出会いⅤ
「来るって何が……テルン!逃げる準備!」
初めにフェガが気付き、後にメロンが気付いた。テルン達は一瞬何事かわからなかったようだが、すぐに事態を理解し、行動した。既に近くの大通りは騒がしくなっていて、タイムリミットが近いことを示していた。
「ねえ。みんな慌ててどうしたの?なにかまずいこと?」
流石に不安になったのか。いち早く準備を終え、何か大事なものを忘れていないか確かめていたテルンのコートの裾を、少女はちんまりと掴んでいた。
「もうすぐ王立軍がここにやって来る。俺たちが逃げられないように取り囲むつもりだろう。そうなる前にここから脱出するんだ」
「そっか……。でも、どうして逃げるの?おうりつぐんの人達が悪い人なら、テルン兄ちゃんがやっつければいいじゃん!朝の時みたいに!」
「……今は時間がないから説明出来ないけどな。簡単に言うと、王立軍は悪者じゃないよ。逆に追われる俺たちが悪者かというと、そうでもない。そういうことだよ」
少女は首を傾げた。簡単に分かることではないし、割り切れることでもない。今すぐ理解する必要はなかった。
そして、テルンは思いついた。
「お前さ、ここに残ってろ」
「テルン兄ちゃんも残るの?」
「いや、俺たちはさっき言ったように、ここから出て行く。お前はここに残って、王立軍に保護してもらうんだ。元々、身元が分からなかったら、王立軍に預けるつもりだったからな」
少女は明らかに不満そうな表情を見せ、テルンの服の袖を掴む。
「……わたしはテルン兄ちゃん達と一緒にいたい」
「駄目だ」
「どうして!」
テルンは少女が泣きそうになっているのを見て申し訳なくなったが、情に流されまいと自分を鼓舞した。
「俺たちはこの通り、追われる身なんだ。捕まれば、まあ、無事じゃ済まない。最近はまだ平和だったけど、こんなことは珍しい方だ。わかっただろ?俺たちと一緒にいれば、お前も仲間だと思われる。そうすれば、お前も追われるんだ。俺たちは自分のことで精一杯になる。誰かを守るなんて余裕なんて、誰にもないんだ」
「それでいい。わたしも、わたしの身は自分でまもる」
「聞き分けのないことをいうな!いいか——」
「テルン急げ!もう時間がないぞ!」
既に四人とも準備を終え、今すぐにでも飛び出せる状態になっていた。
「行くぞ! じゃあ、元気でな!」
「あっ! 待って——」
「おいどうなってんだよこれ! 開かねーぞ?」
ドアを乱暴に叩き、ドアノブを回す音が室内で暴れまわる。突然の事に、テルン達は思わず身構えた。
「もう王立軍⁉ いくらなんでも早すぎるよ!」
「違う、外からじゃない。そこだ」
唯一落ち着いていたフェガが指さしたのは、廊下に通じるドアではなく、バリケードの方だった。
「グリー! あんたなんで閉じ込められてるんのさ!」
「……ごめんリオ姉、フェガさん。今は何も言わずに、これどかすの手伝って」
簡単にいえば、今までグリーのことを、完全に忘れていたのである。さらに言うならば、今までグリーは寝続けていたということだ。酒を飲ませてもらえずに、ふて寝していたのである。
「ここの宿にテルン・デパーニアがいることは分かっている!ボロい宿だ。どこに隠れているか分からん! 徹底的に調べ上げろ!」
「誰がボロ宿だ! 王立軍だからって好き勝手言ってんじゃねぇぞ!」
「なんだお前は! おい! こいつも何か情報を持っているかもしれん。拘束しろ!」
「ふざけんじゃねぇぞおらぁ!」
階下からの激しい怒号が、部屋に飛び込んでくる。プシノが外を確認してみると、既に王立軍が宿の周りを取り囲み、宿への立ち入り禁止、および脱走者の捕獲を始めていた。
「テルンさん。王立軍は宿に居る者を、片っ端から捕まえているようです。今は宿主さんが時間を稼いでくれていますが、時間の問題です」
「もう少しだ……。よし! 出発するぞ!」
「ちょっと待て俺の荷物が」
「どうせほとんど酒だろ! また買えばいい!」
泣く泣く酒を諦めるグリーは、せめてこれだけはと手近な酒瓶を胸に抱えた。
「もう退路がないからな……みんな、一度屋上に上がるぞ。窓からなんとかよじ登れ!」
順番に上がり始め、テルンはそれを手伝う。しかし、その様子は道から当然のように丸見えで。
「隊長! 見つけました! あの部屋です!」
「もうこの男は放っておけ! 奴らは屋根を伝って逃げるつもりだ。絶対に地面をふませるな! 屋根を伝って動ける場所など限られているからな。囲んで一網打尽にしろ!何人かは俺について、あの部屋に突撃しろ!」
王立軍兵士は奮起し、街中に届くような叫び声は、百獣の王の咆哮さながらであった。十数もの人間が宿に突撃する。
一人、二人と屋根に上がり、部屋に残ったのは、少女とテルンのみ。
「じゃあな。元気でやれよ」
少女は下を向いたままで、その表情はわからない。テルンは少女の頭をなで、窓枠に手をかけた。と、同時に。
木材の軋む音、いや、折れる音、地面に弾ける音。そして、重なる靴音。テルンは振り返る。王立軍は間に合ったようだ。
「いたぞ! 捕えろ!」
「テルン急いで!」
焦ったメロンは、テルンの手を掴もうと、屋上から必死に手を伸ばす。一斉に飛び込み、テルンに手を伸ばす兵士たち。
伸ばされた二方向の手。テルンはメロンの手を掴んだ——掴もうとした。しかし、その手は既に、他の手によって埋まってしまっていた。
「なっ!」
「引き上げるよ!」
手に掴んだ感触を得たメロンはフェガと協力し、力を籠める。かなりの重みを覚悟していた二人は、あまりの軽さに驚いた。そしてもう一度驚いた。引き上げられて見えてきたのは、黒ではなく、ブロンドだったからだ。
つまりは。
「テルン、そのまま飛びな!」
室内に取り残されたテルンは、リオの声の通りに行動し、兵の群がる大通りに飛び出した。指示がなくとも、そうせざるをえなかった。一瞬でも判断が遅れたならば、王立軍に拘束されてしまうのだから。
「プシノ!」
「了解です!」
プシノは瞳を閉じ、意識をテルンに集中させた。プシノは今、世界の一部であるフィリアに干渉し、変化させた。『魔術ユースフィリア』によって。
「テルンさん、行きます!」
宙に浮くテルンの身体は、重力に逆らい急速に上昇し、まるで風に攫われるかのような、そんな感覚をテルンに与えた。
「プシノグッジョブ!」
テルンは屋上まで舞い上がり、無事に着地した。
テルン達からすれば、なんてことはない連携だった。しかし、野次馬と化していた、街の住人たちからすれば、ただならぬことだった。人間が空中でとまり、浮き始めるなどという事象は、奇跡以外の何物でもなかった。そして、群衆はその奇跡に驚き、呆然とし——恐怖した。
「近くに妖精ピクシーがいるぞ!」
「逃げないと街を焼かれちまう!」
「王立軍なんとかしろよ!早く妖精を見つけて殺してくれ!」
恐怖は強力な感染病のように、一気に広がる。そして、天地がひっくり返ったかのような、大混乱パンデミックを巻き起こした。
「皆さん落ち着いてください!落ち着いて!大丈夫です!我々が必ず排除します!兵士の周りから離れてください!」
狭い路地は、兵士と錯乱した情報によって逃げ惑う人々で入り乱れ、とうとう収集がつかない状態にまで進行してしまっていた。
テルン達が逃げ切るためには、絶好の状態。
「今のうちに逃げるぞ!全員散らばって——」
「少しだけ、待って貰えないか?ハル・アリア」
テルンの言葉を遮った声には、どこか無視できない危険が含まれているようで、テルン達は動きを止めた。
「そんな奴はここにはいないぞ。何度言ったらわかるんだ。——久しぶりだな。エドバ・エリト」
少し離れた屋根の上に、一つの人影があった。歳は二十代後半。目の眩むような金髪、それは背中の中程まで伸びていて、紫色の女物のヘアゴムで纏められていた。
鷲を象った王国の紋章が左胸に、エリト家の紋章が右胸に刻まれた、絢爛な鎧を身に纏っている。
ほんの少し釣り気味の眼は、髪と同じ色の輝きを持っている。遥か昔から王都の地に住んでいる人々の鼻は皆高く、王国に長年仕えてきたという証拠だ。つまりそれは、王都で贅沢に暮らす、貴族達の象徴とも言えた。
「少し野暮用でこの街に立ち寄ったのだが……まさか、まだ人間界にいたとは驚きだよ」
「もちろん逃げたさ。亜人界も妖精界も、なかなか悪くないところだった。お前も一緒にどうだ?頭下げるなら連れてってやるよ」
「生憎、私は王を守護するという大命を頂いている。名誉なことだ。そうやすやすと人間界を離れられんよ」
「まあそうだろうな。あー、それで、悪いけどさ。俺たちはそろそろ逃げるよ。元気でな」
テルンは一気に会話を終わらせ、通りの人混みに飛び込もうと態勢を整えた。全員がそれに従おうとした。
「別に逃げるのは構わない。ただ、誰か一人くらいは頂いていくよ」
途端、飛ぼうとして足に溜めた力を逃がす。テルンは意識を切り替えた。逃げる方向ではなく、立ち向かう方向に。
「俺があいつを足止めする。みんなは一度逃げろ。安全を確保したら、あとは任せる」
「でもっ!」
テルンの意図を読んだメロンは、一瞬の躊躇いをみせた。
「急にどうしたのだ?ハル・アリアよ。逃げるのではなかったのか?私としては望む限りではあるがね」
「どうして部下を連れていないのか、今何となく予想がついたよ。お前だけでも、ここで俺と遊んでもらう」
簡単なことだ。この街を脱出するにあたり、門を潜るため、必ず通らなければならない場所が数ヵ所存在する。その要所全てにエドバの部下が待ち伏せているのである。奴の部下を突破できれば問題はないが、それは容易ではない。派手な戦闘になれば、王立軍兵士も集まってきてしまう。テルンは追い詰められ、焦りが身体を支配していくのを感じた。
「そうか。最近では娯楽が少ない。久々に楽しめそうだ」
「リオ姉。ナイフを一本貸してくれ」
エドバは腰から剣を抜き放ち、テルンはリオから手渡されたナイフを構える。瞬間、場の空気が固まる。凍り付いたかのように、誰一人、動くことはなく。
「テルン兄ちゃん!」
固まったのが一瞬ならば、それが解けるのもまた、一瞬であった。急に飛び出したりしないよう、少女はメロンによって捕まえられていた。しかし、彼女の目には、何かしらの意思が宿っているようだった。
「危ないから離れてろ!メロン、その子の扱いは任せる!」
「ここから逃げるんでしょ?わたしに任せて!」
「……任せろって……」
「テルン兄ちゃん。メロン姉ちゃん。みんな。信じて」
少女は自分を捕まえていたメロンの手を、そっと外した。
「……もういいかな。これは確かに仕事だが、私にとっては快楽でもある。邪魔をしないでもらいたいものだ」
エドバは少しずつではあるが、確実に苛立ちを感じ始めていた。数少ない楽しみを先延ばしにされているとなれば、仕方のないことである。テルンはエドバの感情の変化を敏感に捕え、思わず身構えた。
「ここから逃げればいいんでしょ?どこか、遠いところに」
少女はエドバの言葉を聞かず、右手を挙げ、小さな身体を目一杯に使って、空に大きく真円を描くた。そしてその軌跡は、淡い光を放ちながら少女の目の前に降り立つ。
少女は目を閉じる。そして口からは彼女の物とは、この世の物とは思えない呪文のような音が溢れ出す。円の軌跡の中で光が強く明滅し、それは次第に禍々しさを帯びていく。
目を開けた彼女からは幼さがなくなり、テルンと出会った時とはまるで別人のようだった。
最後の仕上げとして、彼女は真円の中に六芒星を刻み込む。
その様子を誰もが凝視した。瞬きすら忘れて、食い入るように見つめていた。
六芒星が消え、真円が消え、そこに現れたのは——暗闇だった。
「『異次元門』⁉︎」
「馬鹿な!こんな場所に現れるはずが——」
「みんな急いで!」
少女は自分で作り上げた暗闇に、躊躇なく飛び込んだ。
「……俺たちも行くぞ!」
少女の行動に呆然としていたところを、テルンの掛け声で全員が自分を取り戻し、次々と暗闇に飛び込んでいく。
「……驚いたよ。こんなに早くお別れとはね」
「そう残念そうにするな。近々世話になる」
全員が入ったのを確認し、テルンが暗闇の中に消えると同時、『異次元門』は消失した。先程までテルン達が存在した痕跡など、跡形もなかった。
その場に残ったのは、大きな喧騒と混乱。そして、困惑する一人の男だけだった。