〈二〉
その日は朝から不思議な感覚だった。朝起きて歯を磨くのも朝食を取りながらテレビを見るのも、一つ一つに既視感があった。見たことがあるというより、何回も今日という日を繰り返しているような気だった。
お洒落な服なんてない僕は一番気に入ってるグレーのシャツを着て外に出た。駅に近づくにつれスーツを着た人たちが速足で歩く。その波に抜かされながらのんびりと歩いていると見かけたのはポケットティッシュを配っているお姉さん。
もらうと駅前にオープンしたフィットネスクラブの広告の紙が後ろに挟んであった。それも既視感。正夢でも見たのだろうか。
神社で福島と会う時間まではまだあったが、足は待ち合わせ場所へと向かっていた。その日は朝から暑くて、着く頃には背中は汗でびっしょりだった。
人は疎らだったが櫓は完成されていた。太鼓はまだだったが提灯が周囲にはぶら下がっていた。手水舎からは水がこぽこぽと溢れていて、触れると暑さのせいか温かった。その先にあるベンチにはまだ誰も座っていなかった。
一人では座る気にならなかった僕は引き返し家に戻ろうとした。そこで脳裏によぎったのは夜の光景。けれど暗くなくいくつもの明かりが見えた。
その光景は記憶の奥深くに眠っている気がして呼び起こそうと意識を集中するが、届きそうな場所にあるのに一つでも浮かんでくることはなかった。
何か大事なことを忘れているような胸騒ぎだけが残った。
神社の中央にある時計は九時を回ろうとしていた。その手前には櫓。倒れることなく建っている木の櫓。
「――――っ!」
それを見たことが原因だと、前触れもなく起こった出来事だったにも関わらず僕は確信した。
一番近い感覚は体験だった。すでに体験したことの記憶がフラッシュバックしたようだった。映像を鮮明に思い出せるだけでなく、その時の汗も恐怖も、熱も痛みも昨日のことのように身体に染みついていた。
夏祭りの夜、僕は櫓を囲う幕の中にいた。理由までは分からないがそこで何かを探していた。思いのほかすぐに見つかり手に抱え幕を出た瞬間、後ろから響いたのは崩れる音だった。
櫓を組み立てていた柱の一部が僕に向かって倒れてきた。走り出そうとしたがたった一歩しか踏み出すことができず下敷きになった。
いつの間にか福島が泣いていた。ぼろぼろと涙をこぼし隣で手を握ってくれていた。温かかくて心が安らいで、ゆっくり目を閉じていた。その記憶はそこで途切れていた。
なぜまだ、櫓が建っているのだろうか。そのことに言いようのない違和感があった。倒れたのではなかったのか。そして、福島がそこにはいた。
そんなはずがあるわけない。どう考えても可笑しかった。だって福島と過ごす夏祭りは今年が初めてのはずなのだから。
その光景は僕の記憶として書き込まれていた。違うと書き換えようとしてもまるで体が拒否しているようだった。
神社での出来事のせいだろうか、時間の進みが随分遅く感じられた。待ち合わせの時間まで計算するとまだ早い気もしたがじっと落ち着いていられず家を出て神社に向かった。
早すぎる到着だったが、待つことは苦にならなかった。空は暗くなり始めていて提灯の明かりが目立ってきていた。
思ってたよりも人が多く、福島が来た時にどこら辺にいれば探しやすいかベンチの周りを見渡しているとそのすぐ横、小さなポーチを胸元に抱えている女性に目がいった。
暗かったうえ離れていたがそれが福島だと分かったのは周りと比べても不自然に長かった前髪のせいかもしれない。
向こうはまだ気づいていないらしく、最初に何て声をかけようか迷っているうちに目の前まできてしまい、結局平凡な挨拶になってしまった。
「こんばんは」
どうやらすぐに自分が声をかけられたと気づかなかったのか、しばらく下を向いていたが周りが誰も反応しなかったことに気づいて顔を上げた。
「あ、有川君? こんばんは、早いね」
驚いた顔が新鮮で思わず顔が綻ぶ。久しぶりにあった福島は一学期の終わりに会った時よりも親近感があった。
「福島も、まだ二十分くらいあるのに」
「そうだね、早い……。早く着替え終わっちゃって。家にいてもやることないからもう来ちゃった」
「はは、僕も似た感じ」
まるで昨日も会ったかのように違和感なく話せていた。
「似合ってるね」
「ありがとう」
着ていた浴衣はすごく福島らしいと思った。淡い青紫のベースに十センチほどの紫陽花が散らばっていて、全体をそっと撫でるように風をイメージしたような滑らかな曲線が描かれていた。
似合っていたと言ったのは本心だったが、それ以上に思ったことがあった。
「なんか懐かしい気がする」
「え、初めて見るのに?」
「うん。初めてなのに」
「変なの」
「変かも」
その変な感覚は朝の既視感に近かった。
二人で向かったのは屋台のかき氷だった。僕はメロン味を、福島はイチゴミルクを注文した。僕が二人分のお金を払おうとすると福島に止められてしまい、定員の前で少し恥ずかしかった。そのせいか冷たいかき氷を食べているはずなのに身体は汗をかいていた。
誰かと過ごす夏祭りは初めてで何をするのか分からなかった。この神社は昔から出店も少なく、決して広くもないのでかなりゆっくり歩いたが三十分もしないうちに一周してしまった。
その間、ただずっと話していた。
一学期の放課後していたような他愛もない会話だった。
正直言うと、お腹が空いてきていた。夕食は出店の焼きそばでも食べようかと考えていて食べてこなかったため、何度もお腹の虫が鳴りその度に福島に聞かれないか心配だったが喧騒と音楽、太鼓の音に紛れて聞こえなかったようで福島が反応することはなかった。
けどたったの一回、焼きそばの出店を見てしまった。その一回を福島は見逃してくれなかったらしい。
「もしかして有川君、お腹空いてる?」
「……うん」
返す言葉もなかった。出店と自分を見比べ福島が吹き出したように笑った。
「もしかしてずっと我慢してたの?」
「福島が食べてきたか分かんなかったし、女子は出店の焼きそばなんて食べないでしょ?」
どうやらそれが可笑しかったようで、お腹を抱えいつもよりも大きな動作で笑っていた。
「えー何それ。他の人は分かんないけど私は食べるよ。出店の焼きそばも屋台のラーメンも」
「屋台って一丁目によく来る?」
「そう、昔お父さんがよく連れてってくれたの」
「へー意外」
「そうかな。有川君にとって私ってどんなイメージだったの?」
「え、えっと…………」
言葉がすぐに出てこなかった。
いや、正確には今この場で口にしてはいけない単語が喉の手前まで上がってきたのをどうにか抑え込んだ。
福島をイメージして最初に浮かんだのは〝いじめ〟という単語だった。
「あんまり、外で食べたりしなさそう。家でも小食っぽいイメージ」
「ふーん」
その少し不満足そうな反応に、僕が言いかけた言葉を悟られてしまわないか冷や汗をかいていた。そんなものは杞憂だったのか福島はコロッと表情を変えた。
「ねえ、食べよっか?」
「いいよ、そこまででもないし」
「我慢してるでしょ?」
「してない」
そう言いつつ鳴った腹の虫は間違いなく福島にも届いたらしい。
お腹を指差し「鳴いてるよ」と一言。
「気のせいだよ。なんか別の音がそう聞こえたんじゃ……」
僕の言葉など聞いていないと言った風に財布と取りだした。
「それにね、私もなの」
恥ずかしそうに伏し目がちに答えた。
「お腹空いちゃった」
おどけて笑った表情に、僕の不安は飛んで行ってしまった。
百円二枚で食べた安価な焼きそばは、福島がいるだけで今まで食べたどの焼きそばよりも美味しくて贅沢な時間だった。
教えてくれたのは福島だった。この神社は学校から見て東側に位置し、決して遠くないにも関わらず生徒があまり集まらないのには理由があった。通う人の多くが西側に住んでいること、その西側の神社はこの神社よりも大きく出店が何倍も出ていること。
「どうして……」
そう漏らしたのは福島だった。
福島は毎年のように夏祭りに来ていたが誰かに会うことは殆どなかった。それなのに、いま鳥居をくぐった男女数人組は間違いなくクラスメイトだった。それも、福島をいじめていたグループのメンバーだった。
早く逃げればよかった。あるいは気づかれても無視して立ち去ればよかった。そう考えつく頃には何もかもが手遅れだった。
彼らは僕には目も触れず福島を囲った。嫌がる福島から強引にバッグを取り上げ走り去ってしまう。
僕は何をしたらいいか分からずただ立ち尽くしていた。
慣れないゲタで小走りに追いかけていった福島は一瞬僕に振り向いた。
「ごめんね」
聞こえなかったが動いた口元と表情でそう言ったのだと分かった。
何がごめんねだろうか。虐められてごめんねだろうか。それとも痣があってごめんねなのだろうか。
また福島にそんなことを言わした自分が嫌だった。
僕は走っていた。何ができるのか分からないしどうなるかも分からない。けど行けば何かできると、そう疑わずに後を追いかけた。
それすらも手遅れだったと……いや、そもそもの誤りは、僕がここに来てしまったことから始まるのかもしれない。
だって僕には福島を救う力も度胸もないのだから。
彼らがいなくなったのは一時間後だった。その間、福島のバッグを取り返そうとしたが足が速くないうえ、あと一歩のところまでいくとバッグを別の仲間に投げ渡してしまう。届きそうでいつまでも届かない。神社を何週もした僕は最後には力尽き足を止めてしまった。そこでようやく飽きたのか、バッグは神社のどこかに隠したと言ってどこかに消えてしまった。
「もういいよ」
福島に何度も言われたが諦める気にはなれなかった。最初こそ追いかけていた福島もゲタを履いているのもあり、途中で歩きながらになっていたがそれさえも止め、僅か数分で僕にそう言った。
「たぶん、そのうち返してくれると思うから。有川君は気にしないで」
「そのうちって……」
「今日は楽しかった。また学校始まったら、ここに来ようね」
鈍い痛みが胸を襲った。まだ一緒に居たいにも関わらず今日を終わらそうとする福島に返事をせず、彼らを追いかけていった。
……バッグを取り返すことは出来ず、その間福島は同じところで立ち尽くしていた。
戻ってきた僕を福島は小さく笑い迎えてくれた。
「ありがとう」
言われるようなことは何もしていない。
「ごめん……神社のどこかに隠したって……絶対探すから待ってて」
「ねえ有川君――――」
言いかけた言葉を無視して僕は探し続けた。
神社の中をくまなく探した。鳥居の横、ベンチの下、社の裏、納屋の中、時には木の上を見上げて……。入れる場所、考えうる場所を探したが見つからなかった。どれほど時間が経ったのか分からなかったが、誰かの音声は次の曲が最後だと告げた。
最後の曲は何度目か分からないほど流れた炭坑節。櫓の上から太鼓を叩くリズミカルな音が響いた。
本当に神社の中にあるのだろうか。そう思って見渡すがもう探していない場所はなかった。
いや、たった一ヶ所だけ探していない場所があることに気づいた。炭坑節の太鼓を叩く櫓のその下。赤白幕に囲まれたその中。そんな場所にあるはずないと決めつけ見向きもしなかったが、そこだけは探していなかった。
曲が終わり人々は三々五々に散っていく。その流れに逆らい僕は櫓の前までやってきた。幸い、人々の視線は子供にお菓子を配る町内会員に向けられていた。きっと赤白幕の中に入ったのを目撃したのは僕をずっと見ていた福島ぐらいだろう。
中は空気が薄く息苦しかった。光が遮られていて思いの他暗く、櫓の骨組みだけが存在していた。そのお陰で地面に投げ捨てられたように転がっていたバッグをすぐに見つけることができた。
そのとき誰かに呼ばれた気がした。幕の中には僕しかいない。ゆえに気のせいだと片付けようとした直後、今度ははっきりと声を聞き取ることができた。遠くから聞こえたにも関わらず、隣にいるような感覚だった。
「有川君!」
耳で聞いたというより頭の中で木霊するように、何度も響き渡った。
「福島?」
そこには誰もいなかった。一人だった。暗かった。全身を駆け巡った恐怖に悪い想像が働く。
もし、福島がまたクラスメイトに何かされていたら。
いま感じている息苦しさはこの空間のせいでなく、自分の体のどこかが悪いのかもしれない。
地震が起きて、櫓が崩れてきたら。
「有川君、逃げてっ」
その声を僕は何度も聞いていた。
たった一回の叫び。その瞬間を僕は知っていた。記憶のどこかにあった光景と現実の光景が綺麗に重なっていく感覚。湿った臭いも薄暗い視界も、外で聞こえる話し声も、全部が知っている瞬間。
そんなはずはないと分かりつつも、身体の感覚は染みついたように同じ行動を繰り返していた。
記憶は、未来に向かう。
僕は福島のバッグを拾い幕から出ようとして小さな音を聞く。何かがギシギシと音を立て悲鳴をあげているような音。ぽとっと上から降ってきたのは一枚の板。
その瞬間を僕は知っていた。
――この後、櫓は崩れバラバラになる――
急いで幕を潜り外に出ると、神社にいた人々は僕の方を見ていた。
「有川君!」
そうじゃないと気づいたのは、福島が叫びながら僕に駆け寄ってきていたのと同時だった。
人々は僕の上を見ていた。僕の後ろ、音とともに崩れる櫓を。
朝見た映像が蘇る。振り向いた瞬間、落ちてくるいくつもの柱。そのどれかは間違いなく僕にぶつかるだろう。
……僕は僕にぶつかる柱を知っていた。
逃げようとするが思ったより身体は機敏に動かない。気づくのがあと一秒でも早ければ。走り始めるのがほんの少しでも早かったら。あるいは幕を出たとき、あと一歩でも前に進んでいたら……。その一歩が、僕の生死を分けた――――はずだった。
間に合わないと悟り走るのを諦めかけたとき、僕の腕は誰かに引っ張られた。そこには福島がいた。僕を引っ張った反動で入れ替わるように崩れ落ちる柱の下に入って行った。
すれ違いざま目が合った。
ずいぶんとゆっくりとした時間だった。スロー再生のように福島の顔が離れていった。勢いよくなびいた髪は舞い上がり、普段なら瞳さえも隠してる前髪は額の上で逆立っていた。
大きな瞳には提灯の明かりと、口をぽかんと開けた僕が見えた。
僕は降り注いだ埃と櫓が崩れ落ちた衝撃で目を閉じていた。ざらざらした感触で目を開けることが出来なかった。
福島はどうなったのか。
考えるまでもない。櫓は崩れ落ち、その下に福島はいた。その最後の光景は頭の中で何度も再生されていた。
まだ時間がゆっくり流れているような感覚だった。
静かだった。誰もいない、何もない空間にいるようなそんな錯覚に陥るほど風もなく気配も感じられなかった。
目に入った埃はいつの間にか取れたのかすんなりと目を開くことが出来た。そこは神社で周りには人がいて、生温い風が吹いていて暗い空の下提灯は明るくて、櫓は原型を留めていないほど崩壊していた。
何もかもが先ほどまで僕が見ていたものだった。
一つだけ頭がうまく処理しきれずにいたのは、僕の目の前には福島が立っていたことだった。
櫓の下敷きになったと思った福島は傷一つなく、涙目で心配そうに僕を見つめていた。
「だ、大丈夫?」
福島のその言葉に現実味を感じられなかった。
あの時僕は死んでしまったと思った。けれど福島が自身を犠牲にする形で助けてくれたと思っていた。
「大丈夫……」
空っぽの頭で答えた、何の感情ものっていない空っぽの言葉。
助かったのだろうか僕は。そして福島も……。
誰も死んでいない。すばらしいことじゃないか。運がよかったのか偶然無傷で済んだ。素直に喜ぶことが出来ないのはなぜだろうか。
誰も死んでいないことに、どうしてこんなにも違和感があるのだろうか。
夏祭りの関係者らしき人が集まってきたが、僕と福島は逃げるように立ち去っていった。神社の入口を出て向かったのは福島の家の方角だった。
平静を装って歩いていた。途中、何か話をしたがよく覚えていない。十分ほどで着いた家の表札には福島と書かれていた。二階建ての一軒家で薄茶色の塀と門の奥にあるいくつもの植木が印象的だった。
ポーチライトは点いているものの家の内部の明かりは消えていて、家族はもう寝ているのだろうか。物音一つしない住宅街にひと際大きく息を吸い込んだ福島の呼吸だけが微かに響き渡った。
「あの日ね、嬉しかった」
突然だったにも関わらず、僕が浮かべたのはたった一日だった。福島と放課後会い、一緒に帰り始めて神社で話をした日。
「私はすごい救われたの。きっと、有川君がいなかったらどうなってたか分からない」
少し歩いて落ち着いてきたのか、福島の言葉は一語一語頭に入ってきた。
「だから、私が生きているのは有川君のお陰。ありがとう」
またいつものように手櫛で乱れた前髪を整え顔を隠す。
「僕は何も、大したことしてないよ」
福島とこうして話していると、神社であったことがまるで夢のようで。もしかしたら死んでいたかもしれないという現実はなかったかのようだった。
「そう言うと思った」
静かな住宅街だったが周りを気にせず笑い合っていた。
「今日は楽しかったよ。ありがとう……有川君……」
「僕も楽しかった。ありがとう」
僕の言葉が気に入らなかったのか、それとも別の何かか。不満足そうに僕を見つつも、目を時折左右に動かしながら「あのね」と呟いた。
「名前で呼んでもいい?」
体が熱を帯びていくのを感じていた。
すぐに「いいよ」と答えようとして、僕は嬉しさのあまり即座に浮かんだ自分の願望を口にした。
「僕も、福島のこと名前で呼んでいい?」
「うんっ」
今までで見た一番の笑みだった。喜びと温かみに溢れた、思わず触れてしまいたくなるほどの笑み。
「有川フミヒコです」
舞い上がって言ったのは、そんなよくわからない自己紹介だった。
「福島ミサキです」
それに合わせるように福島もぺこりとお辞儀をした。頭を上げると恥ずかしそうに髪を触っていた。
「えっと…………フミヒコくん」
「はい……ミサキさん」
なぜか福島は笑っていた。
「ふふ、何それ? 今さら〝さん〟なんて。ミサキでいいよぉ」
ポンと叩かれた肩が妙に熱くなった。
「ミミ、ミサキ……」
「ミが多い」
僕はわざとらしく深呼吸して、息を整えた。
「……ミサキ」
「はい、フミヒコくん」
「僕も〝くん〟はいらないよ」
「え、でもー」
「はい、ミサキ。言って」
「フミヒコ…………」
そんなやりとりをした後、福島……ミサキはバッグから家の鍵を取り出した。ミサキはいつものように「ばいばい」と大きく手を振って、開けた門を少し入って再びこちらに戻ってきた。
近づいてきたミサキの唇が僕の頬に触れた。
「ばいばい、またねフミヒコ」
「またね、ミサキ」
裏返った声が情けなかった。
ミサキが家の中に入るのを見届けると、僕は自分の家に向かった。
暑かった頬が、嬉しかった夏の夜。
二学期初日、教室に行くとまだミサキはいなかった。席に座りホームルームが始まっても来ることはなかった。
今日は休みで次会えるのは明日かな、それとも明後日かなと考えながらふと校庭を眺めていると、門の外に人影が見えた気がした。
ミサキが来たのではないかと目を擦り再度見るがそこには誰もいなかった。
始業式が終わり、早々に帰り支度も終える。友達のいない僕は久しぶりの再会で話に花を咲かせることもなく一人教室を出た。
昇降口、靴を取ろうとして下駄箱に何か置いてあることに気づいた。一冊の古ぼけたノート。手に取るとそれは日記だった。
パラパラと捲ると、そこにはぎっしりと文字が書き込まれていた。ノートは殆ど使い切っていて、空白のページは数ページしかなかった。一ヶ月、二ヶ月ではなく、推測だが一年分くらいはあるのではないだろうか。
昇降口に近づいてくる大勢の足音に、僕は急いで日記をカバンにしまい学校を出た。
その日記は誰のだろうか。僕が勝手に持ってきてよかったのだろうか。もしかしたら誰かが間違えて僕の所に置いてしまったのかもしれない。あるいは忘れ物かもしれない。そう思うと、途端に罪悪感が生まれてしまう。
道端に捨てようにも躊躇われたその日記を家に帰るなり机の一番下、引き出しの奥の方へ無理やり押し込んだ。
翌日もミサキは来なかった。気になった僕は担任に聞くと、夏休み中に転校したことを知った。行先は担任も知らないらしい。
その事実が、日記のことなど頭の隅に追いやってしまった。僕はすっかり忘れ、途方に暮れながらとぼとぼと道を歩いた。
帰り、僕は神社で待ち続けた。日が沈み暗くなるとミサキの家まで駆けて行った。
これからも会えると思っていた。この神社でたわいもない会話に明け暮れる日々が続くと思っていた。もっと仲良くなれると思っていた。
ミサキの家に行くと表札は外されていた。家の中どころかポーチライトも点いていなかった。僕らの関係はなんの前触れもなく終わりを告げた。
九月に入っても冷めることのなかった夏の熱は、否応にもミサキとの夏祭りを思い出させた。けれど、次第にミサキのいない生活にも慣れ、結局一度も会うことはなく僕は中学を卒業した。