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〈三〉

 偏差値の高くなかった僕は高校、大学と実家から通える範囲でどうにか入れる学校へ進学していった。

 その頃には極度の人見知りは解消されていて、サークル活動に勤しんだりその仲間と二十歳を過ぎたころからはお酒を嗜んだりもした。あまり強くないらしく缶チューハイ二本でギブアップではあるが。

 大学帰り、駅から家までの道では相変わらず神社を通っていた。ほんの少しの遠回りに意味がなかったと言えば噓になる。誰もいないはずのベンチを見てしまう。僕は心のどこかで期待していた。いつかそこに、ミサキが座っていることを

 七年が経った今でも鮮明に思い出せる夏の日々。僕はそこに何かを忘れてきてしまったかのように、物足りない生活を送っていた。そのせいだろうか。将来の夢も仕事も全てがぼんやりしていて、何も決められないまま三年の夏を過ごしていた。

 今年の夏も暑い日が続く。夏休みということもあって真昼だというのに子供たちの声が騒がしい。

 このまま夏が進んでいっても神社で夏祭りはこない。ミサキがいたあの夏を最後に、一度も行われていない。

 原因はあの日の櫓の転倒だった。あれで資材は壊れ新しくする予算もないうえ、安全性の問題で町内会は無期限の中止を決定した。もし、それがなかったら今頃は提灯や櫓が準備されていただろう。

 殆ど予定のない夏休みを家で過ごしていた僕は、一日中家にいるのも健康に悪い気がして、一日一回は外に出ることにしていた。駅の本屋に行ったり、コンビニにお菓子を買いに行ったり、もちろん神社に行くこともあった。

 夕暮れ時、立ち寄った神社は人気がなくずいぶんと寂しさがあった。

 普段はベンチを見るだけだった僕は、ふと今日は座ってみようという気になった。ベンチは汚れていて手で草木や砂埃を払うと少しは綺麗になったが代わりに手が真っ黒になった。

 座って眺める夕日は懐かしく、目を瞑れば記憶は七年前へ戻っていた。大きくなった身体はもうあの頃の自分とは違うのだと、小さくなったベンチに背をもたれる。戻れそうで戻れない場所。このまま、何も起こることなく人生が進んでいってしまう気がして、未来に目を向けるのが怖くなる。

 思えば放課後の教室でミサキに会った時もそうだった。ミサキに会い、見て見ぬふりをしていたミサキの虐めに向き合った日。

 変わらない日々に、これからもずっとそうなのではないかと現実が嫌になり、感傷に浸りたかった。いつもと違うことをすれば、何かが変わるような気がした。

 人生が変わったのかは分からない。けれど結果としてミサキと親しくなることができた。きっと、それまでの人生で一番楽しかった時間で、記憶に焼き付けられた日々だった。

 もう、あの夏は二度と来ない。分かっているのに探してしまう。ゆっくり目を開けると、そこにはミサキがいるような気がして。

「久しぶりだね」

 その声は――――、

「フミヒコ」

 その顔は――――、

「ミサキ!」

 僕の目の前に立っていたのは紛れもなくミサキだった。

 髪型も背丈も、七年前と何一つ変わらない姿でそこに立っていた。控えめに小さく笑った表情も、あの頃のまま。

「大きくなったね。背伸びしても抜かせないや」

 ミサキは僕との身長差を測るように手を伸ばした。殆ど変わらなかった背丈は、七年の歳月が十センチ以上も差をつけていた。

 驚きはあったが不思議とすぐ落ち着くことができ、懐かしさに心は和らいでいた。聞きたいことがいくつもあったし、話したいこともあった。

 けれど、何から話したらいいか分からなかったのもあるが、ミサキと再会できたこの瞬間を、空白を埋める時間で終わらせたくなかった。

「七年ぶりだね」

 頷いたミサキは僕の目をじっと見ていた。

「もうそんなになるんだね……」

 相変わらず夏だというのに長袖を着ていて、前髪は瞳を覆うほど長かった。ミサキが座れるようにとベンチの真ん中から端によりスペースを作ったが、首を横に振った。

「フミヒコ、明日もここで待っててくれる?」

「待ってる」

 間髪入れずに僕は答えた。本当は今日もまだ一緒に居たかったが、その一言で綻んだ顔を見て言葉は引っ込んでいった。明日も会えるのだからと。

「ありがとう」

 緩んだ口元が妙に可愛かった。

「ん? フミヒコ?」

 つまりはそういうことだった。

「――――っ!」

 僕たちの関係は何なのかよくわからない。七年前も明確な言葉はなかったし、それは今も変わらない。

 徐に立ち上がった僕はただ、急ぐでもなく躊躇うでもなくミサキに口づけをした。ほんの数秒、息を止めても苦しくない時間。

 大きく目を見開いていたミサキの瞳には、七年分の年を取った自分が映っていた。あまりに変わらない容姿のミサキに、自分だけが年を取ってしまったようだった。

 唇が離れるとミサキは一歩下がってしまう。

「ご、ごめん……その……」

 したことの恥ずかしさに頭は真っ白、体は熱くなっていく。自分がこんなことをするなんて普段なら想像もできないことを、ミサキの前ではしてしまう。七年前もそうだった。

 嫌われてしまっただろうか。再会して間もないのに、こんなことをしてしまった自分は心底どうにかしていると思った。

「ううん、平気……嫌じゃないから」

 不安になっていると、自身の口元に小さな手をそっと触れていたミサキは顔を上げ、からかうように笑った。

「大人になったねぇ」

 そう言ったミサキは頬を赤く染めていた。

 きっと僕は顔中赤くなっていたかもしれない。

「ごほんっ」

 気を取り直そうと言わんばかりにミサキはわざとらしくせき込んだ。

「番号、変わってないから」

 掛けるのが怖かった。もし繋がらなかったら、たった一途の望みも絶たれてしまう気がして。七年経っても消せずにいたアドレス。

「僕も変わってないよ」

 いつかミサキから掛かってくるのではと、変えずにいた電話番号。

 すっかり暗くなり、七年の歳月を経た僕らが家に帰るには早すぎる時間。

「また、明日ね」

 不安そうに言ったミサキに僕ははっきり答えた。

「明日も待ってる」

「うんっ」

 さよならの挨拶はあの頃と同じだった。タイムスリップしたかのように、ミサキに合わせて大きく手を振った。

「ばいばい」

 あの頃と同じように、ミサキは帰って行った。


 家に帰りベッドに転がった。何も考えずにいようとしたがどうしても拭えない疑問が、頭の中で砂を擦り合わせたようにざらざらと残り続けた。

 一度考え始めれば膨らんでいき、勝手な憶測が加速しあっと言う間に脳内を支配していく。振り払おうとしてもオートマチックで答えにぶつかるまで動き続ける。

 聞くことに怖さがあった。夏祭りの日を最後に突然消えてしまったミサキ。開けてはいけないパンドラの箱ではないだろうか。関係が壊れてしまうのが怖くて出来なかったミサキへの連絡。もしそれが聞いてはいけないことだとしたら。

 その日は眠れない夜だった。


 ミサキは昨日と同じ時間にやってきた。

「待たしちゃった?」

「いま来たとこ」

 隣に座ったミサキは走ってきたのか息切れをしていた。胸に手を当て大きく呼吸するとカバンから小さなペットボトルを取り出し水を口に含んだ。

「フミヒコに謝らなくちゃいけないことがあるよね」

 まだ落ち着いていない呼吸で話し始めたミサキの声は震えていた。

「中学二年の、二学期が始まる前だよね。突然転校しちゃってごめんなさい」

 声は小さくて、今にも泣きそうで。

「本当はフミヒコにだけは伝えようと思ったんだけど、出来なくなっちゃって……」

 あまりにも辛そうに話すのはなぜだろうか。

「そのことなら別に気にしてないよ。会おうって、ちゃんと約束してたわけじゃないし」

「でもフミヒコのことだから、神社で待っててくれたでしょ?」

 ミサキの声からは、聞いているこっちの胸が痛くなるほどの悲しみが伝わってきた。ミサキ自身にもどうにもならなかったような、やりきれなさがあった。

「……うん」

「ごめんな――――きゃ」

 謝りかけたミサキの肩を強引に抱き寄せた。まだ暖かい夕暮れ時だというのに体は震えていた。思っていたよりも小さくて柔らかくて、仄かに香ってきた髪をそっと撫でるとさらさらしていて気持ちよかった。

 きっと話さなければいけないと思っている。過去の過ちを謝らなければ進めないと思っている。

「ミサキ、話さなくていいよ」

 こんな悲しみに包まれながら、自分を追い込みながらしなくてはいけないことなのだろうか。これは僕が求めていたことなのだろうか。いま、答えを知ることに意味があるのだろうか。

「え?」

 僕を覗き込むように見上げたミサキの瞳は、夕日を映して茜色に輝いていた。初めて会った日のことを思い出していた。ミサキの笑顔には夕日が似合いそうだと思い、数週間後夕日の中で見た笑顔はやっぱり素敵だった。

「聞きたいこともいっぱいあるけど、それは今じゃなくていいよ。僕が今ミサキとしたいのは、昔みたいに色んな話をしたり、あの頃は出来なかったけど今度はどこか一緒に遊びに行きたい」

「でも、話さなくちゃいけないことがあるの。私のことと、フミヒコにとっても大切なこと」

 あの頃のままだったと思っていたミサキは、容姿こそ変わらないもののその瞳には以前にはなかった強さがあった。僕を真っ直ぐ見つめ絶対に逸らさずにいる意志の強さのようなものが。

 七年経ったいま大切なことなんて、これからの二人には些細な問題のような気がした。どんな問題でも乗り越えられるし、受け入れることができる。

「いまはミサキとこうしてたい」

 抱き寄せた身体に力を込めた。

 されるがままのミサキは諦めたらしく、口を開いた。

「後悔しない? 私、フミヒコが知りたいこと、ちゃんと全部答えるよ。何も隠さないで正直に話すよ?」

 最後の通告と言わんばかりに言葉を並び立てるミサキの、先ほどまでの震えは気づけば治まっていた。

「しない。だからミサキはそんな辛そうな顔しないで。今のミサキを見てると、自分を押し殺して、無理やり終わらせようとしてるみたいに見える」

 それを話そうとするミサキは儚かった。泡になって消えそうな、あるいは途中で心臓が止まって死んでしまいそうな……。。

「ミサキには笑っていてほしい。それとも、話した方が楽?」

 どちらにも首を振らなかった。否定も肯定もせず、僕の手をぎゅっと握った。身体を揺らすミサキの静かな呼吸のリズムが心地よかった。

「でもねフミヒコ、いつか言わなくちゃいけない日が来るの。だから約束して。その時は必ず、私の話を受け入れてくれるって」

「分かった。その時までに、ミサキが笑って話せるように頑張る」

 少しピントがずれていたのか、眉毛を曲げて困ったように笑った。

「もう、相変わらず変なことばっか言う。笑って話せないよぉ」

 悲しかった表情は少し和らいでいた。瞳には涙が滲んでいたが、泣き出しそうな気配はなかった。

「そんなの分からないじゃん」

「分かるもん」

 いつの間にか僕に体重を預けていたミサキは寝息を立てていた。

 すやすやと、長年の疲れを癒すように眠り続けた。躊躇われるほど気持ちよさそうに眠っていたが、夏とは言えベンチで朝まで眠っては風邪を引いてしまう。一時間ほどして起こしたミサキは口元から涎を垂らしていた。からかいながら指摘すると優しく肩を叩かれた。

「フミヒコのバカ、少しは女の子に気を遣いなさいよ」

 ミサキとする、そんなたわいもない会話はやっぱり楽しかった。

「すっかり暗くなっちゃったね。家まで送ってこっか?」

 昨日よりも一時間遅くなった神社は、一層暗くなっていた。音のない夜の神社に二人。世界に取り残されたように二人っきり。

「心配症だなぁ、大丈夫だよ。でもありがとう」

「じゃあさ、夜電話してもいい?」

「うん、待ってる…………ん……」

 一日の終わりにキスをした。

 少し冷えたミサキの唇の、柔らかさを感じられる昨日よりも長いキス。

「ばいばい」

 見えなくなるまで背中を見守り続けた。

 答えは追及しない。

 僕は知ってるから。帰るべきミサキの家が、もうそこにはないことを。

 考えを巡らせない。

 ミサキは一体、どこに帰っているのか。


 *


 部屋のカレンダーは月捲りで、毎年両親が会社から貰ってくる世界遺産を飾っていた。それまで何かを記入することはなく、予定は携帯電話に入れていた。

 そのカレンダーに初めて書き込まれたのは日付に赤丸をするだけというシンプルなものだったが、たったそれだけで部屋中に嬉しさが広がっているようだった。

 ミサキと約束したは三日前だった。

 かかってきたのは九時過ぎ。ぼんやりテレビを見ていた頭は、携帯に表示された名前を見た途端一気に目が覚める。切れないよう慌ててボタンを押した。

 外にいるのか風の音が聞こえ、けれど騒音のない静かな場所だった。どこから電話をしているのか分からなかったが、ミサキの声をよく聞き取ることができた。

 部屋にいるのが落ち着かず僕は家を出て、ゆっくり歩きながら電話をしていた。神社への道を普段の何倍も遅い足並みで。電話越しに近くを通り過ぎる飛行機の音が聞こえたが、こちら側ではそんな音は聞こえなかった。どこからかけているのかミサキは思いの外、遠くにいるのかもしれない。

 月をうっすらと雲が覆っていたが、神社に着く頃には綺麗な満月が一面を明るく照らしていた。手水舎に映った月はゆらゆら波打っていた。

 そのことを言うとどうやらミサキのいる場所でも月はよく見えたらしい。いまこの瞬間同じものを見ているんだと思うと、離れていた距離が少しだけ縮まったような気がした。

 気が付くと一時間近く電話していた。

 約束の場所こそ地元の駅ではあるが、時間は今まで会ったことのない昼過ぎだった。そのことに緊張しながらも待っているとやってきたミサキの服装はいつもより明るくて、けど相変わらずな前髪に安心する。

 僕を見つけると小走りで駆け寄ってきたミサキは、やってくるなり気まずそうに顔を伏せていた。

「いつも早いよ。私、フミヒコより先に来たことないね」

「そうだっけ? あまり気にならなかったけど」

 そんなことを言いつつ、目線はついミサキの足元を見てしまう。ひらひら揺れるスカートは、記憶にあった制服のスカートよりも短かった。

 頭に渦巻く煩悩を振り払うように、取り留めのない会話を切り出してみる。

「なんか変な感じだね。待ち合わせって」

 どうやらミサキも同感してくれたようで「うん、うん」と小動物のように小刻みに頷いた。慣れないのはお互い様のようで、大雑把に考えてきた僕のデートプランは、二人の空腹によって早々に行先を変更した。

 駅前のカフェやレストランを進めてみたが余り乗り気でなかった理由が地元の駅周辺のお店には入りたくはないのだと、あとになってから知った。

 電車に乗って出かけることが少なかったミサキは、一駅だけでもいいから移動して食事をしたかったらしい。事前に確認でもしていたのか、慣れた足取りでチェーンのレストランに入って行く。

「だって見慣れた景色よりも、少しでも知らない場所で食事した方がデートっぽくない?」

 その何気ない一言にドキッとする。今日の予定は僕にとってはデートだったが、ミサキにとっては何なのかずっと考えていた。友達と遊びに行く程度のもので、僕は勝手にデートと決め込んで一人で喜んでいるだけではないだろうか。

 杞憂だったと知り、食欲は急に増していた。

「それにこの店、一度入ってみたかったの。私たちの地元にはないんだもん」

「そうだね。よく新メニューとかCMでやってるけど、気軽に行きにくいよね」

 ざわついた店内でミサキは、手元にあったフレンチトーストを、蜜をたっぷりかけ食べていた。美味しいからと貰った一切れは想像以上に甘かった。

 午後はどこに行こうか話すタイミングを窺っていると、ミサキはお代わりしたアイスティーを半分ほど飲んだところで、カバンから雑誌を取り出した。

 何回も見たのか随分とくたびれていて、所々に付箋が貼られていた。

「これね、見ようと思って」

 僕に向けて広げ雑誌を捲ると、見たことのある風景が飛び込んできた。

「あ、懐かしい」

 それは数年前に発売された地域の名所や歴史を紹介した雑誌で、僕がこの街に引っ越してきた頃の風景が載っていた。開発が進む前の街の写真。駅前にはまだ噴水があって、違法に止められた数えきれないほどの自転車と、デパートの前に並んだ客待ちのタクシーの列。遠くに見えるマンションは数えるほどしかなくどれも決して高くない。

 今は三十階を超えるマンションが珍しくなかった。

「今から、十年前の写真なの」

「初めて見るのもあるや」

 たった十年。それだけで街は大きく発展し、新しく生まれ変わっていた。

「こっちはもっと古いよ」

 指差した写真は、僕の知らない姿だった。

「南口の商店街……だよね?」

「そう。今から三十年前くらいかな」

 僕が来た頃には既にシャッター通りとなり、人気のない寂れた場所になっていた。写真の商店街はシャッターを閉めている店舗などなく、人が溢れ行き来に支障が出そうなほど栄えていた。

「二人とも生まれる前だね」

「うん。私が小さい頃はこのハンコ屋さんだけは残っていたんだけど、小学校に上がる前に閉店しちゃったの」

 三十年前の写真にはない道が整備され幅は広く昼夜明るい別の商店街や、建設途中のデパートの影響だと想像できた。

 競争に敗れ次第に減って行った商店街。賑わったり寂れたり、今度は別の所が賑わって。

「今から三十年後はどうなっているんだろうね」

 写真ではなくミサキを見ながらこぼした言葉だった。遠回しに込めた別の意味を悟られてしまったのか、視線を外しページを捲り写真を見て答えた。

「一年後も分からないよ」

 写真はさらに前の時代に遡っていた。。

 僕らはまだ一緒にいるのだろうか。それを聞くほど僕らの関係は深くないし、簡単なものではないと気づいていた。

 ミサキが話していないこと。それが関係を変えてしまうほどの事ではないと思いつつも、胸に引っかかった小さな棘が急いで先に進もうとする僕の身体を制止する。

「あまり変わってないといいね」

「……そうだね」

 空っぽになったグラスの氷が解け、カランと音を立てた。

 無言で捲った次のページは写真ではなく、一枚の絵が載っていた。

「これはね、この街に残る逸話っていうのかな。ある女性の話が書いてあるの。昔この土地に住んでたっていう巫女の話」

 絵のタッチは物語の時代に合わせてなのか古く、巫女らしき人の肌は青黒く痣のように見えた。背景には膝をつき頭を下げる民衆。けれどその中でたった一人、民衆とは違い小綺麗な服装を着て、腕を組み巫女を見ている男がいた。

「巫女には不思議な力があって、人々に崇められていたんだって。病気を治したり、作物が日照り続きで枯れそうになったら雨を降らしたり、子供に恵まれない夫婦には授かれるよう祈り続けて成就させたり」

 作り話と思いつつも、巫女はそれを否定するように絵の中で存在を主張していた。手を合わせ祈る姿はどこか悲しく、何かを訴えているようだった。

「ある日、隣村の領主が噂を聞きつけてやってきたんだって。それで、何とか巫女を自分のものにしようとするんだけど、巫女を手に入れることが出来なくて。それに怒った領主は村に火をつけたんだって。巫女は不思議な力でそれを収めることはできたんだけど、自分のものにならなければまた火をつけると脅され、仕方なく巫女は領主の妾になったの」

 ミサキはそっと雑誌を閉じた。けれど、話は終わらなかった。

「巫女は領主の願いを叶え続けたの。金銭、土地、身分。酒池肉林の暮らしをしてありとあらゆる欲を叶えていった領主は突然こう言ったの。自分を不老不死にしろと」

 すらすらと出ていた言葉は止まった。開きかけた口を閉じ、ミサキは氷が解け水になったグラスのストローをくわえ一口すすった。

 ミサキは何かを言いかけ止めたのではないか。そう思わずにはいられないほど止まった言葉とその仕草にはどこか違和感を感じてしまう。

「できなかった巫女は、最後には殺されてしまったんだって。その巫女が暮らしていたのがこの土地だって言われてるの」

 まるで間がすっぽり抜け、突然クライマックスになった映画のようだった。それまで物語を暗記しているかのようだった台詞は、途中を忘れてしまい結末だけを述べたような。

 考えすぎかな。

「んんー」

 ミサキは空っぽになったグラスを端に移動し、小さく体を伸ばした。

「ねえフミヒコ。今日はどこ行こっか?」

 頭は昨日までに立てた、いくつかのプラン。

「そうだなー」

 外に出るとアスファルトを焦がすほどの太陽の熱に、行先は屋内にしようと決めた。長袖のミサキはともかく、半袖の僕は腕を焼かれている気分だった。


 デートが終わり地元の駅に戻る頃には暗くなっていた。今日の最後の予定は決まっていた。駅前の喧騒を抜け、どちらが言うまでもなく神社に足を運んだ。

 人気のない住宅街に差し掛かった付近で、何を言うでもなく隣を歩くミサキの手を取り、優しく繋いだ。私もと言わんばかりに、そっと握り返してくれたことが嬉しかった。

 会話が少なかったのは、互いに離れる寂しさを感じていたからかもしれない。雲が多く月を探すことができない空の下では、外灯の明かりだけが頼りだった。転ばないよう、薄暗い神社に入ると繋いでいた手を少し強く握った。

 ベンチに座り気づいたのは、夕暮れまでうるさかったセミは鳴き止み、代わりに鈴虫が近くで鳴いていた。

 生温い夜風に吹かれながら一時間ほどそうしていた。

「帰ろっか」

「うん」

 名残惜しそうにしていたミサキに、断られると分かりつつも声をかけた。

「家まで送るよ」

「……平気。また連絡するね」

「分かった。待ってる」

 二人帰ろうとベンチを立ち歩き始めたところで、僕はあることを思い出した。

「ミサキは覚えてる?」

 言葉足らずなその文に、ミサキは首を傾げた。

 当然と言えば当然なのかもしれないが、僕にとっては忘れられない日で、ミサキと過ごした中学時代でもひと際記憶に残っている日だった。

「本当ならもうすぐ、夏祭りだね」

 その一言でミサキは察したらしい。僕が話そうとしていることがミサキが消えた七年前最後の日のことであると。

「なくなっちゃったね」

 本来なら夏祭りの準備が始まっていて、その中心にあるはずの櫓が作られているであろう場所。そこをじっと見つめていた。寂しそうな表情というより、忘れていたことを思い出したかのように唇を噛みしめ視線を送っていた。

 今のミサキにどんな感情があったのか分からなかったが、僕が感じている寂しさとは違う感情なのだろうと思った。

 それが何から来ている感情なのか知る術はなかった。

 夏祭りはなくなってしまった。櫓が壊れたあの日。それを新しく作る予算など町内会にも自治体にもなく、また安全面からも高齢化が進んだ地域では管理が難しくなり、翌年以降は行われなくなってしまった。

「夏祭りはなくなっちゃったけどさ、七年前と同じ日にここに来よう?」

 それは三日後。

「…………うん」

 何か考えていたのか、少し眉毛を曲げながら長すぎた沈黙のあと、心細そうに返事をした。思い出した夏祭りの出来事は、その最後の瞬間も思い出させていた。またミサキが突然消えてしまう。そんな不安がよぎった僕は、念を押すように付け足した。

「絶対だよ」

「うん」

 か細い返事は、僕の不安を完全に拭うことはなかった。



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