出会いⅡ
月と満天の星々は、フィリアの光がなくなった今、ようやく自らを主張し始める。幻ではなく、本物の光。街は青白く照らされ、より一層寂しい雰囲気を醸し出した。
人間界の夏は焼けるように暑いというが、夜になれば気温は徐々に下がり、一年で最も快適な時間となる。
夕方は仕事を終えた者達が、宿や食事処に集まって、飲んだり食べたりの大騒ぎとなっている大通りも、この時間になれば静かなものである。
人気はなくなり、せいぜい時たま、王立軍のパトロールが、眠そうな顔で通る程度。
そんな夜道を、テルンは一人歩いた。彼は静かなこの時間が好きだった。一人で思考に耽ることが出来たから。
しかし、今日はそういうわけにはいかない。大通りから脇道に入り、今泊まっているような少し怪しげな宿を見つけては、若い女性と、大柄な男が泊まりに来ていないかと訊いて回った。一度王立軍の駐屯地まで様子を見に行ったものの、街全体と同じように静かなもので、慌ただしい様子は見られなかった。もし二人が拘束でもされたならば、こう穏やかな夜にはならなかっただろう。そう判断して、テルンは街で捜索を続けた。
そうして、三時間が経過した。テルンは、未だに二人を捜している。街は相当広いとはいえ、捜すべき場所は限られる。それは単純にお金の問題で泊まれない宿だったり、王立軍の息のかかった店に近づけなかったりと、そういった理由だ。大通り沿いの道など論外。逆に、法に触れそうな危ないお店が、裏で軍と繋がっているということもざらである。裏でお金を回したり、仲間の情報を売ったりして見逃してもらうというのは、一種の処世術なのだ。大方の場所を回り、最後の心当たりの場所に辿りついた。
「この感じ……懐かしいな」
最後まで避けていた場所。気が重くなるのと同時に、懐かしくもある場所。街の闇を理不尽に押し付けられ、そこに住む人々は永遠と抜け出せない不幸を背負い続ける。
スラム街。通称マリーディア特区。大きな街にはどこにでも存在するこの特区は、貧しい暮らしを強いられた者達の、最後の砦なのだ。
目に見えるような区切りがあるわけではない。それでも、肌に触る空気はやはり、どこか殺気を帯びているのだ。生きるための必死さが滲み出ている。
ここまでくれば、もう誰かに尋ねる必要はない。ここには宿などないし、例え経営しても、お客がくることはまずないだろう。
入り組んだ道を進みながら、テルンは諦め始めていた。どこかですれ違っていて、二人はもう宿に帰っているのではないだろうか。あと一、二時間もすれば夜も明ける。気を張りながら動いていたせいか、疲労も溜まり、なにより眠気がテルンを襲い始めていた。そうして、捜索をやめて帰ろうと決心した時――。
「おなか痛いよぉ……パパ、助けてよぉ……」
細い路地で、小さな女の子が愚図り泣いていた。特区ではよく見る光景で、それ自体は何も珍しくなかった。テルンは足を止めた。そして彼女に近づいた。
「おなか痛いのか」
彼に彼女を助けるつもりは、一切なかった。特区にいる子供を助けるつもりはなかった。いや、それが特区の子供であろうとなかろうと、テルンは助けない。目の前にいる子供を一時的に助けることに意味がないことを、彼は学んでいた。過去に自分が同じ境遇であったとき、そして、助けてもらったとき。施しを受け、素直に喜んでしまった自分が恥ずかしかった。屈辱だったことを、彼は鮮明に覚えていた。
それでも、テルンが彼女に声をかけたのは、彼女の存在があまりにも浮いていたからだ。この場所に住むには、彼女は清廉すぎた。不遇で、健気で、儚いほどに、可憐だった。
「……お兄ちゃん、だあれ?」
「俺はテルン・デパーニア。君の名前は?」
「名前……わかんない」
「は?」
「わかんない」
「わかんないって……」
訊き方を変えても、彼女はそう繰り返す。何を考えているのかは全くわからない。薄汚れた路地の道端に座りこみ、うつむいている彼女の表情はブロンドの髪に隠れてしまっている。ただ、小さくしゃくりあげているところを見て、テルンは可哀想だと思ってしまった。過去、自分が憐れまれたときは、あんなに嫌な気持ちになったにも関わらず。彼は、彼女から名前を聞くのをやめた。
「何か悪いものでも食べたのか?」
特区の食べ物の衛生状態は、あまり良いとはいえない。大方、服装や容姿から察するに、どこか良家のお嬢様が屋敷を抜け出してきたのだろうと、テルンは予想した。
「これをね、お昼に食べたの。そしたらおなかが……」
彼女はやっと顔を上げ、一本の櫛をテルンに差し出した。完全に冷め切った肉が刺さったままになっており、それは肉だと判別するのが難しいほどに、真っ黒になっていた。
「どっかで見たことあるような……ああ、なるほどな」
それは、昼間見た焼き鳥だった。完全に焦げきったそれを食べたのだとすれば、なるほど、お腹が痛くなっても仕方がないだろう。そして、ここ最近大通りで噂されていた盗みの正体も、間違いなくこの子であるということは、すぐに察せられることだった。
「仕方ない。とりあえず薬を売ってる店まで連れて行ってやる。といってもまだ店は開かないよな……。じゃあ君さ。おうちがどこにあるかわかる?何か特徴とかでもいいんだけどさ」
「おうち……?」
「そう、おうち。パパに会いたいんだろ? 家まで送っていってやるよ」
一度関わってしまった以上、知らぬふりをすることが、テルンにはできなかった。そして、早くこの場を離れるべきだと感じていたのだった。ここは特区であり、面倒事には事欠かないということを、経験から知っていた。日が沈んでいる今は特に。暗い場所というのは、人が悪事を犯しやすい。人間心理とはそういうものだ。
「なあ、そこの兄ちゃん。話は聞かせてもらったよ。お困りのようだし、助けてやろうじゃないか」
路地の奥からふらりと出てきた、四人の男たち。まるで私たちに任せておけば、全て安心とでもいうかのような、自信に満ち溢れた声色。しかし、それとは逆の、完全に信用ならないことが一目でわかる姿をしていた。
「いや、大丈夫だ。あんたらの助けは要らねえよ。まだ夜も明けてないからな。ゆっくり寝ていてくれよ」
「なあに心配するな。特区のことは特区の奴らで解決する。そういうもんだからよ。なんせお国様が決めたことだ。逆らっちゃなんねぇよなぁ?」
実際、特区のことに国は一切関与しない。もし誰かが特区に迷い込んだとしても、それは自己責任であり、行方不明者の捜索願いが提出されようとも、特区まで捜索の手が伸びることはない。国は、特区の存在を十数年ほど前を境に無視するようになった。犯罪件数が多すぎて、手が付けられないということもある。無法者の吹き溜まりでもあるこの所で、犯罪が起きないことの方が珍しいからだ。そして、その十数年前にある事件が起きたのがきっかけで、現在、このような状態で収まっている。
「そこのお嬢ちゃん、迷子なんだろ?安心しろって。俺たちが案内してあげるからさ。こっち来いよ」
「……やだ。おじさん達怖い」
「大丈夫だって!ほら、いいからこっちに……あ?」
男が疑問の声を出したのは、少女の姿が見えなくなったから。正確にいうならば、テルンが少女と男達の間に割って入ったのだ。
「なあ兄ちゃん。聞こえてなかったかな? もう大丈夫なんだって。早く失せてくんねぇか?」
「別に知り合いってわけじゃねんだろ? お互い無難に行こうぜ」
「悪いけどさ。こっちに難なんて、一つもないぞ。こんなところで喋ってる方が、それこそ、お互い時間の無駄だ。ほら、さっさと行くぞ」
もしテルンが少女を見捨て、男達に任せた場合。少女の辿りつく末路は、家族の待つ快適な家ではなく、暗いじめじめとした場所での監禁、もしくはそれに準ずる絶望的な仕打ちである。男達も、少女の生まれが良いものだと判断した。となれば、使い道も豊富にある。この世界では奴隷制を廃止しているが、王都では秘密裏に人や亜人を売買している場所もある。そこへ商品を出す商人に売りつけることも出来るし、単純に身代金を取ることもできる。
「いい加減にしろよお前。はっきり言うぞ。痛い目みたくなかったら、さっさと消えろ。さもないと——」
男の言葉は、そこで途絶えた。喋るのをやめたのではなく、やめさせられたのだ。
倒れた男、それを呆然と見る三人の男、不思議そうな顔で男をみる少女。テルンは冷たい目をしていた。
「こうなるぞ」
「は……はは。まあ落ち着けよ。俺らは別に……」
「どけよ」
男達は動けなかった。決して、行く手を阻もうとしているわけではなかった。ただ、生まれて初めてまともな殺気を受けた。いや、気配などという生温いものではなく、殺意。殺そうという意思そのものを直接ぶつけられた彼らは、意識を保つのに精一杯だったのである。
テルンが本当に彼らを殺すつもりだったかは、定かではないが。
「やれやれ。おい、大丈夫か?」
やってしまってから、近くに少女がいたことを思い出し、彼女を怖がらせてしまったのではないかと、心配した。
「お兄ちゃんのパンチ。すっごくはやいんだね!」
「見えたのか」
「うん!おじさんのあごにスパーン!って!」
テルンの真似をしているつもりなのか。立ち上がり、シャドーボクシングを始めた。微笑ましい光景だが、今はこの場を離れるのが先だと、テルンは彼女を促すことにした。
「なあ、そろそろここから離れないか?いつまでもここにいても退屈だろ?」
「え?あ、うん。わかった!じゃあ、はい!」
少女が元気よく伸ばしてきた小さな手の意図がテルンにはわからず、戸惑った。
「手、つなご!」
「……ああ。いいよ」
手を握ってもらった少女はご機嫌に歩き出した。テルンはその様子を見て、少し安心したようだった。一人なら特区だろうとなんだろうと関係ないが、小さな女の子を連れて歩くには、やはり危険が多過ぎる場所だからだ。
特区の入り口に辿りつく。同時に、満天の星が消えているのに気が付いた。消えたのではなく、見えなくなったのだが、意味することは同じであった。
「もう朝になるか。さっさと宿に戻らないと……そういえばお前、お腹大丈夫なのか?」
「……お腹って?」
「いや、お前さ、お腹痛いって泣いてただろ?」
「うーんとね。治ったみたい」
テルンは唖然とした。子供とはこんなにいい加減なものだったかと、自分の昔を思い出して溜息をつきそうになった。
「まあ、特区から連れ出したんだから、あとは王立軍の奴に任せるか……」
「おうりつぐん? そんな人より、お兄ちゃんと一緒に遊びたいな!」
「俺はお前と遊んでられるほど暇……だな。残念ながら」
そう。基本的に暇なのだ。この街での目的を果たすのに、テルンの力は不要であり、どちらかというとあまり動くべきではなかった。王都近くに住む一部の者にとって、テルンは好ましい存在とはいえなかったからである。見つかったとなれば、それこそ街が大騒ぎとなるだろう。なので、王立軍に任せるといっても、直接引き渡すわけにもいかず、それはそれで面倒な手段を取らなければならなくなる。少々疲れ気味だったのと、様々な手間などを考え、テルンは少し揺れ始めた。
「お前の家に直接届けるのが一番楽なんだけどな。お前さ、パパにはやく会いたいだろ? きっと向こうも捜してるだろうし」
「ううん。違うよ。パパがわたしを捜してるんじゃなくて、わたしがパパを捜してるの」
「そうかい」
どうせ子供が大人ぶっているだけだろうと、テルンは少女の言葉を軽く流した。
「じゃあどうするんだ?そういうことなら、俺はもう家に帰らせてもらうぞ」
「お兄ちゃんについてく」
「俺の家にはさっきのおじさんよりも怖い人たちがたくさんいるぞ」
「だいじょうぶ!お兄ちゃんのともだちなら怖くないよ」
「あのなあ」
どうにも諦める様子のない少女に、テルンは参ってしまった。
「じゃあわかった。約束を守れるなら連れて行ってやる」
「約束?いいよ!絶対守る!」
こくこくと頷く少女に、テルンは本当かなあと困り果ててしまった。
「じゃあいいか? 俺の宿に着いて合図をだしたら、『私は無理矢理連れて来てもらった』って言うんだぞ? 合図は……ウインクでいいか」
「……どうして?」
「どうしてもだ」
「へんなの」
「気にするな」
この先のことを考え少し不安になりながらも、少女の手をしっかりと握りなおし、宿に続く道をゆっくりと歩き出した。
物陰からの視線に、気づくこともなく。