七夕の日の出来事
今日は七夕で、金曜日ということもあり、夕方の商店街はいつもより人通りが多い。どの店先にも色とりどりの飾りを付けた華やかな笹が立てられている。その間を家族連れや恋人たちが楽しそうに歩き、ときどき立ち止まっては買い物をしたりしている。これから七夕パーティーでもするのだろう。僕はそんな様子を眺めながら、悲しい気持ちでとぼとぼとアパートへの帰り道を歩いていた。するとそのとき突然、聞き覚えのある女性の声が聞こえてきたのだった。
「七夕パーティーにちらし寿司はいかがですか」
僕ははっとして、声のした方向を見た。寿司屋の前で若い女性の店員がパック入りのちらし寿司を売っている。それはたしかに彼女だった。
「香織!」
僕が驚いて叫ぶと、女性はこちらを向いて、ぽかんとした顔をした。僕は急いで近づいていった。
「香織! 香織だよね!」
女性は困惑の表情を浮かべている。
「いえ、あの、私は香織という名前ではありません。人違いです」
そこで僕は我に返った。そうだ。この人が香織のはずはないのだ。なぜなら、香織はもうこの世にはいないのだから。それにしても、顔も声も本当に香織にそっくりだった。
「そうですよね。すみません」
僕は謝って、ちらし寿司を一パック買った。ちょっと大きめで、二人分ぐらいある。一人で食べるには多すぎるが、余ったら明日の朝食にすればいい。
金を払ってレジ袋に入れられたちらし寿司を受け取ると、僕はまたとぼとぼと自分のアパートへ向かって歩き出した。そうして、一年前の七夕の日のことを思い出すのだった。
一年前のその日、僕は自分のアパートで香織と一緒に七夕パーティーをすることになっていた。七夕の日には素麺を食べるのが慣習らしいが、夕食に素麺では物足りないので、香織はちらし寿司を作るといって張り切っていた。
僕は自分の部屋で唯一の得意料理であるビーフシチューを作りながら、香織が来るのを待っていた。しかし、約束の六時を過ぎても香織は来なかった。ケータイに何度も電話したが繋がらない。急病で倒れでもしたのだろうか。僕は不安に襲われ、彼女の住むマンションまで行ってみることにした。
アパートを出てしばらく夜道を歩いていると、途中に人だかりができていた。
「何かあったんですか?」
「車が暴走して歩道に突っ込んだらしいのよ。何人か歩行者がはね飛ばされたみたいで、本当に怖いわね」
僕は急に心配になった。まさか香織が巻き込まれたんじゃないだろうな。近くに警官がいたので尋ねてみると、五人の歩行者が救急車で病院に運ばれたという。僕はもしかしたらその中に知り合いがいるかもしれないことを告げて、香織の名前や特徴などを話した。
それから僕は香織のマンションへも行って呼び鈴を押してみたが、やはり返事はなかった。しかたなく自分のアパートに戻り、僕は不安な気持ちで待ち続けた。すぐに香織が平気な顔をして、ちらし寿司作るのに時間かかっちゃった、などといいながらやってくるのをひたすら願いながら……
香織が搬入された病院で息を引き取ったという連絡を受けたのは、その日の深夜のことだった。
一年前の七夕の日の悲しい出来事を思い出し、僕は急にさっきの店員がやはり香織だったのではないかという気がしてきた。もちろんそんなことはありえないと頭の中ではわかっていたが、どうしてももう一度、彼女に会って確認せずにはいられなくなった。
急いでさっきの店の前まで駆け戻ると、女性の店員はまだちらし寿司を売っていた。
「あら、お客様、どうなさいました? 先ほどの商品に何か問題でもございましたでしょうか?」
女性の顔を見ると、さっきの店員とは明らかに別人だった。
「あ、あのう、さっきここにいた店員さんは?」
そう尋ねると、女性は怪訝そうに答えた。
「はい、私ですけど……」
背格好はたしかに同じだが、顔や声はまったく違う。さっきはぼーっとして歩いていたので、この人が香織にそっくりに思えてしまったのだろうか。不審な顔をしている店員から、僕はしかたなくちらし寿司をもう一個買った。
「ありがとうございました!」
明るく礼を言う女性の声は、やはり香織とも、またさっきの店員とも違っていた。
不思議な気持ちでアパートに帰り部屋に入ると、中に誰かいる気配がした。明かりを点けると、座卓の前に香織が座っていた。
いや、そんなことがあるはずはない。僕は目をこすって頭を何度か振った。だがやはりそこにいるのは香織だった。
「香織……香織なのかい?」
「そうよ、夏彦さん。今日は七夕の日、私の命日だから、帰ってきたの」
僕は香織の顔をじっと見つめた。たしかに一年前の香織の姿だった。
「さあ、私の作ったちらし寿司を一緒に食べましょ」
「ちらし寿司って、どこにあるんだい?」
「ほら、あなたがさっき買ったじゃないの。あれ、私が作ったのよ。店員さんにちょっとの間だけ取り憑いて、あなたに買ってもらうようにしたの」
それであの店員の女性が、最初のときだけ香織にそっくりに見えたのか。僕はやっと理解した。
「きみは幽霊なのかい?」
「幽霊といえば幽霊ということになるわね。私は去年の七夕の日に事故に遭って、せっかくあなたのために心を込めて作ったちらし寿司を届けることができなかった。それが心残りだったの。その強い想念が私を今日ここに現したのよ」
僕はさっき香織にそっくりの店員から買ったちらし寿司を取り出した。よく見ると、たしかに普通の店で売っているのとは違う手作り感があった。あとで買ったもう一個のとは、なんとなく感じが違っていた。僕たちは最初に買ったちらし寿司を二人で分けて食べた。
「香織、すごくおいしいよ。本当に、おいしい」
思わず僕の目から涙がこぼれ落ちてきた。
「夏彦さんにそう言ってもらえて、とってもうれしいわ」
こうして僕たちはいっしょにおしゃべりしながら、一年前の七夕の日に失ってしまった楽しいつかの間の一時を過ごしたのだった。
「これで私の思い残しも消えたけど、あなたのことがちょっと心配なの。あなたには幸せになってほしいから、はやくいい人を見つけてね」
「僕は情けない男だからね。こんな僕を好きになってくれる女は香織だけさ」
香織は小さく笑った。彼女もそう思っているのかもしれない。
「もし来年の七夕の日もあなたがまだ一人ぼっちだったら、こうしてまた来てあげるわ」
香織はそう言うと、目の前からすっと消えた。壁の時計の針は、ちょうど十二時を指していた。
僕は窓を開けて夜空を見上げた。はるか彼方で織姫星が明るく輝いていた。その斜め下で小さく光る彦星はまるで僕自身のように、なんとなく少し情けなさそうに見えた。