤井! 呼んでもいないのに入って来るんじゃない! まだ話は終わっとらん」
後藤の声が頭の上から聞こえる。そして目の前に後藤の靴が並んだ。僕は痛みと屈辱感で呻き声を上げた。
「しかし……」
藤井の声が背中越しに響き、それが更なる痛みに変わる。
「それと、入って来る前に何か聞いたか?」
後藤は藤井を無視して言った。背中の重みが消え、僕は藤井に引き起こされる。それにより、肩の痛みは多少和らいだものの、それでも肩には激しい痛みと痺れるような違和感が残っていた。
左手で肩に触れると、激痛で声が漏れる。もしかしたら脱臼でもしているのかも知れない。
「いえ、怒鳴り声のようなものは聞こえましたが、内容までは」
藤井は後藤の態度に困惑しているのか、眉を下げ眉間にシワを寄せた複雑な顔をした。
「そうか。ならいい。呼ぶまで下がっていろ」
「ですが……」
「下がっていろと言っている」
後藤の強い口調に、藤井は「分かりました」とだけ言うと、また無表情に戻り部屋を出て行った。僕は、藤井の後ろ姿を見て、体が震えるのを感じた。
高校の時に味わった暴力や、楓の勤めていたホテルにいた、河合と言う男の暴力とは圧倒的に違う、対象者を無力化させる為だけの、無駄の無い所作。それに僕は怯えてしまったのか。
頭で自分を鼓舞しようとしても、上手くいかない。
「すまなかったな。あれは元自衛官でな。少々気が荒い。だから変な気は起こすなよ」
後藤はまた煙草に火を付ける。
何故元自衛官が秘書などをやっているのだ。僕は怯えた目で後藤を見た。
「で、さっきの話だが。私が佳苗に暴行したと、そう君は言ったが、佳苗は施設にいる時から虚言癖が有ってね。私も色々悩まされたものだ。大方君も、佳苗の虚言を信じてしまったのだろう。すまないな。私の愛情が足りなかったようで、あんな娘に育ってしまった」
後藤は僕の感情を読み取ったのか、そう言った後、嘲るような笑みを見せた。
藤井の力で冷え切ったはずの僕の感情は、再び一気に燃え上がり、飄々と騙る後藤を、今すぐにでも殴り殺してしまいたい。そんな暴力衝動が僕の中に沸き起こった。感情に合わせて鼓動が高鳴り、肩にずきんずきんと鈍い痛みが走る。
「佳苗さんは嘘を吐くような人では有りません」
僕の声は少し震えていた。感情を制御しなければ。落ち着け、落ち着け。感情に流されては失敗する。そう自分に言い聞かせる。
「君は佳苗に惚れているのか? だとしたらやはり騙されているな」
後藤が嗤う。楓の死んだ時の顔が目に浮かぶ。鉄の錆びたような血の匂いを思い出す。
「……証拠、有るんですよ?」
僕は出来るだけ平静を装い、後藤に言った。
「そんな物、有る訳があるまい。はったりはよせ」
そう言いながらも、後藤は明らかに狼狽している。僕は痛みで顔をしかめながら、ポケットから楓の日記帳のコピーを取り出した。
「何だそれは?」
後藤の顔に困惑の色が浮かぶ。
「佳苗さんの日記のコピーですよ。ここに、佳苗さんがここで過ごした何年間かの記録が残されています。そして、貴方が佳苗さんに対して行なって来た事もね。強制猥褻罪は、その昔物証が無くては立証出来ませんでした。例えば貴方の体液が、佳苗さんの身体の中から検出されると言うようなね。しかし今は、被害者の訴えに、整合性や一貫性が有れば証拠として受け入れられる事も少なくは無いと弁護士の先生から聞きました」
弁護士の話は嘘だ。本当はネットで調べた表層上の情報に過ぎない。しかし後藤の顔色は、明らかに悪い方向へ変わっている。
「そしてこれは、当時の佳苗さんが書き綴った、明らかな悲鳴の声だ。証拠になり得るんじゃないですか?」
「そんなはずはない。そう言った類の物は、私は佳苗に与えていない」
後藤の顔に徐々に焦りの色が見え始める。
「後藤さん。当時の佳苗さんの事を少し舐めていやしませんか? 確かに当時彼女は幼かった。これは彼女と話をした私の感想ですが、彼女は、あなたが思う以上に賢く強かです。それに、あなたがいくら無いと言ったところで、現にここに有るではないですか。それとも、少し読んでみましょうか?」
僕は後藤の表情を見ながら続けた。
「日記にはこう有ります。『五月三日。今日はお父さんとお風呂に入った。体を洗ってくれたけど、少し気持ち悪かった。ばらの匂いのするお風呂。この匂いを私はきらいになった』どうです? 記憶にありますか?」
目の前の男と楓が風呂に入っている所を想像し、僕の顔は歪んだ。
「そんな物は後から幾らでも書ける! 捏造だ!」
後藤は明らかに狼狽している。更に僕は読み続ける。
「ではこれは? 『六月六日。今日もお父さんはお風呂に入ろうと言って来た。お父さんは私の事を愛していると言って、私の体を痛くした。気持ち悪い。私の中に汚れた物が入っている気がする。身体を切ったら汚い物は出ていくかな?』」
後藤が何かを喚いている。僕はそれを無視した。僕の耳には楓の悲鳴だけが聞こえていた。
「『六月八日。始め、お腹を切ろうと思ったけど、怖いから手首を切った。赤い血が出た。一緒に汚い物も流れて行くかな?』」
僕の頭の中に、幼い楓が血を流しながら横たわっている光景が浮かぶ。楓は安堵の表情を浮かべている。
「『六月九日。せっかく手首を切ったのに目を開けたら包帯がしてあった。きっとお父さんだ。また切ろうと思ったけどカッターナイフが無くなっていた』」
「やめろ!」
気が付くと後藤が僕のすぐ目の前にいて、腕を伸ばしてくる。そして胸ぐらを掴まれた僕は、手から日記のコピーを取り落とした。怒りでアドレナリンが大量分泌されているのか、肩の痛みは何故か引いていた。
「やめろ! 捏造だ! こんな物は証拠でも何でもない! やめろ!」
僕は後藤の手を振り払い、コピーを拾い集めると、後藤に向かって言った。
「証拠ですか? だから何度も言っているように、証拠は有ります。——後藤さん。貴方、医者のくせに血が嫌いなんですよね? 血を見ると腰が抜けて何も出来なくなるんですよね? この日記帳にそう書いてありますよ?」
後藤の顔から血の気が失せる。
「読みましょう『六月十六日。傷の手当には助手の先生が来た。先生に聞いたら、前の傷も手当したって言ってた。傷の手当が終わったら、お父さんが来て私を痛くした。傷の手当はお父さんじゃ無かったんだ』どうです?」
後藤は何も言わない。ただ僕の事を恐ろしい物でも見るような目で見ている。
「『六月十八日。傷の手当には、やっぱりお父さんじゃなくて助手の人が来た。お父さんは血が嫌いなのかな? お父さんがまた私の事を痛くしに来たら、血を出してやろう』」
「やめろ……」
後藤は呟く。顔を見ると、顔色はすでに青を通り越し、灰色に近い色になっていた。
「『六月二十二日。お父さんは血が嫌い。お医者なのに血が嫌い。お父さんは血を見ると何も出来なくなる。お父さんは、血を見て泣きながらそんな事はやめなさいと言っていた。今度からはお父さんが来たら血を出してやろう』」
「やめろやめろやめろ! そんなものはでっち上げだ! 捏造だ!」
後藤は再び僕に掴み掛かって来る。再びコピーは床に散らばった。
「でっち上げ。捏造。そう貴方が言うのなら、それが本当かどうか証明して見せましょう」
僕はポケットから、楓の使っていた剃刀と同じ型の物を取り出し、自分の左手首に充てがった。 剃刀は買ってから一度も使った事が無い。新品の剃刀は、何の抵抗も無く僕の手首に吸い込まれていく。鋭く激しい痛みが、僕の身体を貫く。そして、手首からは僕の血が溢れるように出て来た。
「な、な、な、何を、何を。……おま、お前は頭が、頭がおかしいのか……?」
僕を掴んでいた後藤の手が離れ、後藤はその場にへたり込んだ。そして僕の血は、へたり込んだ後藤の顔に降り掛かる。
後藤は、恐ろしく大きな悲鳴を上げ、藤井が部屋に現れた時には、後藤はすでに気を失っていた。
藤井は僕に向かって「貴様!」と怒鳴り、中腰で近づいて来る。僕はそれを見て、手に持つ剃刀を床に落とし、両手を上げて一歩下がった。右の肩に鈍い痛みが走るが、外れてはいないようだった。
それを見て藤井は、僕に抵抗の意思が無いと思ったのか、そのまま僕を無視して後藤の様子を診始める。
手首の傷は元々浅かったのか、手を上げる事により血流が弱まり、次第にその流れを弱めていった。
「何が有った?」
藤井は、後藤の身体に外傷と異常が無い事を確認したのか、僕に向かって言った。藤井の目を見ると、まだ警戒を解いていないように見えた。
「見たままですよ。僕が手首を切りそして、手首から流れる血を見て後藤は気絶した。後藤は血が嫌いなんです。知りませんでした?」
「そんなはずは無いだろう。後藤先生は医者だぞ? 貴様が何かをしたんだろう。いいか、これは犯罪だ。警察を呼ぶ」
藤井は鼻を鳴らし、僕の事を馬鹿にしたように言った後、携帯電話を取り出した。
「僕はここで、後藤先生に指一本触れていない。調べてみれば分かります。僕はここで、ただ自分の手首を切った。それだけだ。確かに床を血で汚してしまったけれど、それだっていい所器物破損罪程度でしょう? それに、警察を呼ばれて困るのは、多分僕では無く後藤先生の方ですよ」
僕の話を聞き、藤井は開きかけた携帯電話を閉じる。
「なぜ先生が困る? 突然家に押しかけて来て血で絨毯を汚し、更に後藤先生を気絶させたのは貴様ではないのか?」
藤井は少しだけ困惑した顔で僕に言う。
「それは、今ここに散らばっている血で濡れた文書に、後藤先生が今まで犯してきた罪が、仔細に書かれているからです。そしてこの文書に書かれている事が真実だと言う証拠が、今ここで血を見て気絶した後藤先生自身なんです。何故ならば僕は、後藤先生が血が嫌いという事実を、この文書から知ったのですから。身近にいた貴方でさえ知らなかった事を初対面の人間が知っている。それがどういう事か分かりますよね?」
藤井は、床に散らばった楓の日記のコピーを黙って拾い集めると、そのまま読み始めた。時折険しくなる藤井の表情を、僕はただ黙って見ていた。手首の血は殆ど止まっていた。
「信じられん……」
藤井はそう呟くと、僕に楓の日記のコピーを手渡し、後藤の事を汚物でも見るような目で見つめた。
「貴方は後藤先生の秘書なんですよね?」
藤井は、後藤に向けていた視線を僕に戻した。
「いや、秘書と言う訳では無い。秘書のような仕事もしていたが、寧ろボディガードとして雇われたと言った方がいいだろう。初め後藤が自分を雇いたいと言ってきた時には、何故一介の町医者が、用心棒を必要とするのか甚だ疑問だったが、その紙を見て何となく理解したよ。——後藤は君のような人間が現れる事を恐れていたのだな」
僕を見る藤井の目に、もう警戒の色は無かった。
「貴方はこれからどうするおつもりですか?」
藤井は気絶している後藤を見る。その目は、やはり汚物を見るようなものだった。
「金を今のまま貰えるならこのまま仕事を続けるし、貰えなくなるのであれば辞める。それだけだ。まあどうやら、貰えなくなる可能性が高そうだが。君はこの男をこのままにして置くつもりは無いのだろう?」
藤井は何故か少しだけ笑っていた。
「いいんですか? それで。仕事を失いますよ?」
「ゴミの始末は君に任せるさ」
そう言うと藤井は足元に横たわる後藤を見下ろした。藤井にとって後藤は、もうただの『ゴミ』になってしまったのかも知れない。
「床、汚してしまってすみません」
僕は藤井に言うとその場を後にした。部屋の扉が閉まる直前に、藤井は「こちらこそすまない」と言っていたが、僕の肩の事を言っているのだと気が付いた時には、もう扉は閉まっていた。
後藤の家のドアを開けると、そこには心配そうにこちらを伺う咲がいた。
咲は僕に駆け寄ると、血に染まった手首を見て、小さく悲鳴を上げる。だがすぐに、「こっちに来て」と言い、傷の無い方の手を掴むと、病院の裏に向かって僕を引っ張って行った。その時肩が痛んだが、僕は黙って従った。
病院の裏口は、表の玄関と比べるのが可哀想になるくらい、貧相な代物だった。そこには、小さな扉と『NPO法人光の子供会』と書かれた小さな看板が、よく見なければ見落としてしまいそうな所に掲げて有る。
病院の裏。小さな扉と小さな看板。それらは、後藤の後ろめたい気持ちを表しているような気がした。
咲は扉に鍵を差し込むと、僕を中に招き入れる。
「門限とか無いのか?」
「もし有ったとして私が守ると思う?」
咲はこちらを振り返りもしないで言った。咲は楓の日記を読んだ時から、後藤からも、この施設からも開放されたのだろう。
「思わない」
「——あんたさあ。馬鹿なんじゃないの?」
施設の医務室で、僕の傷の手当をしながら咲は言った。僕は咲の手先を見ながら楓の事を思い出していた。
その処置の早さは楓には及ばないものの、丁寧に巻かれていく包帯は、素人の巻くそれとは明らかに違っていた。そしてそれを見て僕は思う。この娘もまた、後藤の被害者なのだと。
「何とか言ったら? 血が必要ならさ、似たの探せばいいじゃない。よくテレビとかでやってるじゃん。血糊とか鶏の血とかさ」
「血糊も鶏の血も、何処で手に入るか分からない」
「例えばの話じゃない。絵の具でも何でも有るでしょ?」
咲は話しながらも、包帯を巻く手は止めなかった。そして僕に向かって、何度も何度も馬鹿じゃないかと言いながら笑っていた。
「これからどうするんだ?」
手首の手当が終わるのを見計らい僕は咲に言った。
「どうするって言ったって、さっきの話聞いた限りじゃ、この施設も終わりっぽいし、私も他の子供達も、元いた施設に送り返されるんじゃないかな?」
他の子供達。そうだ、ここは児童養護施設なんだ。他に子供がいると考えて当然だった。僕はここにいる子供達の住む場所を奪ってしまうのか? いや待て、それよりも他の子供達も後藤の手に?
「他の子供はその……、後藤は手を出すと言うか、その……」
「ああ、それは大丈夫。私が守ってきたから。後藤は私が思い通りにならないって分かると、次々に新しい子供を連れて来たんだけど、その子達見て私思ったんだ。ああ、この子達は私が守んなきゃって、それが、楓さんの日記を見付けた私の役目なんだって思ってさ。お風呂だって、今までみんな私が入れてきたしね」
「……そうか。ありがとう」
「何でユズキがお礼言うのよ」
「楓の代わりだよ」
咲は、「何それ?」と言った後、子供達の様子を見て来ると言って、医務室を出て行った。
僕は咲の後ろ姿を見ながら思った。きっと楓の他にも、後藤の手に掛かった犠牲者が何人もいた事だろう。でも、楓はここから逃げる時に日記を残して行く事で、少なくとも何人かの子供を救った。それは確かだ。楓が他の子供を助けようと思ったかどうか、それは分からない。もしかしたら、いつかの手紙みたいに、自分がここに生きた証しを残していきたかっただけなのかも知れない。でも僕はこう思う。楓の残したこの日記に籠められているのは、自分以外の子供の事を守りたいと言う意志で有り、遺志なんじゃないかと。そして僕は、その遺志を継ぎたいと、その時そう思ったんだ。