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〈五〉

 目が覚めたのは昼過ぎだった。それなりに睡眠は取ったはずだったが、頭も身体もリセットされず、昨日の疲労は蓄積されたままだった。重たい身体のままいつものカバンに日記を入れ、どうしようか迷ったが携帯電話も放り込み神社に向かった。

 雨は上がっていたが空は雲っていて、湿った空気が一面に立ち込めていた。まだ乾ききっていない地面は所々に水溜まりができていた。ベンチもまだ乾いておらず、抵抗はあったが仕方なく本殿の石段に腰掛けた。

 ごちゃごちゃになった頭を整理しようと思った。いっぺんに入ってきた情報は頭の中で複雑に絡み合い思考を鈍らせていた。

 まずはミサキのことを考えたかった。うまく呑み込めずにいるミサキの話。その始まりは、七年前の夏祭りまで遡らなくてはならない。

 夏祭りでは櫓が崩れ、本来なら僕が死んでしまった事実。それをミサキの力で救ってくれたが、代償としてミサキが死ぬことになってしまった。それは自身の時間を止めることで七年後まで引き伸ばすことができた。その終わりがもう目の前まで来ていると、時間は僅かしかないと言っていた。

 どうしてそんな力があるのかは分からないが、レストランで雑誌に載っていた巫女の話をしたのは、少しでもそれを受け入れ易くする為だったのではないだろうか。不思議な力を持った巫女の逸話。ミサキとどんな関係なのか、いま考えたところで答えを出せるだけの情報は持っていなかった。

 僕はミサキと会いたかった。隣町の病院で見たミサキ、もしそこにいるのだとすれば会うことは可能かもしれない。けど、ミサキは死を悟り、別れる決意をした。ならばいま会いに行っても、余計悲しませるだけではないだろうか。僕が次に進めるようにしてくれた行為を、蔑ろにしてしまわないだろうか。本当にミサキが死ぬ未来を変えることはできないのだろうか。

 僕はその可能性がゼロではないような気がしていた。読み終えた日記。これまで僕とミサキが過ごした日々の事が書いてあった。その内容は僕がミサキと出会い初めて神社で過ごした日から始まっていた。いま改めて見ると、日付こそ書いてあるものの日記というより記録に近かった。

 何日に何をしたか、何を話したか、天気はどうだったか。事項だけを簡潔に纏めてあり、二人のこと以外は書いていなかった。

 その日記は思い出せば中学二年の二学期の初日、靴箱に置いてあったものだ。これもミサキの力なのだろうか。僕は日記などつける習慣などない。そうなればミサキしかありえないのだが、なぜまだ訪れていない未来の出来事も書いてあるのだろうか。これもミサキの不思議な力だとしたら、それにどんな意味があるのだろうか。

 まだページに余りがあるにも関わらず途中で終わっている日記。その日付は二日後。その日こそ、ミサキが死んでしまう日ではないだろうか。ならば、日記と違う行動をすればあるいは、未来を変えられるのではないか。

 その内容を覚えようと何度も何度も読み返した。ミサキに残された最後の三日間を。憶測でしかない可能性を少しでも広げるために。



 〈二十五日〉

 フミヒコと別れた。本当は会わない方がいいと分かっていたのに。どうしたって悲しいだけ。フミヒコが私を忘れていたら悲しい。けどもし覚えていて、まだ待っていてくれたとしたら…。会いに行っても私はもう長くない。余計傷つけるだけと分かっていた。それでも私は会いたかった。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。きっと許されないよね…。


 夕方にフミヒコがきた。もしかして、こないだ外に出てる時に見られたのかも。フミヒコと会う以外では、たった一回外のベンチにいただけで、病院の外には出てないのに。

 会いたかった。本当は来ないでって言おうとしたら「死ぬまでの間、ずっとそばにいる」って言ってくれた。私はやっぱり最低だ。嬉しくて、それを受け入れてしまった。フミヒコはいいのかな。私、もうすぐ死ぬんだよ…。


 〈二十六日〉

 最近、どうしてあの夏祭りで死ななかったんだろうってよく考える。もしかして、私が七年経って目が覚めたのには、何か意味があるのかな。

 考え始めるときりがない。やり残したことはいっぱいあるし、悔いもある。おかしいな、死を受け入れる覚悟はできてたはずなのに…。急に怖くなったし、涙が止まらなくなった。まだ死にたくない。フミヒコといたい。私が死んでも覚えててほしいな。忘れられるのは怖い。縛り付けたくはないけど、私を忘れないでほしい。


 〈二十七日〉

 目が覚めた瞬間、世界がずいぶん静かに感じられた。幸せな夢を見た気がするけど思い出せない。けど、そんなことはどうでもよかった。

 今日、私は死にます。きっとここに戻ってくることはないと思う。ずっと前から知っていたことのように分かる。フミヒコには何て伝えたらいいかな。

 この日記をフミヒコが読んでいる頃には私はいないんだね…。

 フミヒコ、今までありがとう。あんまり人付き合いとか上手じゃないし、ちょっとネガティブですぐ落ち込んじゃうところもあるけど、もう私はいないから、ちゃんと一人で生きてね。

 私はフミヒコの幸せを願ってるよ。

 恋もしていいからね。

 さよなら、フミヒコ。


 いつもよりフミヒコが早く来てびっくりした。しかも、知ってか知らずか遊園地に行こうだなんて。いまは部屋の外で待っててもらってます。すぐにでも準備して出かけたいけど、大事なことなので書きます。日記はおしまいにしようと思ってたけど、フミフコに遊園地に誘われて分かった大事なこと。

 それはね、私が夏祭りの日に死ななかった意味。それがようやく分かったの。

 私はあの日、櫓が崩れてフミヒコが死んでしまう瞬間、助けてくださいって願ったの。結果、私が身代わりになることで助けたと思ったんだけど、本当はあの時、フミヒコは死んでなかったの。けど私は身代わりになった。私の願いは叶えらていたの。

 それはね、フミヒコは本来なら今日死ぬはずだったの。正確には分からないけど、何かしらの事故に巻き込まれて。私の願いは今日のフミヒコを助けることとして叶えられていたの。

 夏祭りで私が死んでしまっては願いを叶えることができない。フミヒコといま一緒にいることができなかったのか、あるいは私の寿命がそれ以前に尽きてしまうのか分からないけど、七年の眠りはフミヒコを助けるためにどういう訳か必要だったの。

 見えたのは真っ暗な場所、大きな音が聞こえたと思ったら上から何かが降ってきたの。たぶん、その瞬間に私は死ぬんだと思う。

 痛くないといいな。死んじゃったあと抱きしめてくれるかな、手を握ってくれるかな、キスをしてくれるかな…。

 あんまり待たせちゃうと悪いよね。お話はこれくらいにしときます。

 私にはもう願いを叶える力はないけど、もしほんの少しでものこっているなら、どうか二人で助かる、明日を迎えられる未来が訪れますように…。

 今度こそ本当にさよなら。

 フミヒコのこと、ずっと大好きだったよ。



 悲しみもあったし涙も零れたが、心は沈んでいなかった。

 読み終えた僕は手が震えていた。何の震えか分からなかったが心地いい精神状態だった。これまで何か熱心に取り組んだものもないし、継続している趣味もない。そんな僕が成し遂げたいと、何が何でも叶えたいと思ったことが目の前にあった。

 昨日読んだとき、頭の中は真っ暗で見えない何かが蠢いていて思考を邪魔されていたが、いま一筋の光が差し込んだような気分だった。

 方法はまだ分からないし、自分にどれだけのことが出来るのか分からない。ただあれこれと考えていた頭は、ただ一つだけのことを考えていた。それだけを考えている今は、ミサキが死んでしまうかもしれないにも関わらず、不思議といまは妙な高揚感があった。

 もしかして僕は、人生で初めて目的を手に入れたのかもしれない。

 ミサキを救いたい。できるなら二人とも無事な未来。これが最後の三日間だとは到底思えなかった。日記だと僕は今日、ミサキに会いに行ったらしい。夕方に行ったらしいが日記通りにした方がいいのか、それとも全く別の行動がいいのだろうか。

 いや、それはやめとこうと思った。いま僕の手元には唯一とも言えるミサキの死に関する情報があった。それを手放してまで得られる見返りがあるとは思えなかった。日記にあった何気ない一文。

『見えたのは真っ暗な場所、大きな音が聞こえたと思ったら上から何かが降ってきたの。たぶん、その瞬間に私は死ぬんだと思う』

 その一文が示す瞬間が変わらないよう、できる限り日記の通りにしようと思った。そうすればその瞬間は三日後に訪れるはず。

 まずは今日、早く会いに行きたい気持ちを抑え夕方に会いに行こう。場所は隣町の病院。最初の一言はどうしようかな。それに三日後には遊園地だ。チケットはどうしよう。家に財布を取りに帰ったら早速買いに行こう。

 大事なのは三日後。ミサキの死が掛かっているにも関わらず待ち遠しさがあった。どうやら自分の本性は、あんまり良い性格じゃないのかもしれない。


 *


 相変わらずいつものカバン、中身は少し違った。いつもの荷物に付け足された遊園地のチケットとパンフレット、そして日記。出かける直前、念のため持って行こうと日記を入れると思ったよりカバンは重くなり、置いていこうとしたがその重さもミサキの命の一部のような気がしてそのままにした。

 玄関を開けると飛び込んできた風は心地よく、空は晴れ渡っていて青空がどこまでも続いていた。

 病院は朝にも関わらず人々の往来があった。ミサキの病室まで行くと気持ちを落ち着かせてノックした。

「はい、どうぞ」

 日記によれば今日の朝、ミサキは自分の死を悟ったらしい。きっと普段の僕だったら気づけないほど些細な雰囲気の違い。日記を読んだからか、ミサキからはどこか悲しさが伝わってきた。理由まで読み取ることは出来なかったが、僕にとって重要なのはこれからだった。

 部屋に入るなり、ミサキが開こうとした口よりも早く発した。

「ミサキ、遊園地に行こう」

「え?」

 驚きつつも泣きそうになったミサキは、きっと僕に死を悟られないよう必死で笑ったんだろう。浮かび上がった涙がこぼれないよう前を向いて。

「うん、行こ」

 僕は何も知らない、分からないふりをし続けた。

「すぐ行ける?」

「平気。ただちょっとだけ準備するから、部屋の外で待っててもらっていい?」

「いいよ、待ってるね」

 院内は来た時よりも話し声が聞こえたが、耳をすませば聞こえてきたミサキの嗚咽が聞こえなくなるまでドアから少しずつ離れていった。

 カバンの中に手を入れ持って来た日記に触れる。僕はミサキを救えるのだろうか。不安になりそうだった心は、この日記があるだけで消え去っていく。

「お待たせ」

 時間にして十分ほどだったろうか。瞳を隠すほど垂れていた前髪はどこかに消えてしまっていた。いくら僕が鈍感だったとしても気づいただろう。

「前髪切ったんだね」

「変かな?」

 ドアの隙間から見えたテーブルには鏡と鋏が置いてあった。いま自分で切ったんだろか。顔にはまだ数本髪の毛が残っていた。僕はそれをそっと取った。

「変じゃないよ……すごく可愛い。似合ってるよ」

 そんな言葉で恥ずかしそうに俯いたミサキがまた可愛くて、周りの視線など気にせずミサキを抱きしめた。

「でも、どうして急に?」

「前髪があるより、ないほうがフミヒコのことちゃんと見れるから」

 それは、ミサキにとって最後だから。そんな意味が込められている気がした。今日は特別な日にしたかった。最後だからではなく、これから二人が一緒にいる上で何度も思い出すような楽しい日にしたかった。

「フミヒコ?」

 そんな思いを知られぬよう、手を掴み歩き出した。

「パンフレットあるから、電車で一緒に見よう」

「うん」

 雲一つない空は高く、素敵な一日が始まりそうな気がした。ミサキの笑顔が一層鼓動を高鳴らせていく。

 遊園地に着く頃には、日記の重さを忘れてしまうほどミサキと楽しむことに夢中になっていた。入園までの待ち時間もアトラクションの待ち時間も、二人でいればあっという間だった。

 まだ行ってない場所はあったが、日が落ちそうになるころには二人、ベンチに腰掛け座っていた。夕日に照らされた横顔を見て、初めて会った日のことを思い出していた。不思議な雰囲気に惹かれ、夕日が似合いそうだなと思ったその日。まだ何も知らなかった日のこと。

「前にも話したと思うけど……」

 真昼の暑かった日差しの下に比べ、気温も下がり日陰になっているベンチはずいぶん涼しく感じられた。そのせいか、ミサキの明るさが抜け落ち着いた声すらも涼しく淡々としている気がした。

「私には不思議な力があって、そのお陰でいろいろな願いを叶えてきたの。今はもうどれが力で叶ったのか、力じゃなくて偶然なのか分からないんだけどね」

 ミサキが見ているのは僕ではなかった。それは目の前にあるメリーゴーランドか、その先にある観覧車か、あるいはただ前を向いていただけで何かを見ていたわけではなかったのかもしれない。

「無理な願いもあったの。例えばテストで百点取れますように、ドアを開けたら不思議な世界に行けますように。それでも、よっぽど不可能な願いじゃなきゃ叶ってたと思う。レストランで話した巫女の逸話は覚えてる? 確証はないんだけどね、たぶん私とその巫女は何かしらの関係があると思う。初めて巫女の逸話を聞いた時に、変な感覚なんだけど、昔から知ってた気がしたの。懐かしくて悲しくて、まるでずっと一緒に住んでたみたいな親近感があったの」

「一緒に住んでた?」

「変だよね。でも、その表現が一番しっくりくるの」

 笑いながらも表情には迷いがなくて、冗談でも嘘でもなくそれを真実だと認める方が自然だった。

「フミヒコと出会う前に思ったことがあるの。どうか、私と仲良くしてくれる友達が一人でいいから出来ますようにって。そしたら、フミヒコが転校してきてくれたの。けど、二人とも人見知りもするし社交的じゃないから、なかなか話すきっかけも作れなかったよね」

 中学二年生のとき、どうして互いに独りだった僕らはどうして繋がれたか。

「嫌だったし辛かったけど、痣があって、虐められてよかったって思ったの。だって、虐めがなかったらフミヒコと知り合うことも、話すきっかけも出来なかったと思うから。放課後さ、神社で色んなこと話したよね。真っ暗で仕舞っておきたい過去を、素敵な、何度も思い出したくなる過去に変えてくれて、本当にありがとう」

 ミサキは立ち上がり僕の手を引き歩き始めた。周りにいる誰よりも遅く時間をかけてゆっくりと。当てもなく歩いているのかと思ったが、どうやらミサキには目的地があるようだった。どこか一ヶ所を目指し、寄り道せず迷うことなく歩いて行った。その視線が観覧車だと気づいた頃には辺りは暗くなっていた。パステルカラーの観覧車は遊園地の中にいればどこからでも見えるほど明るく煌めいていた。

 ミサキは途切れることなく話し続けた。僕らの、神社で過ごした中学二年生の夏の日々を。他人から見ればありふれていて心を揺さぶるドラマのような出来事ではなかったかもしれない。けど、僕らにとっては何よりも重視すべきで、いつまでも手のひらに握り締めていたい宝物。

 ゆっくり歩きすぎたせいか随分と時間が掛かかり、遠くでは今日最後のパレードの音楽が流れていた。

「初めてなんだよね」

 観覧車の順番待ちをしている間、そう漏らすとミサキがからかうように言った。

「もしかして、高いところ苦手?」

「そういう訳じゃないけど、今まで機会がなかったのかなぁ」

「フミヒコはさ」

 優しく語り掛けるような言い方だった。怒るでもなく呆れるでもなく、諭すように子供をあやすように。

「もうちょっと積極的になった方がいいと思う。自分から進んで何かをしたりさ……間違えることが嫌で、最初の一歩が出ないまま終わっちゃう。自分がしても何も変わらないって決め込んで、見ないふりする」

 少しイラっとした。僕の七年間の苦労も知らないで。何か言い返そうとしたところで怒りは急速に収まってしまう。きっと、他の誰でもなくミサキに言われたからだろう。中学時代、虐めを知りつつも結局僕は何もしなかった。

「ごめん」

 僕より先に謝ったのはミサキだった。

「言い過ぎた……別にフミヒコを責めたい訳じゃないの。ただ、フミヒコのよさをちゃんと周りの人にも分かってもらいたいなって思ったの」

「僕はミサキにだけ分かってもらえれば――――」

「それじゃだめ。私は嫌なの、フミヒコが後悔したり悲しい思いするのは。楽しい日もあれば、きっと悲しい日もいつか来る。その時、前を向いて歩けるようになってほしい。七年ぶりに再会した時、私のことを待っててくれて嬉しかった。でも、それは私だからこうして再会できた。不思議な力があった私だから。お願い、もし次七年前の私のように突然姿を消してしまうような出来事があっても、フミヒコはフミヒコの道を進んでほしいの。私を待たない、新しい一歩を踏み出してほしい」

 ミサキは終わろうとしていた。もう僅かな時間しかないと分かっているせいか感情の、気持ちの強さが胸の奥にまで伝わってくるようだった。

「うん……がんばる……」

 涙がこぼれていたのは、明確にミサキがいなくなる明日を想像してしまったからだった。ミサキを絶対に死なせない。そう決意したはずの心は悲しさに包まれていた。抑えようと思っても涙は止められなかった。身体に触れているバッグ。その中にある日記の感触が涙を運んできているようだった。

「どうしたの? ねえ、泣かないでよ」

「なんか、涙が出てきた」

 それ以上言葉を発したら、涙が余計こぼれてしまいそうだった。あまりミサキの方を見ないよう顔を押さえていた。背中をさすってくれたミサキの手が震えていたのは、もしかしたら、ミサキも泣いていたのかもしれない。

「ごめん、もう大丈夫」

 観覧車の順番が来る頃ようやく涙は止まった。けどそれが、今にも外れてしまいそうな緩い栓であることは僕自身がよくわかっていた。

 案内され乗ると空気は少し籠っていたが、代わりに外の音は幾分か遮断され静かだった。広い観覧車に僕らは寄り添うように座った。

 外の夜景は綺麗だった。一面電飾で眩しいほど輝いていて、高くなるたび小さく、けれど広い範囲を見渡せるようになり美しさは増していた。

 まだ半分登り切っていないところでミサキが手を強く握り締めてきた。

「今日が終わるまでは、お願いだから泣かないで……お願い」

 私が死んでも泣かないで。

「泣かないよ」

 答えを知っている僕は、足されなかった言葉を脳内で補完した。

 観覧車は機械音とともにただひたすら高く登り続けた。僕らは夜景を見ていたが、何かを発することもなく互いの手を握ったままだった。

 たった一つ変化があったとすれば、それは、観覧車が頂上に達して視界に他の観覧車が消えたとき、僕らは短くキスをした。ほんの一秒にも満たないその瞬間を、ありふれているかもしれないが、時間が止まり世界が僕らだけになってしまったかのようにミサキ以外の存在は消えていた。唇の柔らかさが、僕の世界の全てだった。

 僕らはやはり、降りるときも無言で降りた。さあ、帰ろうと出口に向かい歩き始めた最初の一歩で気づけたのは、僕らが何も発していなかったからだろう。一帯を揺らす地響きは次第に大きくなっていった。

「揺れてる……」

 不安そうにしていたミサキの肩を抱いた。最初こそ立っていられたが、次第に立てないほどの揺れに変わり、僕らはその場にしゃがみこんだ。地響きは一層大きくなり、アトラクションの鉄柱が軋む音が不気味に響き渡っていた。

「あ……電気が消えちゃったね」

 耳元で聞こえたのは、今にもミサキが消えてしまいそうな囁く声だった。

「うん、真っ暗」

 唐突に、コンセントが抜けてしまったテレビのように園内の電気は消えてしまった。目が慣れていないせいで周りの人影はぼんやりとしか見えず、その姿は黒く輪郭がはっきりしなかった。一見すると人だと思っていた影は、人の形をした別の何かではないかと思えてしまい、まだ聞こえる地響きと立つことも出来ない揺れも相まって、このまま世界が終わってしまうのではないかと錯覚してしまいそうになるほどだった。

 相変わらずアトラクションの鉄柱の軋む音も響き、四方からだけでなく、今僕らが乗っていた観覧車の上部からも聞こえてきた。

 その中に突然、別の音が混じった。先ほどまでと同様に鉄柱の軋んだ音に似ていたが、今聞こえたのはまるで何かが外れたような、何かが折れたような。

『見えたのは真っ暗な場所、大きな音が聞こえたと思ったら上から何かが降ってきたの。たぶん、その瞬間に私は死ぬんだと思う』

 日記の一文が浮かんできた。

 その瞬間は今なんだと、誰かがこっそり正解を耳打ちしてくれたかのように、僕の中で渦巻いていた用途不明な二つの部品がカチッとはまった気がした。

「フ、フミフコ?」

 まだ揺れる地面の中を無理やりミサキを立たせ、その場から離れようと動き出した。音のした方を見上げたミサキは躓き身体を傾かせてしまう。

 唯一僕が出来たのは、転びそうになったミサキの身体をほんの僅か引き寄せることだけだった。

「――――っ」

 どちらかが発した声にならない声は、鉄柱が地面に叩き付けられる音に空しくかき消された。降ってきたのが一つでないのは、何度も響いたその音から容易に想像できた。

 世界は静かで、痛みもなくて、けどミサキの温もりだけがあった。生きているのか死んでいるのかも分からない中で、ミサキの身体を強く抱きしめていた。これが人生の最後の瞬間なら悪くないなんて、そんな冷静さを持っていた暗闇の中だった。



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