死
第二部:—罰—
一章:死
人間が死ぬ理由の一つに、失血死というものが有る。それは例えば、事故などに遭い大怪我をした時、その傷口から大量に血液が流れ出し、急激な血圧の低下に因るショック状態に陥ったり、多臓器不全になったりして死ぬ事をいう。楓もそういった原因で死んだのだろう。僕は医師でも何でも無いから正確な所は分からないけれど、多分そうだと思う。
通常人間は、手首を軽く切ったりした程度では死なない。それは、血液中に存在する、ごくごく小さな血小板という細胞が、血管が損傷したと知るや大量に分泌され、傷口を固めて血液の流出を止めてしまうからだ。
でもこの時の楓は、恒常的に傷を負っていた為に、常に身体の中の血液が不足していたのだと思う。それに伴い体力が著しく低下していたのは間違いない。側でずっと見ていた僕には分かる。そして最後の手首の傷は、先述の軽く切ったと言うような、お手軽な傷などでは無く、動脈を切断してしまう程の深い傷だった。それらの要素が重なり、楓は死んでしまったのだろう。
楓を殺したのは誰なのか。それは楓自身? いや違う。楓は自殺したかった訳では無いと僕は思っている。何故なら楓は、身体を傷付け、流れ出る血を見ると安心すると言っていた。身体から血が流れると、穢れた身体が元に戻るのではないかと言っていた。言うなれば、楓は生きる為に自らの身体を傷付けていたと言う事だ。それならば、楓を殺したのは僕なのか? もし楓が僕と出会っていなかったら、楓は死んでいなかったかも知れない。僕と出会ってから、楓は明らかに衰弱していった。それならば、楓を殺したのは僕だろう。それを否定するつもりは無い。だが、全ての結果には必ず原因がある。それは人生についても同じだろう。
人生の過程の小さな分岐点に於ける原因を選ぶのは、間違い無くその人生を生きた本人だ。しかし、選ぶ自由すら与えないまま強制的に楓を踏み躙り、人としての尊厳と日常を奪い、楓の心に死の起因となるトラウマを作ったのは、間違い無くあの男だ。そして、楓の事を踏み躙りながらも、のうのうとテレビに出ては、自分の事を棚に上げ、さも人格者の様に振舞っていたあの男こそ。
——この結論が合っているのか、それは分からない。だが僕は、あの男が憎い。僕から楓を、楓から人生を奪ったあの、後藤久嗣と言う男が。
あの後結局警察は来ず、僕はバスルームの中で朝を迎えた。隣の住人は厄介事に関わる事を避けたのだろう。懸命な判断だったと思う。もし……、いやよそう。
僕は楓を抱き起こすと、バスルームからリビングに連れて行き、ソファーに寝かせた。ソファーで、眠るように横たわる楓は、月並みな言い方だが、起き出して来るんじゃないかと本気で思わせる程に安らかな顔だった。
僕はその日、そのまま楓の側で一日を過ごした。そして夜になり、僕は楓と見ようと言っていた『シンドラーのリスト』を楓と二人で見た。
作中でドイツ兵が奏でるバッハのプレリュードは、楓の為の葬送曲の様に聞こえた。そして映画が終わっても、僕は一睡もしていないにも関わらず、何故か眠気はやって来なかった。しかし、こんな時にでも腹は減るもので、深夜に僕は、一人でコンビニに出かけた。楓と一時でも離れる事は辛かったが、僕は楓に、「すぐ戻るよ」と声を掛け、部屋を出た。
コンビニで適当な弁当を手に取り、冷凍食品の棚の前を通った時に、ふと僕は思った。楓は腐ってはしまわないだろうか。生命活動を止めた生物は総じて腐る。なぜ気付かなかったんだ。
僕は、慌ててレジで会計を済ませると、急いで部屋に戻る。するとどこから入ってきたのか一匹の蝿が楓の頬に止まっていた。
「くそっ! どけっ! 楓に触るんじゃない!」
蝿は追い払っても追い払っても、僕を嘲笑う様に楓の元に戻って来る。
「くそぉ……」
僕は床に跪き、泣いた。
楓は言った。病院だけには行きたくないと。楓は言った。私に触ってもいいのはユズキだけだと。楓からの僕に対する遺言。楓を殺してしまった原因の一端が僕に有るのならば、この遺言は、僕が責任を持って全うすべきだと考える。
普通、人が亡くなった場合どうするのだろう。通常であれば病院に搬送され、死亡診断書なりなんなりを貰い葬儀屋に連絡するのだろう。そして、荼毘に伏せる。しかし、楓の遺体を誰にも触らせず、病院にも行かせない。それが可能な方法とは。
楓を、この眠った様な楓を、何とかこのままにして置く事は出来ないものだろうか。僕の頭の中に、或るかんがえが思い浮かぶ。
その昔、氷浸けされたマンモスが、日本から遥か遠いシベリアの地で発見された時、見つけた人が連れていた犬が、そのマンモスの肉をうまそうに食べたという話は、あまりにも有名な話だ。取り敢えず楓を腐らせない様に冷やさなくては。
僕はひとまず楓をベッドに寝かせると、エアコンの冷房の温度を最低に設定する。真冬の冷房は、点けた瞬間から恐ろしく寒く、送風口からの風をもろに浴びた僕は、寒さで身を震わせた。しかしこの程度の温度では、楓の腐敗を止める事など出来ないだろう。
「冷蔵庫か……」
楓を寝かせたままのベッドを、冷蔵庫の前まで引き摺りながら移動させると、僕は冷蔵庫の扉を開け放った。これではまだ足りないか。氷? いや、氷だと溶けてしまって楓が水浸しになってしまう。何か、何か無いか。——そうだ、ドライアイスだ。
ドライアイスなら溶けても気体になるだけだし、水浸しにもならない。でも、どこで手に入れれば——。そう言えば、以前働いていたスーパーのサービスコーナーで見かけた事が有る。しかしあの店に行くのは絶対に嫌だ。スーパーなど何処も似たような物だろう。朝になったら近所のスーパーに貰いに行こう。
「何でなんですか? ただでくれとは言っていないじゃないですか」
「いや、これ売り物じゃないですし」
明らかに嫌そうな顔をしながら、スーパーの店員は僕に言うが、僕は、どうしてもドライアイスを手に入れなければならない。しかもなるべく早く。
「じゃあどうすればいいんですか? お金なら払います。どうか分けてください!」
「お客様、どうか致しましたか?」
背後からの声に僕が振り向くと、そこには初老の男が立っていて、聞けば店長なのだと言う。
「すみません! どうしてもドライアイスが必要なんです!」
「お客様、ドライアイスが御必要なら氷屋に行けば宜しいではないですか」
「氷屋? ですか。あの、かき氷とかの?」
「そうです。通常ドライアイスは氷屋で仕入れます。宜しければうちの仕入先の店を紹介しましょうか? すぐ近くですし、それに何か事情がおありの様だ」
僕の間抜け面を見兼ねてか、店長は僕に言った。
「ありがとうございます!」
店長の言う氷屋は、本当にすぐ近くに有った。僕のアパートから直線距離にして一キロメートルも無いだろう。普通に生活している分には、全く縁の無い業種の店。こんな事が無ければ、多分一生門をくぐる事は無かったと思う。失礼とは思いながらも、興味本位でどういった方が利用するのかと訊いてみたら、意外と言うか当然と言うか、葬儀屋の方が利用するのだと言う。もちろん利用目的は、遺体の腐敗を防ぐ為だ。
「お兄さんも、まさか遺体を保存するとか言わないよね?」
不意に放たれた不謹慎な冗談は、僕の「そんなはずはない」と言う返答をコンマ一秒遅れさせ、店主の眉をひそませる事となった。それに対して僕は、取り繕うように、大学での研究で使うのだと誤魔化した。
「あんた学生さん? そうなんだ。道理で顔色悪い訳だ。部屋の中で研究ばっかりしてたら身体に悪いよ? たまには外で日に当たんなきゃ」
「ええ、まあそうですね。ところでドライアイスとはどのくらい保つものなんでしょうか?」
氷屋の店主が言うには、環境にも因るが、今の季節で一キログラムが溶けるのにかかる時間は、半日くらいではないかと言う。僕は取り敢えず十キログラム程購入し、店主にまた来ますと礼を言った。
「タオルか何かに包むともう少し保つよ。何の研究かわかんないけど、たまには外の空気吸いなよ! 冗談じゃなく、二酸化炭素中毒になっちゃうからね。換気もしっかりするんだよ!」
「ありがとうございます。また無くなったら来ます」
不意に掛けられた優しい言葉に、涙腺が緩みそうになるが、僕は何とか堪えてアパートの部屋に戻った。
僕は部屋に戻るなり、氷屋の店主のアドバイス通り、ドライアイスをタオルで包み、楓の周りに敷き詰める。冬の冷房は恐ろしく効きが良く、加えてドライアイスの冷気もあってか、温度計を確認すると室温は二度になっていた。
「ごめんね。寒いよね?」
僕は楓に声を掛けるが、当然返事は無い。それから僕は、毛布に包まって寒さでがたがたと震えながら、楓の側にずっといた。日に一度、ドライアイスと食料を買いに出る以外は、常に楓の側にいようと決めた。熱を発するような電化製品は、全てコンセントを抜き、僕は徹底して室温低下に努めた。
僕の吐く息は白く、この凍える程に寒い部屋の中で、唯一生きている者の証しだった。このまま眠って楓と同じになりたい。そう思わないでも無かったが、それは即自分の死を意味し、同時に、楓の遺志を継ぐ者がいなくなると言う事だ。それだけは避けなくてはならない。
楓の側にどのくらいいただろうか。僕は、楓の顔にそっと触れてみた。指先から伝わる死の体温に、僕は身を震わせる。次に僕は、楓の付けた最後の傷に触れてみる。流れ出た血は既に固まっていて、瘡蓋となっていた。今までで最も大きく、最も悲しい瘡蓋。僕はその瘡蓋に指を這わせながら、目を瞑る。
「いいよ……ユズキ」
楓の声が聞こえる。
歪に隆起した、血の塊の山を一つ越える度に、楓との思い出が蘇る。
「ユズキさん?」
顔を上げ楓の顔を見る僕。楓の髪の毛は、少し汗ばんだ頬に張り付き、急いでここに来た事を物語っていた。初めて会った時の事だ。何故あの時僕は、楓の事を見て落胆してしまったのだろうか。記憶の中の楓はこんなにも可愛いのに。
「就職おめでとう! 私自分の事のように嬉しいよ!」
僕の就職を心から祝ってくれる楓。僕の頬に、枯れ果てたはずの涙が伝う。冷え切った皮膚に伝う涙は、驚く程に温かかった。
手首の傷から流れる血を見ながら、次第に安堵の表情を浮かべていく楓。その安堵の表情を見て安堵する僕。お互いの想いは同じものだったのだろうか? それは分からない。もしかしたら——。
次々に浮かぶ楓の記憶は、僕の心の中に、温もりと現実の冷たさを同時に与えていく。生きている頃の楓、死んでしまった楓。楓、楓、楓、楓……。
「此処では全部が一緒なんだよ。人も物も空も見える物全部が朱いの……綺麗も穢いも無い。全部まっかっか」
「楓?」
朱い世界に僕と楓は立っている。あそこでは、全てのものの境界線があやふやになっていた。有機物も無機物も。生も死も。あの朱い世界に行けば、僕も楓ともう一度一つになれるだろうか。
僕は目を開けた。楓は尚も横たわったまま静かに目を閉じている。楓は、僕の行為を待ち望んでいる様に思えた。僕は楓の望みを叶えなければならない。楓の手首に出来た瘡蓋を、出来るだけ丁寧に剥がし始める。周りの皮膚に傷を付けない様にそっと、そっと、そっと……。
全ての瘡蓋を剥がし終えた後、僕は瘡蓋の無くなった傷口を観た。その深い傷口からは、当然の事ながら血は出て来なかった。これでは楓の望みは叶えられないだろう。
僕は楓の使っていた剃刀を持ち出すと、自分の手首に充てがう。僕の手は震えていたが、それが恐怖の所為なのか、寒さの所為なのか僕には分からなかった。
刃物の先に、少しの抵抗を感じた後、剃刀は静かに皮膚を切り裂いていく。手首に鋭い痛みが走り、僕は唇を噛み締めそれに耐える。剃刀の通った後から血が滲み、拳を伝って滴っていく。僕は滴る血を、楓の手首の傷口に垂らした。見る見るうちに楓の手首の傷には血が溢れ、まるでその血が、楓の手首から溢れているかのような錯覚に、僕は陥った。
「これでいいよね……楓」
何度も通った楓のマンションは、相変わらず前と同じ所に建っていた。それは当たり前の事なのに、楓がいない今となっては、楓の住んでいたマンションがそこに有る事の方が、僕には不思議に思えた。
楓から預かった鍵で、オートロックの入り口を抜け、最上階のボタンを押す。途中誰か乗って来ないか少し不安だったが、何事も無くエレベーターは最上階に着き、滑るように扉を開けた。
僕は階段を登り、少し小さ目の窓の鍵を開けると、壁をよじ登り、強引に外に転がり出た。
「楓の様にはいかないな」
僕は、膝に手をつき立ち上がると、辺りを見回しながら呟いた。そこには、あの時楓と見た、完璧な朱い世界が広がっていた。
此処では綺麗も穢ないも無い。全てが一緒でただ朱い。それだけ。
僕は世界と、楓と一つになれるだろうか。ゆっくりと一歩づつ僕は歩き出す。一歩、一歩、ゆっくりと。
僕の頬を、冷たい風が撫でている。楓の住んでいたこの高層マンションの屋上で、僕は楓と一つになるんだ。
屋上はぐるりと金網のフェンスで囲まれていて、僕はその前まで来ると、フェンスをよじ登り、その外に降り立った。屋上から見る地上は、恐ろしく遠く、僕の足を竦ませる。
「僕はここから飛び降りて楓と一つになる」
自分に言い聞かせるように言うと、僕は目を瞑る。頬を風が撫でる。楓。これでいいんだよね?
「……楓?」
不思議だった。僕にはその時はっきりと聞こえた。
「私は死にたいなんて思った事は無い」と。
「——そうだった。そうだった。そうだったんだ! 僕は馬鹿だ、僕は馬鹿だ! ごめん、ごめんよ。ごめんよ楓……。今から帰るよ」
僕の頬に涙がまた伝う。僕の涙腺は壊れてしまったのかも知れない。
——気が付くと、辺りはすっかり夜の気配に包まれていて、完璧な朱い世界は、ただの薄暗闇の世界になっていた。
僕は屋上の扉の鍵を開けると、階段を降りた。扉の鍵はきっと管理人か誰かが閉めるだろう。エレベーターで降りる時、何故か楓の住んでいた五階のボタンを押してしまい、そのまま楓の部屋の前に立った。楓は、もうここにも何処にもいないのに。
楓の部屋の表札は、前と同じで何も書かれていなかった。もう誰か他の人が住んでいるのだろうか。僕は扉に耳を充て、中の音を探った。何も音は聞こえない。
鍵、使えるかな? シリンダーに鍵を差し込みゆっくりと回す。鍵はあっけなく開く。鍵を付け替えないとは無用心だなと思いながらも扉を開けると、そこには荷物も何も無い、伽藍堂の部屋が有るだけだった。そこに楓が存在していたと言う事を否定された気がして、僕はとても悲しかった。
靴を脱ぎリビングに上がる。窓から差し込む薄っすらとした明かりで、部屋の中の様子は何と無く分かった。主人を喪った部屋は恐ろしく寒く、僕は歯の根をカチカチと鳴らした。
震えながら壁のスイッチに手を延ばし、照明を点ける。暗闇の中に、突然煌煌とした明かりが灯り目が眩む。そして僕は、部屋の中に何か残っていないかと調べたが、何も残っていなかった。
「僕は一体何をしているのだろう」
震える程に冷え込む部屋の温度に、急に冷静になった僕は、部屋の真ん中で呟いた。僕の声は、部屋の中で不規則に反射して、ぼんやりとした音になった後消えた。それから靴を履き、玄関のドアノブに手をかけたところで違和感を感じ、再び部屋に上がる。
あれは? キッチンの上に有る戸棚が細く開いている。戸棚を開けると奥の方に本が置いてあるのが見えた。
僕はキッチンによじ登り、戸棚の奥から本を取り出した。本のタイトルは、夏目漱石の『こころ』だった。楓の好きな本。何でこんな所に。
『誰か知らないあなたへ。この手紙をあなたが読まれていると言う事は、私はもうここには住んでいないと言う事になるんですね。いきなりこんな事を書いてしまうと、気味が悪いとか思われて、捨てられてしまうかも知れないので……、まあこんなボロボロの文庫本の間に挟まっている手紙って時点で、大分気味が悪いでしょうから、既に捨てられているかも知れませんが、捨てられていないっていう前提で、まず自己紹介をします。
私の名前は佳苗と言います。戸籍上はもしかしたら後藤佳苗かも知れません。でも、名前なんてどうでもいいんです。私は今日でこの名前を捨てますから。
はじめの名前は、私の事をこの世に産んだ人達が勝手につけた記号で、後の名前は忌名のようなものです。私にとってこの名前は、この世を生きていく為に必要な記号でした。それ以上でもそれ以下でも有りません。機会が有れば、いつでも捨てるつもりでしたし、何の愛着も有りません。むしろ私を過去に縛り付ける鎖の様に思っていました。
私の今までの人生は、最低のドブ底の様な人生でした。私は、物心が付いた頃には埼玉の児童養護施設にいました。そしてそこで幼少時代を過ごし、小学校高学年の時に、ある男に引き取られました。そしてその男は、私の事を犯しました。なぜそんな男に施設は、簡単に私を引き渡したのかと、この手紙を読んでいる方はお思いになるかと思いますが、その男は社会的に、大変立派な肩書きを持っていたのです。
私は、その男の元で高校二年生までを過ごしました。そして隙を見て逃げ出し、この東京へやって来たのです。本当は、もっと詳しく書いた方が伝わるのでしょうが、私にとってそれを書くと言う事は、拷問でしか無いので、簡潔に書きました。もしかしたらこの手紙を読んでいる人の方が、もっとひどい目にあっているよ! と怒ってしまうかもしれませんが……。
私はこの話を、この前或る人に話しました。その人は、私と同じような暗い過去を持っていて、私の事を受け入れてくれました。私は今まで友達もいなくて、増してや、こんな話を出来る人なんているはずもなかったので、凄く嬉しかったです。
私は、その人と一緒に生きていけたらと思います。だから私は、今までの名前を捨てます。なら何故こんな手紙を書くのかとお思いになるかと思います。当然ですよね。
私は、私がここに生きていたという証拠を残したいのかも知れません。そしてその証拠は、私の事を知らない誰かの中に残ればいいなと思ったのです。そして、この手紙は読んだら捨てて下さい。私は自分でこの手紙を捨てる勇気が有りません。だから貴方の手で捨てて下さい。そしてここに佳苗と言う人間がいた事を、こころの片隅でいいので覚えていてくれたら、それ以上に嬉しい事は有りません。
本当に身勝手なお願いですが、この手紙をここまで読んで下さったのなら、どうか私の願いを聞いて下さい。それではさようなら。私は幸せになれますかね? 佳苗』
僕は帰りの電車の中で、人の目も憚らずに涙を流した。周りの人間が、さも珍しい物でも見るかの様な視線を僕に送るが、僕にはそんな事どうでも良かった。
楓は、僕の事をそんな風に思ってくれていたのか。それなのに僕は、楓の事を守れなかった。ただ、それが悔しくて悲しかった。
楓の手紙を読んだ時、昔見た『ショーシャンクの空に』という映画を思い出した。あの映画の中で、元囚人の年老いた男は、住んでいた部屋に名を遺し、その後首を吊った。楓は生きる為に部屋に名を残した。二人の動機や目的は全く違う物なのに、結果的に同じような事になってしまった。
老人は、信頼出来る友を失った為に死んだ。
楓は、信頼出来る友を得た為に死んだ。
……僕は無力だ。
アパートの部屋に戻ると、楓は変わらずそこに横たわっていたが、部屋の温度は幾分か上がっているような気がした。
楓の周りに置いていたドライアイスは、僕が部屋を出る時に見た、三分の一くらいにまで小さくなっていた。
僕はエアコンのスイッチを切り、冷蔵庫の扉を閉める。そして携帯電話の充電が切れているのに気が付き、充電器をコンセントに差し込むと、携帯電話の充電を始める。いつから充電が切れていたのだろう。
次に、楓の持って来たボストンバッグの中身を、丁寧に床に並べた。楓の荷物はクローゼットの中に有る衣類を除くと、現金の入ったクッキーの缶、何冊かの本、そして財布だけだった。その中には、楓の過去を示す物は何も無かった。楓は、名前と共に、過去の人生も捨ててしまったのだろうか。
僕は、床に並べた荷物を再びボストンバッグに戻した後、押入れの中の天板を外した。屋根裏の中は狭い上に埃っぽく、誰も好き好んで開けようとする者はいない様に思えた。
僕はその中に、楓の持って来た二つのボストンバッグを押し込み、そして、楓の『こころ』と手紙もそこに一緒に入れた。
注意深く押入れの天板を戻し、初めから何も無かったようにした所で、携帯電話が振動している事に気が付いた。液晶画面には、母の名前が有った。
「徹、あなた正月に帰ってもこないで何やってんのよ。お父さん怒ってるよ。いくら連絡しても繋がらないし」
電話に出るなり、母は僕に怒りの言葉を投げ付けた。当然だろう。もしも僕が親ならば、同じような事を言ったに違いない。
「ごめん……色々あって連絡出来なかったんだ。あのさ、あの……」
懐かしい母の声を聞き、全てを話してしまいそうになる甘えた気持ちが、僕の中に沸き起こる。
「何?」
「いや、何でも無い。また近いうちに帰るよ。父さんにはごめんって伝えといて。それじゃあ今忙しいから切るね。また連絡する」
まだ全然話し足りないといった感じの声が、電話口から聞こえていたが、僕は構わず電話を切った。それから暫らく携帯電話は振動し続けていたが、そのうちぴたりと振動をやめた。
ごめんよ母さん。僕は母さん達に迷惑をかけたく無いんだ。
鳴り止んだ携帯電話を持つと、僕は『110』のボタンを押した。通話のボタンを押すのに躊躇いは無かった。数回にも満たないコールで電話の相手が出る。
「はいこちら『110番』。どうされましたか?」
『110番』と聞いた瞬間、僕の心臓は不規則に暴れ始める。自分が生きている間に、まさか警察に電話するような事態が起こるとは、誰が想像するだろうか。
「あ、あの。友達が、一緒に住んでた友達が死んでしまって……」
「はい、落ち着いて下さいね。まず『119番』には連絡されました?」
電話の向こう側の空気と、こちら側の空気は明らかに違っていた。死という言葉に少しも慌てた様子が無い。いたずらだと思っているのか、それとも警察にとって死とは、それ程までに身近な存在なのだろうか。
「あの、すみません。呼んでないです。友達は……何日か前に死んだので」
電話の相手が息を呑むのが分かる。僕が今、特異な状況に有る事を理解してくれたのだろうか。それにしても何日か前とは、自分の言った言葉にも関わらず驚く。人に説明する段になって初めて、楓の死から何日が経つのかという事を考えるとは。僕は、楓の死について少し無責任だったのだろうか。そう言えば昔から……。
「……もしもし! 聞いてますか? もしもし!」
「……ああ、すみません」
何処かに行こうとしていた思考が、電話の声に因って引き戻される。
「あなたの名前と住所を言ってもらえますか。それから電話は、今かけて来ているこの電話でいいので、常に出られるようにしておいて下さい」
「あっはい、住所は——」
それから先は、瞬く間に物事が動き始めた。遠くの方からサイレンの音が聞こえ始めたかと思えば、次に気が付いた時には、楓の遺体が僕の部屋から運び出されるところだった。誰にも触れさせない。不意に思い起こされた言葉は、既に動き出した事象の前には何の力も無く、僕はただそれを見ていた。僕は言い訳の様に呟く。あれは楓じゃない。楓だったものだ。
「何か?」
僕の呟きを聞いた警官が、僕に声を掛けて来るが、僕は「何も」とだけ応えた。次に僕が気付いた時には、簡素な事務机と椅子が置いて有るだけの、無機質な部屋に僕はいた。これが取調室という物なのだろうか。
暫くそこで座っていると、部屋の扉が開き、警察だと思われる人が入ってきて、僕に声を掛ける。警察の人は、軽く自己紹介をした後、僕に色々な質問を投げ掛けて来た。楓とはどこでどうやって知り合ったのか、楓とはいつから一緒に住んでいたのか、質問は正直この件と関係有るのかと思う事まで、事細かく訊かれた。そして、その質問の一つ一つに答えていく度に、楓との思い出が蘇り、僕の中で悲しみが溢れていった。
僕は涙を流しながら全ての質問に答えた。ただ、楓の素姓と、楓の自殺の動機だけは、全く分からないのだと答えた。警察の捜査能力を持ってすれば、すぐに楓の素姓は分かってしまうだろう。だが、楓は前の名前を捨てたのだ。僕の口から楓の過去を語る事は、僕にとって楓の覚悟を冒涜する事になる。僕は、そのまま警察の留置所で夜を明かした。
次の日僕は、穴の空いた透明のアクリル板越しに、両親と対面する事となった。迷惑をかけたく無いと思いながらも、結局迷惑と心配をかけてしまった申し訳無さで、僕は終始俯き気味のまま、只々謝り続けた。
母は泣きながら、何故? 何故? と繰り返し、父は僕に怒りながらも、すぐに出て来られるように全力を尽くすと言ってくれた。楓の事を思うと、両親の有難さが逆に僕の胸を締め付ける。
その後僕は結局、保護責任者遺棄致死罪と、遺体損壊罪の疑いで数回の裁判を経た後、父の用意した有能な弁護士のお陰で、心神喪失の為無罪と言う事となった。幸か不幸か、僕達の特異な関係性と、楓の死んだ時の状況が幸いしたのだそうだ。
僕は法廷で、何度も楓を殺したのは僕だと叫びたくなったが、或る思いがそれを押し留めた。僕にはやらなくてはならない事が有る。そして僕は、数ヶ月の後には、普通の人と同じ様に、日の下を歩けるようになった。
罪とは何なのだろうか。人から物を盗めば罪になる。人を傷付けても罪になる。人を殺しても罪になる。そして僕は、間接的では有るが楓の事を殺した。だが僕は、心神喪失と言う理由で罪には問われなかった。
——心神喪失。果たしてそうなのだろうか。僕があの時楓と過ごした最期の数日間は、そんなにあやふやなものだったのか? 確かに、楓が死んでからの数日間。僕の記憶に曖昧な所は有るが、僕は至って冷静だったはずだ。ならば僕はやはり罪に問われるべきではないのか。
人が罪を犯し、そして罰せられない。それはいかなる場合に起こり得る事なのだろうか。今回の僕のように、国が罪を罪と認めない場合。そして、国が罪を認知していない場合。つまり、犯罪は確かに起こっているのに、その犯罪が、まだ明るみに出ていないという場合などでは無いだろうか。
犯罪が見つからなければ、それは国にとって、罪が存在しないと同じ事。それは例えば、人を殺してしまってもその死体が見つからなければ、犯罪にはならないと言う事だ。
楓の身元は、結局警察の捜査を持ってしても、分からなかったそうだ。と言っても、全国で、家出の届けが有る未成年者のリストと、楓の身体的特徴を照らし合わせただけの捜査で、何か特別な事をした訳では無かったらしい。
僕と言う犯人がいて、警察的には既に解決した事件であり、そこに人員を割く事は出来ないという事だ。結局警察からしてみれば、楓の死など、僕を捕まえる為だけの口実に過ぎなかったのだ。
そして楓は、葬儀もそこそこに荼毘に付される事となり、遺骨は無縁仏として近くの寺に引き取られる事となった。それを聞いた僕は、それなら僕が遺骨を引き取ると言ったが、両親は、頑としてそれを許してはくれなかった。こうして楓は、誰に見守られる事も無く、永遠の眠りに就いた。多くの罪をその身に抱えたまま……。
楓が存在しなくなれば、楓に纏わる罪は、全て存在しなくなるのか。国が僕の罪を罰しないのであれば、僕は僕のやり方で、自分の犯した罪を償おう。国が罪を認知しないのであれば、僕が奴の罪を罰しよう。