第7話 逃避行Ⅰ
空に照る太陽は大きな雲の中に隠れ、地面に影を落とす。高く上るその雲は、天の頂きに手を伸ばしているようだった。遠くの空をみれば、黒く染まった雲の中で閃光が走っているのが見える。
季節に逆らうような冷たい風を、リオは全身で受け止めた。
「さて、私たちはどうしようね」
テルン達が異次元門を潜り抜け、人間界へと旅立った直後。四人もの人間が一度に居なくなると、その場は拍子抜けするほど静かになった。そうすると、今まで気にしていなかった自然の音がはっきりと聞こえてきて、幾つもの音が組み合わさった王国の管弦楽団を想起させた。
「テルンに探すと約束したからな。やるしかないだろう」
フェガはそう口にするが、その様子からは動こうという意思が微塵も感じられなかった。先ほどまで異次元門があった場所をじっと見つめたまま、口だけを動かす。
「……本気で言ってる?」
リオの問いに答える声はない。
「私の予想だと、あいつらはまだ近くにいる。少なくとも、私たちを監視できる程度には」
リオはフェガに服を返し、自分の服を引っ張りだすと手早く着替え始めた。
「探すっていうより、私たちが追い立てられるって感じになるわね。私たちは獲物で、奴らは狩人。いつまでもここにいることにメリットはないよ」
そう言っている間にも、リオは荷物を選別しながら武装の準備を始める。
「私の遠距離狙撃特化型武装魔道具は名前の通り狙撃用。元々敵に見つかってるようじゃ使えたもんじゃない。かといって、なくしたらディバの親父さんにどやされそうだし」
困ったわねと笑うリオの目は鋭いままで、殺気を隠しきれないでいた。
「だから——」
「リオ、一度落ち着け。お前らしくないぞ」
フェガは落ち着いた声音で、荒ぶるリオを窘める。
「そんなことないわよ……いや、そうね。いつもよりピリピリしてるかもしれない」
リオの少しむっとした表情は、一つのため息と共に苦笑いに変わった。
「いろいろ思い出もあるからね。少しは感情的にもなるわよ」
「……そうだな。無理もない。……北西に約千五百メートル。人数まではよくわからん。どうやってるのか知らんが、匂いをある程度消しているせいではっきりしないのだ。気に食わん」
ふんっと鼻を鳴らし木の傍を離れると、レイピアを軽々と担ぎあげる。
「森の中を走るのに邪魔でしょ? 無理しなくていいよ」
リオは、フェガの行動に少々驚いていた。フェガのことを、もっとクール且つクレバーな思考の持ち主だと思っていたからだ。
テルン達を人間界に送りこんだのも、狩人がまだ近くにいることを感じとり、テルンをこの場から引き離すための口実だった。もしテルンに敵が近くにいることを伝えれば、後先考えず暴走し、奴らの下に飛び込んでいくのは目に見えている。たとえ人質を取られた状態で、まともに戦えるはずがないとしても。
そんな冷静な判断を下したフェガが、邪魔になるであろうレイピアを担いだのは、やはり意外なことであった。
「構わんさ。お前の本職はこっちなんだからな。これがなくちゃ仕事にならんだろう」
フェガはこんこんと布越しにレイピアの銃身を叩く。
「じゃあ遠慮なく。ありがと。頼んだわ」
リオの表情はすっかり和らぎ、普段の笑顔を取り戻した。
「お前の言う通り、長居してもいいことはないだろう。こちらに二人しかいないことを向こうが感付けば、すぐに襲ってくる。そうなる前に、一気に引き離す。ついてこれるか?」
「あのねフェガ、そういうのは愚問っていうのよ。余計な心配はいいから、他の種族の集落に迷いこんだりしないように、しっかり道案内して頂戴ね」
リオは不敵な笑みを浮かべ、挑発的な目でフェガを見つめる。フェガはそれに溜息で答えた。
「それこそ、俺を誰だと思っているんだ。——行くぞ」
フェガは言葉と共に走り出す。その加速は、リオに風が吹き抜けたかのような錯覚を起こさせる。一瞬の間についた数歩遅れを埋めようとフェガの後を追う。
森の中に乱立する木々に生え方の法則性などはあるはずもなく、進行方向に突然現れる障害物を、ぶつかる寸でのところで避け続ける。高速で走るフェガの背中を見失わないようにするために、リオは出来る限り直線で走り続けなければならなかった。
強がって啖呵を切ったものの、人間が純粋な亜人の全力の速度についていくのは不可能だということを、狩人に所属していた時代に嫌というほど知らされている。
任務の最中に孤立した亜人に遭遇した時。捕獲しようと試みるが、相手が逃げに徹してしまうとどうやっても逃げられてしまう。足に傷でも負っていれば話は違ったが、そんなケースは稀だった。彼らは地面を走るだけでなく、木に登り枝から枝に飛び移り、三次元的な動きまで軽やかにこなす。狙撃するにも次の行動は予測不能で、リオはそれを見る度に煮え湯を飲まされたような気分になった。
「リオ! ついてこれなくなったらすぐに言え! 担いで運んでやる!」
「そんなの必要ないわよ!」
リオはフェガの試すような口調に言い返してやろうと考えを巡らせたが、結局息切れしているのがばれないよう、早口でまくしたてるのが精一杯だった。
ひたすらに走り続けているリオの足には、少しずつ疲労が溜まっていく。踏みしめていた土の感覚が少しずつ薄れる。しっかりと地面を蹴らなければ、前には進まない。フェガとの距離が開き始め、リオは自分の限界を感じ始めていた。
「来てるぞ! 急げ!」
そんなリオの状態を知ってか知らずか、フェガはリオに発破をかける。狩人が迫っていることは、リオも何となく感じ取っていた。自分が衰えたのか、彼らが更に努力したのかはわからない。しかし、確実にその距離は縮り、リオの心に更なる焦りをもたらした。
小さな枝がリオの頬を擦り、小さな擦り傷や切り傷が増えていく。流れ出る汗は止め処なく、顎から滴る水滴の量は増え続ける。隠せなくなった荒い呼吸が、周囲の音を掻き消す。風を切る自分の身体が、まるで宙に浮いているようだと錯覚する。それでも、リオは足を動かし続けた。
たくさんの木を避け、不自然に折れている大木の株を乗り越え、時には追跡を振り切ろうと、方向を急転換する。
どれだけ走り続けたか。山をいくつ越えたのか。いろいろなことがリオの頭に浮かんでは消えていく。そんなリオの視界が、少し霧がかったように薄らいでいく。自分の身体の限界を、はっきりと主張するかのように。
どうにもならなくなる前に、リオは決断した。
「フェガ! 私はもう限界だから! ……あとは、よろしくね」
リオは残りの力を振り絞って、前方を走るフェガへ声を届ける。そして、そのまま足の力を緩めると、身体を重力に任せて倒れこもうとした。
「よく知らんが、こういう時には決まったセリフがあるんじゃなかったか?」
視界いっぱいになっていた地面は遠のき、身体が宙に浮く。気付けばリオは、レイピアと共にフェガに背負われていた。
「私を置いて先に行け……なんて、死んでも言わないわよ」
リオは無意識のうちに居心地のいい背負われ方を探しながら、消えそうな声で呟く。
「絶対に生き残る。こんなところで犬死にするために、今まで生きてきたんじゃないんだから……」
固く握りこんだ拳は震え、黒い瞳にはうっすらと涙が浮んでいた。
フェガは何も言わずに静かに走り始め、風を切る。気を遣わせていることが分かっていたから、リオは涙を流すまいと瞼を閉じた。それでも自分の中で湧き上がる情けなさに逆らうことは出来ず、悔しさは涙となってこぼれ出た。




