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瘡蓋(かさぶた)  作者: かつを
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居場所

(一部と二部が別れてしまって分かりにくかったので一本にまとめたのと、改行を加え読みやすくしました)

  瘡蓋(かさぶた)



 第一部:罪


 一章:居場所


 薄くピンク色に染まった水が、排水口の暗い穴の中に渦を巻いて吸い込まれていく。


 僕はその渦の中心にそっと指を刺し入れる。異物を刺し込まれた排水口は、非難がましく耳障りな音を立てた。そしてその音に併せて指先に感じるくすぐったい感覚に、僕の肌は粟立つ。


 僕はそれに微かな快感を感じたが、穴の向こう側に繋がる、暗く滑った世界を想像して慌てて指を引き抜いた。


 相変わらず水道の水を呑み込んでいる暗い穴の中から、何かがこちらを伺っているような気がして、僕は蛇口を捻ると急いで洗面所から離れた。そして、ドアノブに掛けて有るハンドタオルで濡れた手を拭った。


 安物の白いタオルには、毎朝新聞と書かれた文字が青く印刷されていて、その文字を横切るように、薄っすらと僕の血が滲む。それを見て、いかにも人の良さそうな中年の男の笑顔が頭に浮かび、僕は顔をしかめた。


 ある日突然僕のアパートに現れたその男は、玄関先でひたすらに喋り続け、あっけに取られていた僕に、一ヶ月だけでいいからと半ば強引に申し込み書類に判を押させた。そして、月初めからでいいと言ったにも関わらず、新聞は律儀にも次の日から郵便受けに投函された。始めのうちこそ律儀なものだと感心していたが、すぐにその考えは打ち消される事になる。何故なら、初めての集金で新たに現れた集金人から、きょうび一ヶ月から取れる新聞など無いと言われからだ。


 僕は、あの人の良さそうな男に騙された。そう集金人に訴えたが、営業と自分は関係無いからと言って、全く取り合ってもらえなかった。それどころか、銀行から料金が自動的に引き落とされる書類にまで、判を取られる事となった。


 その詐欺のような手口に僕は激しく憤った。しかしそんな僕に出来た事は、匿名の掲示板で中傷コメントを残す事だけだった。それから二年が経ったが、未だに新聞は投函され続けている。


 過去の記憶に感化されたのか、腕の傷が疼き始める。傷口を見ると、そこにはもう新たな血が滲み出ていて、赤く腫れた傷口を覆い隠そうとしていた。


 苛立った僕は、シャツの袖に腕を乱暴に通すと、バイトの準備をしてアパートの部屋を後にする。勢いよく閉まった扉は辺りに大きな音を立て、たまたまそこを通りかかった猫が、慌てて逃げて行った。僕はその猫を見て、あまりの滑稽さに一人ほくそ笑んだ。



「おはようございます」


 タイムカードを打刻機に押しこみながら控え目に挨拶をするが、僕を振り返る人間はいない。ここに僕の居場所は有るのだろうか。


 大学を卒業してからの三年間。僕は高田馬場に有る、大手チェーンのスーパーで働いている。一応は就職活動もしてみたものの、特にやりたいと思える仕事も無い上に、リーマンショックの煽りを受け、何処もかしこも新卒を敬遠し、僕の居場所は社会のどこを探しても存在しなかった。……いや、存在しなかったはずだ。少なくとも僕には。


 しかし周りを見渡せば、そんな不況下に於いても、しっかりと計画を立て、見事に就職を勝ち得ていた学友もいた。郷里の母はそんな僕に対して、「貴方は仕事を選び過ぎるのよ」と言った。厳格な父は、「甘えるな。仕送りはもう出さん」と言った。分かっている。僕は辛い現実から逃げ出しただけだ。社会は道を閉ざしてはいない。やる気の有る者、能力の有る者を求めているだけだ。僕にはそのどちらも無かった。ただそれだけの事だ。その事に目を瞑り、こじつけのような責任を社会になすり付け、何も考えずに毎日をただ過ごして来た。


 生温く代わり映えのしない精彩を欠いた生活は、僕の景色から色を奪い、思考を緩やかに停止させていった。だからその日も、いつもと同じように難なく仕事をこなし、と言っても、レジに来る客の商品をスキャンして、お金を貰うだけの簡単な仕事だけれども。——そして家に帰る。いつもと何ら変わりない毎日になるはずだった。でもそれは、同じバイトの高林が、バイト終わりのロッカールームで僕に声を掛けて来た事により激変する事となった。


「お前さあ、今日この後時間有る?」


 僕は着替えの手を止め、高林の方を向いた。お前という言葉に若干の違和感を感じるが、そんな事を気にする程僕は子供では無い。ただ、高林は僕より二つ年下なのだが。


「特に用事は無いけど何か用?」


 高林は、気怠そうに携帯電話を弄びながら言った。


「今日さコンパやんだけど、ちょっと一人来れなくなっちゃって、良かったらお前来れないかなって訊いてみたんだ。無理ならいいんだけどさ」


 高林の向こうからひそひそと、「やっぱり駄目だって」だとか、「あいつは無理だって」と声が聞こえる。恐らく今日コンパに参加する他のバイト仲間なのだろう。


 僕にだってコンパくらい経験有るし、女の子と話す事くらい出来る。心の中で他のバイト達に僕は反発した。


「分かったよ。行くよ。特に用事も無いしね」


 その瞬間高林の向こうから、「マジかよ」と言う落胆とも取れる声が聞こえて来たが、僕は気にしない。というより、自分にだって場を盛り上げる事くらいは出来る。僕の中に見ていろという思いが沸き起こった。




 明るく極彩色に彩られたネオン街を、僕は独り当ても無く歩いていた。


 いつから僕は、こんなにも駄目になってしまったのだろう。話題を振っても振られても、まるで場は盛り上がらず、いつしか僕は場の中で孤立してしまっていた。いたたまれずトイレに立ち戻って来た所で、僕のいた席から聞こえて来た言葉。


「あの人何なの? 何であんな話ばっかりなの? てか、ちょっとキモいんですけど。あんな人呼ばないでよね」


 僕がキモい? 場は僕の悪口で盛り上がっていく。これでは戻るに戻れないではないか。それに、さっきからちらちらと見える皆の顔は、僕が席にいた時よりも遥かに楽しそうに見える。


 人は他人を傷つける時、あんなにも楽しそうな顔をするのだな。不意に場違いな考えが頭をよぎる。何故か唇がふるふると痙攣し、鼻の奥にツンとした鋭い痛みを感じる。


 僕の居場所……、ここには無いな。


 急に目頭が熱くなり、湧き上がる感情を堪える為に僕は天井を見つめた。僕の脇を、怪訝そうな表情の客や店員が通り抜けて行く。


 ——どれくらいそこにいただろうか。場の空気が落ち着くのを見計らい席に戻ると、僕は財布から一万円札を取り出し、机の上に置いた。


「ごめん。急用が出来たんだ」


 誰かが口を開く前にと、僕は皆の顔を見る事も無くその場を後にした。




 僕はキモいのか? 街の路面店の、ショーウィンドウに映る自分の姿を見て思う。 背は低くもなく高くもない。太ってもいないし痩せてもいない。顔は……顔はどうなんだろう。正直分からない。でも、気持ち悪いと言われる程悪くはないと思う。


「……すみません」


 誰かに肩を叩かれ、僕は我に返った。


「すみません。今少し時間有りますか?」


 僕の目の前には、モデルのような女の人が立っていて、手には何か葉書のような紙を持っていた。僕は慌てて女の人に向き直る。


「何か?」


 声が裏返ってしまった。


「あの、時間が有ればで良いのですけれど、アンケートに答えて欲しいのですが今お時間有りますか?」


 彼女は、持っていた葉書のような紙を見せながら、僕の顔を伺う。真正面から整った顔が覗き込み、僕は途端に顔が熱くなるのを感じる。そして少し上ずった声で、思わず頷き返事をしてしまった。




 僕の何がいけなかったのだろうか。自分の部屋で今日という一日を振り返ってみる。


 いつもと同じように何も変わらない朝を迎え、いつもと同じようにバイトに向かい、いつもと同じように家に帰って寝むる。本当ならそうなるはずだった。だけれど実際には高林にコンパに誘われ、そのコンパに行ったのは良い物の、その場の空気に耐え切れずその場から逃げ出した。そして美女に声を掛けられ舞い上がり、結果何故か今、僕の隣には美しい微笑みを湛えた女の人がいる。ただその女の人は、高いのか安いのか分からない額縁に入っていて、その笑みを絶やす事は無いのだけれど。──三十万円の笑顔。


 とにかく僕は、今日有った事を全て忘れてしまいたかった。微笑む女の人の絵から目を引き剥がすと、パソコンの電源を入れる。そして、ブックマークからいつものネットゲームのサイトに飛んだ。スピーカーから流れて来る軽妙なリズムの音楽に、僕のささくれ立った心は一瞬にして解きほぐされる。そして、幻想的に彩られた仮想空間の中に、僕は身を投じた。


 何故今日の女の子達は、このゲームの世界の素晴らしさが分からないのだろうか。キャラクターを巧みに操りながら、僕は漠然と思った。不意に女の子達の冷たく刺さる視線を思い出し、それを打ち消すように僕は頭を掻き毟り、ゲームの世界に没頭する。


 この世界での僕は、少しは名の知れた大魔導士ユズキ。


「何だあんな奴等……。構う事は無い。今日のクエストに間に合っただけでも僕の判断は正しかったはずだ」


 独り言を呟きながらその日のクエストを終えると、仲間からの参戦依頼を適当にこなしていく。交わされる挨拶や御礼。


「僕の居場所はやっぱりここなのかな」


 一仕事終えた僕は、チャットルームで仲間達と今日の祝勝会を開く。と言っても、皆勝手に思った事を言い合うだけの雑談会なのだけれど。でもこの世界の中でなら、僕は誰とでも話せるし話題の中心にもなれる。


「そんなの現実の世界で何の役にも立たないじゃん」


 今日のコンパで、隣に座っていた美樹と名乗った娘の放った言葉が、思考を遮り急に割り込んで来る。


「そんな事無いよ。ゲーム内のアイテムは、ネットで売る事も出来るし、電子マネーにだって替える事が出来る。それに……、そうだ! 美樹ちゃんもやってみたら……」


 誰も僕の話など聞いてはいなかった。胃の辺りに不快な感情が質量を持って重く垂れ込める。


 僕は頭を強く振り、コンパの事を頭の片隅に追いやると、ゲームの画面に集中する。奴らは何も分かっちゃあいない。


「そうだあの子、今日は来ていないかな?」


 僕は努めて明るい声で言うと、キーボードを叩き仮想現実の世界を隈なく眺めていく。そこでは、皆思い思いに時間を過ごしていた。釣りをする者やモンスターを狩る者。ゲームの世界の事を深く語り合う者達。様々な人間がそこにはいた。そして彼女は、そんな皆からは少し離れた所にぽつんといて、自分の居場所を見付けられないでいた。


 この控えめなアバターは楓だ。僕はそれとなく彼女に近づいていくと、たまたまを装って話し掛けた。


『楓? 楽しんでる?』


 ワンテンポ遅れてコメントが上がる。


『あっユズキさん。……私にはちょっと難しいと言うか、うまく皆とコミュニケーション取れなくって。中々クエストもこなせないし、ちょっともう辞めようかなって思ってます』


『そうなの? なんだか残念だな』


 僕は当たり障りのないコメントを返しながら、内心どきりとした。楓が辞める?


『ユズキさんは良いですね、いっぱい仲間がいて。私は何か駄目だな。あっ、声掛けてもらって嬉しいです。有難うございます』


 楓が辞める。僕は慌てて、サイト内だけで有効なメールを直接楓に送ろうとキーボードを叩く。


『突然メールなんてごめん。辞めるって聞いて慌ててメールしました。嫌だったら無視してくれて構わないです。楓が辞めちゃったら俺寂しいな。何だったら皆に内緒で俺のアイテムあげてもいいし、もう少し続けてみなよ♪』


 文面におかしな所は無いか、押し付けがましく無いか、僕はメールの内容を十回近く読み返した。そして、何度も送信ボタンをクリックしようとするが、喉の奥がひりつき手が震え、僕はいつまで経ってもマウスのボタンを押せないでいた。


 断られたらどうしよう。無視されたらどうしよう。僕の頭の中にマイナスの思考回路が瞬時に構築され、堂々巡りの考えがループし始める。


 ——あっ。僕の意思とは関係無いところで指が動き、メールの送信ボタンを押してしまった。いや僕の意思か? 分からない。分からない分からない分からない……。


 メールを送信した事実に対して、僕の心臓は突然暴れ出す。そして先程作られたマイナスの思考回路は、当て所もない責任のなすり付け合いを始めた。やれ僕の指が悪い頭が悪い性格が悪い。——僕は、メール一つ送るのにもパニックになるのか。自己嫌悪で死んでしまいたくなる。


 どのくらい時間が経ったのか、いつの間にか、ゲームの世界に楓の姿は無く、チラホラと常連がいるだけになっていた。やがて、頭の中に有るマイナスの思考回路は落ち着きを取り戻し、相変わらず暴れ回る鼓動だけを残して、頭から消えた。


 僕は常連達と上辺だけの会話を投げ掛け合い、目の端では常に楓からのメールの受信がないかを見ていた。そして時間が経ち、幾分か冷静になった僕は、改めて現実を見つめ直す事が出来た。しかしそれは、新たな不安を胸の中に呼び起こすきっかけになっただけに過ぎない。


 メールを送った事に対する楓からのリアクションが無い事に、言い様の無い不安が胸の奥からせり上がって来る。そして僕はメールの返信を待ち、そのまま一睡もせずに悶々とした気持ちで朝を迎えた。




「おはようございます」


 相変わらず誰も僕の方を見ない。タイムカードの打刻機だけが、歓迎の声を上げる。そのまま僕は制服に着替える為に、ロッカールームへと向かう。そして着替えが終わった所で、ロッカーに備え付けてある鏡の中に、不意に高林の顔が映り込み、驚いた僕は、小さく悲鳴を上げた。


「なあお前さあ。何で昨日急に帰っちゃうんだよ。女の子達、残念がってたぞ」


 僕をいたぶるような声色で、鏡越しに高林が話し掛けてくる。そして、奥からクスクスとからかうような笑い声が聞こえた。目の端で見ると、昨日のコンパに参加していた奴等だった。


「ごめん。昨日は急用を思い出しちゃって、又今度埋め合わせするからさ」


 僕は高林を振り返る事はせず、そのまま言葉を返した。こんな言葉しか出て来ない自分が情けなくて、乱暴にロッカーを閉めるが、自分で立てたはずの大きな音に驚いてしまう。本当に情けない。


「今度なんかねえよ!」


 去り際に聞こえて来た高林の言葉は、僕の胸に深く突き刺さり、僕はその場を暫く動く事が出来なかった。——僕の居場所は何処だ。


 バイトが終わった後、僕は誰にも挨拶する事無く、逃げる様にバイト先を飛び出した。僕の居場所はここじゃ無い。僕の本当の居場所は——何処だ。


 楓に送ったメールの事を思うと、家にすら自分の居場所は有るのかと疑問に思ってしまう。だからと言って、どこかに遊びに行くという選択肢は僕の中には無い。


 これと言って行く当ての無い僕は、仕方無く家への道を、殊更ゆっくりと歩いた。途中さびれた商店街の中を通ると、世間から忘れ去られた仲間を見つけたようで嬉しくなり、細々と営業している弁当屋で唐揚げ弁当を買った。




 ようやく僕が家に着いたのは、いつもよりも二時間も遅い時間だった。僕は身に着けている服を脱ぐと、左腕に有る傷口にそっと触れる。傷口の血は当然ながら既に固まっていて、ボコボコと歪な瘡蓋を形作っていた。暫くその瘡蓋の上を指でなぞり感触を確かめた後、僕は瘡蓋の端に爪を引っ掛け、薄皮を剥がし始める。


 瘡蓋は、皮膚を引っ張りながらぺりぺりと剥がれていく。そして血の固まった歪な部分に差し掛かると、瘡蓋は急に抵抗を始め、肌の表面にちくりと痛みを感じた。僕はそれでも構わずに瘡蓋を捲り続ける。痛みは友達だ。


 やがて瘡蓋は抵抗を止め、鋭い痛みと共に腕から剥がれ落ちた。途端に僕の腕から赤い血が滲み、その傷口を覆い隠してしまう。それを見て、僕の中に言い様の無い安堵感が沸き起こった。僕の居場所はやはりここなんだ。




 唐揚げ弁当を食べた後、シャワーを浴び、パソコンを起動する。楓に送ったメールの事を考えてしまい少し迷ってしまったが、僕のもう一つの居場所はこの中に有るのだ。


「ほれほれ! 大魔導士ユズキ様の降臨ですよー!」


 部屋の中に僕の雄叫びが虚しく響き渡る。しかしすぐさま隣人から、どんどんと壁を叩かれ僕は我に返った。壁を叩き返そうかと一瞬考えたが、以前見た隣人の風貌を思い出し、止めておく事にする。柄にもない事はするものじゃないと僕は思う。


 ブックマークから、いつものネットゲームのトップページに飛びログインすると、画面の端でメールの受信を知らせるポップアップが踊っていた。メール? もしかして楓?


 僕の鼓動は途端に跳ね上がる。


 いや待て早まるな。僕の世界にそんなに簡単に幸せはやって来ない。きっとチェンメか何かだ。


 僕は震える指で、メールの受信ボックスを開く。メールの送信者、楓。


 僕の脳内で生成されたアドレナリンは、めまぐるしく身体中を巡り、更なる身体の震えを呼び起こす。


『メール有難うございます。昨日は寝てしまってて、返事出来なくてごめんなさい。今朝起きてみて、メールが届いててびっくりしました。まさかユズキさんからメールを貰えるなんて思っていなかったので……ユズキさんて誰にでもこんな事言うんですか? って勘繰っちゃいます。でも、アイテム貰うなんて悪いです。それにもうやっぱり辞めようかなって思ってたし……』


 やはり楓は辞めるのか? 辞めたらここでの遣り取りは勿論、メールの遣り取りだって出来なくなる。僕はどうしたらいい。どうしたら、……そうだ返信だ。


『誰にでもこんな事言う訳じゃ無いよ、俺は楓が寂しそうだったからさ……。そういうのほっとけなくて。ごめんね、迷惑だったかな?』


 何が寂しそうだったからだ、何がほっとけないだ、リアルの僕は、事勿れ主義でただの二十五歳のフリーターなのに。それに……。


 画面の端でメール受信のポップアップが踊る。僕は震える指で再び受信箱を開け、楓の名前を確認した。


『ユズキさんて優しいんですね。きっと現実の世界でも友達いっぱいいるんでしょうね。私はゲームの世界でも、現実の世界でも、友達少ないから、ユズキさんの事羨ましいな』


 ——友達。僕に友達なんているのだろうか。ネットの世界の仲間は友達だろうか。大学の時一緒にいた連中は、卒業してから一度も連絡を取っていない。それでも友達なのだろうか。バイトの連中。あんな奴等友達なものか。


 ふと、自分の周りの友達を想い寂しくなる。——もしかして、僕は孤独なのか?


 気が付くと、僕は思うがままにメールの文面を打っていた。そして、いつの間にか送信ボタンを押していた。


『僕にはあまり友達はいないな。ネットの世界の仲間は友達だろうか。それは分からない。もし友達だとしたら顔も知らない。でもそれって友達? 僕の周りには遊ぶ友達もいない。そう。僕は結局独りなんだよ。こんな事を言うと怒るかも知れないけど、もしかしたら楓は僕と似ていたのかな。現実の世界の僕と』


 送った後で、改めてメールを確認してみると、メールの中で俺から僕に人称が変わっている。キャラぶれてるな。何でだろうこんなメール送ったのは。きっと嫌われたね。腕の傷が思い出したかの様に痛む。でも、瘡蓋はもう無い。




 気が付くと、僕は何時の間にかパソコンの前で眠ってしまっていた。時間は朝の六時。きっと昨日の睡眠不足が祟ってしまったのだろう。パソコンを見ると、電源は入ったままだ。


 僕は、パソコンをシャットダウンさせる為にマウスを動かした。スリープ状態から目覚めるパソコンが、低い唸り声を上げ僅かな振動を開始する。ディスプレイが青白く光り始め、デスクトップには、最後に見た画面がそのままに映し出されていた。ただ一つ違ったのは、メールの受信を知らせるポップアップが画面の端で踊っていた事だった。差出人は楓。


『ユズキさんと私が似ているなんてちょっと考えられ無いかも。だってあんなに皆と楽しく話しているし。でも、もし私と似ているのならお友達になりたいな。なんて、駄目ですよね? もし良かったら○○○@yahoo.co.jpにメール下さい。あと、このメールを最後に、ゲームは退会します』


 メールの内容を見た僕は、——これって、もしかして出会い系の誘い? いや、でもこっちからメールしたし。と思った。


 頭の中でまとまりの無い考えがぐるぐると回り続ける。しかしいつの間にかバイトに行く時間となり、僕は、取り敢えず携帯電話にメールアドレスを登録すると、慌てて部屋を出た。


 バイトの休憩中、ロッカールームで一人、楓から送られて来たメールアドレスを眺めながら、今朝何度も繰り返し考えた内容を、頭の中で反芻する。そして、何度目かに同じ事を考えた結果、どうせ駄目元だしメール送ってみるか。という考えに至り、僕は楓にメールを送った。


『メール有難う。返事遅くなってごめん。僕達は友達になれるかな? 正直僕は人が怖い。だからなのか分からないけど、友達は少ない……と言うよりいないのかな? 楓からのメールもらった時、とても嬉しかった反面、僕はそれよりも、恐さの方が勝ってしまったのかも知れない。面倒なメールでごめん。なんか、どう言って良いのか分からなくて。取り敢えず、こんな僕で良かったら友達になって下さい』


 ふと時計を見ると、休憩時間は残り三分も無かった。僕は携帯電話をロッカーに放り込むと、レジの前に立った。




 あまりにも正直過ぎる内容だっただろうか。もっと自分を偽った、無難で明るい内容の方が良かったのだろうか。


 僕はその後、メールの事が気になり過ぎて、仕事でミスを連発した。こんな時は店長の目が恐い。案の定僕は、バイト終わりに店長からお叱りを受けた。それを遠目に見ていた高林達が、クスクスと嘲る様に笑っていたが、今の僕は、頭の中がメールの事で一杯で、そんな事は少しも気にならなかった。


 ロッカールームに戻ると、そこには誰もいなくて、窓から射し込む夕陽の光が、部屋の中を朱く染めていた。


 自分のロッカーを開けると、暗闇の中で静かに明滅する光が見え、僕の胸の鼓動は一瞬不規則な動きをする。着替えの手を止め、僕は携帯電話に手を伸ばし液晶画面を確認した。買った時のままの無機質な壁紙の中に、『新着メールあり』と白く抜かれた文字が浮かび上がっている。


 僕は肌が粟立つのを感じた。手の中に収まる程の小さなハイテク機械が、今初めて目を覚ました様な感覚に陥る。


『メール有難うございます。楓です。なんか、やっぱりユズキさんて私と似ているのかもしれないですね。さっきメール見て、笑っちゃいけないって思いながら、自分の事みたいに思えて、笑ってしまいました。でも少し泣いちゃいました。こんな事いきなり言うのって、どうなのかなって思うんですけど、これ携帯電話のアドレスです。○○○@ezweb.ne.jpユズキさんは、きっと悪い人じゃ無いと思うので、良かったらこちらにメール下さい。女の子から、こんな事言うのっておかしいですか? メール待ってます』


 メールを読んだ後、僕の心の中に、何かモヤモヤとした感情が沸き起こってくる。楓は何故泣くのだろうか。僕は、何か気に障る事でも言ったのだろうか。


 その時、僕の思考を遮るようにロッカールームのドアが開いた。


「なんだ、まだいたのか。早く帰れよ。ったく、何をやらしてもトロい奴だ」


 不機嫌な店長の声に追い立てられて、慌てて服を着替えると、僕はバイト先を後にした。


 楓が泣いた理由。僕の頭はその事で一杯だった。不甲斐ない僕と似ていると思ったから? 友達がいないから? それとも……。幾らでも理由は思い付いたけれど、どれもしっくり来ない。


 僕は頭の中で、女の子が静かに泣いている所を想像する。想像の中の楓は、その存在自体が儚くて、少しでも触れてしまうと壊れてしまいそうに思えた。胸の中に生まれた小さな虫が、心臓の辺りをしくしくと攻撃する。肌を撫でる風の冷たさが、僕の心を更に締め付ける。苦しい、僕は楓の事が好きなのだろうか。会った事も無いのに。


 家に着くと、シャワーも食事も全て放り出し、ベッドの上で携帯電話を弄くり、自分の情けなさを独り噛み締めていた。しかし、いつまでもこうしている訳にもいかないだろう。頭の中に楓からのメールの一文が浮かぶ。


『メール待ってます』


 ——メール、してみようか。何処までも情けない自分に腹が立つ。


『返事遅くなってごめん。仕事で遅くなっちゃって。何か照れ臭いと言うか、僕はあまり女の子とメールとかする機会が無いから、どんな話したらいいのか分からないんだ。取り敢えず自己紹介するね。僕は東京の鷺ノ宮って所に住んでて、年は25歳。大学を出て働きながら一人で生活してる。生まれは東京じゃ無いんだけど、大学がこっちだったからそのまま住んでるんだ。楓は何歳なのかな?』


 楓が泣いていた理由。聞けないな。そう言えば、女の子の携帯電話にメール送るのって初めてだ。僕は送信ボタンを押した後改めて思う。間を置かず、携帯電話が手の中で振動する。


 携帯電話は、その小さな筐体からは想像もつかない程の振動を生み出す。この振動の機構を作ったのは日本人だと言う。世界の何処か知らない場所では、今この瞬間にも世界的な大発明が成されているのだろうか——僕は液晶画面を見ながら思う。僕は生きているうちに、何かを生み出したり遺したりする事が出来るのだろうか。


『メール有難うございます。ユズキさんは25歳なんですね。私は17歳です。高校には行っていません。去年の夏辞めました。私も東京生まれでは無いのですけれど、今年の春に、一人になりたくて上京しました。今は高田馬場駅の近くに住んでます。意外と家近いですね』


 高田馬場と聞いて、僕の胸はざわついた。


『高田馬場駅なんだ! 僕の仕事先も高田馬場なんだよ! もしかしたら僕達すれ違ったりしてるのかもね!』


『そうなんですか♪ でも私、普段気配消してますからね。多分ユズキさんは、私に気付かないですよ』


 ——こんな他愛も無いメールを、僕達は繰り返し遣り取りした。楓は、今時の女の子が使うような絵文字なんかは殆ど使わなかった。それは、僕には心地良かったのだけれど、本当に十七歳なのかなとも思ってしまう。


 十七歳。若いな。高校辞めたんだ。何か有ったのかな。僕には、それを訊く勇気が無い。




「おはようございます!」


 いつもと同じ事をしているはずなのに、何故か世界が違って見える。挨拶の声が聞こえたのか、こちらを見た高林の目が丸くなるのが分かる。知らず知らずのうちに、声が大きくなっていたのかも知れない。


 その日はとても順調だった。ミスも無く、いつもは不機嫌な店長も、少しだけ優しかった気がする。何かを話せる相手がいると言う事で、ここまで世界が変わって見えるとは知らなかった。今までの自分は何だったのだろうか。


 バイトを終え、僕は来た時と同じように、少し大き目の声で挨拶をして店を出る。大きな声で挨拶をしましょう。小学校の先生の言った事に間違いは無かった。気持ちが清々しい。


 高田馬場。ここに楓が住んでいるんだ。そう思うと、いつもは騒がしく、僕の事を疎外している様に感じていて、煩わしいだけだったこの街が、少しだけ好きになれた気がする。


 僕は、駅の近くに有る有名コーヒーショップに入り、窓際の席を確保すると、ホットコーヒーを頼んだ。表の通りを歩く人達に目を向ける。この中に楓がいるのかも知れない。そう思うだけで僕の心は浮き足立つ。


 僕は携帯電話を取り出すと楓にメールを送った。


『今仕事終わって、高田馬場のコーヒーショップでコーヒー飲んでる』


 深い意味は無かったと思う。ただ、自分が楓の住む街にいて、コーヒーを飲んでいると言う事実を、呟いてみただけに過ぎない。でもその呟きは、携帯電話という媒体を通して、楓の目に触れる。その事で、何かが起こるかも知れないという事に、期待をしなかったかと言えば嘘になる。


 僕は暫らく、手の中に携帯電話を包み込む様にして持ち、窓の外を眺めていた。手の中で、小さな生き物の様に携帯電話が身を震わせる。液晶画面に『新着メールあり』と言う文字が踊った。


『ユズキさん今、高田馬場にいるんですか? もしかしてコーヒーショップって駅の近くのドゴールですか? もしそうだったらその店、私もよく行くんですよ』


 この店に楓はよく来る。このドゴールに。その事実を知った僕の中に、不快では無い何かが広がる。


『そうそのお店。一人でコーヒー飲んでる。楓もよく来るんだね♪ 僕もたまに来るんだ』


 僕は嘘吐きだ。メールを送った後に思う。たまにどころか、この店には初めて来たと言うのに。——それに、一緒にコーヒー飲む? の一言も言えない意気地無しだ。コーヒーを飲み終えた頃、また携帯電話が震えた。


『ごめんなさい。こんな事、もしかしたらルール違反かも知れないんだけど、私、ユズキさんの事見てみたい。それで、もし良かったら会って話してみたい。駄目かな? 迷惑かな? 私と似てる人ってどんな人かなって……。今まで私に、そんな事言う人いなかったから。もし嫌だったら言ってください』


 少し向こう見ずなところに、十七歳の女の子の欠片を僕は見付けた気がした。心地良い緊張感が、喉元を締め付ける。


『嫌な訳無いよ。僕は入り口近くの窓側にいるよ。着いたら教えて』


 コーヒーカップに手を伸ばすと、思わぬ軽さにカップを取り落としそうになる。僕は、先程コーヒーを飲み干してしまった事を思い出し、ホットコーヒーのお代わりを頼んだ。


『10分程で着きます』


 手の中で小刻みに震える携帯電話を見て、僕の心臓は、早くここから出してくれと言わんばかりに暴れ回った。十分後に楓はやって来る。その事を意識してしまうと、妙に体が熱くなり、掌がじんわりと湿ってくるのが分かる。自分を落ち着けようと、僕は無理に全く別な事を考えた。例えば、そう……。


 ——そんな僕の思惑を遮る様に、携帯電話が震える。


『着きました』


 液晶画面が震えている。——違う。震えているのは僕の手だ。ここまで来て、及び腰になる自分の意気地の無さに、呆れると同時に怒りすら覚える。その時頬に、ふわりと冷たい外気を感じ、僕は顔を上げた。入り口近くにいた為に、ドアが開閉する時の空気の流れを直に感じるのだ。


「ユズキさん?」


 その時の僕の顔は、一体どんなだっただろう。声のする方を見ると、そこには楓がいた。現実の楓が。


「楓?」


 僕が呼びかけると彼女は、多分それは笑顔だったのだろう。少し困ったような、それでいて笑っている様な、不思議な顔をした。


 僕は彼女を見て、正直少しがっかりした。彼女にとっても多分そうだっただろう。ネットの世界と言うものは、お互いのアバターや語り口調などから勝手に姿形を想像する。きっとこの子は痩せているはずだ。きっとこの子は可愛いに違いない。きっと、きっと、きっと。そうやって幾つもの『きっと』が折り重なり、いつしかその子は、想像の世界で、自分にとっての理想の相手になっていく。


 実に身勝手な話だけど、その想像の世界の理想より、現実が勝る事なんて殆ど無い。たまには有るかも知れないけれど、そんな子には出会いなんて掃いて捨てる程有るから、こんな所にのこのことやって来たりはしない。もし来たとしたら、それは詐欺か何かの勧誘だ。


 だから僕の夢想した楓は、目の前の楓と重なるはずも無く、やがて、現実と言う抗いようも無い力に因って、まるで始めから存在していなかったかのように、消えてしまった。


「飲み物……頼んで来るね」


 僕が何も言えないでいると、彼女はそう言い、注文カウンターの方に少しだけ早足で歩いて行った。彼女の方が大人だ。


 僕達は始めの数分間、微妙な距離感を保ちながら、腫れ物に触るかのように、当たり障りの無い会話を交わした。僕達に共通する話題なんて、ゲームの世界での事しかないから、結局お互いに、その話で少しだけ盛り上がった。でも楓は、そのゲームすら辞めてしまっているから、結局すぐにその話題も立ち消えてしまった。


 お互いの話の共通点を探れないままに、時間だけは過ぎていく。


「あれ? 佐伯じゃん。何やってんの?」


 突然本名を呼ばれた僕は、体を硬くした。声の主はそんな僕に構わず、ずけずけと近寄って来て、僕の前に立つ。声の主は高林だった。


「あれあれー? 佐伯さんこんな所で何やってるんですか? もしかして彼女さんですか? 俺お邪魔しちゃいました?」


 今まで一度だって敬語など使った事のない高林が、急に取り繕った様な猫なで声を出して話し掛けてくる。二人の間に流れていた冷たい空気が、更に冷え込んでいくのが分かった。最悪だ。


「てか、彼女若くないっすか? 紹介して下さいよー。こんばんはー。俺、佐伯さんと同じバイト先の高林って言うんだけど、君……」


「ユズキさん行こ」


 左手が、突然重力を失ったかのような感覚に陥り、僕は自分の左手を見た。そこには、楓の白く細い手が僕の手首を持ち上げていて、僕はそのまま楓の手に引っ張られるように席から立ち上がり、気が付いた時には、見知らぬ路地の裏を楓と二人で歩いていた。


「ごめんなさい。私……」


 いつの間にか離れていた手首に、じんわりと楓の手の感触が残っていた。


 ——何か言わないと。


「楓は何か、結構すごいね」


 何だそりゃ。言った後で自分の語彙の乏しさに呆れる。楓の顔にも何ですか? と書いてあるような気がする。僕は取り繕うように続ける。


「あっ、あいつはさ、僕のバイト先の嫌な奴なんだ。いつも僕の事、馬鹿にしたように扱ってくる。だから正直楓に助けられたよ。——って、年下の子に助けられたとか、ちょっと情けないよね。——でも、ちょっとびっくりしたよ。僕は勝手に楓の事、きっと静かで人見知りな娘だと思ってたから」


 不思議だな。少し走って、緊張が解れたからなのか、言葉が詰まる事無く出て来る。


「人見知りですよ私。ただ、ああやってずけずけと、テリトリーって言うんですか? 何か、人に触れられたくない距離感って有るじゃないですか。そこに遠慮無く入って来る人が凄く苦手で、ユズキさんが困るとかそう言う事よりも、自分があの時すごく気分悪くなって。気が付いたら走ってました。次のバイト気まずいですよね? ごめんなさい……」


 そう言って楓は、僕の目を上目遣いで見る。僕は少し眩暈がした。うまく目を合わせられない。


「だっ、大丈夫だよ。あんな奴。かえってスッキリしたくらいだし」


 僕がそう言うと、楓は控え目に笑った。さっきの困ったような不思議な顔ではない、明らかな笑顔。腹の辺りに何か言い表せない熱い物が広がる。


「でもテリトリーって言葉、すごく分かるな」


 僕は言葉を継いだ。楓もそれに応える。今まで生きて来て、味わった事の無い不思議な感覚。それは何処かふわふわとしていて、とても心地良かった。


 それから僕達は、どこへ向かうとも無く、歩きながら色々な事を話した。話しているうちに、メールで遣り取りしていた時のように、気を使わずとも楓と話せるようになっていた。楓の言葉からもいつしか敬語は消え、友達に話し掛けるように、僕に話し掛けてくれた。


 僕の中に有った夢想の楓は、現実の楓に取って変わられたけれど、今度は現実の楓が、僕の中で大きくなっていくのを感じる。そして夢想の楓と現実の楓は、完全に一つになり、目の前にいる一人の楓となった。




 駅の構内では、沢山の人達が時間を気にして、急ぎ行き交っていた。どんなに人が多くてどんなに慌ただしい場所でも、その場所が、まるっきり人々から忘れ去られた様に、誰もいない不思議な空間は必ず有る。まるで皆の零していった時がそこに集まって、吹き溜まりのようになっている空間が。


 僕達は、初めから決まっていたようにその空間に収まった。そしてそこに座り込むと、いつまでも時間を忘れて話をした。僕は皆が零していった時間を、楓と二人で食べてしまったような気持ちになり、どこか申し訳ない気持ちになった。


 そのまま僕達は何本かの電車をやり過ごした後、どちらとも無く立ち上がり、もうそろそろ帰ろうかという話をした。残念だけど、皆の零した時間にも限りは有る。


「また——会えるかな?」


 僕は楓に訊いた。楓は控え目に微笑むと小さく頷く。あどけない笑顔は、楓がやはり十七歳なんだなという事を、僕に思い出させた。僕が改札を通る時楓が、「今度はご飯くらい食べようね」と言い、僕は今更ながらにご飯も食べずにいた事を思い出した。


 なんて気が利かない奴だと思われたに違いないと、慌てて引き返そうとしたが、楓は「また今度ね」と言い僕を制すると、小さく手を振り静かな足取りで駅から出て行った。楓が見えなくなるまで見送ると、楓は自分と歩き方が似ているな、などと、よく分からない事を考えながら電車に乗り込んだ。


 帰りの車中で、今日有った事を振り返り、明日バイト先で高林と合わなければいけない事を思い出すと、僕は少し憂鬱になった。




「昨日はどうも。——あんまりだよな、挨拶もせずに逃げるだなんて。あと、ユズキって誰だよ。お前そんな名前だったっけか?」


 やや険を含んだ声で、高林が声を掛けてきたのは休憩中の時だった。


 僕は、手に持っていた携帯電話をポケットにしまうと、高林の方に向け不機嫌さを隠そうともせず、「やあ」とだけ言った。


 高林は、僕の態度にはなじらんだのか、声の調子を変えて更に話し掛けてくる。


「あの子さあ、すげえ若く見えたんだけど、大学生かなんか? て言うかさ、俺この前お前に女の子紹介したよね? だからさ今度そのお返しじゃ無いけどさ、俺にも紹介してよ。コ、ン、パ。ねっ、お互い持ちつ持たれつって事でさっ」


 こいつは何を言っている? 散々僕を笑い者にしたのは、何処のどいつだ。


「僕は誘われたから行っただけで、呼んでくれなんて言った覚えは無いよ。それに、あの子とはまだ出逢って間もないんだ。出来たら放って置いてくれないか?」


 僕の発言に相当腹が立ったのか、高林の顔は見る間に赤くなっていく。


「てめえ!」


 高林が僕の方に足を踏み出し、服の襟を掴みかかってくる。突然身に降りかかった暴力の兆候に身体が竦み、僕は反射的に目を閉じてしまった。


「おい! 休憩は終わりだ!」


 この店での絶対的権力を擁する声に、身体に掛かった力は不意に無くなり、変わりに「ふざけやがって」と言う高林の声が、僕に投げ付けられた。


「おい! 何やってんだお前ら。喧嘩するなら店を辞めてもらうぞ!」


 店長が僕達二人に向かって怒鳴る。


「喧嘩じゃ無いっすよ。ちょっと佐伯さんに勉強教えてもらってただけですよ」


 高林は僕の方に一瞥をくれると、店長と入れ替わりに部屋を出て行った。しかし、そんな古典的な台詞に店長が納得するはずもなく、「何か有ったのか?」と僕に訊いて来る。僕は、「何でも無いです」と答え、そのまま仕事に戻った。




 高林は、仕事中ずっと僕の事を睨んでいた。かと言って何かしてくるという訳でも無かったので、僕はそれを無視して、そのまま何事も無く仕事を終えた。しかし事件は、僕がロッカーを開けた時に起こった。いや、起きていた。


 目の前の光景に、僕は急に光を失い、音さえも消え去ってしまったかのような錯覚に陥る。そこには、真っ二つに割れた携帯電話が、ただ静かに横たわっていた。——高林。


「酷いなあ」


 後ろを振り返ると、にやにや笑を顔に貼り付けた高林と、他のバイトの連中がいた。皆が僕の事を見下すような目で見ていて、僕の中で急速な気持ちの温度変化が繰り返される。目の奥でちりちりと激情の炎が燃え上がり、気が付いた時には、僕は高林を突き飛ばし、他のバイト達に羽交い締めにされていた。そこに騒ぎを聞き付けた店長が現れ、圧倒的不利な状況に立たされた僕は、店長室に連れていかれ、馘を宣告された。


「そんな、僕は何もしてません! 高林が僕の携帯を!」


「証拠が無いのに暴力を振るう。その事は棚に置いてか? 最近頑張っていたから少しは見直していたのに、残念だよ。とにかく高林に謝るんだ。話はそれからだ」


 高林に謝る? 僕が? 謝るのは高林の方だ。消えかけていた怒りの感情が、頭の芯の方で再び燃え上がる。


「嫌です! 謝るのは高林の方なんだ! 僕はあいつに携帯電話を壊されたんです! あいつは前から僕の事をずっと馬鹿にして……」


「だからと言って暴力を振るうのが駄目だと言う事は、子供にだって分かる事だろうが! あいつがもし警察に言うような事になれば、傷害罪にだってなるかも知れない! とにかく佐伯がそんな態度を取っている以上、このままお前をこの店に置いておく事は出来ん! 一晩考えて頭を冷やせ! もしそれでもお前が考えを改めないのなら、やはりお前にはこの店を辞めてもらう」


 有無を言わせない態度で僕に言うと、店長はそのまま帰り支度を始め、僕は追い出されるようにして店を後にした。あまりに一方的で理不尽な話に、店を出た後僕は、暫くその場を動く事が出来なかった。楓に会いたい。僕の頭の中に、楓の笑顔が浮かぶ。


 壊れた携帯電話を手に持つと、楓との繋がりが壊されてしまった様な気持ちになり、鬱々とした気持ちに拍車をかけた。


 家への帰り道、駅前に有る携帯ショップに立ち寄り、事情を説明する。ショップ店員は百点満点の笑顔で、「こちらの携帯電話は、メモリーのバックアップは取っていますか?」と訊いて来るが、僕は当然取っていないと応えた。


 店員は、百点満点の笑顔のまま、「復元は不可能なのですが如何なさいましょうか?」と、まるでファーストフードのポテトのサイズを聞くように軽やかに言った。——楓のメールアドレスが……。


 結局僕は、最新機種への変更を余儀なくされ、予定外の出費に高林への憎しみは嵩を増した。携帯ショップを出てすぐに電源を入れ、メールの確認をするが、楓からのメールは無かった。いや有ったのかもしれないが、それは前の携帯電話に届いていたのかも知れない。どちらにしろ、楓からのメールを待つしか無いのだろうか……。


 僕は暫く考えていたが、そういえばパソコンのメールが有ったかも知れないと、いつかのメールを思い出し、家へと急いだ。部屋に入るなり、僕はパソコンの電源を入れる。起動までの時間が、これ程までに焦れったいものかと初めて思う。ブックマークからサイトに飛び、ログインしたところで、何日か振りにパソコンを起動した事を思い出した。僕の居場所はもうここでは無いのかも知れない。


 僕はマウスを操作し、メールの受信箱を開けた。「有った」僕は一言呟くと、そのアドレスを携帯電話に登録し、急いで楓にメールする。


『ごめん、メールくれてた? 今日携帯電話が壊れちゃって、アドレスが消えちゃったんだ。だから、パソコンの方にメールしました。又メール見たら返事下さい』


 すぐさま振動する携帯電話。


 メール? 早過ぎないか? 頭に不安がよぎる。メールを確認すると、不吉な差出人からだった。


『差出人:Mail Administrator

件名:Mail System Error - Returned Mail』


 つまりこのメールアドレスは使われていない? もしかして、ゲームの登録の為だけに作ったフリーメールなのか?


 この事実は、楓との繋がりの糸が切れかかっている事を意味した。その事を理解した時、僕の額には嫌な汗が滲み、やがてその汗は全身を覆い始めた。胃がキリキリと痛み、僕は知らず知らずの内に、左腕に有る傷に指を這わせる。傷を覆う瘡蓋の歪な感触は、僕の心を少しだけ落ち着かせた。そして爪を立てると、僕は瘡蓋を、ゆっくりと剥がし始めた。




 次の日僕は、駅の近くの、あの楓と初めて会ったコーヒーショップにいた。細くなり、今にも切れそうになった楓との繋がりの糸を、どうにか手繰り寄せるにはこの店しか無いと思ったからだ。


 駅前の方が確実かとも思われたが、高林や他のバイトに会うかも知れない事を思うと、どうしてもそちらには、足は向かなかった。バイト先には、連絡もしていない。どうせ給料は振込だ。


 僕は、携帯電話の電話帳を確認する。今日だけで、二十回以上も確認した登録件数は、たったの二件。実家と、もう使われていない楓のフリーメールのアドレス。あれから、唯一の手がかりである、フリーメールのアドレスをヒントに、ドメインを携帯電話仕様に換えてみたり、記憶を頼りに、適当に作ったアドレスでメールを送ったりしたが、どれも結果は人違いか、送付先不明で帰って来るかのどちらかだった。


 今日五杯目のコーヒーのお代わりをする。何をするでも無く窓の外ばかり見ている僕に対して、店員は笑顔で対応してくれるが、その笑顔の奥に不審な気持ちが現れているのを、僕は感じずにはいられなかった。


 一週間程そのコーヒーショップに通っただろうか。不審に思う店員の目を避ける為、僕は読みもしない文庫本を買い、窓の外に楓が歩いていないかと眺め続けた。その間、楓からのメールは一切無かった。


 僕は一体何をしているのか。仕事を失い、楓も失い、仕事も探さずにただこの店でコーヒーを飲み続けているだけ。


 冷めて不味くなったコーヒーに目を落とす。今飲んでいるこれを飲み干したら、この店を出て仕事を探そう。


 店を出ると、辺りはまだ日が高かったが、フリーペーパーの就職情報雑誌を手に取りると、取り敢えず家に帰る事にして駅に向かった。


 自分の家に帰る側のホームに立ち、就職情報誌を捲る。その時目の端に見える人影が何故か気にかかり、僕はそちらを見た。——あれは、楓? 向かいのホームの端に立つ女の子を、僕はしっかりと見直す。セミロングの黒い髪。控え目でナチュラルな服装。少し俯きがちな立ち姿。やはり楓に間違いないと僕は確信する。


 声を掛けようと思ったが、楓がホームの反対側にいたのでは、大声で叫ばなければ、僕の声は楓には届かないだろう。人前で自分が大声を出す事など想像出来ない。そんな事はどうにも自分には無理だと躊躇している間に、向かいのホームから電車が入って来ると言うアナウンスが聞こえて来た。


 行くしかない。そう思った僕は、慌てて反対側のホームへ走った。駅の構内に、電車の通過する音が響き渡る。そして僕が反対側のホームに着いた時には、電車は既にホームに着いていて、扉が閉まるぞと知らせる、鉄腕アトムのメロディーが流れていた。


 駆け込み乗車はおやめ下さいと言う声を無視して、僕は一番近くの扉へ走る。閉まりかける扉に、無理やり体をねじ込むと、電車は静かに走り始めた。呼吸の荒い僕の事を、周りの乗客は何事かと見ていたが、電車が走り出して間も無くすると、乗客は僕から目を離していった。


 この電車は、次の西武新宿駅が終点だ。楓はこの電車の何輌目にいただろうか。僕は車輌を移動しようと考えたが、人が多く移動は難しかった。移動が出来ないのであれば、電車が止まると同時に飛び出すしかない。そう考えた僕は、扉近くに陣取り、楓を見失わないようにしようと身構えた。


 やがて電車はスピード落とし始め、駅に停車する。車内に終点のアナウンスが流れ、ホームにどっと人の波が溢れた。僕は楓がいた辺りに検討をつけ、そちらを見ながら人の流れに沿って出口向かって歩いて行く。楓はどこに向かっているのだろうか。仕事? それとも友達? 人の頭の間に楓を見た気がして、僕は注意深くそちらを見ながら人混みの中を歩く。


 次に楓を見た時は、出口の階段を下っているところだった。近くにいるのに、一向に距離が縮まらない事がもどかしい。


 ようやく人混みを抜け、楓の背中が見えたところで、自分の持つ切符では改札を抜けられない事を思い出し、乗り越し清算機の前に立った。しかし、楓を見ながらの作業は思うようにいかず、僕は小銭をばらまいてしまった。


 僕の背後から舌打ちが聞こえたが、それに構う余裕は無い。その間にも楓は改札を抜け、出口に向かって歩いて行く。


 早くしないとまた楓を見失なってしまう。僕は、楓を横目で見ながらなんとか清算を済ませると、急いで楓の後を追った。後ろから悪態が聞こえて来て、僕の胸に小さな影が落ちた。


 気にするな。やっと楓に会えるんだ。そう心の中で呟きながら、僕は改札に向かって走った。


 やっと楓に会える。僕の頭の中はその事で一杯だった。楓の消えた出口の方に向かうと、辺りを見回し楓の姿を探した。——いた。楓だ。


 楓は辺りをきょろきょろと見ながら、駅前の公園の方に歩いて行く。僕はなるべく自然を装い、楓の向かう公園の方に歩いて行った。


 楓に何て声を掛けよう。久し振りに会った時の台詞はどんなのがいい。やあ偶然だね。か、それともメール送れなくてごめん。か、どちらにしても不自然さは隠しきれないだろう。偶然には違い無いが、こんな所にまで追いかけて来た僕の事を、楓はどう思うだろうか。以前楓が言っていた、テリトリーという言葉が頭の中をよぎる。しかし、声を掛けなければ全ては終わってしまう。そんな取り留めの無い事を、ぐじぐじと考えている僕の目の中にに、予想外の光景が飛び込んで来た。


 あれは誰だ? 楓の方に一人の男が近付いて行く。男はスーツを着ていて、見たところ僕よりは随分年上のように見えた。


 楓は男に気が付くと、何事かを話し、二人で並んで歩いて行く。僕は、胸の中にざわざわとした不快な感情が湧き上がるのを感じた。




 楓と男は、あまり会話も交わさずに、ひたすら歩いていく。あの男とは、僕と同じ様にネットの世界で知り合った仲なのだろうか。


 僕は意図せず、自然と二人の後を追って歩いていた。相手からは気付かれないけれど、僕が見失わないぎりぎりの距離。


 僕は、二人だけを視界の中心に捉え歩いて行く。何人かの人と肩がぶつかったが、僕には、目も合わせず小さく謝る事くらいしか出来なかった。と言うよりも、ちゃんと謝るだけの余裕が僕には無かった。


 二人は繁華街を抜け、歩調を変える事無く歩いて行く。その間二人は、特に会話をしている様子も無く、時折男が楓の方に話し掛けているだけだった。


 やがて人通りは極端に少なくなり、二人は、都心の大きな街には似つかわしく無い程に、静かな通りを歩いて行く。流石にここまで人通りが少ないと、つけている事が二人に見つかるのでは無いかと思い、僕はもう少しだけ二人との距離を空けた。


 距離を空けると自然に視界は広がる。広がった視界に飛び込んで来たのは、けばけばしく飾り立てられた看板や、その看板に対して異様に目立ちにくい建物への入り口だった。


 看板が示す物の意味は、いくら世間ずれしている僕にでも、容易に想像出来る。その建物の中で繰り広げられる人間模様を思うと、僕の胸の鼓動は激しく高鳴り、この光景がどうか間違いで有ってくれと祈らずにはいられなかった。だが二人は、そんな僕の祈りを嘲笑うかの様に、看板の指し示す入り口へと消えていった。


 僕の世界が、足元から音を立てて崩れ落ちていく気がした。しかし僕は、何かの間違いで有ってくれと言う思いを捨てきれず、二人の消えた辺りまで行くと、どこかに脇道は無いか、他の建物の入り口は無いかと念入りに探した。そしてその全ての行為は、楓と男との間にこの後起こるであろう事を、確定させる為だけの確認作業に他ならなかった。




 どれくらいそこにいたのか。——自分がそこにいるという認識は有った。ヒソヒソと話しながら、訝しむような視線を送って来るカップル。あからさまに嫌な表情をして避けて行くカップル。皆僕の事を変な奴だ、不気味な奴だという風な目で見ながら、避けて行った。突然自分の目の前に、黒く艶光りした靴が並ぶ。靴の甲の部分には、金属で出来た飾りが金色に輝いていた。


「おいあんたさっきから何やってんだ。営業の邪魔なんだよ。どっか行けよ!」


 顔を上げると、いかにもチンピラですと顔に書いてあるような風貌の男が、僕の事を道端のゴミを見る様な目で見ていた。いつもの僕なら、こんな風貌の男が視界に入るだけで逃げ出してしまうか、壁と話を始める所だが、この時ばかりは何もする気が起きず、男の事を無視してまた足元を見つめた。


 男はそれを反抗とみなしたのか、僕の肩を掴むと、建物の入り口脇に有る通用口のような場所に、強引に引き摺って行った。僕は暴力の兆候を感じたが、それを甘んじて受け入れた。もうそろそろ新しい傷が欲しかったところだ。




 僕がその建物から出て来るまでに、一体どれくらいの時間が経っていただろうか。


 男は、僕を引き摺って行った後、「何が有った?」だとか、「探偵か何かか?」だとか聞いてきたが、僕は何も答えなかった。いや、何も答えられなかった。僕が見た物について何か口にしてしまえば、それが現実だった事を認めてしまいそうで、僕の口は、一言の言葉ですら返す事は出来なかった。

 やがて男は苛立ちを隠そうともせず、ひとしきり僕の事を嬲ると、入って来た時とは別の、裏口の様な所から僕を放り出した。そこはゴミ置き場なのか、生ゴミから、正直目に入れたく無い物まで、乱雑に袋に詰めて捨てられてあった。


 丸められたティッシュペーパーから、だらしなく垂れ下がるゴムの薄い膜が、ゴミ袋の内側に貼り付いている。それを見た瞬間、今まで抑えられていた感情が、僕の中で急激に膨れ上がり、せきを切った様に溢れ出した。


 嗚咽を漏らしながら、その場でうずくまっていると、先程の男が現れ、何故か分からないが、暖かい缶コーヒーをくれた。


「兄ちゃんごめんな、ちょっとやり過ぎたわ。何が有ったか知らねえけどさ、泣いてても仕方ねえだろ。これ持って家帰んなよ」


 仮初めの温もりでは有っても、缶コーヒーの温もりは、少しだけ僕の心を解きほぐした。僕は男に礼を言うと、よろよろと立ち上がりその場を後にした。後ろで扉の閉まる音がする。辺りには生ゴミの臭いが立ち込めていて、自分もその一部になった様な気がした。


 どこをどう歩いたのかまるで覚えていないが、何時の間にか僕は、家に帰って来ていた。そして痛む体に顔をしかめながら、そのままベッドに倒れこむようにして眠った。




「……」


 誰かの声が聞こえる。


「佐伯! 金持って来たのかよ!」


「ごめん……」


「ごめんじゃわかんねえだろ!」


 そこには、理不尽な暴力に晒される高校の制服を着た僕がいた。


「ユズキさん……」


 ……楓?


「ユズキさんて優しいんですね」


 どこからか楓の声が聞こえる。


「楓……」


 僕は楓を探し、辺りを見回す。楓は暗闇の中にぼんやりと姿を現した。


「でもこの人の方が優しいし、気が利くの」


 楓が言い終えると、急に昼間楓と歩いていた男が現れ、楓の肩を抱いた。そしてそのまま僕に背を向け、二人は暗闇の中に歩いて行く。僕は二人を追いかけるが、その距離は離れるばかりで、ついに追いつく事は出来なかった。


「……」


 また誰かの声が聞こえる。


「お前気持ち悪いんだよ!」


「あんな気持ち悪い人呼ばないでよね!」


「お前は何をやらせてもとろいな!」


 次々と登場人物が入れ替わり、僕の事を罵倒しては、笑い声だけを残して消えていく。頭の中に嘲笑が満ち溢れ、その笑い声はやがて不快な大音響となる。


「もう嫌だ! やめてくれ! 僕が悪いんだろ? 分かったよ! 死ねばいいんだろ? いなくなればいいんだろ? だからやめてくれ! 頼むから……」


 僕は暗闇に向かって叫んだ。そして不意に音が消えたかと思うと、その代わりに静寂が訪れ、暗闇の中に無表情の楓が現れる。


「ユズキさん——ユズキさんはまだ死ねないよ」


「それなら——楓が僕を殺してくれ」


「嫌よ——気持ち悪い」


 自分の叫ぶ声と、隣人が壁を叩く抗議の音とで、僕は目が覚めた。暫らく放心状態だったが、どんどんと尚もうるさく叩かれる壁の音に対して、僕の中に激しい暴力衝動が沸き起こる。


 そして僕は、壁を有らん限りの力で殴り付け、大声でうるさいと叫んだ。壁の音はピタリと止んだ。壁を見ると拳大の穴が空いていて、僕の拳からは血が滲んでいた。穴を見ながら、僕はなんて馬鹿な事をしたのだろうと、急に冷静になった。


 窓を見ると何時の間にか日は落ちていて、壁に掛けて有る時計は、夜の九時を少し回ったところだった。帰った時間が定かでは無いが、ずいぶん眠ったはずなのに、眠りが浅かったのか、体の疲れは全くと言っていいほど取れていない。冷静になってみると、体のあちこちが痛みだし、服には汗や埃、そしてうっすらとだが、血が所々に付いていた。


 僕はこんな姿で新宿の街を歩いていたのか。——風呂に入ろう。風呂に入って全てを忘れよう。急にそう思い立ち、風呂場に向かおうとして、痛む体に僕は顔をしかめた。服を脱いだら身体はどうなっているのだろうか。不安と期待が内混ぜになった感情に、何故か笑みが零れる。


 普段はシャワーしか使っていないユニットバスに、お湯を溜める為栓をした後、蛇口を捻る。そして何も考えずに、蛇口から豪快に迸るお湯を、僕はただ見ていた。丁度いいくらいにまでお湯が溜まった所を見計らい、僕は服を脱ぎ始める。しかし痛みで思うようにいかず、全ての服を脱ぐのに随分と時間がかかってしまった。


 そして全裸になった僕は、鏡の前に立ち改めて全身の傷を観る。身体は、至る所が青黒く腫れていたり、幾つもの擦り傷などに覆われていたりしていて、目も当てられない惨状だった。全身を覆う傷は、今日の出来事が全て現実だったのだと、僕に訴えかけてくる。


「もう全部忘れてしまえ」


 鏡の中の自分に声を掛けると、ゆっくりと湯船の中に足を入れた。傷口に湯が触れ、鋭く刺すような痛みが、身体の中を突き抜ける。僕は反射で足を引き抜いた。もう少しぬるめにすれば良かったかと後悔するが、愚かな自分への罰として、水は足さずにそのまま入った。


 始めは全身の傷口に湯がしみ、痛みで身動きすら取れなかったが、次第に傷口は周りの温度差に慣れ始め、痛みが引き始める。そして代わりに全身の緊張が解れていくような心地よい気持ちになり、僕は目を閉じた。


 何時だったか忘れたが、人間は全ての環境に順応していく生き物だと聞いた事が有る。この痛みのように、いずれ記憶の中の痛みも薄れて消えていくのだろうか。


 ここ数日間のうちに、自分の身に起こった出来事が瞼の裏に次々と映し出される。コンパで嗤われた事。美女に唆されて高額な絵を買った事。仕事を失った事。そして楓に出逢い……。


 ——瞼の裏で、楓がこちらに向かって静かに微笑んでいる。鼻の奥にツンとした痛みを感じ、閉じられた瞼を押し退け涙が溢れる。

「楓……」




 風呂から上がると、時計を見て驚いた。僕は、実に二時間近くも風呂場にいたらしい。


 リビングに戻ると、久し振りにパソコンを起動しゲームの世界に浸る。メールも何件か来ていたが、全て取るに足らない内容だったので、ゴミ箱に移動する。楓とのメールの遣り取りは、少し迷ったがやはりゴミ箱に入れた。その時、胸の奥が少しだけちくりと痛んだが、ゲームに没頭していくうちに、その痛みもすぐに消えた。


 久し振りにゲームに参加した事も有ってか、皆が挨拶をくれたり心配してくれたりして、その都度僕は、陽気な返事を返していった。ただ、ゲームの中の自分が陽気で有れば有るほど、現実の自分の中に有る何かが、少しずつ壊れていく気がした。ゲームを終え、仕事を探さなければならない事を思い出し、何時の間にか就職情報誌を無くしている事に気が付いた僕は、夜御飯の調達も兼ねて、近くのコンビニへ行く事にした。コンビニまでの道を歩いていると、辺りに秋を知らせる虫の声が響いていた。




 コンビニから戻り、遅めの食事を済ませると、無料で貰った就職情報誌を捲る。やはり職場は自分の住む街から近い所がいいか。しかし高田馬場の近くでは、正直もう働く気は起きなかった。


 僕は、条件に合いそうなページの端を折り込み、最終的に候補を三件に絞り込んだ。面接の約束の取り付けは明日朝一番にしよう。


 その時突然、携帯電話が振動を始める。メール? 消えたはずの痛みが、胸の中でちくちくと疼き始める。携帯電話の液晶には、何となく見覚えの有るアドレスが表示されていて、難解過ぎて諦めかけていた問題が、ふとしたきっかけで唐突に解けてしまったような、そんな不思議な感覚に陥った。そう言えばこんなアドレスだったな。僕は心の中で呟いた。


『ユズキさん。お久し振りです。メールの返信が無かったので、こちらからメールしました。私、何か嫌われるような事言いました? せめて、返信が無い理由だけでも教えて下さい。私達友達なんですよね?』


 そこには、以前よりも少しだけ他人行儀な楓がいた。僕の中に疑問符の奔流が始まる。今更何故? あの男は? あの日楓は新宿で何をしていたの? そして、この数日間何で連絡くれなかったの? いや、それは自分も同じだ。事情が有ったにせよ、彼女にそれは関係無い。まとまらない頭で、何とか一つずつ物事を整理していく。それから僕は少しだけ考えて、ここ最近自分の身に起こった事を全て楓に告げる事にした。新宿で楓を見た事を除いて。


 全ての内容を知った楓は、僕の為に激しく憤慨してくれた。高林や店に抗議に行くとまで言ってくれた。僕はメールを打ちながら涙を流した。今日見た事は、きっと僕の見間違いだったのだ。こんなに良い子を疑った自分に激しく怒りを感じた。そして、お互いの近況をメールで伝え合うと、どちらとも無く、またあのコーヒーショップで会おうと言う話になり、明日の夕方四時に店で会う約束をした。僕は久し振りに、深く安らかな眠りに付く事が出来た。




 翌朝、昨日控えた仕事先に電話をすると、三件のうち一件は、既に申し込みを締め切ったと言われ、残りの二件からは、すぐにでも面接に来て欲しいと言われた。この二件の会社に、僕の居場所は有るのだろうか。


 久し振りにスーツに袖を通すと、自分が生まれ変わる為の儀式のように感じられた。普段なら、こんな事は思いもしないだろうが、昨日メールで繋がった楓との事が、僕にそう思わせるのかも知れない。


 晴れやかな気持ちで部屋を出ると、一件目の面接先に向かう。一件目の会社の仕事内容は、建築関係の事務との事で、ある程度パソコンが使える事が必須条件だったが、その点に関しては問題無いだろう。ただ人手の関係で、営業も少しは業務内容に含まれると言われた時に、自分の気持ちが少し顔に出てしまったかも知れない。怪我の事を少しだけ訊かれたが、階段で転んだと伝えた。怪我の言い訳としてはあまりにも常套過ぎる理由は、嘘臭さを隠しきれる物では無かったが、特に何も言われなかったので、深く考えない事にする。結果は追って連絡すると言われ、僕は二件目の会社に向かう。


「営業か……」


 人との関わりを、出来るだけ避けて来た自分に、人との関わりが主となる仕事が勤まるだろうか。


 二件目の会社の仕事内容もやはり事務で、パソコンが使える事が必須条件だった。ただ会社は、一件目よりも少し小さな町工場で、車等の部品を作る会社なのだそうだ。面接をしてくれたのはこの会社の社長で、簡単な面接の後、工場見学の案内も買って出てくれた。この部品は何をどうする時に使う物だとか、この部品を作る時には、とても気を使わなければいけない等、細かく説明をしてくれた。僕には、何が何だかさっぱり分からなかったが、どの説明にも手を抜かずに話してくれる社長を見て、自分もこんな大人になりたいと素直に思わせられた。そして工場見学を終えると、社長は僕を見て明るく言った。


「気になったんで訊くのだけれど、気を悪くしないでくれ。その怪我はどうしたんだい?」


 あまりにもストレートな問い掛けに、僕は言葉に詰まってしまった。だがこの人に嘘を吐くのは人として駄目なような気がして、街で達の悪い人間にからまれたのだと伝えた。


「そうか。私は又、喧嘩でもしたのかと思ったよ。私もこう見えて、昔はやんちゃをよくしていたものでね、君も見かけによらずと思ったのだが——いやいや、気にしないでくれ。ただの冗談だよ。でもまあ、そんなに怪我だらけになっても面接に来るくらいの体力は有るのだから、十分仕事は勤まるだろう。君さえ良ければ明日からでもと思っているが、どうだね?」


 思っても見なかった言葉に一瞬言葉を失ったが、すぐにこの会社で働きたいと、僕は大きな声で応えてしまった。その時、肺の辺りが傷で痛み顔をしかめると、社長は無理するなよと、僕の肩を叩きながら笑い、僕も顔をしかめながら笑った。 一件目に面接した会社はもう採用となっても断ろうと、そう思った。会社を出ると、僕はすぐに楓にメールを送った。


『就職決まったよ! 詳しくは会った時に話すね』


『本当に? おめでとう! 今日はお祝いだね!』


 間を置かずに楓からメールの返信が有る。僕の事を祝ってくれる人がいる。幸せなはずなのに、言いようの無い不安がこみ上げて来る。この不安はどこから来るのか。この就職難の時代に、すんなりと仕事が決まった事で、失う物が出来た事が不安なのか。それとも又別の理由なのか、その時の僕には分からなかった。




 会社からの帰りに、定期券を買う為駅の窓口に寄る。前の定期券は既に失効していた。会社の有る駅は、僕の住む鷺ノ宮からはすぐ隣の下井草に有ったが、定期の区間は楓の住む高田馬場まで買う事にする。僕は少しだけ楓に近付いた気がした。明日から新しい職場で働き始める事に、多少の不安を感じたが、会社に行く為の準備を、一つ一つ丁寧にこなしていくと、不安は少しずつ薄れていった。それに、今日は楓が僕の為に祝ってくれると言う。その事を思うと、僕の胸は踊った。


 部屋に一旦戻った所で、スーツを脱ぎシャワーを浴びる。そして私服に着替え時間を確認すると、まだ楓との約束までには随分有った。


 僕は着たばかりの上着とシャツを脱ぎ、姿見で体の傷を観察する。昨日まで青黒かった打ち身は、いつの間にか紫色になっていて、所々黄土色に変色していた。そして擦り傷は瘡蓋となり、複雑な模様を身体のあちこちに浮き上がらせていた。僕の背中に、ざわざわと何かが這うような、くすぐったい感覚が広がる。




「待った?」


 いつか僕が座っていたのと同じ席に座る楓を見つけると、僕は弾んだ声で呼び掛けた。


「大丈夫待ってないよ。それより仕事本当良かったね! 私、自分の事の様に嬉しいよ! ——って、その傷どうしたの?」


 楓は僕の傷を見て心配そうにな顔をした。僕は階段で転んだのだと、今日二回目の嘘を吐く。楓は少しだけ考えた後、おめでとうと言いながら笑った。屈託なく笑う楓の事を、僕は心から可愛いと思った。


 それから僕達は、店で少しの時間を過ごした。楓といると素直に色んな事が話せる。僕の中で楓の存在がどんどん大きくなっていくのが分かる。


「ユズキさん、あの……」


「ユズキでいいよ」


「——じゃあユズキ。これから時間有るかな? もし良かったら散歩とかどうかな?」


「いいね、行こうか」


 断る理由など何処にも無い。考える間も無く僕は応えた。


 楓の歩く半歩後を僕はついて行く。辺りはいつの間にか日が傾いていた。夕陽に照らされた楓の横顔はどこか儚げで、このまま何処かに行ってしまうんじゃ無いかと思ってしまう。僕は、こっそりと心の中で何処にも行かないで欲しいと願った。


「何処に向かってるの?」


 楓の歩調は散歩と言うよりも、明らかに目的を持って歩いている気がして、僕は訊いてしまった。


「内緒」


 いたずらっぽく笑うと、楓は歩調を早めた。


「ちょっ待ってよ」


「早く! 早く!」


 散歩と言うよりは、ジョギングに近いスピードで歩いて行く楓の後を、僕は慌てて追いかける。そして、瀟洒なマンションの前に着くと、そのまま楓は中に入って行った。


「勝手に入っていいの?」


 楓は僕に「いいの」とだけ言うとオートロックのナンバーキーを素早く押し、僕に手招きをしながらエントランスに入って行く。


 楓に追いつくと、丁度エレベーターの扉が開く所で、楓は素早く中に入り、僕も慌ててそれに倣う。そして楓は最上階のボタンを押した。


 エレベーターの中には、少しだけ息が上がって荒くなった二人の呼吸音だけが響いていた。狭い空間に二人だけでいると、楓の存在感が増してきて息苦しくなる。僕はその空気感に耐えきれず口を開いた。


「ここって何なの?」


「いいから、いいから」


 そう言ったっきり楓は黙ってしまった。そうしている間にも、エレベーターは最上階に近づき、スピードが緩くなっていくのを体で感じる。そしてエレベーターは最上階に着くと、音も無く扉は開いた。


「こっちこっち! 早く!」


 楓は僕を急かしながら、エレベーター脇の階段を駆け上って行く。僕も後を追って階段を上がると、そこは行き止まりで、頑丈そうな扉と少し小さめの窓が有るだけだった。


「ちょっと待ってて」


 楓はそう言うと窓の錠を外し、器用に壁をするすると登る。その時スカートの中が見えそうになり、僕は慌てて目を逸らした。そしてもう一度窓の方を見ると、そこには楓の姿は無く、開け放たれた窓が有るだけだった。楓はどうやら窓の外に抜け出したようだ。それは、小柄な楓だから出来たので有って、普通の大人には無理そうな芸当だった。


 そこに取り残された僕は、これはどう言う事なんだろうと考えていた。それから程無くして、扉の方からカタンと小気味の良い音がすると、目の前の扉が開いた。


 そこには、夕焼けの空を四角く切り取った空間を背に、こちらに手招きをしながら立っている楓がいた。僕はその光景の美しさに、一瞬我を失った。


「早く早く! 沈んじゃうよ!」


 楓に促され、ぼうっとしていた僕は、朱い世界に足を踏み入れる。そこはこのマンションの屋上で、見える景色から、このマンションがかなり高層である事が伺えた。


 全てが朱く染まるその世界では、そこに有る全ての物の輪郭があやふやで、何だか、物も人も全部が一つになってしまったかのような錯覚に陥った。横目で楓を見ると、やはり世界と楓は一つになったように思えた。


「——ここね、嬉しい事や悲しい事が有った時、このくらいの時間によく一人で来るんだ。——此処では全部が一緒なんだよ。人も物も空も見える物全部が朱いの——綺麗も穢いも無い。全部まっかっか」


 楓の言った言葉に、僕は黙って頷いた。この場所にこれ以上の言葉は必要無いと思えた。やはり、僕と楓は似ている。そんな気がした。やがて日は沈み、ビルの窓に明かりが灯り始めた頃、僕達は屋上を後にした。そして階段を降りると、エレベーターに乗り込み、楓は一階では無く五階のボタンを押す。


「ここって、楓の住んでるマンション?」


 少し考えれば分かる事だった。住人しか知らないはずのオートロックのナンバーキー。屋上への抜け道。そして、五階のボタン。


「言ったでしょ。今日はお祝いしようって」




 僕は自慢じゃ無いけれど、今まで女の子と付き合った事なんて一度も無い。だから、楓が招き入れるこの扉の向こう側に、何が有るかも分からないし、そこにやたらと少女趣味なぬいぐるみや、カーテンが有ったとしても、僕は驚かない様に少しだけ気構えた。


「お邪魔します」


 少し緊張しながら、表札の無い玄関の扉をくぐり抜け、そこに足を踏み入れた時の僕の感想はこうだった。似ている。


 楓の部屋は、驚く程に僕の部屋と似ていた。それは置いてある家具が同じ物だとか、照明や電化製品が同じ物だとか、そういう物質的な意味では無くて、もっと本質的な、雰囲気や空気感がものすごく僕の部屋と似ているように思えた。


 僕を取り巻く緊張の衣は、いつの間にか薄くなって消えていった。それはまるで、僕の存在が楓の部屋の中に溶け込んでしまったかのようだった。


「そこに座ってて」


 楓は、リビングに有るソファーを指差しながら僕に向かって言うと、そのままキッチンで何事かを用意し始める。部屋の中を何と無しに見ていると、目の前のテーブルに、オレンジジュースが置かれた。


「——あまり見ないでね。散らかってるから。取り敢えずジュースでいいかな?」


「あっ、うん。ありがとう。て言うか全然散らかってないよ。凄く片づいてる」


 僕はそう言いながら、本棚を眺める。


「もう少し準備に時間がかかるから、適当に読んでていいよ」


 僕が本棚を見ている事に気が付いたのか、キッチンの方から楓の声が掛かる。本棚には、漫画や小説等が並んでいて、タイトルはどれも僕の好きな物ばかりだった。端から順に背表紙のタイトルを眺めていく。その中に一際草臥れた文庫本が有るのを見付けた。


 僕はその本を手に取る。夏目漱石の『こころ』だった。僕の脳裏に過去の記憶が蘇る。その日僕は、自分の席で本を読んでいた。


「佐伯! 何読んでんだよ!」


 暴力的な声に僕は萎縮する。本に落としていた視線を上げると、そこには高校の制服をだらしなく着た、クラスのゴミがいた。


「小説だよ。夏目漱石。武田君も読むかい?」


 引きつった笑顔で僕は答える。ゴミにへつらう僕は、ゴミ以下なのか。


「誰が読むかよそんなもん。そんな事よりちょっとこっちに来いよ」


 僕に拒否権は無い。半ば強制的に教室から連れ出されて行くが、誰もこちらを見ない。人気の無い校舎の裏まで連れて来られると、そこにはさらに数名のゴミがいた。


「持って来たか?」


 ゴミの話す言葉は、ゴミ専用の教科書でも有るのかと疑ってしまう程、毎回同じ内容だった。金を貸せ、金をくれ、金、金、金、金……。


 僕はお前達のATMじゃ無い! 心の中で何度と無く叫んだ言葉。でも結局一度も叫べなかった。僕から金を取れなくなると、やがてゴミ達は僕をいたぶり始めた。始めのうちは、痛みが恐くて亀のようになって耐えていた。でもそれが続いていくうちに、僕は痛みと友達になる事が出来た。いや、友達にならざるを得なかったのかも知れない。ゴミ達から暴力を受けると言う事は、相変わらず精神的には辛いものが有ったが、自分で自分の事を傷付けるという勇気が無い僕は、ゴミ達からの暴力を受け入れた。それは、心の中で僕の何かが壊れてしまった証拠なのかも知れない。いや初めから壊れていたのか……。


 治りかけの傷を見ながら、僕は何故か安堵していた。瘡蓋を剥がした時の、血が滲むその瞬間が好きになってしまった。暴力に対して抵抗しなくなった僕の事を、ゴミ達は気味悪がって次第に離れて行った。僕はゴミ達からは開放されたが、逆に痛みと傷という友達から束縛されるようになった。


「ユズキ?」


 楓の声に我に返ると、リビングのテーブルの上には、簡単ではあるが、楓が一生懸命作ってくれたであろう料理が華やかに並んでいた。


「これ、楓が?」


「そう……味、自信無いんだけど良かったら食べて」


 僕は本棚に本を戻しながら言う。


「信じられないよ。——こんな事家族にだってしてもらった事は無いよ」


「冷めないうちに食べようよ」


 楓は笑いながら言うと、ソファーに座った。僕も楓に促されて楓の横に座ったが、二人で座るには楓の部屋のソファーは少しだけ狭くて、楓の体に僕の体は自然と触れてしまった。


 人間のパーソナルスペースは三十センチ程度だと聞いた事がある。でも今僕達の距離は、三十センチどころか一ミリも無い。楓の言うテリトリーって一体なんなのかな。


 楓は、僕の事を意に介さない感じで御飯を食べていたけど、僕は緊張で料理の味を味わう余裕が無かった。時折楓から言われる、美味しい? と言う問い掛けにも、うまく応えられていたかどうか僕には自信が無い。それから食事も粗方終わり、楓はテーブルの上を片付けると、キッチンの方から小振りなケーキを持って来る。


「これは買ったやつだから美味しいと思うよ。料理はあまりお気に召さなかった様だから……」


「いや、そう言う訳じゃ無くて、その、ちょっと緊張してて、味がわかんなかったと言うか……」


 僕が慌てて取り繕うと、楓は冗談だよと言って、いたずらっぽく笑った。僕の胸の奥の方で、何かが音を立てて動く。


「就職おめでとう!」


 オレンジジュースで乾杯してケーキを食べる。二人で食べるケーキは、とても甘くて美味しかった。




「——夏目漱石好きなの?」


 ケーキを食べ終わって、久し振りに摂った甘い食べ物の余韻に浸っていた時だった。楓は、フォークの先で皿に残った生クリームをつつきながら、なんて事無い感じで言った。


「——好きって言うか、高校の頃よく読んでたんだ。だからなんか懐かしくて」


 楓に、僕の中の暗い部分を触れられた気がして、心の中がざわ付く。


「私は好き。特にこの『こころ』って言う本が——この本の中の先生みたいに、死にたいなんて思った事は無いけれど、自分の中の暗い部分を、人に話せたらどんなに楽かなって思うよ」


 僕の戻した本を手に取ると、楓は静かに言った。楓の中に、深い闇を見た気がした。楓は、パラパラとページをめくるとそのまま本棚に本を戻す。重苦しい雰囲気に、僕は耐えきれず口を開いた。

「楓って名前なんて言うの?」


「——私、自分の名前嫌いなんだ。だから言わない。ユズキにだって名前訊かないでしょ?」


 恐い位の沈黙の後、楓はポツリと言った。僕は玄関の表札に名前が無かった事を思い出した。迂闊だった。何が楓と僕は似ているだ。何も分かっていないじゃないか。


「ごめん……」


「——テレビでもつけよっか」


 楓はそう言うとテレビをつける。テレビの中では、出演者の無知ぶりを、意味も無く晒してははしゃぎ回るクイズ番組が放送されていた。テレビから漏れる笑い声に合わせて、僕は渇いた笑い声を上げるが、重苦しい雰囲気が更に増しただけだった。


 部屋の中にはただ意味も無く、テレビの馬鹿げた笑い声が鳴り響いていた。今日はもう帰ろう。そう思い、楓に礼を言おうとした時、楓は口を開いた。


「あのさ……私ね。親いないんだ」


 突然の告白に僕は驚き、何と言えば良いのか分からなかった。楓は、僕の目を真っ直ぐに見て更に続ける。その目からは、ある種の覚悟が見てとれた。


「——この話するのって、ユズキが初めて。出会ってまだあんまり経ってないのに話す事じゃ無いかも知れない。もしかしたら、ユズキは私の事嫌いになるかも知れない。でも、後になって私の事分かって嫌われるくらいなら、今言って終わりにしたい……わがままかな? もし嫌ならここで話は辞めるし、二度と話さない」


 楓の目は少しだけ潤んでいた。


「——僕は、楓の事をもっと知りたい。それに……ごめん。なんて言ったらいいか分からないよ。でも受け止めるよ楓の事」


 本当にそうなのか? テレビや何処かで聞きかじった耳当たりの良い台詞を、僕は並べて立てているだけじゃないのか?


 楓の告白。親がいない。あの日新宿で見た光景が、頭の中ををかすめる。楓は普段何をしているのか? 仕事は? このマンションって? ——僕は聞きたいのか、それとも聞きたく無いのか、自分で自分の気持ちが分からなくなる。


「ありがとう。……それじゃあ話すね」


 そう言うと、楓は昔を思い出すように、首を傾げ少し斜め上を見た後、少し俯いて静かに話し始めた。僕の思惑など知らずに。


「私、児童養護施設で育ったの。物心ついた時には施設にいたと思う。その前の記憶、あんまり無いからよく分からないけど。多分本当の親に捨てられたんだと思う。そこでは、いつも一人で遊んでた。施設の先生ともいつまでも馴染めなかった。何でこんな所にいるんだろう。家に早く帰りたいっていつも思ってた。でも、いつまで経っても誰も迎えに来なかったから、私は捨てられたんだってすぐに分かった」


 楓は、少しだけ肩を震わせた。


「それで、八歳か九歳くらいになった時、私の事を面倒見たいって言う人が施設に現れたの。その人は、小児科の個人病院を営んでいて、子供の育成支援をボランティアでやってるって言う触れ込みで、施設にやって来たのね。施設の先生には、奥様を病気で亡くしてその奥様の最期の頼みで、『沢山の子供を幸せにして欲しい、二人の間に出来なかった子供の代わりにお願い』なんて言われたから、このボランティアを始めたとかなんとか言ってたと思う。施設の先生それ聞いて泣いてたよ」


 楓の口振りに、やや険しさが籠もり始める。


「その人は、とても優しい声をしていたの。そして、とても優しい目をしていたの。私は単純に、新しいお家が出来るんだ。新しいお父さんだ。なんて思ってた。学校でも、私のお父さんお医者様なんだよって、自慢したりなんかして。馬鹿だよね……」


 その場の空気の異常な緊張感からか、僕の喉はからからに渇いていた。


「施設の先生は、私の事をやっと厄介払いが出来るくらいに思ってたんじゃないかな? 私が出て行くって決まった時、踊り出しそうなくらい喜んでたもの」


 楓の目が虚ろになっていき、楓がどこを見ているのか、僕には分からなかった。


「その人の家に初めて行った時思ったの。こんなに大きな家に住めるなんて、私は幸せだって。でその時、私は訊いたの。奥様の写真は無いですか? 一言お礼が言いたいですって。じゃあその人は、思い出すと辛いからまた今度見せてあげるって言ったの。それからその人、結局奥様の写真は見せてくれなかった。今となっては本当にいたのかどうかも怪しいんだけど、多分いなかったんだと思う」


 僕の耳には、楓の声以外何も聞こえなくなっていた。


「その人は私に色んな物を買ってくれた。綺麗な服、綺麗な靴、可愛い帽子……そして、可愛い下着。その人は、私に一番似合う物を知り尽くしていたみたいだった。その人は中でも赤い色が好きみたいで、よく言ってたのは、お前は赤い色がとても似合うだったかな。その時はとても嬉しかった。私だって女の子だから、皆と同じようにオシャレだってしたかったしね。でも、新しい服を買ってもらった時は、必ずその人の前でプチファッションショーをさせられた。で、決まってその人は私に言うの。綺麗だね。素敵だねって。普通自分の子供に言うなら可愛いとかだよね」


 自嘲気味に楓は笑う。


「ある日ね、その人が言うの。本当の家族は一緒にお風呂に入ったりするんだよ。だから今度一緒にお風呂に入ろうって。私は咄嗟には答えられなくて、黙ってた。そしたら、その人少し恐い顔になったから、私はまた今度ねって言ったの。するとその人はすぐにいつもの優しい顔になったから、私は自分の部屋に逃げるようにして戻ったわ。私は次の日、すぐに友達のえりちゃんに訊いたわ。えりちゃんはお父さんとお風呂に入るの? って。そしたらえりちゃんが、たまに入るよって言うから、私はそんな物なのかなって思ったの。可笑しいよね?」


 急に問い掛けられて、僕はしどろもどろになり、かすれた声でごめんと言った。


 すると楓は「そうそうそんな感じ、あの時の私そっくり!」と言いながらキッチンに行き、オレンジジュースをコップに二つ入れて持ってきた。


「ありがとう……」


 僕は一気にオレンジジュースを飲み干した。運動もしていないのに拍動が激しくなり、もっと水分をくれと体が訴え掛けて来る。


「もう一杯飲む?」


 楓はそう言うと、僕の返事も聞かずにキッチンからペットボトルを持って来る。そして僕のコップにオレンジジュースを注ぎ、そのままテーブルに置いた。


「お代わり、自分でしてね」


 ペットボトルは全体に汗をかき、直ぐにテーブルの上に水溜りを作る。気温は涼しくなってきたとは言え、まだ湿度は高いようだ。


「何処まで話したっけ?」


 束の間の休息に、楓は終わりを告げた。楓の顔は、又曇り始める。そして僕の横に座ると、楓は続けた。


「ああ……お風呂だ。その人に、私がまた今度って言ってから、すぐにそのまた今度はやってきた。その日食事が済んだ後、その人は私にこう言ったの。今日はお風呂に入れる入浴剤を買って来たよ。薔薇の香りのする入浴剤だって。それからその人は、誕生日プレゼントでも持ち出すんじゃないかってくらいの笑顔で、食卓に入浴剤を置いたわ。入浴剤なんて使った事が無かったから、その時私少し嬉しかった。それから、机の上の食器も片付けないで、その人は私をお風呂場に連れて行ったの。その家のお風呂ってすごく大きいの。このリビングと同じか少し小さいくらい」


 楓は六畳程のリビングを振り返りながら言う。


「お父さんが体を洗ってあげよう。その人はそう言って私の背中を流そうとした。初めは、恥ずかしいからいいって言って拒否してたんだけど、その人の目を見て、ああ。これは断り切れないなって思って、私は仕方なく身を任せたわ」


 楓に拒否権は無い。僕と同じで。


「それからは、毎日その人とお風呂に入る事になったわ。入浴剤の匂いは毎日違った。私、今でも花の匂いなんか嗅ぐとあの時の事を思い出して吐きそうになる」


 そう言えばこの家は、芳香剤だとか香水だとかの匂いは全くしない。


「そして、ある日の事なんだけど、その日はいつもと違った。その人、私の体を洗い終わった後、後ろから私の体に抱き付いて来たの。私は恐くて言葉も出なかった。それで私の耳元で、その人は私に愛してるって言った。何処にも行かないでくれって言った」


 楓は体を震わせ、自分で自分の手首を袖の上から掴む。小刻みに震える手には、相当の力が掛かっている事が伺えた。僕に一体何が出来ると言うのか。

「私は何も答えなかった。何も答えられなかった。何も言えないでいる私の体を、その人は弄び、私は恐怖で身を凍らせた。そして、例えようも無い痛みが私の中で弾けて、気が付けば私の体は穢れていたの……」


 僕は、僕は、僕は……どうしたら。


「気が付くと私は自分の部屋にいたわ。もしかしたら、さっきの事は夢か何かだとその時思ったけど、身体の芯の方から伝わって来る痛みと違和感に、夢では無かったんだなって思ったのを覚えてる。私はどうしたらいいか分からなかった。その人、終わった後この事は誰にも言ってはだめだよって言ったけど、当然友達にこんな事を話せるはずも無いし、私は他人や友達と次第に話しをする事が出来なくなっていった。だから、この話するのユズキが初めて。——それから、自分の中に何か穢い物が流れている気がして、私は自分の部屋で自分の手首を切り裂いたの。その時死にたいなんて事は思わなかったんだけど、手首の傷口から流れて来る血を見ながら、これが全部流れて出ていったら、私は元に戻れるかも知れないって思って、すごく安心したのを覚えてる。それから、私は目を瞑った」


 僕は楓の手首を見ていた。


「そして次に目を開けたら、側でその人が泣きながら、何でこんな事をしたんだ! なんて言ってたわ。冗談にしたって笑えないよね。手首には綺麗に包帯が巻かれてた。そりゃそうよね、そこは病院だもん。——それから私は、そこで軟禁状態になったわ。そしてその人は私に言った。最近のお前は暗い。学校でいじめられているんじゃ無いか? って。自分の異常性の事は棚に上げてそんな事を言うその人の目を見た時、私は思ったの。この人壊れてるって。それから私は、学校にも行けずにずっと自分の部屋にいたんだけど、その人毎日のように私の所に来て、治療だなんだって言って私に言うの、すまなかった。お前がこんな事をしたのは、私の愛が足りなかったのだなって。そして、私を穢した。そのうち私は考える事をやめたわ。自分の心を騙し続ける事でどうにか自分を保ってた」


 胡乱な表情から、楓の中の闇がとてつも無く深い物だと思った。そしてその男を、僕は憎んだ。


「それからは、どうしようも無く不安で仕方なくなった時、私は手首を切った。もちろん刃物は取り上げられてたから、鏡なんかを割ったりして、刃物に替えたけど。そして治療される。それの繰り返し。それからどのくらいそんな生活が続いたかな? ある日、学校に行って無いって連絡が、私の元いた施設に入ったんだと思う。施設の先生がやって来て、何かその人と話してた。で、施設の先生が帰った後、明日からはちゃんと学校に行きなさいってその人言うの。びっくりだよね。言ってる事とやってる事が違い過ぎるよ。それからその人少し慎重になったわ。でもその人、私からは決して目を離さなかった。学校には、必ず送り迎えをするし、私に逃げ道は無かった。その送り迎えは、中学を卒業するまで続いたわ。でも、私が大きくなっていくに連れて、段々と、その人の興味が私から無くなっていくのが分かった。私の部屋に来る事が少なくなって来てたし、前みたいに気持ち悪い事も言わなくなってたきてたしね。そして私が高校生になる頃には、私の事に全く興味が無くなったのか、私が何処で何をしようが何にも言わなくなっていったた。要するに、ただのロリコン変態親父だったのね。だから私は、その人が病院で働いている隙に、お金持って逃げ出したの。お金がしまって有る金庫の場所は知ってたし、鍵も何処に有るかちゃんと調べてたしね」


 自分の言ったロリコンと言う言葉が可笑しかったのか、楓は少し笑うと、オレンジジュースを一口飲んだ。


「はあ……自分の事話すのって結構疲れるね」


 僕は黙って頷く。


「少し眠ってもいいかな? ちょっと疲れちゃった」


 そう言うが早いか、楓は座ったまま静かに寝息を立て始めた。部屋の中には、楓の立てる寝息と、テレビの音だけが響いていた。テレビはいつの間にか夜のニュースの時間になっていて、今年も紅葉の季節がやって来ましたと、アナウンサーが告げているところだった。


 画面には、赤く色付き始めた山が映っていて、赤く染まるもみじの葉が映ると、血で赤く染まる楓の手を想像してしまった。


 僕はテレビを消すと、楓を起こさぬように、そっとソファーに寝かせた。僕は、楓の抱える深い闇の前に、殆ど何も言えずに、ただ頷く事しか出来なかった。


 静かに眠る楓の顔を覗き込む。この幼い寝顔を見て、誰が楓の中に潜む闇に気づく事が出来ると言うのだろうか。楓の持つ暗い過去に比べれば、僕の過去など、取るに足らないありふれた闇だった。そんな楓に僕は似ているなどと言ったが、とんでもない勘違いだったのかも知れない。




 僕は何時の間にか寝てしまったようだ。僕が目を覚ますと、楓はまだ寝むっていた。僕は何気なく楓の事を見る。すると楓の服の袖が少し捲れていて、僕の目に手首の傷が突然飛び込んで来た。先程は見えていなかったから、寝相を崩したのかも知れない。僕はその傷から、目を逸らせる事が出来なかった。傷口には、歪に形成された瘡蓋が有った。


 楓の手首に触れてみたい。楓の傷に触れてみたい。楓の瘡蓋に触れてみたい。——僕の頭の中はその事で一杯になる。陶器の様に白くそして細い手首は、ヨーロッパの彫刻を思わせる妖艶さが有った。そしてその完璧な手首には、歪な傷が何本も横切っていて、それがより一層手首の美しさを引き立てている気がした。


 僕は葛藤に逆らうように、違う事を考え始める。


 これは楓の手じゃ無い。作り物の何かだ。僕は、美術の教科書で見たミロのヴィーナスを思い出す。果たしてミロのヴィーナスが完全な形で発見されていたら、人々はそこまであの裸婦像に魅了されたのだろうか。美しい物が壊れていく様に、興奮を憶えない者はいるのだろうか。真っ白な雪原に一番初めに足跡を付ける。薄く張った傷一つ無い湖面の氷に亀裂を走らせる。——楓の言う男は、美しいものに傷を付けたかっただけなのか。それとも……違う! 僕の中に芽生えた異常性を慌てて否定し、自分で自分を嫌悪する。僕は異常なのか。先程憎んだ男と、自分を重ね合わせるなんて。


 ふと気が付くと、僕の手は楓の手首の傷に触れていた。触れてしまってからは、僕の理性は何処かに吹き飛んでいってしまった。


 僕は、僕自身の事を罵りながら、それでも抗う事の出来ない本能に驚愕した。指の先に伝わる瘡蓋の硬く乾いた感触は、楓の柔らかい肌からは孤立していたが、その境界線は柔らかさと硬さの中間にあり、確かにその瘡蓋が、楓の物である事を実感させた。僕は、何度も、何度も、楓の瘡蓋を指でなぞった。このままでは、このままでは……。僕は不意に視線を感じて楓の顔を見る。楓も僕の顔を見ていた。——いつから? 思考が一瞬停止する。


「ごめん!」


 慌てて僕は楓の手首から手を離すと、即座に謝る。全身の血が逆流するかのような感覚に陥り、僕は激しく狼狽した。顔が熱を持ったように熱い。楓の無表情な目は、僕を捉えて離さない。身体中の傷が心臓の動きと伴って疼き始める。


 僕がもう一度謝ろうとした時だった。固く結ばれたピンク色の唇に、薄く切れ込みが入ったと思った瞬間、僕の耳には信じられない言葉が聞こえてきた。


「 ……触ってもいいよ」


「えっ?」


 あまりにもか細く、掠れるような声に、僕は訊き返してしまった。楓は僕の手を掴むと、自分の手首まで引き寄せる。僕は、自分の手が自分の物では無いような感覚になり、その成り行きをただ見つめていた。


 指先に楓の柔らかい肌の感触を感じる。楓は僕の目を真っ直ぐに見て「ユズキ触って」と言った。


 耳朶の奥が楓の声で震え、僕の背中にくすぐったい感覚が広がる。僕は楓の傷に指をあてると、静かに、そしてゆっくりと這わせた。


「——その傷。どうしたの?」


 不意打ちのように楓の口から放たれた言葉は、僕の耳には届いていても、それを理解するのに暫らく時間を要した。——どうやら楓は、僕の身体に付いた傷の事を言っているようだった。先日見た光景が脳裏にフラッシュバックされ、言葉の意味を理解した時、僕は楓の傷から手を離した。


「——階段で転んだんだよ」


 楓は僕の手を再び自分の手首まで引き寄せる。


「嘘。階段で転んでもそんな傷は付かない。私の事は話したから今度はユズキが話してよ」


 楓はそれだけ言うと、僕の目を真っ直ぐに捉え、固く口を結んだ。


 楓は、僕の過去に有った闇の事を話せと言っているのか、それともこの傷の由来を話せと言っているのか。——それはやはり、傷の由来だろう。この傷の由来を話すと言う事は、先日見た光景の事を話さなければならない。それは即ち、楓のあの日の真実を知る事に繋がる。それは……、嫌だ。


「始まりは些細な事だったんだ。あれは高校生の時だった」


「何で高校の時の話になるの? 私はその傷の事を訊いてるんだよ?」


 僕は、いたずらが見つかった子供の様に顔を赤くして、楓から目を逸らした。


「痛っ!」


「これよ、この傷。どうしたの?」


 楓は僕の頬の傷を指でつつく。十七歳の女の子に翻弄されている事に、僕は恥ずかしさを覚えるが、嫌な気はしなかった。それにしても、何故楓は、そこまでこの傷にこだわるのか。


「ユズキ、もしかして二日前新宿にいた?」


「えっ?」


 僕は思わず楓の方を見る。


「やっぱりユズキだったんだ」


 何で楓は僕があの時新宿にいた事を知っているのか、もしかして尾行がばれていたのか? 僕は何も言えずに俯いた。


「もしかして、私が売春とかやってるって思った?」


 僕は応えない。応える事が出来ない。


「するわけ無いじゃん。そんな事。誰にももう私の身体には触れさせないって、私決めたの。だからそんな事しない。お金は持ってるし、自分で自分の事汚す様な事しないよ」


「じゃあ、あの時一緒にいた人は誰? 彼氏? いくらお金持ってるからって、このマンションだって僕のアパートとは大違いだ。家賃だって高いだろ?」


 楓は面倒臭そうに溜息を一つ吐くと、僕に話し始めた。


「まず、あの人は彼氏でも無いし、私の事を買った変態オヤジでも無い。あの人は私の仕事先のマネージャーで——ああ変態か。まあいいや。私が家を飛び出した時何が一番困ったと思う?」


 楓が困った事? お金は有る。でも。


「あっ、もしかして泊まるところ?」


「半分正解。私は家を飛び出した後色々考えたの。これからは一人で生きて行かなきゃならない。その為には、盗んだお金は出来るだけ使わずに働かなきゃって思った。でも、住所不定の十七歳なんか誰も雇ってくれないから、毎日カラオケBOXなんかを渡り歩きながら、昼間はネットカフェで住み込みの仕事探してた。そんな時あのホテルの求人を見つけたの。従業員寮完備、学歴不問、年齢十八歳から。私はこれだって思ったの。年齢なんてごまかせるって思ってたし実際ごまかせた。後、このマンション新しくて綺麗でしよ? でもね、欠陥住宅なの。違法建築。何年か前に流行ったじゃ無い? 一級建築士が絡んでたってやつ。あれさ、ばれたのって一部だけなんだって。でも持ち主からしたら、いつばれないかってヒヤヒヤもんだよね。そこで私が働いてるホテルの親会社が、安く買い叩いて寮にしてるって訳。ホテルで働いてる人にキャバクラ、風俗、そっち関係のいわく有りそうな娘、このマンションにいっぱい住んでるよ。親会社は……まあ分かるよね。ちょっとダーティな会社なんだ」


 楓の話を聞いていくうちに、胸につっかえていた違和感が消えていくような気がした。そして僕は、完全にその違和感を消してしまおうと、ぬるくなったオレンジジュースを飲み干した。


「で、ユズキの事痛めつけた人ね、河合さんて言うんだけど、あの人から、今日変な奴がいてさって話聞いてて、その時はそんな人いるんだくらいに思ってたんだけど、今日ユズキの事見てもしかしてって思ったのね。で、ユズキにカマをかけたら、やっぱりかって感じ。あの人悪い人じゃ無いんだけど、ちょっと気が短いの」


 僕は、缶コーヒーをくれた人相の悪い男の事を思い出し、楓の言う悪い人では無いという言葉に、心の中で同意した。同じ暴力に違い無いのだが、なぜか、高校の時の奴らとは違う気がした。


「何であんな事したの?」


「え?」


「だから何で、私の事つけたりしたの?」


 楓は、容赦なく僕の心の中に有るものに揺さぶりを掛けて来る。


「そ、それは……気になるじゃ無いか。知らない男の人と並んで歩いてるなんて」


「何で? 私たち付き合っても無いし、知り合ってからそんなに経ってないよ?」


 楓は、これは面白いおもちゃを見つけたと言わんばかりのニヤニヤ顔で、僕に更なる攻撃をしかけてくる。


『大魔導師ユズキは356のメンタルダメージを受けた!』


 頭の中に、ゲームの世界の文字が踊る。僕のライフゲージはもうまっかっかで、既に瀕死状態。


「僕は……」


「私の事、好きなの?」


 ——そしてライフゲージは『0』になり、僕の世界は真っ白に染まった。


「まだ終わってないよ? 始まりは些細な事だったって何? 高校の時何が有ったの? 私の事だけ聞いておいて、だんまりは許さないよ。おーい、ユズキくーん? 聞いてるかーい」


 楓が僕の頬の傷をつつきながら、追い討ちを掛けて来るが、僕の世界は真っ白のままだった。それから僕は、楓に追い詰められ、促されるままに自分の高校時代の事を話した。楓の持つ深い闇に比べれば、僕の闇など大した物では無いかもしれないが、それでも楓は黙って聞いてくれ、話が終わると、僕の傷を優しく撫でてくれた。


「やっぱり私達って似てるね」


 そう言うと楓は笑った。僕は完全に楓の事を好きになってしまった。

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