出会いIII
「ここだ」
「……ずいぶんぼろっちいね」
「お金がないからな。贅沢は敵だよ。あと、あんまり大きな声でいうな」
薄暗い小さなロビー——ロビーといえるかも怪しい——の片隅の椅子に腰掛ける強面の宿主がジロリと睨んだので、テルンはこっそりと少女を諌めた。
埃っぽく、ギシギシと軋む廊下を抜け、二階に向かう。我が家というと語弊があるが、現在の家はここなので、家というべき部屋に到着した。
昨日と同じように、不規則なノック。しかし、昨日のようにすぐにドアが開くということはなかった。
「おかしいな……」
もう一度、同じノックを繰り返す。この不規則なノックというのは、テルン達独自で決めたモールス信号のようなもので、つまり、知っている者からすれば規則的なノックなのだ。
それに反応がないので、テルンは自分が間違っているのではないかと焦り始めていた。
「おい!テルンだ!帰ったから開けてくれ!」
そういっても扉は開かない。もし呼びかけだけで開いてしまうならば、そもそも暗号めいたノックなど、必要ないのだから、開くはずもない。パニックというほどではないにせよ、テルンの落ち着きが失われているのは、火をみるより明らかだった。
「参ったな……この際窓から……え?」
「どちら様……?ああ、テルン。おかえり……その子は?」
寝ぼけた顔と猫耳が、扉からひょっこりと見えていた。
扉が開かなかった理由。それは単純に、部屋の住人が全員寝ていた、というだけのことだった。テルン達は徹夜だったので気づいていないが、まだ日が出てから一時間も経っていない。朝早くから仕事があるのであればともかく、テルン達一行は役割を持つ者以外、暇を持て余している。そんな彼らが早起きをするはずもなく。
「ああ、それはまたあとで。眠いから寝かせてくれ。お前ももうちょっと寝てろ」
「うん……そうする。おやすみ」
頭が回っていないのだろう。メロンは言われるがままソファに戻り、プシノを頭にのせて丸くなった。
「お前も寝るか?」
「テルン兄ちゃんが寝るなら、わたしも寝る」
亜人と敵対関係にある今、亜人が見え隠れするメロンの存在は、人間にとって忌避されるものだ。外に出るときはフードを被って耳を隠し、ケープの中にしっぽをしまわなければならない。そうしなければ、メロンは外で活動することができない。しかし、他人と関わること自体をメロン本人が無意識に避けているようなので、半亜人ハーフの存在を知りえど、実際に見たことのある者など、そう多くないのである。
この少女が半亜人であるメロンを見てなんの反応も示さないのは、随分と珍しいことだといって相違ない。テルンは不思議な感覚に陥ると同時に、簡単に少女を返せなくなってしまった、自分の失態に気が付いた。彼女を家に帰す場合、嫌でもこの街から出ていかなければならなくなってしまった。少女が家でこのことを話せば、たちまち王立軍が駆けつけ、面倒なことになるのは明白だからだ。こうなると寝ぼけていたとはいえ、メロンの行動はかなり軽率だったといえる。
「ああ、名前覚えたのか。お前は……なあ、本当にわからないのか?お前の名前」
「うん。わかんない。名前をもらったことなんて、今までなかったよ」
「普通、生まれたときに名付けてもらうもんだけどな……パパからはなんて呼ばれてたんだ?」
「『わが娘』って」
「また随分と変わった奴だな」
「そうなの?」
「ああ。じゃあママは?」
「ママのことはあんまり覚えてないの。パパからきいたことを少し覚えてるくらいだよ」
「……そうか」
地雷を踏んでしまったかもしれないが、少女は落ち着いていた。年相応に無邪気かと思えば、何かを悟ったような、落ち着いた面もみせる。そんな少女に、テルンは関心しつつ、同時に不気味な違和感を覚えた。
「俺もな、両親、えーと、パパとママの顔、覚えてないんだ。お前と同じで聞いた話なんだけど、母さんは俺を産んだ時に死んじゃって、父さんも仕事で……そうだな……まあ事故のようなことがあって。それからもまた、いろいろあったよ」
過去を思い出したのか、少し遠くをみるような眼をして、テルンは感傷に浸っていた。
「大丈夫?」
黙ってしまったので心配したのか、少女はテルンの顔を覗き込むように見上げていた。少女の碧い瞳はとても深く、それでいて澄んでいた。全てを見透かされているようで、テルンは反射的に目を逸らした。
「大丈夫だ。さあ、寝よう。お前も疲れたろ?」
「うん。ちょっと眠いかも」
ところが、テルンは一つ見落としていた。寝室に続くドアにはバリケードという名のタンスや食器棚が立ちふさがっており、動かすには大きな音を立てなければならない。そしてソファーでは、メロンとプシノがぐっすりと眠っている。残った場所はせいぜい床くらいのものだが、テルンも小さな女の子を床で眠らせるのは流石に抵抗があったようだ。
「仕方ない。椅子で寝てくれるか?二、三個並べれば横になれるだろ」
「テルン兄ちゃんはどこで寝るの?」
「俺はどこでも寝られるから。気にすんな」
ダイニングの椅子のセッティングを終えると、テルンは壁に背を預けて座り込んだ。目を閉じた瞬間、睡魔はすぐにテルンに襲い掛かったが、睡魔の攻勢はすぐに終わりを迎えた。
「テルン兄ちゃんも椅子で寝よ?」
少女の背はとても低く、テルンが座っても、ほんの少しだけ見上げる程度だった。
「子供は気を遣わなくていいんだよ。それに、椅子の数はそんなに多くないんだ。どっちにしたって、一人しか寝られない」
「そっか……ねぇ!ひざまくらしてよ!」
「膝枕?」
「うん。そしたら二人で寝られるでしょ?」
「……まあ、確かにそうだけど」
「決まり!ここに座って!」
テルンが椅子に腰かけると、少女はすぐに横になり、頭を預けた。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
すぐそこに睡魔の大群は待機していて、今か今かとテルンが油断するときを待っていた。テルンは自ら大群を招き入れ、深い眠りについたのだった。
* * * *
昼時の少し前、テルンは鼓膜をつんざくような、大きな悲鳴で目を覚ました。
元々眠りが浅いテルンは、本来小さな足音で起きてしまうこともしばしばだったが、前日が徹夜だったせいか、久々によく眠れていた。本来ならば、悲鳴が聞こえた時点で覚醒し、それとともに素早く起き上がり、敵襲かと警戒するところなのだ。しかし、今回はそうならなかった。顔を上げ、状況を判断するまでに少々時間がかかった。
おかげで、膝の上で眠る少女を床に落とさずに済んだのは、不幸中の幸いといえる。しかしテルンを待っていたその後は、幸いではなく災いだったが。
「テルン……何してるの?」
悲鳴はメロンから発せられたものだった。二度寝から目覚め、遅い朝食、もとい早めの昼食をどうしようかと考え、ダイニングに向かった。中に入り、机を挟んだ向こう側で椅子が横並びになっているのに気づいた。しかし、椅子がその状態であるにも関わらず、テルンは座ったままで寝ている。不思議に思い、机の向こう側を覗き込んだ——覗き込んでしまった。
「何って……なんだよ。何かおかしいか?」
「おかしいかって……テルン、訊きたい事はたくさんあるけどさ。テルンは知ってるかな。いくら好きなように生きるって言ってもね。守らなくちゃいけない一線ってものは、キチンとあるんだよ」
「ああ。そんなこと、俺だってわかってる。それが今関係あるのか?」
メロンの表情は烈火の如くであったが、テルンの態度はそこにさらに油を注いでいく。
「うん。関係あるよ。大ありだよ。でも、テルンはきっとわかってない」
「だから!何の話だ?ごちゃごちゃ言ってないで、はっきりしてくれよ」
「そっか……自分から気づいて、自白か懺悔か土下座か、もしくは何か命乞いをするかなと思ったけど——」
メロンの腕がすうっと上がり、一点を指さした。
「——なにさせてるの?ロリコン、テルン・デパーニアさん?」
そこにあったのは、テルンの股間に顔を埋めた、少女の姿だった。