融合
二章:融合
楓は、血が流れるのを見ると心が落ち着くと言う。僕は瘡蓋を剥がす時の痛みと、瘡蓋が体から離れていく時の感覚が好きだった。お互いの歪な凹凸は、初めからそこに収まる事が決まっていたかの様に、ピッタリと綺麗に収まった。楓は何も言わずに、僕の方に手首を差し出すと、僕もその手首を手に取った。僕は手首の傷を観察する。観たところ二、三日前に付いた傷のように思えた。僕は傷と友達になってから、これまでに色んな瘡蓋を観てきたから、瘡蓋を観ればだいたいの傷の深さや、傷の治りの具合が分かるようになっていた。僕は思わず唾をゴクリと飲み込んでしまった。楓は僕の方を見る。
「いいよ……」
掠れる様な、本当に小さな声で楓は言った。僕は、身体の全体に痺れるような疼きを感じて、深く息を吸い込み、そして長く細く息を吐き出した。
僕は傷口にそっと触れる。カサついた傷口は、僕の背中をくすぐるような不思議な気持ちにさせた。傷口の周りにそっと指を這わせ、傷口に綻びが無いか探った。端から端までじっくりと探っていくと、親指側に延びた傷口の端が少し捲れていた。
僕は又唾を飲み込んだ。指の腹に軽く引っ掛かりを覚える程度の捲れを、何度も何度もなぞった。僕は楓の顔を窺う。彼女は傷口を凝視していて、僕が行為を行うことを待ち望んでいるように見えた。少しだけ躊躇った後、瘡蓋の綻びにそっと爪を引っ掛ける。そして、周りを傷付けないように、慎重に、慎重に、瘡蓋を捲り上げていく。先ず薄皮が捲れ、次第に茶褐色に変色した血の固まった部分が捲れて来る。この感じは、まだ傷は塞がっていないな。僕は心の中で思う。
「痛っ……」
楓の口から声と息が漏れる。瘡蓋の捲れた所が、白いクレーターのように抉れて、そこから一瞬遅れて血が滲み出して来る。
「ごめん……」
僕は思わず手を離した。でも楓は僕の手を掴むと、続けてと言った。僕は顔を赤くして行為を続けた。
瘡蓋が剥がれ落ちた後、楓の手首は赤く染まり、先程テレビで見た紅葉が僕の頭の中に浮かぶ。楓の血に染まった手と紅葉がたぶって見えて、いつか二人であの景色を見たいと思った。
楓を見ると、少し上気したのか顔が赤くなっていて、息も少し荒くなっていた。僕の方もきっと同じようなものだったと思う。僕と楓の不思議な関係は、こうして出来上がった。
その後急に眠気が襲って来て、僕達はそのまま眠ってしまった。僕はソファー、楓はベッドで。お互いの不思議な距離感は、とても心地良かった。
朧げな意識の向こう側から音が聞こえる。懐かしいような、切ない様な。——僕の意識は、次第にはっきりしてくる。これは……食事を作る音?
「ユズキ、仕事に遅れるよ」
楓の声に完全に目が覚め、強張った肩を自分で揉みほぐすと、僕はソファーに座り直した。
目の前に置かれる目玉焼きや味噌汁、そして炊き立ての様に湯気の立つ御飯が並ぶ。
「凄……」
「これくらい作れるよ」
僕の呟きを聞きつけたのか、楓はお茶をコップに注ぎながら言う。袖から覗く白い手首には、僕が昨日付けた傷口に、絆創膏が貼られてあった。
同意の上とはいえ、初めて人を傷付けてしまった事に対して、罪悪感が芽生える。
「まだ傷口乾いてないよ」
僕が手首を見ている事で勘違いしたのか、楓は僕に言った。
「いや、違っ」
違わないか。
罪悪感と言う薄っぺらな感情を一枚捲れば、また楓に触れたい。傷口を見たい。と、そう思っている赤く波打つケロイドの様な感情が、僕の中には眠っている。そのケロイドは、僕の鼓動に合わせて押しては返す波のように、正常と異常の間を行ったり来たりしている。
僕は、多分異常なのだろう。楓もまた異常なのかも知れない。それでも、それぞれの異常さがお互いの足りない部分を補完し合えば、少しは正常に見えるかもしれない。——一体僕は何を考えているのだろうか。
「何ぼーっとしてんの? 御飯冷めちゃうよ!」
「いや、僕は異常なのかなって」
楓はあからさまに、面倒臭そうな顔をして言った。
「知らないよそんな事。異常かどうかなんて結局多数派が少数派の事を馬鹿にしてるだけじゃない。私は自分の考えを捨ててまで多数派に紛れるなんて嫌」
「グリーンデイ聴くの?」
「何それ?」
「マイノリティ……」
「知らないよ、トムクルーズ?」
「いや、いい」
「嫌な感じだなあ。まあいいや。早く食べちゃってよね」
「ごめんまた話す」
僕は朝からとても気分が良かった。楓の作る御飯は素朴だったけど美味しかったし、何より初めて何でも話せる友達が出来た気がしたから……。
友達。——楓は僕の事をどう思っているのだろうか。玄関先で僕の事を見送る楓は、昨日見た楓のままで、特別な感情は見えなかった気がした。やっぱり楓にとって、僕はただの友達なのだろうか。
「次は鷺ノ宮——鷺ノ宮——」
車内アナウンスで、降りる駅に近づいた事に気付き慌てて立ち上がったものの、電車が停まるまでに結構時間が有り、僕は少し気まずい思いを味わう事になった。ドアが開くとすぐに、僕はさも急いでいるといった感じで、素早く改札を抜けた。
アパートの部屋に着くと、一日しか空けていないはずなのに、僕はもう何日も帰っていない様な気持ちになった。
シャワーを浴び、仕事に行く準備をする。初日から遅刻だなんてもってのほかだし、それにあの社長の事を思うと、仕事に行く事が楽しみに思えた。
「おはようございます!」
「おはよう! 元気だね! 今日から頼むよ!」
僕が、挨拶をしながら事務所に入ると、社長が僕に向かって挨拶を返してくれた。以前の職場とは比べるまでもなかった。
「今日から事務として働いてもらう佐伯君だ。皆よろしく頼むよ!」
社長が朝の挨拶で、僕の事を紹介してくれる。一人の人間として、ちゃんと認められた気がして嬉しかった。
仕事の内容自体は、慣れてしまえばさほど大変ではなさそうだった。ただ、専門の用語や知識などを覚える必要が有った為、メモ帳に書き留め、家に持ち帰り勉強をしようと思った。
初日の仕事は、特に問題も無く定時の五時半には会社を後にする事になった。帰り際に社長や他の社員から「明日も宜しくな! お疲れ様!」と声を掛けられ、僕の居場所がちゃんと用意されている様で心地良かった。
家に帰ると、大学卒業と共に押入れの奥にしまい込んだノートを引っ張り出し、書き留めたメモの内容を全て書き移した。久し振りに行った文字をノートに書き写すという作業が、何故か新鮮に感じて、全てのメモを書き写した後も、ペン先は当ても無くノートの上を行ったり来たりしていた。そのうち僕は、手紙を書いてみようと思い立ち、誰に宛てる手紙を書くか迷ったが、結局母に宛てる事にした。手紙を書く事など、学生の頃に書いた年賀状が最後かも知れない。ましてや母に手紙を書くなど、今までの鬱々とした自分からは想像も付かなかった。もしかすると、今朝楓の作ってくれた朝食に、微かな母性を感じた取ったからなのかも知れない。
書いては消し、書いては消しする内に、いつの間にか窓の外は暗くなっていた。ようやく手紙を書き終える事が出来たのは、それから更に一時間も後の事だった。それだけ時間を掛けたにも関わらず、書けた内容は、就職が決まった事と、自分の健康面の事、そして楓の事を少し書いただけだった。最後に母の身体を労う文章を書いた後、味気ない封筒に手紙を入れ封をする。父の事も書いた方が良かっただろうかと、少しだけ悩んだ後、また次に書けばいいと思い、僕はペンを置いた。手紙を書き終えるのを待っていたかのように、携帯電話がその身を震わせる。
『御飯食べた? まだなら一緒に食べない?』
楓からのメールだった。僕の口元が思わず綻ぶ。
『いいけど何処で食べる?』
うちの家に来る? そんな答えを、僕は期待していたのかも知れない。でも返って来た答えは、僕の予想外の言葉だった。
『今鷺ノ宮駅。迎えに来てよ』
鷺ノ宮? ——うちに来るのか? 楓が? 僕は軽い混乱状態になりながら、着替えや、見られては都合の悪い物を押入れに放り込むと、駅まで走った。
「急過ぎだよ」
駅前で楓を見付けると、僕は駆け寄りながら声を掛けた。楓は、スーパーの袋とレンタルビデオ店の袋を持っていた。
「ごめんごめん。どうしても見たい映画があって、一人で見るのも味気ないし、ユズキの家DVDプレイヤー有る?」
手に持つ袋を少し掲げながら、楓は言った。
「DVDプレイヤーが無い家なんて今時無いよ」
そう言いながら、僕は楓の荷物を持ち、隣に並んで歩き始める。
「そうだよね、男の子だもんね」
楓の言っている意味を理解するのが遅過ぎて、僕は反論のタイミングを失ってしまった。
「今日仕事どうだった?」
楓は特に感情の籠っていない調子で話し掛けて来る。楓は何とも思っていないみたいだ。
「普通……かな? 仕事もそんなに難しく無いし、職場の人も皆良い人達だし」
「そっか。良いところ見つかって良かったね」
僕達の事を他人が見たら、付き合っている風に見えただろうか。他愛の無い話をしながら歩いている時、僕はそんな事を考えていた。
「着いたよ。ここが僕の家だ」
さも豪邸を紹介するかの如く、僕は大袈裟に手を振る。
「ボロいね。カスミ壮って、もしかしてダジャレ?」
「遠慮無いね。確かにボロいけど……」
「ユズキに遠慮なんているの?」
「いらないよ」
僕達は笑った。このまま時間が止まればいいのに。なんて言葉が、ドラマや漫画なんかに出て来る度に、こいつらは馬鹿なんじゃ無かろうかと蔑んでいた僕が、昔の人は良い事を言う。などと今は思っている。人間なんてそんなものだ。
「何にも無いね。でもなんか落ち着く……あっ、その辺に座ってて」
楓は、僕の部屋を自分の物みたいに言うとキッチンに立った。嫌な気持ちはしない。
僕は、リビングのテーブルに、楓と僕の分のお茶をコップに注いだ。女の子が僕の家に来る事など初めてなのに、少しも緊張しないのは何故なのだろうか。
「ユズキ、鍋とか無いの? それと卓上コンロとか」
キッチンの方を見ると食材が並べられていて、その具材を見るに、どうやら楓は鍋を作りたかったらしい。
「ごめん、一人暮らしだから鍋とか無いんだ」
友達がいなかった僕にとって、仲の良い者達で集まって、鍋をつつくなどと言う習慣は有るはずもないから、当然鍋も無いし卓上コンロも無い。
「そうなんだ。友達と鍋囲んでっての、ちょっと夢だったんだけどな……」
友達と言う言葉に、僕の胸は少し苦しくなる。楓にとって僕は、やはり友達でしかないのだろうか。そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、楓はそのまま食材などを包丁で切り始めた。
無言で食材を切る楓。無言でソファーに座る僕。部屋の中には、楓の振るう包丁の音だけが響いていた。無言の時間が続けば続くほど、部屋の空気は密度を増していく。そして息苦しくなった僕は、少しでも気を紛らわせようと、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「出来た!」
僕は楓の声に、伸ばしかけた手を止め、キッチンにいる楓の方を振り向く。そこには、キッチンのコンロの前で手招きをしている楓がいて、その奥から白い湯気がもうもうと立ち昇っていた。
「鍋出来たよ! 食べようよ」
コンロの前に行くと、この家に越して来た時に買った小さな鍋が有り、その中では、ぐつぐつと煮立つ立派な水炊きが出来上がっていた。
「凄い。鍋だ……」
「ちょっと狭いし、立ち喰いになるけど、立派な鍋だよね」
楓は笑いながら、ポン酢の入った碗と箸を僕に差し出した。僕達は、そのままその場で並んで鍋をつついた。普通とは少し違うけれど、僕達にとっては立派な鍋だったし、出汁のよく効いた鍋はとても美味しかった。それに、狭いキッチンだから楓との距離が近くて、例え楓が、僕の事を友達だとしか思っていなかったとしても、僕はやっぱり嬉しかった。
「キッチンで食べると片付け楽だね」
鍋を食べ終わると楓はそう言って、てきぱきと後片づけを始める。僕が手伝おうとすると、邪魔だからと言われ、仕方なく僕はソファーに座り、楓の後ろ姿を見ていた。僕の家にも関わらず、自分の家のように振舞う楓を見ていると、僕達の間には何も隔てる物が無いようなそんな気がしてなんだか嬉しい気持ちになる。
「ユズキ、DVD観る準備しといてよ」
楓は洗い物をしながら、背中越しに声を掛けて来る。僕はテレビとDVDデッキの電源を入れ、楓の持って来たDVDを取り出した。
DVDのタイトルは、『シンドラーのリスト』
「楓、これどんな映画?」
「ちょっと待って、もうすぐ終わるから」
楓は丁度タオルで手を拭いているところだった。パッケージを見るに、戦争映画みたいだけど、僕は見た事は無い。
「——知らない? シンドラーのリスト。スピルバーグ監督の映画なんだけど……、結構有名だよ? 私何回も観てるんだけど、分からない所が有ってさ、ユズキ分かるかなって思って。まあ取り敢えず観てみようよ。知らない方が先入観なく観られるしさ」
「分かったよ。取り敢えず観てみようか」
デッキにDVDをセットすると、僕は照明を消す。映画を観る時の僕のルールだ。これだけは譲れない。
僕と楓はソファーに並んで座り、静かに映画を観た。この映画が作られたのは、結構最近にも関わらず、映像はモノクロだった。途中何にも無いシーンで、楓が僕の手を握って来たと思ったら、次のシーンで赤い服を着た少女が急に現れた。モノクロの中での赤い色は、僕に鮮烈なイメージを抱かせた。楓は、このシーンの事を僕に伝えたかったのだろう。楓にとって赤い色と言うのは、やはり特別なのだなと僕はその時思った。
僕達は、その後も手を繋いだまま映画を見た。初めのうちは、お互いの手の温度差が有り過ぎて、僕は繋いだ手の方ばかりが気になっていた。だから映画の方が少し疎かになっていた。でもそのうち、お互いの手の温度は同じになり、僕は自然と映画の世界に浸っていった。
映画は三時間強にも及んだが、時間を感じさせない程に、僕は映画の世界にのめり込んだ。そして映画が終わる頃には、頬に涙が伝っていた。隣で楓の鼻を鳴らす音が聞こえる。僕は楓の頬をそっと撫でた。僕の指が、楓の涙で濡れて光った。
——テレビの画面では、オープニングの映像が静かに繰り返されていた。テレビの明かりに薄っすらと照らされた壁の時計を見ると、すでに日は変わっていて、時計の短針は一時を指そうとしていた。
「もうこんな時間か」
僕は呟き、明かりを点ける為に立ち上がろうとする。しかし、繋いだ手から僕の行動に抗う様な力を感じて、僕は再び座り直した。
「なに?」
「——ユズキ。触ってよ」
楓は僕の声に応えず静かに言った。見ると、目を涙で潤ませたままの楓が、僕の方をじっと見ていた。楓の顔は、青白いテレビの光に照らされて、その白い肌は、少しだけ影の落ちた灰色に見えた。
僕は楓に向き直り、僕の方にすっと伸びた腕の袖を捲る。昨日僕が付けた傷には、絆創膏が貼って有り、その傷がまだ瘡蓋になっていない事が伺える。僕は、絆創膏の上から傷をなぞる。
「見てて……」
そう言うと楓は、どこから持ち出したのか、折りたたみ式の剃刀をすっと自分の手首に走らせた。僕は、目を逸らせなかった。逸らせる事が出来なかった。
一拍置いて、剃刀の走った線から赤い血が溢れて来る。楓の血は、手首を掴んでいる僕の手を伝い、フローリングに滴った。灰色の世界に急に溢れ出した鋭い赤色は、僕の視界を埋めていき、やがて意識の中にも流れ込んで来る。先程見た、映画の少女が楓とリンクして、楓が何処かに行ってしまいそうな気持ちになり、僕はまた泣いてしまった。
「何で泣いてるの?」
「ごめん。分からないけど、楓が何処かに行ってしまいそうな気がして」
楓は少し笑った。
「何処にも行かないよ、だからユズキも何処にも行ったらだめだよ」
僕は涙を拭うと、自分のシャツの袖も捲って、楓の前に差し出した。
「——楓だけが傷付くのは、僕には我慢出来ないよ。だから僕の事も傷付けて欲しい」
「嫌だよそんなの。怖いよ……」
「僕は大丈夫だから。寧ろ楓に傷付けて欲しい」
楓の震える手を、僕は自分の手首に導き、剃刀の刃を充てがう。嫌だと言う割には、楓は抵抗なく僕に従う。そして楓は少しだけ躊躇うと、静かに剃刀の刃を走らせた。
鋭い痛みが僕の中を貫き、僕は反射で身体を仰け反らせた。
「ごめん! 痛かった?」
誰よりもその痛みを知っているはずの楓が、僕に優しい声を掛けてくれる。鋭い痛みは、優しい痛みに変わり、手首から溢れる赤い色を見ながら、僕は何故か落ち着いていた。
「楓……僕は楓の事が好きなんだ。楓が僕の事をどう思っていても、それは関係無い。僕は楓の事が好きだ。だから痛く無いよ。寧ろ楓と同じになれて嬉しいんだ」
僕の腕から流れる血は、楓の流した血と合わさり、フローリングの上に小さな血溜まりを作っていた。
「ごめんね……ユズキ。私、分からないよ。私もユズキの事が好きだけど、ユズキの言う好きと、私の好きが同じかどうか分からないよ」
そう言うと楓は、俯き泣き始めた。
楓の流した涙と僕達の流した血が、フローリングの上で混じり合って赤いマーブル模様を作っていた。それを見て僕は、単純に綺麗だと思った。
それからお互いの傷の手当をすると、僕達は手を繋ぎ、同じベッドの上で眠った。
僕の部屋のベッドは、二人で眠るには少し狭かったから、出来るだけくっついて眠った。楓の身体は細くて、抱きしめると折れてしまいそうで、それだけが僕には怖かった。
次の日僕は、楓に部屋の鍵を預け、職場に向かった。少しずつ冷たくなる朝の空気に、静かに訪れる冬の気配を僕は感じ取っていた。
仕事は素晴らしく順調だった。尊敬出来る社長。明るく愉快な同僚達。仕事にやり甲斐も見出していた。以前の僕なら、こんな考え方はまず出来なかったに違いない。前と変わった事。それはやはり楓の存在が大きいのだろう。僕は楓に出逢えて本当に良かった。
僕と楓は、毎日のように会った。お互いの部屋を行ったり来たり、夜ご飯はだいたい楓が作ったのだけれど、たまに僕が作る事も有った。
楓の作る料理は、普通に美味しかった。キッチンには何冊かの料理本が有り、それで勉強したのだと言う。でもやっぱり僕達は、鍋を食べる事が多かった。鍋をつつきながらテレビを見たり、映画を見たり。僕達は一般的によくいるカップルの様に、ごく普通の生活を送っていた。少しだけ普通と違うとしたら、それは僕と楓の関係性だろうか。僕は楓に対して、男で有るなら抱くであろうはずの欲望を、何故か感じなかったし、楓も僕に対して、それに対する警戒を見せた事も無かった。
僕は楓の過去の闇の事を思い、これ以上楓の事を傷付けてはいけないと、無意識の内に自分を押し殺していたのかも知れない。でも、僕に不満は無かった。何故不満でなかったのか。それは多分、僕達が普通のカップルよりも深い部分で繋がっていたからなのだと僕は思う。僕達の繋がりとは何か。それはやはり、お互いを傷付け合うと言う事だろう。これは比喩などでは無く、文字通り、僕達は本当にお互いを傷付け合った。
楓は、自分と僕を剃刀で傷付け、僕は、そうして出来た傷が瘡蓋になると、それを剥がした。僕達は、それがお互いの愛を確かめ合う作業なのだと信じて疑わなかった。
「おはようございます!」
「おはよう! 今日も元気だね! ……ところで佐伯君。その怪我、なかなか治らないね」
僕の手首を見ながら社長は言う。僕は自分の手首を見て、袖の裾から包帯が少し覗いている事に気が付いた。
「あ、これですか? これは、まあお守りみたいなものと言うか、怪我ではないんです」
咄嗟に口から出た嘘だった。
「ん? 好きな娘にでも手を握られたとかそう言ったものかね? 若いのに君は古風だね。でもまあ冗談はさて置いて、最近の君は顔色が悪いから、一度病院にでも行ってみてはどうかね? 社会人たるもの、自分の健康管理も出来ないようではいかんぞ」
そう言うと社長は、笑いながら朝礼に向かった。
病院か。そう言えば、お互いを傷付けた後の処置は、全て楓が行っていた。初めて楓の行う傷の処置を見た時、あまりの手際の良さに、まるで看護婦のようだと言った事を僕は思い出す。それを聞いた楓は、私こう見えても医者の子供だよと、自分自身を皮肉った。その時、これも楓の持つ闇の代償なのだと気が付いた。自分の迂闊さに辟易する。それに、社長に言われて初めて気が付いたが、顔色の悪さは、失血に因る貧血が原因かも知れない。楓も最近は、どこかいつも疲れている様な印象を受ける。もし何かの感染症にでも罹っていたら。
仕事を終え、帰る支度をしていた時だった。社長が、「病院に行くんだよ」と、また声を掛けてくれた。本当に僕の事を心配してくれている事が嬉しかった反面、社長に嘘を吐いた事が、重く僕の心に伸し掛かって来る。今度楓に聞いてみよう。病院に行かないかと。
「嫌よ! 私、病院なんて絶対に行かない」
僕の、病院へ行かないかと言う言葉に対する楓の反応は、取り付く島も無い程だった。
「楓。そうは言っても、どう見ても体調悪そうじゃないか。一度診てもらうだけでも……」
「ユズキは何も分かってない! 私がどんな思いで、昔の事を話したか。もういい!」
楓はそう言うと、ご飯を食べる手を止め黙り込んでしまった。楓の部屋に、テレビの音だけが、僕達の事を嘲笑うかのように騒がしく鳴り響く。
どうしてこんな事になってしまったのか。ほんの数分前までは、楽しい食卓を囲んでいたはずなのに。
普通人は、体調が悪ければ病院に行くし、怪我をすればやはり病院へ行く。でもその普通が楓にとっては、暗い過去の記憶を思い出させる負のスイッチを押す事に繋がる。楓に暗い闇の傷を背負わせた男を、僕は激しく憎むが、どうする事も出来ない自分自身も等しく憎んだ。僕は無力だ。
「今日は取り敢えず帰るよ。変な事言ってごめん」
そう言うと僕は、自分の分の食器を殊更ゆっくりと片付ける。わざともた付く事で、楓が僕の事を引き止めてくれないかと、どこかで期待している自分がいる。しかし、結局僕が部屋を出て行くまで、楓が口を開く事は無かった。
僕は家に帰ると、楓に謝りのメールを送ったが、結局その日はメールが帰って来る事は無かった。眠るまでの数時間、僕は考えていた。楓が病院に行けないのであれば僕が楓の分まで病院に行こう。幸いにも僕達の傷や症状は、ほぼ同じなはずだ。
翌日僕は、会社に病院に行くから遅れると言う旨を伝え、家の近所に有る個人病院を訪れた。
「君、これどうやって付いた傷?」
僕の傷を見るなり、神経質そうな眼鏡を掛けた医者は言った。
「いや、ちょっと料理をしていて……」
僕は、自分の傷に対しての言い訳を全く考えていなかった。この傷は、普通の傷とは違う。何故そんな事に気が付かなかったのか。
「……料理ね」
医者は全く信じていないような口振りで呟くと、黙々と治療を施していく。僕は以前、楓が治療する手際の良さに驚いていたが、プロのそれは、やはり素人の付け焼刃的なものとは違って、全く無駄のない処置だった。
料理で付いた傷。この傷を見て誰が信じるだろうか。明らかに包丁では付くはずのない場所に、幾つも走った傷の痕。素人目にも、これは料理で付いた傷で無い事は分かる。ましてや今傷を診ているのは、怪我や傷を扱うプロの医者なのだ。直ぐにでも傷の由来を理解しただろう。
「はい、終わったよ。少し化膿していたから、抗生物質を三日分出しておこう。次は三日後に来るように。くれぐれも料理には気を付けるんだよ」
意味深な台詞を最後に付け加えると、医者はカルテに何かを書き込み始めた。僕は、包帯の巻かれた手首を見て考える。
「あっ、あの。出張で一ヶ月程家には帰らないんです。出来たら、その間の分の薬も頂けませんか?」
眼鏡の奥から覗く目に、一瞬険しさが籠った気がした。一ヶ月は長過ぎただろうか。自分で吐いた嘘に、足元を掬われれたような気がして、額から嫌な汗が滲むのを感じる。
「一週間分だね。その程度の傷ならそのくらいで充分だろう」
一週間。足りるだろうか。二人で使うとしたら三日分だ。面倒だが、三日経ったらまた別の病院に行くしかない。僕は医者に、了承と感謝の旨を伝えた。
「それでは処方箋を書いておくから、受付で待つように。後、包帯は毎日取り替えて清潔にしていないとだめだ。でないと、また化膿してしまうからね」
僕は再度医者に礼を言うと、受付で処方箋を貰い、向かいの薬局で薬を貰った。病院を出たところで、携帯電話の電源を入れると、楓からのメール着信が有った。
『昨日はごめんね。言い過ぎたね。ユズキは私の事心配してくれてるのにね。今日は仕事終わったら、ユズキの家で鍋にしよう! 先に準備して待ってるね♪』
楓からのメールは嬉しいはずなのに、僕は何故か手放しでは喜べなかった。
「お帰り。お仕事お疲れ様」
部屋に入るなり楓が声を掛けて来る。部屋に充満する匂いから、今日の鍋はチゲ鍋だと言う事が分かる。辛い物が苦手な楓が選ぶにしては珍しい選択だった。
「ただいま。珍しいね。楓辛いの苦手じゃなかった?」
「ユズキ、前に食べたいって言ってたから」
僕は、通勤用のスーツから家着に着替える。が、何か違和感を感じる。何だろう、自分の部屋なのに自分の物では無いようかこの感覚は。
僕は違和感の正体を確かめようと、部屋の中を見回す。二回程くるりと見回したところで、部屋の隅に目立たない様に置かれてある、二つのボストンバッグが有る事に気が付いた。
楓の物? 泊りの用意にしては、やけに大袈裟だ。まるで家出の荷物のような。
「楓、あの荷物どうした……」
「仕事辞めたの」
僕の言葉を遮るように楓は言った。
仕事を辞めた? 何故? 楓からの突然の告白に、僕の頭の中に湧き上がる疑問が、何故か口に出来ない。
「え? え? それって?」
「取り敢えずご飯食べながら話そうよ」
狼狽える僕を遮ると、楓はそう言った。そして、鍋の用意を黙々と始める楓の横顔を、僕はただ見ていた。
重い空気の中、僕達は鍋を囲んでいた。ぐつぐつと煮立つ鍋の中では、美味しそうな具材が踊っているが、正直何を口に入れても全く味がしなかった。
「——あのね、今日ね、私……人を傷付けてしまったの」
「えっ?」
楓の言葉に、僕は間抜けな声を上げる。
「ユズキ覚えてるかな? 前に言ったマネージャーの事」
マネージャー。それは楓と二人で歩いていたあの男の事か。僕は黙って頷いた。
「ユズキに言ってなかったんだけど、前々からあのマネージャー……変態でいいや。あの変態ね、私によくちょっかいかけて来るって言うか、セクハラ的な事されてたのね」
「セクハラって!」
セクハラと言う言葉に、思わず僕は大きな声を上げてしまう。
「あっ、セクハラって言っても、たまに変な事言われるって程度だったんだけど。でも今日、仕事が終わって、帰る用意してた時に、あの変態から呼び出しが有ったの。まだ部屋が片付いてないって、仕事をちゃんとしろって。私は帰るのをやめて、呼び出された部屋に行ったの。そしたら、部屋は何とも無くて、部屋の真ん中にあの変態が立ってた」
その後の展開なんて聞かなくても分かる。でも、僕は口を挟めなかった。ただ、鍋のせいなのかどうか分からないが、汗が止まらなかった。
「私、あの変態に言ったわ。片付け終わってるじゃないですかって。そしたらあの変態私に近づいて来て、お前この仕事辞めたら住む所無くなるだろ? って言ったの。それ以外にも色々言われたけど、言いたく無い」
楓の声が小さく震え始める。楓の持つ箸は、怒りの為なのか悲しみの為なのか分からないが、小刻みに震えていた。
「それで私は何にも言えなかったの。実際あの変態が言った事は当たってたし、何より怖くて声が出なかったってのも有るし。それで結局あの変態は私の事を襲おうとしたの。私が何にも言わないから、大丈夫だって思ったのね。私、必死で抵抗した。それで、ポケットに入ってた剃刀で、変態の事切りつけたの。その後ホテルから飛び出して、気が付いたら自分の部屋にいて、どうしたらいいかわかんないし、取り敢えず荷物まとめて部屋を出たけど……どうしようユズキ……私捕まっちゃうのかな」
僕は楓の話を聞いた後、怒りで何も言えなかった。どうして楓ばかりがこんな目に遭うのか。楓がどんな悪い事をしたと言うのか。誰か答えられる者がいるのなら教えて欲しい。僕の拳は怒りで震えていたが、持って行き場のない怒りは、ぶつける対象を見出せず、仕方無く僕は、自分自身の太腿を力一杯叩き付けた。
目の前で涙を流し悲しむ楓に対して、僕が出来たのは、自分の身体を差し出す事と、それだけだった。
「痛い?」
「——痛くないよ。楓こそ痛くない?」
「大丈夫……」
「あっ……」
「どうしたの?」
「ううん、何でもない……」
「私達変なのかな?」
「変かどうかなんて誰が決めるの?」
「私……」
「じゃあ僕は?」
「変……嘘……好き……」
「何だよそれ……僕も好きだけれど……」
「ユズキ。私眠い……」
「だめだよ、ちゃんと手当しないと」
「いいよ、明日で」
「……いいか、明日で」
「……」
「——楓は多分捕まらないよ」
「どうして?」
僕の言葉に、傷の手当をする楓の手が止まる。
「まず、変態マネージャーは傷の理由を警察に言えない。それに、例え警察が来たとして、ホテルのオーナーはどんな顔をするかな? 楓の働いてたところはブラックな会社なんだろ? 痛くも無い腹を探られるくらいなら、その変態マネージャーを辞めさせるんじゃない? 分からないけど」
思い出したように傷の手当を再開すると、楓は言った。
「そっか、そうだよね。私悪くないもんね……でも、やっぱりあそこには、もう戻れないよ。ユズキ……私ここにいちゃダメかな?」
くすぐったい感情が僕の背中を伝う。
「いいに決まってるよ。て言うか嬉しいくらいだし」
「ありがと」
楓は小さな声で言った。
「あっ、そうだこれ飲んで。——傷の薬。昨日病院に行ったんだ。楓が行けないなら、僕が病院に行くよ。同じような傷だし、多分大丈夫だよ。……楓?」
「……りがと。ユズキは優しいね。ありがと、ありが……」
楓は肩を震わせながら泣いていた。言葉の最後は、小さくて聞こえ無かったけど、言いたい事は分かった。楓の事は僕が守る。
「佐伯君、顔色悪いよ? 大丈夫?」
社長は僕の顔を見るなり言った。僕もそれに即座に応える。
「ええ、大丈夫ですよ。病院にもちゃんと通ってますし、傷もこの通り治ってますし」
僕は袖を捲り、手首とは反対側の腕の外側に付いた傷を見せる。社長が息を呑むのが分かった。
細く長く付いたケロイド状の傷痕は、一目で普通の生活で付く様な代物では無いと分かるが、僕は社長が口を開く前に、前から考えていた言い訳を言った。
「彼女がちょっとヒステリーで、喧嘩した時にやられまして……」
僕は、わざとらしく頭を掻き、照れ笑いを見せた。
「でも、その手首は……」
「大丈夫です! 彼女も病院で治療を受けています。今までご心配をおかけしてすみませんでした! これからも粉骨砕身仕事に励みますので宜しくお願い致します!」
僕は社長を遮り、少し大き目の声で付け足した。
「……まあ君がそう言うのなら大丈夫なのだろう。仕事も差し障り無く出来ているしね。でも、あまり気を張らないようにね」
若干引きつり気味の笑顔で、社長は社長室に消えていった。楓を守ると決めてからは、嘘を吐く事に全く抵抗を感じなくなった。僕は間違っているのだろうか。
「ただいま」
楓は、お帰りなさいと言いながら僕を迎えると、そのままリビングのソファーに横になる。
「どうしたの? 元気無いね。体調悪いの?」
「うん。何かね、怠いかな。——食欲も無いし。最近急に寒くなったから風邪かな?」
風邪なら良いがもし違う病気なら。——喉元まで出かかった病院と言う言葉を、僕は飲み込んだ。
「それじゃ今日は、僕がお粥を作るよ」
釜の蓋を開け米の残量を確認する。釜の中の米は、昨日の夜から減っていなかった。
「楓。昼ご飯食べた?」
「ごめん、食欲無くて……」
僕は小さく溜息を吐き、釜の中に有る二合程の米を、全て鍋に放り込んだ。乾いて少し硬くなりかけた米の様子を見ながら、ミネラルウォーターを適量入れる。それから軽くかき混ぜ、団子状に固まった米が無くなった事を確認すると、鍋を弱火に掛けた。そして、鍋が温まるまでの時間を見計らい、冷蔵庫から卵を取り出し軽くかき混ぜる。この時かき混ぜ過ぎないように気を付ける。僕は、粥の中に浮かぶ筋雲のような白身が好きだ。
鍋の中身を、菜箸でかき混ぜながら考える。こうして普段と変わりない日常を再現すると、今ある状況が嘘のように思えてくる。僕と楓はこれからどうなっていくのだろうか。
鍋の中身が軽くとろみを帯びて来た頃、調味料台から粉末の出汁を取り出し、それを適量入れた後、またかき混ぜる。そして塩で味を整え、先程かき混ぜた卵をゆっくりと流し込む。白い粥の中に、白と黄色のまだら模様が出来上がる。
僕はもしかしたら、この粥の中に浮かんだ、卵のような存在なのかも知れない。白いままでいたかった楓と、そこに混じろうとして混ざりきれなかった僕は、楓の周りで斑に固まった煩わしい異物なのではないか。
「美味しいよユズキ。ありがとう」
でも食べると美味い。僕はここにいていいんだ。
夕食を食べ一段落すると、僕の中の何かが疼き出し、無意識の内に楓の傷を求め、服の中に手を入れる。そしてそれに対して、楓も抵抗せず僕の傷をなぞる。
そこには、一つの本能が満たされると、次の本能を満たそうとする、獣のような僕がいた。僕にとって、楓の傷を求める事はすでに何物にも変え難い本能となっていた。数時間、いや数分前まで、楓の身体を労り心配していた僕が、その楓の身体を今度は傷付けようとしている。その相反する二つの思考は、僕の中に背徳的な快感を芽生えさせた。楓もまた、僕と自己の身体から流れる血を求めている。誰にも理解される事の無い二人だけの秘事は、何も生み出さない。それは分かっている。分かっている。分かっている。のか? 分かってはいても、お互いの事を求めずにはいられない僕達は、やはり異常なのか。楓の瘡蓋を剥がし傷付けながら、いつまでもこのままでいたい、楓を失いたくないと思っている僕と、痛い? ごめんね。と言いながら僕の身体を傷付ける楓。
楓の付ける傷は、いつしか手首だけでは無く、身体のあらゆる場所に及んだ。さすがに目立ちやすい部分は避けたが、背中や腹部など、おおよそ衣類で隠せるような箇所には、傷の無い所は無かった。死すら有り得るかも知れない状況の中で、僕達は傷付け合う事を止める事が出来なかった。どちらかが死んでしまえば、今のこの生活は簡単に崩壊してしまう。そんな矛盾に気付きながらも、もう元には戻れない僕達が、そこにはいた。
あれは何だ? 職場に着くと、会社の工場の前にうず高く積まれた資材が有り、その周りを従業員達が取り囲んで何やら話していた。
「おはようございます」
皆に挨拶をした瞬間、その場にいた者達は話を止め、僕の方を見ると、ぎこちなく挨拶を寄越して来る。そして、溜息を吐き離れて行く者、明らかに嫌悪感の籠った目で僕に視線を送って来る者、よそよそしく離れて行く者と様々だったが、その原因が僕に有る事は、推察に難く無かった。今朝、胃の中に入れた物がせり上がって来るような吐き気と、きりきりとした胃の痛みが僕を襲う。
「佐伯君。ちょっと」
背後から自分の名を呼ばれ、慌てて振り返ると、そこには社長がいて、顔付きはお世辞にも穏やかとは言えないものだった。
社長に続き社長室に入ると、促されるままに僕はソファーに座った。応接室を兼ねた社長室のソファーは、僕の身体を包み込む様に沈み込んだが、当然お茶は出ない。
「佐伯君これ分かるかね?」
社長がテーブル越しに一枚の伝票を差し出してくる。発注伝票と書かれたそれを見ると、そこには一ヶ月前の日付と僕のサインが有った。そして、発注内容は——。
僕はそれを見て愕然とした。
有り得ない。桁が一つ違う。資材ナンバーを見ると、それはあの積み上げられていた資材の番号だった。
僕は全てを理解した。いや理解を拒んでいたものを認めただけに過ぎない。本当は、あの高く積まれた資材を見た瞬間から分かっていたんだ。
「佐伯君。これはね、大変な事だ。うちの会社は小さい会社だ、とてもじゃないが……」
その先の事は覚えていない。気が付くと僕は、会社を出て家への道を歩いていた。喉の奥から吐き気が込み上げ、駅のトイレで何度も吐いた。胃の中が空になり、唾液と胃液しか出なくなっても吐き続けた。駅員に大丈夫かと訊かれても、何も答えられなかった。大丈夫な物など何も無い。有るのは職を失った事実と、馬鹿な自分への後悔の念だけだった。
いつの間にか僕はアパートの下に着いていた。楓に何て言おう、明日からどうしよう、そんな事を考えていると、足は、一向に部屋へと向かわなかった。
うろうろしている僕を見て、近所の住人はストーカーか何かと勘違いしたかも知れない。そして何度目かにアパートの前を通った時だった。集合ポストに有る自分のポストから、封筒らしき物が覗いている事に、僕は気が付いた。それを取り出し確認すると、差出人は母からだった。
『徹へ、元気でやっていますか?
貴方から手紙を貰った時、すぐにでも返事を書こうと思ったのだけれど、嬉しくて嬉しくて何を書けばいいのかと迷っている内に、こんなに日にちが空いてしまいました。何はともあれ仕事決まったんだね。おめでとう!』
そこまで読んで、僕の視界は涙で歪んだ。母さん……。本当に、本当に遅いよ。
『仕事は順調ですか? そう言えば、お父さんがちょっと拗ねていましたよ。自分の事が書いて無いって。次もし手紙書く事が有ったら、お父さんの事も書いてあげて下さいね。そう言えば、仲良くしている女の子がいるんですってね。また今度紹介して下さいね。あまり言うと野暮になるから言わないけれど、あの引っ込み思案の徹がねえと、思わないでも無いですけども。また年末には帰っていらっしゃいね。それでは元気で。母より』
手紙を読み終わると、僕はスーツの内ポケットにねじ込んだ。どのくらいそこで立ち尽くしていただろうか。僕を呼ぶ声で我に返ると、そこには買い物袋を提げた楓が立っていた。
「ユズキどうしたの? 仕事は?」
「ああ、ちょっと今日は体調が悪くて早退したんだ」
咄嗟に口から出た嘘は、僕の顔色の悪さが裏付けとなり、皮肉にも楓にばれる事は無かった。僕が楓を守らなければ、誰が楓の事を守ると言うのか。なるべく早く次の仕事を見つけなければならない。
次の日僕は、いつも通りに家を出て、通常働いていた時間に仕事を探し、いつもと同じ時間に家に帰った。お帰りと言って迎えてくれる楓の声が、嬉しいはずなのにプレッシャーに感じてしまう。早く、早く仕事を見付けなければ。
次の日も次の日もその次の日も、仕事は見つからなかった。日が経つに連れて焦りが増して来る。思うように行かない苛立ちが、言葉や行動の端々から出ていたのだろう。僕の偽りの生活は、楓の一言で唐突に終わった。
「いい加減にしてよ! 何が気に入らないのか知らないけど、言いたい事が有るなら言ってよ!」
「か、楓……」
「毎日イライラ、イライラ、私に出て行って欲しかったら言ってよ!」
「楓。違うよ、違う。僕が悪いんだ。出て行くなんて言わないでくれよ、僕が悪いんだ。僕が。——仕事、辞めさせられたんだ」
出て行かれても仕方が無い、そう思った。こんな不甲斐ない男に誰が付いて来ると言うのか。今すぐにでは無くとも、楓は出て行くだろう。そう覚悟した。しかし楓の次の言葉は、僕の予想とは全く違ったものだった。
「なんだ、そんな事か。それならそうと早く言ってくれれば良かったのに」
「なんだってなんだよ! 仕事が無いんだぞ! この部屋の家賃だって……」
「仕事なんてまた探せばいいし、それに失業保険だって有るじゃん」
「失業保険なんか無いよ! まだ会社に入って半年も経っていないんだ、それにそんな都合良く仕事なんて無いに決まってる、僕の蓄えじゃ保って二ヶ月だ! お金が無いんだよ、お金が……」
こんな事を楓に言ったところで何も変わらない。そんな事は分かっていた。それでも僕は、言わずにはいられなかった。
楓は、何も言わずにボストンバッグを持つと、僕の前に来る。終わりだ。楓は出て行く。僕は、どうしたらいい。楓の口が開く。出て行くのならば、何も言わずに出て行って欲しい。これ以上僕の心を抉り取らないでくれ。
「有るよ。お金」
「え?」
「だから有るってお金」
楓は何を言っているのか、さっきの話を聞いていたのか? まさか僕の給料からへそくりを作って? いや無理だ。僕の薄給ではへそくりが出来ても精々数万円が限界だ。楓は僕の考えをよそにボストンバックを開き、中から四角いクッキーの缶を取り出す。まさか本当にへそくりなのか?
「ちょっと使っちゃったから減ってるけど、一千万円くらいは有ると思う」
「へっ?」
間抜けな声を上げ、口を開けている僕の前で、楓はクッキーの缶の蓋を開けた。仄かに甘いバニラエッセンスの香りが、缶の周りに漂う。そして中にはクッキーでは無く、白い帯の付いた札束が九束と、少し緩んだ帯の一束が隙間無く入っていた。
「乙女の純情を踏み躙ったにしちゃあ安いものよね」
楓は汚い物でも見る様な目で、札束を見ながら言った。
「なんとか言ってよね、こんな自虐ネタ、言うの辛いんだから」