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〈六〉

 夏祭りの日を思い出していた。いくつもの提灯がぶら下がっていて、近くでよく見ると虫が群がっていて気持ち悪かったりするが、遠くで見る分には鮮やかで出店が立ち並んでいればそれだけで風情があって。

 僕はミサキのバッグを探しに櫓の赤白幕の中に入って行った。すぐ目の前にあったバッグを手に取り外に出るとミサキの叫び声。

 振り返ると間もなく崩れてきた柱の下敷きに、そうなるはずだった。けれど今思い返せば、確かに柱は崩れ僕に向かってきていたが、直撃しそうな角度や距離だったが偶然にも当たることはなかった。もちろん、僕を身を挺して救おうとしたミサキも、傷一つ負うことなく。

 偶然だった。けれど、その偶然をミサキは知ることはなかった。今日の朝までは。願いは七年の時を経て叶えられる。「助けて」その願いは、そういえばどうなったのだろう。僕はまだ生きているのだろうか。ミサキはまだ、傍にいるのだろうか。

 簡単だ、目を開ければいい。昔を思い出し穏やかな気持ちになっていた僕は怖さも嫌な感じもなく、眠りから目を覚ますように自然に開けることができた。目は暗闇の中からぼんやりと何かを捉え始めていた。

 それがミサキだと分かれば、あとは次々と状況を把握していった。僕らは地面に転がっていて、ミサキはまだ目を覚ましていない。遊園地に来ていて観覧車を降りたところで地震が起き園内は停電し、その影響で観覧車の一部が崩壊し上から降ってきた。そして……そしてどうなったのだろうか?

 幸い痛みはなく、起き上がることは出来そうだった。

「ミサキ、大丈夫?」

「……んん……フミヒコ?」

 肩を揺するとゆっくりと目を開けた。覚束ない足取りを支えるようにしながら立たせ、辺りをきょろきょろと見渡した。

「え? どうなって――――」

 声を失ったのは、すぐ真横に転がっていたいくつもの鉄の柱を見た時だった。そして漏らした。驚きと、疑問を含ませた小さな呟きを。

「生きてるの? どうして……」

 自分の手や足に触れ、僕を頭からつま先まで見た。そこで今度は身体の力が抜けてしまったのか、へなっと座り込んでしまう。

 僕も座り、同じ目線の高さでミサキを見た。ミサキは一度僕を見たが俯き、まだ電気が戻らず真っ暗な園内だったが、気にする様子はなく話し始めた。独り言のように、頭の中の言葉をそのまま口にするように。

「私は今日、死ぬはずだった。きっと今起きた事故の影響で。フミヒコを助けて、よくやく七年前の願いが叶うはずだった。なのに私は死んでなくてフミヒコも生きてる」

 話してる途中で何かに気づいたのか「あっ」と再び僕を見た。

「あの夏祭りの日の願いはフミヒコを助けてと願ったと思ってたけど、もしかして私は、本能的に私も助けてほしいって願ってたのかもしれない。死を目の当たりにして、自分の命を身代わりにフミフコを救いたいと思いつつも、どこかで自分も死にたくないって、考えていたのかもしれない。これは私の推測だけどね、七年も眠っていたのは時間が止まったままだったのは、きっと私が今日を迎える前に死んじゃってたからだと思うの。寿命か事故か分からないけど、今日のフミヒコを助けるために、私は生きてなければいけなかった。私たちを助けてほしいという願いは、今日叶ったんだね」

 確かに夏祭りの日、二人を助けてと願ったのなら、今日までミサキが生きる必要があった。僕を助けるために、途中で尽きてしまうミサキの寿命が問題だった。それは時間を止めることで解決した。

「朝起きて感じたのは、私の中の時間が動き始めたってことだったの。私はてっきり、それは今日死んでしまうことだと思ったんだけど、違ったみたい。でも、そっか。時間が動き出したってことは、七年以内には死んじゃうんだね」

「待って」

 全て辻褄が合っている気がした。ミサキの推測が正しいと思いかけていた。けれど、僕の中で飲み込めない何かが受け入れるのを拒んでいた。今の話におかしなところはなかっただろうか。

 夏祭りの日の願いは七年経った今日叶った。僕を救うためにミサキは眠り続ける必要があった。いや、そもそもそれが可笑しいのだ。ミサキの寿命が七年以内だったとするならば、現時点で本来ならミサキはいないはず。ミサキがいないのなら、今日ここに僕が来ることもなかったのではないだろうか。

 本当に夏祭りの日願ったことは二人を助けてだったのだろうか。時間が経ち記憶が薄れ、都合のいいように書き換えられてしまっているのではないだろうか。

「ちゃんと思い出してみて、あの日のことを」

「え?」

 一度疑問に思ってしまえば、別の答えを探し始めてしまう。

「ミサキは本当に、二人を助けてほしいって願ったの? ミサキの力は、そんなあやふやな願いでも叶えてくれるの?」

「だって、二人とも生きてるよ。朝も、確かに時間が動き出したのを感じたの。だから……」

「ミサキは何て願ったの?」

 それからあの日を思い出すように目を瞑った。記憶を呼び起こそうとしているのかミサキが頭を左右に振ると伸びた前髪はさらさらなびいた。

「私は助けてって願った。櫓の崩壊に巻き込まれそうになるフミヒコを見て、助けてくださいって」

「それには二人を助けてって入ってないと思う」

「でも、今私たちは生きてるよ。あの日の願いは無効だったってこと? それなら、私は何で七年間も眠ってたの?」

「それは……」

 気づくと静かで不安に満ちていた園内の空気は、係員の誘導の声に談笑が混じるようになっていた。僕らの話もその流れに切られ、誘導に従い遊園地を出ることになった。最後まで電気が点くことはなかった。

 遊園地を後にした僕らは電車に揺られ戻ってきていた。どちらかの家でもミサキの病院でもない、けれど二人が何も言わずに向かった場所。

「今日は月が明るいね」

「そうだね」

 鳥居をくぐり、手水舎を曲がり奥まで進んでいく。薄暗い中にぽつんと世界から取り残されたみたいに、七年前から変わらずそこにあるベンチ。

 座った僕は電車の中で考えていたことを思い出す。ミサキの願いはどう叶えられていたのか。それを解決しないことは僕には怖すぎたからだ。いま生きている理由が分からなければ明日が不透明で、今にも落ちそうな細い橋を渡るような強風の崖の上を歩くような、そんな綱渡りの人生は嫌だった。

「こうして座ってると、七年前に戻ったみたいだね」

 遠くにはいくつか高層マンションが立ち頭を出しているが、見渡した神社の風景や匂い、ベンチの座り心地も何一つ変わってない気がした。

「七年前、ミサキがいなくなって二学期が始まった。その初日、僕の靴箱にこれが置いてあったんだ」

「え、それって……」

 僕はカバンから日記を取り出した。ミサキが書いたであろう、不思議な力で僕の手元にやってきた日記。

「わたし……の? 見てもいい?」

 そこに答えのヒントがあるかもしれない、そう思っていた。見れば謎が解けるかもしれない。ミサキは一体何を願っていたのか。

 ミサキはぱらぱらと捲り、けれどちゃんと読むことなく閉じてしまった。

「確かに同じものを持ってるし、私の字だと思うけど……これが七年前にあったの? フミヒコの靴箱に?」

「うん、その時は読まずにしまっちゃったんだけど、つい先日読んだんだ」

「……そっか……でも、何か変だよ。だって……」

「僕も読んだとき最初は変だと思った。未来のことが書いてあったし、けど間違いなく僕らしか知らない内容だったから、ミサキの日記だと思ったんだ。ミサキの不思議な力で未来からやってきたんだと。始まりは僕らが初めて神社で話した日からで、終わりは今日だった」

「やっぱり変だよ。結局私かフミヒコ、どちらかは今日死んじゃうんだよ」

 どうしてそうなるのか分からなかった。ミサキの願いで、少なくてもどちらかが死ぬことはなくなったのではないのか。

「だって、今日までのことしか書いてない」

 背筋がぞくっとするような言葉だった。そうだ、日記は今日で途切れていた。ここから先は一ページも書かれることなく、空白が続く。閉じた日記を確認すると、やはり日付は今日だった。

「ねえ、どっちが死んじゃうのかな」

 僕は日記を見た。何か見落としていないか、何か勘違いをしてないか。ミサキの言った言葉を否定しようと、何度も読み直した。

「今日で途切れてるってことは、やっぱり私が死んじゃうのかな」

 神社で話した出来事が続き、それは突然七年後へタイムスリップするかのように日付は変わる。不可思議なのは七年の眠り。一体何の意味があったのか。僕とミサキ、どちらが救われたのだろうか。

 それはやはり僕に対してだろうか。夏祭りの日、崩れる櫓の傍、そこでミサキは願った。助けてくださいと。読み続けた。どんな些細な文字も見落とさないように読み続けるうちに、あの夏祭りの日のページにたどり着いた。



 〈二十五日〉

 こんな楽しい夏祭りは初めてだった。途中で少し嫌なこともあったけど、本当に幸せな時間だった。有川君……今度からフミフコって呼ぶんだね。なんか照れるね。フミヒコが転校してくるまでは、学校に行きたくないっていつも思ってたし、死んじゃいたいって思ったこともあった。けど生きててよかった。もっともっと一緒にいたい。本当に私はフミヒコに救われた。

 初めて出会った日もそうだった。学校が終わったらこのまま消えてしまおうかなんて考えてたけど、フミヒコが転校してきた。昔からたった一人でいいから私の味方をしてくれる、それがだめならせめて私の友達になってくれる人が現れますようにってずっと願ってた。私の力で願いが叶ったのかな。それとも偶然? こんな痣だらけの私なのに嫌じゃないのかな。今でもこの願いだけは叶わないね。痣は消えないのかな。

 来年の夏祭りもフミヒコと行きたいな。そういえば櫓は壊れちゃったけど、大丈夫かな。ダメでも願ってたら叶うかな。私の力は本当によくわからない。たぶんだけど、今日初めて命を救うことに使ったと思う。櫓が壊れた時、フミヒコを助けた。「もっと一緒にいたい。お願いだから助けてください」って。そんなことも叶うんだね。私はフミヒコがいなきゃ生きていけない。あんなに何かを強く思ったことは今までなかったかもしれない。

 もう二学期までフミヒコと会うことはないんだね。寂しいな…。これからもまた、神社でいっぱい話したいね。いじめられるのは嫌だけど、フミヒコがいるなら我慢できる。だからフミヒコ、私を支えてね。



 夏祭りの日の願い、七年の眠り。日記を読みそのピースが少し重なりそうな気がしていた。やはりあの日の願いは二人を助けてだったのではないか。けれど櫓が崩れた時のように、二人同時に事故に合うようなタイミングは本来なら訪れなかった。それがミサキの寿命によるものなのか分からない。もし、ミサキの力でその事故さえも作られてしまったのなら……。おかしな推測が、自分の中で腑に落ちていく感覚があった。

 そんな突拍子もない考えをミサキに話すと、日記を見ながらどうやら納得できる部分があったのか頷いていた。

「私の寿命が尽きてしまうから、時間を止め七年間眠っていた。そして、二人が事故に合う場面を作り出した。それが今日の出来事だった。じゃあこれから私たちはどうなるの? まだ死なないってこと? 一緒に居られるの?」

 二人とも死なないよ。そう答えようとして、それが何の確証もないことだと気づいた。今日、ミサキの時間は動き出した。どんなに長くても七年以内に死んでしまう未来。それは変えられないのだろうか。

「私には痣があった。その痣がなくなった時ね、不安だったの。私自身も痣のように始めから存在していなかったかのように、消えてしまうんじゃないかって。前は痣があんなに嫌だったのに、今はないことに違和感があるの。ちょうど痣が消えるのと同時に不思議な力も使えなくなった。痣こそが、私の力の正体だったみたいに思えるの」

 けど、その痣で繋がっていた僕ら。

「きっと今の私は醜い痣もない、不思議な力もない普通の女の子。いつかくる自分の死を待つだけ……怖い……」

 月が明るく時計は見やすくて、もうすぐ十一時を回ろうとしていた。ただ二人の声だけが響く神社。暑すぎず寒すぎずちょうどいい温度と夜風が僕らを包む。

「怖いよ……ねえ、フミヒコ……」

 七年前の姿のままのミサキ。こぼれた涙の色は月明かりに照らされ煌めいて、泣き声も顔もその身体の震えも何一つ同じだった。抱きしめることしかできない僕にミサキの吐露はあふれ出た。

「フミヒコを初めて見たとき、あの人が先生が言ってた転校生かなって思った。席の隣に座ったとき、どうかこの人だけは私を虐めませんようにって思ったら、フミヒコは私を虐めなかった。神社で何度も話すたびに本当に、いつも夢見ていた理想の人そのものだった。私の引っ込み思案な性格も、人に見られるのが怖くなって伸ばすようになった前髪も……醜い痣も、いつも願っていた。私の全てを受け入れてくれる素敵な人が現れますように。そしたらフミヒコがやってきた」

 初めてミサキを見たとき、その独特の雰囲気に魅せられ、会話こそなかったものの僕の頭はミサキのことばかりを考えていた。その雰囲気の正体は虐めであり何より痣であった。いま思えば、その痣に僕は魅せられていたのかもしれない。誰もが嫌う醜い痣に僕だけがただ一人。ミサキが願った理想の人物のように。

「お願い、今日は一緒にいて……絶対離れないで……」

「一緒にいるよ」

 抱きついたミサキの身体は温かかった。小さくて細い手足は今にも折れてしまいそうだった。

「フミヒコ……冷えてるよ」

 そういえば、いつの間にか風が涼しくなってきていた。

「僕の家でいい?」

「…………うん……」

 僕らはもう何も話さなかった。ただ指を絡め歩き出した。神社を出て僕の家に向かっていった。信号もなく大通りも渡らない、時折横切る車の音がずいぶん胸に響いた。神社からほんの数分、角を曲がれば見える一軒家。僕の帰る場所。。

「え?」

 そこにはマンションが建っていた。


 *


 やや古びていて所々色褪せたマンション。辺りを確認するが、ここは間違いなく僕の家が建っていた場所。どこを見渡しても僕の家は見つからなかった。

「フミヒコ? どうしたの?」

 気温とは裏腹に、身体が急速にさめていくのを感じていた。吹雪の中にいるような寒さ。頭を鈍器で殴られたかのような痛み。さっきまで知っていた町が、僕の知らない場所に変わっていた。ここはどこだろうか。

「ここにあったんだ。僕の家はここに……」

 思い出せなくなっていた。家はどんな形で、僕の部屋はどんなだっただろうか。記憶を遡っていくが、その記憶だけがぽっかり抜け落ちてしまったように思い出せない。

「そんなはずないよ。だってここは、フミヒコに会う前からすでに建てられていたんだから。何かの間違いじゃ……」

 僕はいったいどこから来たのだろうか。記憶はどんなに遡っても、ミサキと出会った日で止まってしまう。

 どうしてだろうか、ミサキの言った言葉が頭に浮かんできた。

「ミサキは願ったんだよね?」

「夏祭りの日? 助けてって?」

「そのもっと前だよ」

「前……?」

 どうやら願いは二人を助けること以外に、ミサキが気づいていないところでもう一つ叶っていたんだ。

「分からないよ……どういうこと?」

「痣がなくなればいいと思ってた以外に、それが叶わなかったミサキは、痣を受け入れてくれる人を求めていたんだ」

「……それがフミヒコ?」

 マンションのドア、そこに反射した月明かりと人影。そこに映ったミサキの横には誰もいなかった。あるはずの僕の影が存在しなかった。

 答えは簡単だった。

「痣を受け入れてくれる人……フミヒコが転校したのは私の力のせい?」

「……ミサキは僕のこと好き?」

 一見関係ないように見える質問にも、ミサキは答えてくれた。

「もちろん好きだよ。誰よりも好き……フミヒコは私を好きじゃないの?」

「好きだよ。それどころか僕はきっと出会った瞬間から、ミサキのことが好きだった。あの日、校庭でミサキを見上げた瞬間から」

 僕という、ミサキにとって理想的すぎる存在。誰もが敬遠する醜い痣を、嫌だと思ったことは一度もなかった。それもそのはずだった。

「僕は転校なんてしてないよ」

「え、でもあの日――――」

 僕を見つめたミサキは、そこで言葉が途切れてしまう。

「フミヒコ?」

 僕は気づいてしまたんだ。訪れるのはどちらかが死んでしまう未来ではなく、全てが元に戻る未来。僕は伝えなくてはならない。バラバラだったピース、その真ん中の一番大事な欠片が埋まった。

「ねえ、どうしたのフミヒコ。何か変だよ」

「時間がないのは、僕だったみたい」

 僕に触れようと不安そうに伸ばしたミサキの手を、そっと握った。

「え……」

 僕は前を指差した。その先を見たミサキは違和感に気づく。マンションのドア、反射した月明かり、そして人影。それはもちろん、ミサキたった一人の人影。

「……まさか……」

「僕は転校なんかしてない」

 悲しさは不思議となかった。ただ、バラバラだったパズルが完成したような心地よさがあった。全てが終わったんだと、真実にたどり着いた満足感が僕にはあった。

「僕はミサキが願い生まれた、この世に存在しない人物なんだよ」

 握りしめた手に力が込められる。

「ミサキの願いを叶え役割を終えた僕はどうやら、もう必要ないみたい」

「フミヒコは、私が作った……うそ、そんな……」

 よく見ると僕の手は透けていて、上に伸ばし月に掲げると、覆ったはずの月明かりが目に入ってきた。どうやら今日が僕の最後の日のようだ。

「不思議な力を使い果たしたから痣は消えた。本来ならその時点で僕は消えていたはずだった。けど、ミサキの願いを叶えるために僕は生き続けていたんだ。夏祭りの日願った、二人を同時に救うという願いを叶えるために」

 ミサキは首を振った。僕を見ながら言ったことを拒絶するように。

「そんなの、いや……一緒にいるって……お願い……いなくならないで……」

「大丈夫、約束したからね。今日は一緒にいるって」

「ずっと、ずっと一緒にいてよ……ねえ……」

 あとどのくらい時間があるのかな。

「戻ろう」

 もう二人で歩くのはこれで最後。僕らはただ手を握っていた。ときどき、互いの存在を確かめるように手に力を込めながら。

 神社に着く頃、僕の身体はさらに透明になっていた。時計を見ると間もなく十二時を回ろうとしていた。その時が別れ。

「ごめんなさい」

「どうしてミサキが謝るの?」

「だって、私のせいでフミヒコは……」

「ミサキは何も悪くない」

「でも…………ごめん……」

 ミサキの口から何度も出る謝罪。止まることのない涙。それじゃ、僕が可哀想な人みたいじゃないか。そんなことないのに。

「僕は幸せだよ。ミサキといられた時間は、本当に幸せだった。だから、そんなに謝らないで、泣かないで」

 それでも涙は止まることはなかった。溢れる大粒の涙を指でそっと拭うが、またすぐにあふれてしまう。伸びた前髪は涙で湿り、顔に張りつく。

「僕のお願い、聞いてくれる?」

「……うん」

 震える口元で小さく返事をした。

 もう残り僅か。その時間、一秒でも多く目に焼き付けておきたかった。ミサキの顔を、そして――。

「最後は笑っててほしい。僕の目に映った最後のミサキは、ミサキの笑った顔がいい。お願いできるかな?」

「うんっ」

 はっきりと答えたミサキの目から、涙が止まることはなかった。

「あ……」

 身体が軽くなっていく気がした。意識も薄れそうになり、それをなんとか踏みとどまる。そして僕はミサキを抱きしめた。温かくて柔らかくて、小さなミサキの身体を。

「そろそろ時間みたい」

「待って、まだ行かないで。ほんの、あとちょっとでいいから」

 抱きしめていたミサキの感触が遠くなっていくのを感じた。

「泣いてるよミサキ。最後は笑って、ね、お願い」

「うん」

 ほんの数秒だったと思う。ミサキの身体を強く抱きしめたその瞬間は、今まで過ごしたどんな時間よりも濃密で、長い数秒間だった。次第に身体の感覚がなくなっていった。ミサキの温かさも柔らかさも薄れていった。

 僕はミサキを離した。

「今までありがとう、ミサキ」

「ううん、私も幸せだった。ありがとう」

 笑っていた。口元は震え涙はこぼれ、それでも僕を見て笑っていた。

「僕がいなくても、ちゃんと生きてね」

「うん」

 目が霞んでいく。もう、終わりみたい。

「幸せになってね」

「うんっ」

 これは言わないと、そう思い言葉を振り絞る。

「大好きだよ、ミサキ…………さよなら」

 手を振った。今にも消えそうなほど透けた手だった。

 ミサキは笑っていた。笑顔は月明かりに照らされ輝いていて、僕の目に強く焼き付いていた。消えゆく意識の中で、その笑顔の温かさに包まれ心地よく眠りに落ちるように瞳を閉じた。

「私も、フミヒコのこと――――」

 最後の言葉は聞き取れなかった。けれど、その言葉は僕に届いていた。笑顔と一緒に、記憶と一緒に。もし願ってくれたら、僕はまたミサキに会えるのかな。

 会えるような気がしたもう何も見えない暗闇の中、いつまでも覚えている温かさの中。


   了



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