表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瘡蓋(かさぶた)  作者: かつを
3/6

崩壊

 三章:崩壊


 ——札束を数えると、結局、九百と七十八万円有った。これだけの現金を手にしながら、今まで殆ど使わずに生活して来た楓の意思の強さに驚くと共に、それ程までにして守って来た意思を、僕の為に曲げさせてしまう事に申し訳なさを感じた。


「ごめん。僕が不甲斐ないばかりに」


「いいよ、何言ってんのよ、今まで世話になってきたのは私の方だし、ユズキいなかったら住む所だって無かったし」


「でも、このお金が有ったら住む所なんていくらでも……」


「ユズキ君? この世には保証人だとか何とか色々と有って、未成年一人では、生きていき難いように出来てるんだよ。分かる?」


 楓は、出来ない生徒を諭す様に僕に言う。そう言えば僕が上京した時、賃貸契約書に、そんな事を書く欄が有ったような。


「取り敢えずご飯食べようよ。お腹空いたよ」


 楓はそう言うと、食事の支度を始めた。楓は年を誤魔化しているんじゃ無いだろうか。僕はそう思ったが、自分が物を知らなさ過ぎるだけかも知れないと思い直し、着ていたスーツを脱ぐと、部屋着に着替えた。その時スーツの内ポケットに、母からの手紙が入ったままなのに気が付いたが、僕はそのままにした。母さん、今年は帰れそうも無いよ。




 ——金。無ければ無いなりの生活を送る事が出来るが、一度有ると意識してしまうと、どうにも心の油断を生んてしまうのか。散財をした記憶も無いのに、始めから緩んでいた帯の一束は、年を越す頃には残り僅かとなっていた。それにも関わらず、僕はまだ仕事を見付けられないでいた。


 楓も楓で、「いつかは仕事見付かるよね。今だけ、今まで頑張って来たんだから」と言って自然と外食が増えた。楓の固い意思はどこに行ってしまったのだろうか。仕事が決まっていない僕に、それを言える義理は無い。後から思えば、楓が今まで作ってきた食事のメニューは、身体の健康状態を常に気にしたメニューだった。しかも、お互いを傷付け合う事が日常となった僕達にとって、それは生きる上で絶対と言っても良いものだった。


 病院と言う、過去の闇を連想される物を避けてきた楓にとって、日々の献立に気を使う事は、当然とも言える防衛本能だったのかも知れない。しかし、最近になって急に増えた外食は、ただでさえ弱っていた僕達の身体を、ゆっくりと、だが確実に、衰弱の方向に差し向けた。


 明らかに顔色の悪い僕は、就職どころかバイトさえも見つからず、楓も、いつかは仕事が見つかるだろう、お金なら有るし住む場所は保証されている。という楽観からか、特に生活習慣を改める様子は無かった。


「——楓。最近外食ばかりでお互い顔色悪くない? 今日は久し振りに家でご飯にしないか? 作るのが嫌なら僕が作るし」


 楓は少し考えた後、「じゃあ鍋がいい」と僕に言った。それ聞いた僕は、冷蔵庫を開け中身を確認する。冷蔵庫の中は、ミネラルウォーターと数種類のジュースが有るのみで、食材となり得る物は一つも無かった。家で食事をするのはいつ振りなのだろうか。


「買い物に行くの?」


 ソファーで横になっていた楓は、身体を起こし、僕の方を見て言う。


「うん。食材が何にも無いからね」


「私も行く」


 楓は頼りない足取りで僕の方に歩いて来るが、明らかに体調の悪そうな楓を、この寒空の中連れて行く事は出来ないと僕は思った。


「いいよ、すぐ近くだから。すぐに戻るよ」


 楓は、「分かった」と言うと、またソファーに横になった。毎日薬は飲んでいるはずなのに。やはり栄養のバランスが悪いのだろうか。


 部屋の外に出ると、身を切るような風が、僕の弱った身体を凍えさせた。早く鍋で温まろう。


 スーパーで食材を買って、店を出ると、すぐ近くのレンタルビデオ店で、在庫一斉処分と書かれた登りが出ていた。そしてその下に置かれたワゴンには、大量のDVDが売られていた。何気なく覗くと、いつか楓と見た『シンドラーのリスト』が五百円で投げ売られていた。


 そう言えば、あの日も鍋だった。僕は今日を二人の再出発の日としようと決め、そのDVDを買うと、急ぎアパートの部屋に戻った。


「ただいま」


「お帰りなさい。外寒かった?」


「まさに身を切る寒さだよ!」


 僕は身震いを一つすると、鍋の用意を始める。


「あっ! これ買ったの?」


 楓の方を振り向くと、僕の買った『シンドラーのリスト』を、楓は嬉しそうに手に持っていた。


「ワゴンで安売りしてたから買ったんだ、今日は鍋だし、始めて楓がうちに来た時と一緒みたいだろ? 今日から二人とも変わるんだ、ちゃんと地面に足を着けて生きるんだ」


「そうだね。いつまでもこんな生活してたらだめだよね。ありがとう、ユズキ……」


 僕達は、あの日と同じように鍋を食べ、『シンドラーのリスト』を見た後再出発を誓うんだ。




 久し振りに家で食べる鍋は格別に美味しかった。時間は遅くなったが、これから映画を見て儀式は完成する。僕達に明日の予定なんか無い、有るのは希望だけだ。そして僕は、テレビとDVDデッキの電源を入れた。


『なるほど、では実際問題として、青少年の非行化は、幼少期に於ける親御さんの関わりが足りない事が原因だと、そう後藤先生は仰る訳ですね』


『そうなんです。幼い頃の親御さんとの関わり方によって、その後の子供の人生が変わってしまうと言っても過言ではありません。特にスキンシップは大切です。愛情を持って接する。そういった事に拠って、お互いの信頼関係が築かれていくのです』


 テレビでは、眼鏡をかけカマキリに似た顔をしたキャスターが、いかにも人格者といった感じの男と、対談をしているところだった。


 ——スキンシップか。そう言えば、昔は父とよく風呂に入ったり、プロレスごっこをしたりしたものだ。もっともプロレスごっこと言っても、僕はひたすら技を掛けられるだけだったのだけれども。

 父の顔が頭に浮かび、いつかの手紙の事を思い出す。父は元気だろうか。


 その時僕は、楓が食い入るようにテレビを見ている事に気が付いた。楓の顔を見ると、そこには無表情よりも無表情。無。そう何も無い『ぜろ』の表情の楓がいた。


「どうしたの? この人知ってるの?」


 不穏な空気を感じながらも、何か言わなくてはと、僕の口から出た言葉がそれだった。楓は、だまってユニットバスの方へ行くと、中から鍵の掛かる音が聞こえる。


「楓?」


『それでは後藤先生は、そういう若者を少しでも減らしていこうと、ご自身の本業でもある病院の経営を行いながら、尚且つNPO法人を立ち上げ、問題児童に対する支援を行っているという事ですね?』

『問題の有る子供などいません。悪いのは大人なのです。家庭内暴力やネグレクト……』


 キャスターが遮る。


『あっ、すみません後藤先生。ネグレクトとは?』


『失敬、ネグレクト……つまり育児放棄の事ですが、そういった幼少期に於けるいくつもの問題が、PTSD、心的外傷後ストレス障害。つまりトラウマとなり、そしてそのトラウマが起因となって、青少年が非行に走るのです。それを少しでも防いでいくのが大人の義務で有り責任なのです』


『なるほどそれは失礼致しました。——いやはや大変御立派な活動です! それでは後藤先生、最後に何か一言お願い致します』


『私は、少しでも青少年の非行を無くしたい。そして、少しでも多くの子供の笑顔を増やしたい。それだけが何よりの願いです。お願いです。一人で悩まないで下さい。何か有ってからでは遅いのです。何でもいい、先ずはご相談下さい』


『本日は誠にありがとう御座いました。NPO法人光の子供会会長、そして、後藤小児科クリニック医院長の、後藤久嗣先生でした』


 僕の鼓動が、少しずつ早くなってくるのを感じる。問題児童に対する支援? 小児科医院長?


『その人、とても優しい声をしていたの……』


 楓が前に言った言葉を思い出す。優しいと言うよりは力強さを感じたが、人の感じ方など様々だろう。それに、楓のあの表情が全てを物語っている。後藤久嗣。僕は急に楓の事が気に掛かり、慌ててユニットバスの扉に駆け寄った。


「楓! 楓!」


 ドアノブを回すが、中から鍵が掛かっていて開かない。ドアノブを外せば或いは。僕は古い記憶を頼りに、工具箱を探す。


 確か押入れの奥に……。


 ——数々のガラクタに阻まれて、目当ての物を見付けるまでに、予想外の時間がかかる。——有った。僕は工具箱を見付けると、その中身を床にぶちまけ、ドライバーを手に取りドアに走った。


 ドアノブのネジを、慎重に出来るだけ素早く外していく。楓が中に入ってからどれくらいが経つか。汗ばんだ手で、何度もドライバーを取り落としながらも、何とかドアノブが外れた。しかしドアは開かない。


「何でだ! 何でだよ!」


 仕方が無く僕は、ドアに体当たりをする。ドアは、耳障りな音を立て大きく撓んだ。これなら、後何回か体当たりすれば開くかも知れない。


「ちょっとあんた何やってんだよ! うるさいよ!」


 玄関の方から隣の住人だろうか、声が聞こえる。だが、今の僕に構う余地は無い。肩に鈍い痛みが広がる。玄関では尚も声が聞こえるが、僕は無視して体当たりを続けた。


「ちょっと! 警察呼ぶよ?」


「ほっといてくれ!」


 僕は大きな声で怒号を上げ、更にドアに体当たりをした。ドアが激しく軋み、蝶番が歪む。そして次の瞬間、木が激しく撓み、めりめりと割れるよう音がした後扉は外れた。


「楓!」


 玄関先で舌打ちが聞こえ、隣の部屋から扉の閉まる音が聞こえる。警察を呼ぶなら呼ぶがいい。ユニットバスの中では、手首から大量の血を流した楓が、うずくまる様に座り込んでいた。


「楓……、何で。今救急車呼ぶよ」


「嫌よ……。病院は嫌。死んでも嫌。病院に行くくらいなら、……このままここで死ぬわ」


 楓は、荒い呼吸の合間に苦しそうに言った。


「楓、そんな事を言わないでくれよ。楓が死んだら僕は、僕はどうしたらいい……」


「ユズキ……。私、ユズキに逢えて良かったよ。今でも好きとかどうとか分からないけど……。ユズキの事だけは、私にとって特別だよ。特別な人……」


 楓の遺言の様な言葉を聞き、僕の目から涙が溢れる。


「だめだよ、そんなこと言っちゃ。待ってて、病院が駄目なら人に来てもらうよ!」


「嫌なの。……私の身体……、触られるの嫌なの。私の身体に触ってもいいのは……、ユズキだけだから……」


 そう言って楓は、僕の手を握り、血の溢れ出る手首に導いた。楓の傷は、今まで触ったどんな傷よりも深く、悲しかった。脈に合わせて溢れ出る血で、僕の手はすぐに真っ赤に染まった。


「ユズキ……。顔……、近くに……」


 楓の声は、掠れて今にも消えてしまいそうだった。


「何? ここにいるよ?」


 僕は、楓の口元に耳を近づけて言った。


「違う……。こっち向いて……」


 僕は楓の方を向く。楓はそっと僕に顔を近づけ、僕の唇に自分の唇を重ねた。


 僕と楓の最初で最後の口付けは、鉄の錆びたような、血の味がした。


「ユズキ……。ありがと……」


 静かになって行く鼓動……それに合わせて流れを止める手首の血……楓は僕と出逢って本当に良かったのか。その答えは、僕の心の中をどうやって探しても、どこにも見つからなかった。


 バスタブの中では、僕の涙と楓の血が混じり合って、赤いマーブル模様を作っていた。僕はそれを単純に綺麗だと思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ