〈四〉
ミサキと会う前日。まだ終わらない夏休みに、一日中だらだらと過ごしていることが多かったが、今日は珍しく予定があった。とは言っても誰かと会う約束もないし何かのイベントに参加するわけでもない。
電車に揺られながら一つ隣の駅に行く。駅前のロータリーは時間が悪かったのか混雑していてのんびり座って行こうとしていたバスの席は、僕が乗る頃にはすっかり埋まってしまう。
ミサキと入ったレストランを過ぎバス停の名前にもなっているラーメン屋も通り過ぎる。よくテレビで紹介されるらしく店の前には十人ほどの行列ができていた。その先には大きな病院が見えた。地域でも屈指の規模を誇る病院ではあるが、幸い大きなケガも病気もないぼくにはあまり縁がなかった。
昔からあるせいか病院の塗装はくすんでいて、大きさと無機質な外観も相まってどことなく怖さが漂っていた。
大きな音を立てて入って行った救急車には、どんな人が乗っていたのだろうか。先日、トラック運転手が起こした事件を思い出した。轢かれた女の子は亡くなってしまい、近くを一緒に歩いていた女の子も重症らしい。運転手が携帯電話を見ながら運転していたことが原因だそうだ。連日流されるそのニュースのせいだろうか、救急車に乗っているのは女の子が浮かんだ。
親戚がみんな遠方にいる僕にとっては、この病院に行くことはないだろう。
そこから数十分揺られ着いた先は図書館だった。広い図書館をうろうろと目当ての本を探すが中々見つからない。ようやく見つけた時には一時間近く経過していた。その本にはこの土地の歴史が書いてあった。写真こそなかったがミサキが見せてくれた雑誌よりも詳しく載っていた。
僕は物語をもっと詳しく知りたいと思った。この土地に住んでいたという巫女の話は、二日経ったが頭に印象強く残っていて離れなかった。理由は分からないが知識欲でも刺激されたらしい。
どうやら千年近くも前の話で、大方ミサキが話してくれた内容で一致していた。
不思議な力を持った巫女がいて、名前を〝イツキ〟と言ったらしい。イツキは自身の不思議な力で人々の生活を豊かにしていたが、ある時領主に見初められ言いなりにされ、最後には殺されてしまう。
調べた話は結末こそ同じものの、その前後にはミサキが話していない物語があった。
イツキは領主に不老不死を求められるが、自分の力にそんな能力はないと断ると屋敷の牢屋に閉じ込められてしまう。食事だけが与えられ、誰とも会わせてもらえず、ほんの僅かの光も入らない暗闇から一度も外に出ることはなかった。
イツキが異変に気付いたのは牢屋に入って一か月後。余りに暗く会話もしなかった屋敷の人間が気づいたのは半年後だった。そのことを知った領主は急いで牢屋に行き、喜々としてイツキに問いかけた。大きく膨らんだ腹部を指差しながら。
「儂が食事を与えなければお前とその子は死んでしまう。だがもし、お前が儂の言うことを聞くのなら助けてやる」
子は領主とイツキの子だった。領主はあろうことか、まだ生まれてきてもいない自分の子を人質にしたのだ。それでも、イツキにとっては自分の命よりも大切なわが子を助けるべく懇願した。助けてくださいと。
「不老不死はもういい。年をとった体で生きながらえても、暮らしを楽しめまい。だから今度は、お前のその力を使い儂を若返らせろ」
イツキが力を使うときは膝をつき手を組み、天に祈るように瞳を閉じるのだった。イツキには叶う願いと、叶わぬ願いが分かった。不老不死は無理だが若返りならば不可能ではない。三日三晩祈り続け領主は十、歳を減らした。
これでお腹の子は助かる。けれど待っていたのはさらなる悲劇だった。
領主はさらに若返りを要求した。いつかは出られるかもしれない。そう思い再び祈り、領主は五つ歳を減らした。一度手に入れた欲求は尽きることなく湧いて出た。今度は四つ、その次は三つ……。
それは訪れた。能力の限界だったのか、あまりの領主の願いに力を使い果たしてしまったのか、領主はついに若返ることがなくなった。領主はいつまで経っても自分を助けなかったイツキが、力を使うことを止めたのだと思い、何としてでも使わせようと追い詰めていった。
子を死なせないよう暴力をくわえ食事の量を減らし、自由を奪うためただでさえ暗く狭い牢屋内で壁際に手を縛り付けた。
それでも願いを叶えなかったイツキに、領主は次第に興味を失っていった。
縄をきつく絞められた右腕は壊死し、体中暴行され、至る所に青黒い痣が出来ていた。手当もされず食事も与えられず、日に日にやせ細っていった。そのあまりに変わり果て醜くなったイツキに嫌悪し、最初こそ願いを叶えろと毎晩訪れていた領主は、いつしか足を運ばなくなった。
牢屋には誰も来なくなった。イツキは助けを諦め奇跡を祈り続けた。けれど、イツキにはもう何かを叶える力は残っていなかった。死んでしまいたいと思った心を繋ぎとめるのは、まだ自分のお腹で生き続ける子の胎動だった。
この子の為に。その思いで生き続けた。
時間の感覚もなくなり、どれほど経ったか分からなくなった頃、領主がやってきた。イツキを見るなり怯え、蔑んだ目で慌てて去って行った。
鏡こそないものの、全身は血と泥で汚れ、髪は抜け落ち手足を見れば骨と皮以外何もなかった。その姿がどんなものか、想像するのは容易かったし、そんな領主の反応に今さら何の感情も湧かなかった。
イツキは感じる胎動とともに祈った。時間のある限りずっと。寝ることもなくただひたすらたった一つのことを。
「どうか神様、この子だけは救ってください」
屋敷に戻った領主は家人に命令した。あの牢屋に火を付けろと。化け物のようになったイツキが自分の敷地にいることが恐ろしくなったのだ。火は瞬く間に燃え広がり一面を火の海にした。ばちばちと激しく音を立て、牢屋のある建物の柱は次々と倒壊していく。
それでもイツキは祈り続けた。体に火がつき全身が焼かれながらも、残った左の手で天に向け、命が絶えるその瞬間まで。
後日、領主はイツキを探しに牢屋のあった場所までやってきた。そこには黒く焦げた遺体が一つあった。
死んだのだと安心して戻ろとした領主はあることに気づいた。そんなはずはないと近寄りイツキのかろうじて原型を留めている遺体をまじまじと見たが、そこにあったはずのものがなくなっていた。
領主は目を疑った。いくら探してもなかったからだ。何度も見ていたし、家人も間違いなく知っていた。
領主は家人にイツキの腹を裂かせた。しかし、大きくへこんだ腹部には何もなかった。いたはずの、間もなく出産間近にまで大きくなった赤子が消えてしまっていたのだった。一体どこにいってしまったのかと屋敷中、町中探したが見つからなかった。
身体の異変はその日のうちだった。イツキが亡くなって最初の夜、それまで若返っていた時間がもとに戻るように領主は年老いていき、翌朝には衰弱し亡くなってしまったそうだ。
帰りのバスは空いていて座ることができた。ぼんやりと窓の外を見ていると程よく涼しくてうとうとしてしまう。駅前が終点になっているので眠ってしまってもよかったが、あまり眠る気になれずにいたのは、巫女の物語が頭に残っていたからかもしれない。
本当にいたのかどうか知る術はないが、その巫女の姿を思い浮かべたときそこにいたのはミサキだった。雑誌を捲りながら淡々とまではいかないにしても、平坦な口調で巫女の逸話を話すミサキはどんな思いでいたのだろうか。
一度気になってしまえば、眠気はなくなってしまい目は冴えていく。
バスから覗いた先には病院が見えてきた。真昼だというのに太陽は厚い雲に覆われ空は暗くなっていた。元々明るい印象ではなかった病院の外観は、気味が悪く一層近寄りがたいものになっていた。
降車ボタンは病院の名前がアナウンスされる前に誰かが押していた。通院しているのか、知り合いのお見舞いにきているのか分からないが、もう何度も来ていて慣れているのだろう。ワンテンポ遅れてアナウンスされた。
その人影に思わず声が出てしまう。幸い乗客は少なく周囲にも人がいなかったため誰かに聞こえ不審がられる心配はなかった。バス停に着き立ち上がった僕は、降車する人々の最後にバスを降りた。
太陽は隠れているにも関わらずアスファルトは蒸し暑い熱気を放っており、その暑さが今この瞬間は現実なんだと突きつけてくるようで。
その行為は確認ではなく観察だった。まだ距離はあるが伸びた前髪と背丈、たったそれだけで疑う余地もないほど僕は確信していた。近づいていくものの何かに夢中になっているのか、僕に気づく気配はなかった。懐かしい記憶がよみがえる。下を向き本を読む姿は中学時代、休み時間に何度も見たミサキの姿そのものだった。
病院の入口の手前には小さな広場があり、道の左右には木のベンチが一つずつ。ミサキが座る以外には誰も座っていなかった。じっと見つめるだけで、声をかけようという気持ちは湧いてこなかった。
神社で別れミサキはどこかに向かって歩き出す。方向は中学時代と変わらないが、その道の先にミサキの家がないことを僕は知っている。取り壊され、全く別の家が建ち表札も違う。担任に言われたのは転校してしまったという事実だけ。理由も分からなかったが、もう会えなくなってしまったのだと思えば、そんなことは大して重要ではなくなってしまう。
突然転校してしまうにしても、せめて僕にだけはそのことを教えてほしかった。結局、僕たちが過ごした夏の時間は何だったのか。僕が感じていた友情とも愛情とも違う、二人を繋げていた特別な何かなんてものは最初からなく、全部ただの独りよがりだったのか。
消せない記憶が、どうにか踏み出そうとする一歩を無理やり引き戻す。
喉が渇きバス停の横で買ったペットボトルは、もう空になっていた。
帰る場所なんてなかったミサキの帰る場所がここだとしたら、一体僕はミサキの何を知らないのだろう。そこにある答えを知るにはまだ早いと、臆病風に吹かれ立ち去っていく。
今度のバスは、先ほど乗ったバスよりも冷房が効いているのか少し肌寒かった。駅に着く頃には灰色だった空はさらに暗くなっていた。ぽつぽつ降り始めた雨に、ミサキはちゃんと室内に戻ったのかと心配になる。
楽しみだった明日の待ち合わせに、針のように細く小さな不安が紛れ込む。意識を逸らそうとすればするほど、それは的確に僕の痛い場所を鋭く突き刺した。
*
明け方から本格的に降り始めた雨は、天気予報によると夜まで続くらしい。傘を差して神社のベンチの脇で待っているとミサキはやってきた。同じ時間同じ場所に、七年前と同じようにやってきた。提灯も櫓もない、雨の降る神社にやってきたミサキは同じ浴衣を着ていた。淡い青紫の浴衣は当然のようにあの日と何も変わらないまま。
「懐かしいね」
「七年前も同じこと言ったの、覚えてる?」
「言ったかも」
そんな返事をしつつも僕は覚えていた。その浴衣の色も散りばめられた紫陽花も、風に吹いているような滑らかな曲線も。初めて見たにも関わらず感じた懐かしいさ。
「どうしてそんな風に思ったんだろう」
手拍子で深い意味などなく僕の口から出た言葉の軽さとは裏腹に、あまりに真っ直ぐ僕を見つめるミサキの瞳にドキッとしてしまう。心の奥まで透かして見ているような瞳の中に、僕の知らない世界がそこにはあるようで。
「本当に懐かしいと思ったからじゃない?」
その言葉には何かが抜けてしまっている気がした。僕は口をつぐんで続きの言葉を待った。神社に響く雨音に紛れないよう、近くを走った車の走行音にかき消されないようミサキを見続けていたが、誤魔化すように小さく笑い僕の手を取った。
「行こっか」
駅に向け歩き始めたミサキはすぐに自分の傘を畳んだ。
「この傘、そんなに大きくないよ」
「いいの」
僕の差していた傘に体を入れたミサキの肩が濡れないよう、空いていた反対の手でミサキを抱き寄せた。その幸せに今は浸っていたかった。不安も悲観も全部端に押しやって。
駅に着く頃には空の暗さは夜の暗さになっていた。別の神社で夏祭りは行われていて、行き交う人々の中には浴衣を着ている人がいて、傍から見ればミサキも行く途中か帰りに見えただろう。
以前話していたお店に入った。二十歳を過ぎお酒を少しは嗜むようになった僕とは違い、ミサキはまだ飲んだことがなかったらしい。
個室に案内され席に座るなりミサキはメニューを取りまじまじと見た。
「なんかいっぱいあるね」
見ていたのは食事ではなくドリンクだった。
「メニュー見るのも初めて?」
「たぶん……こんなちゃんと見たことないかも。全然分からない。ビールは分かるけど、ハイボールとかカクテルとかサワーとか、何が違うのか分かんない。何頼んだらいいの?」
「そうだなー。じゃあ取りあえずビール飲んでみよっか」
初めてだというミサキにまずはビールで乾杯を薦めて見た。
飲んだ瞬間顔を歪めたミサキだったが、「大丈夫」と明らかな見栄を張って僕よりも早く飲み終えてしまった。
「次もビール?」
「ううん、違うのがいい」
やはり口に合わなかったのか次に注文したのはシークワーサーサワーだった。どうやらそれは気に入ったらしく、そのまた次も同じのを注文していた。
時間を忘れて食べて飲んで、胃袋が少し満たされ始めたぐらいでアルコールが回ってきたのか、ミサキは僕に凭れながらフライドポテトをつまんでいた。僕はきっとミサキ以上に酔いが回っていたのか、ことあるごとにキスをせがんでいたが、ミサキは嫌な顔一つせず応えてくれた。
すっかり覚束なくなった足取りで僕らは店を出た。いつからだろうか、そのことを意識しだすとそれ以外何も考えられなってしまう。抑えようとしても膨らんでいく感情は、次第に身体を支配していった。
駅前を離れ目的もなく歩き出していた僕らは、いつの間にかその場所に来ていた。クラブやキャバクラなどが入った雑居ビルが立ち並ぶ隙間にぽつぽつとあるホテル。無論ビジネスでもカプセルでもない、僕が求めていたホテル。
夜には止むと伝えていた天気予報に反する、けれど僕には都合のいい強まってきた雨。それを理由にミサキの手を引っ張り連れていく。初めてのシステムに手間取りながらもキーを受け取り部屋に入り、ミサキを押し倒した。
きっとシャワーを浴びたり会話をしたり、そんなやり取りが普通はあるのかもしれない。けど僕はもう、爆発寸前の感情をミサキにぶつけたかった。
暗い明かりの中で見えたミサキの身体は傷一つ見当たらないほど綺麗で、その美しさと艶めかしさは僕を夢中にさせた。
二人布団に包まりながら手を繋ぎ天井を眺めていた。時計を見るとちょうど日付を跨いだ頃だった。さきほど行ったお店のメニューの話をしながら、今まで知らなかった互いの好みを言い合っていく。
少しして喉が渇いてきた僕は飲み物を取ろうと布団を出て電気をつけた。やや明るくなった部屋の中でまだ布団に包まっていたミサキを見て、何かが頭に引っかかった。疑問を覚えれば、忘れかけていた記憶を探り当てるのに時間はかからなかった。そこで僕は間違いに気づいた。いや、思い出した。
僕がいま抱きしめたミサキの身体は綺麗だった。なぜ、そんな当たり前のことに気づかなかったのか。中学時代、僕らを繋いでいたのは何だったか。友情でも愛情でもないその繋がりがなければ、そもそも僕らが出会うことすらなかったかもしれない。
眩しい光を浴びせられたかのように勢いよくあふれ出してくる記憶。あの日、僕らは夏祭りにいた。一緒にかき氷を食べて焼きそばを食べて、同じところを何回もぐるぐる回って。そして前触れなく訪れたクラスメイトに奪われたミサキのバッグを追いかけて。何分何十分も追いかけて返すことなくいなくなったクラスメイト。それでも探し続け時間だけが過ぎていった。最後の曲、炭坑節が流れまだ諦めきれずにいた僕は櫓を見やった。土台の周りを囲う赤白幕。一歩二歩と近づいていく。いつの間にか終わった炭坑節に人々は三々五々に散っていく。流れに逆らうように櫓へ向かっていく。中は暗かった。けれど何も置いてなかったお陰でミサキのバッグはすぐ見つかる。
「有川君!」
僕を呼ぶ声。
「有川君!」
何度も頭に響いた僕を呼ぶ声。
赤白幕を出ると今度は頭ではなく耳に聞こえたミサキの声。
振り返ると倒れてくる櫓。次々と降ってくる柱にどうあがいても間に合わずつぶされる身体。僕は死んだ。死んだはずだった。そう思った瞬間引っ張ったのは遠くにいたはずのミサキ。全てがスローモーションだった。すれ違うミサキは前髪をなびかせ、瞳には提灯の明かりと口を開けた僕。
激しい音と悲鳴。崩れた櫓。その隙間には……その隙間には、血だらけのミサキ。あっと言う間に地面を伝い足元まで流れてきた血に、僕は急いで柱をどかそうとするがぐちゃぐちゃに絡み合っているせいで、間違えた柱を動かせばさらに崩れてしまいそうだった。それでも僕は動かずにはいられなかった。柱を動かそうとするがびくともしない。何度も手をかけ持ち上げようとするが、急に指先に痛みを感じ話してしまう。ひび割れた柱がどうやら刺さったのか血が出ていた。ポタポタと、閉め忘れた蛇口のような血が。その血が落ちた地面は一面真っ赤になっていた。ミサキの身体からこぼれるように出続ける大量の血で。
何を叫んでいたのか分からない。そもそも言葉になんてなってなく、ひたすら声を出していたのかもしれない。息苦しく呼吸が困難になっても、喉がかれ声が殆ど出なくなっても、周りの誰かが何かを言っていても、僕は叫び続けた。思い出せる僕の記憶は、そこで途絶えていた。
落ち着かせようと自分に言い聞かせようとしたところで、思いの外自分が冷静にいることに気づいた。
ミサキは不思議そうに僕を見ていた。
「どうしたの?」
中学時代から変わらず長袖で身体を隠していたミサキ。薄暗い部屋でも慣れればよく見えた。服の下。その素肌。痣のない綺麗な身体。
その顔も声も仕草も、疑いようがなくミサキだった。
僕は極めて平静を装い、可能な限り優しい口調で語りかけた。その言葉に対するミサキの反応を何一つ見逃さないように。万が一、目の前にいる人物がミサキでなかった場合、確実に見極められるように。
「ミサキ……痣、なくなったんだね」
まるで誤って停止ボタンを押してしまったかのように動かなくなってしまったミサキは、ただ呆然と人形のように僕を見つめる。
身体を隠していた布団をぎゅっと握り、小さく息を吸い込んだ。
「そろそろ、話さなくちゃね」
とたんに残っていた酔いは醒めていった。部屋に充満する匂いもまだ残るミサキの柔らかさも、ダクトを流れる空気も雨の音も、夢なんかじゃないはずだった。なのに、今感じうる何もかもに一切の現実味を感じられなかった。
ゆらゆらと、水の上を揺蕩うクラゲのように意識はどこかに流れてしまいそうだった。ぎこちない動きで支度を整えホテルを出た。その間、僕は一度もミサキを見ることが出来なかった。僕の傘に入ってきたミサキの手は震えていた。理由を探そうにも僕は何も知らない。ただ昨日見た、病院にいたミサキの姿だけが浮かんで、悪い予感だけが胸にどろどろと渦巻いていた。
天気予報ではもうとっくに止んでいるはずの雨。いつまで経っても止む気配を感じられなかった。神社は降り続いた雨のせいでぬかるんでいて、歩きにくくなっていた。転ばないようミサキの手をしっかり握り締め、屋根のある本殿の下、石段を登った場所に腰掛けた。風は弱く、吹き込むことはなかった。
今にも消えてしまいそうな声で、ゆっくりと話し始めた。
「私はね、ズルをしたの」
「ズル?」
「小さい頃、欲しい物があったの。クラスの友達が持っていたウサギのキーホルダーなんだけどね、すっごく可愛かったの。いいないいなって、毎日思ってた。そしたらね、ある時家族で旅行に行ったら、その先のお店に売ってたの。まだいくつも残ってたんだけどね、売り切れないか心配で急いでお母さんにお金をもらって買いに行ったの。たぶん、それが最初」
何か言った方がいいのか考えたが、僕は簡単な相槌だけに留めた。きっと大事なのは、ミサキが求めるのは適当な返事ではないはずだから。
「昔からしたいこと、欲しい物、何でも叶ったの。家でも学校でも毎日が楽しくて充実してたと思う。私が自分のその力に気づいたのはずいぶん後になってからなんだけどね。最初はいっぱいお願いすれば叶うんだ程度に考えていたの。けどね、ある日唐突に思ったの。自分には不思議な力があるんじゃないかって。いくら何でも願いが都合よく叶いすぎだって。ねえフミヒコ、信じられないかもしれないけど、私には不思議な力があったの。願えば叶える事ができる、不思議な力が」
聞きながらも浮かんできたことがあった。まるでそれは、ミサキが話してくれた不思議な力を持つ巫女の逸話に似ていた。
「小さい願いは一日二日で、大きくなるにつれて一週間、一ヶ月って期間はかかったけど、現実に起こりうる可能性のある願いは、叶えられたの。でもどうしても叶わない願いが一つだけあった。痣だけは、どうしても消えなかったの。私がね、七年前と変わらず夏でも長袖なのは理由があったの。でもそれはフミヒコが知っている理由とは真逆。服の下にある痣を隠したいからじゃなくて、痣がないのを隠したかったからなの」
中学時代、僕らを繋いだのはミサキの痣だった。ミサキを苦しめ悲しませ、心を縛り付けた醜い痣。
「きっとそれに気づいてしまえば、魔法が解けてしまうと思ったから。今の状態が長く続かないのは分かってた。けどまだ許されるなら、時間がある限り夢を見ていたかった。悲しい結末しか来ない夢だと知っていても。フミヒコといたかった。それももう、おしまい。夢から覚めなきゃいけないみたい」
ミサキは改めて僕の方を見て、手をそっと重ねてきた。温かくて柔らかくて、けど夢だとは決して思えないミサキの確かな息遣い。
「悲しいことを言うね。あのね、本当は夏祭りの日に、フミヒコは死んでしまったの。崩れた櫓につぶされて、でもすぐに助けることができなくて。そのとき私は願ったの。お願いです、私のこの力でフミヒコを助けてくださいって。目をつぶって倒れるまで願おうと。けど静かになっていく周囲に違和感を感じて目を開けると、時間が戻ってたの。フミヒコが櫓から出てくる瞬間にまで。今なら間に合うと思って私は走ってフミヒコの傍に向かったの。けど櫓はもう崩れてきてて。手を引っ張って櫓から離すことできたけど、その代わりに私が巻き込まれてしまったの。フミヒコが無事ならそれでいいと思った。けど私は、また願ってしまったの。せめて私が死ぬまでの間、夢でいいから二人でいる時間をください」
ミサキは自身の右腕の袖を捲っていく。
「願いは叶ったけど、そのあと学校へ行くことは出来なくなってしまったの。夏祭りの次の日から私は眠り続けてたの。起きることもなく死ぬこともなく。目が覚めたのは七年後、フミヒコと再会した日だよ。私は起きるなり気づいたの。なぜかは分からないけど、身体から痣が消えていたことに。同時に悟ったの、不思議な力はもう使えないことに、私の命はそう長くないことを。それならせめてフミヒコに会いたい。慌てて着替えて神社に向かったの。いるはずのないフミヒコを探して…………いてくれたよね、ありがとう。それから何日か経って分かったの。七年前と何一つ変わらない顔、眠っていたはずなのに変わらない身体。私の時間は、七年前で止まったままなんだって」
疑うことなく受け入れられたのは、やっぱりその右腕のせいだった。痣のない、綺麗な素肌。ミサキは袖を戻し、おどけながら言った。
「つまりフミヒコは、未成年の女の子にお酒を飲ましたってことだね。ふふ、捕まっちゃうぞ」
僕のおでこを突っついたミサキの笑顔は、今にも崩れて泣き出してしまいそうだった。
「僅かな時間を壊したくなくて。それに受け入れる準備ができてなかったみたいで、今まで話せなくてごめんなさい。けど今日、フミヒコと一緒にいられて嬉しかった。初めてのこともいっぱいした。すっごく満足したからかな、ちゃんと受け入れられる気がしたの。本当は最後、神社に戻って来てから話そうとしたんだけど、その前に夢は終わっちゃったみたい……」
いつの間にかミサキの目からは涙がこぼれていた。頬を伝い落ちる涙を何度拭っても、次から次へとこぼれてきた。それでも笑顔を絶やさないミサキを抱きしめていた。
「そんなに強くしたら、痛いよ……」
強さなんて分からなかった。ただ離さないよう、どこへも行けないようきつく抱きしめていたかった。
「前から決めてたの。話したらそれで終わりにしようって」
「ミサキ……お願いだから、どこにも行かないで」
「私にはもう時間は残されていないの。それに中途半端なままだと、フミヒコを縛ることになっちゃう。それは嫌なの。だから、今日で……」
その言葉が言えないよう、さらに力を込めた。さっきまでそっと回していたミサキの腕に少しだけ力が感じられた。もう二度とこないこの瞬間を、忘れないよう体で感じとるように。
「今日でお別れしよう」
ふっと緩められた力は、僕を優しく引き離した。
「今までありがとう。幸せだったよ、フミヒコ……」
ゆっくり立ち上がったミサキは、石段を下りて本殿の屋根の外に一歩出た。降りしきる雨はミサキの長い前髪に瞬く間に染み込んでいく。顔を濡らした雨は、涙の量を隠していた。
「大好きだったよ……さよなら……」
駆けるでもなく止まるでもなく、雨など気にする様子はなく歩いて行った。きっと聞こえているだろう、僕の声に一度も振り返ることなく。
追いかけることが出来なかったのは、ミサキの言葉が僕の足をその場に繋いでいたからだった。無理に動こうとすれば足がちぎれてしまいそうなほど重く頑丈な鎖で。
僕にできることなど何も浮かばなかった。もうすぐ死んでしまうミサキに何もできない無力さに、ただただ涙があふれてきた。
気づけば雨は上がっていた。いらなくなった傘を畳みまだ暗い夜道を帰っていく。一人分の足音が空しく響いていた。
部屋に帰るなり鳴った携帯電話のモニターを見ると、知らない番号だった。ミサキかもしれないと思い出ると、ただの間違い電話だった。何もかもが嫌になった。携帯を引き出しに仕舞おうにもどこもいっぱいだった。仕方なく、一番下の奥にでも放り込もうとしたところで、見たことない物を見つけた。手に取り見るとそれは一冊の日記だった。思えば僕の靴箱に入っていた、誰のかも分からない日記。捨てようにもタイミングを失いそのままになっていた日記を、気が紛れればいいと読み始めた。
主語もなく簡潔に書かれた日記ではあったが、その持ち主を特定する時間の問題だった。
日付こそ覚えていなかったものの内容は忘れもしない。放課後に教室でミサキと話し初めて神社にいった、中学二年生のまだ肌寒かった夏が訪れる前の出来事。遅くまで話した、二人の会話が書かれていた。僕は一文字一文字見落とさないよう読み始めた。
明け方になる頃ようやく読み終えた日記を机に置き、ベッドに横になった。考えようにも思考はすぐシャットダウンし、眠りにつくまで時間はかからなかった。身体には、まだミサキの温もりが残っていた。