〈一〉
覚えているのは温かさ。春の冷えた空気がときおり体を震わした五月の朝。寒がりな僕は厚めの上着を羽織って学校へと続く坂道を登って行く。同じ制服を着た生徒の集団には誰一人として知っている顔はなく、制服こそ同じものの自分の存在は完全に異分子で浮いている気がした。
肩身が狭かったのと肌寒かった気温もあり俯いて、何人もの生徒に抜かされながらも門の前までたどり着いた。
坂道の頂上、石造りの塀に囲まれた校舎の色はくすんでいて、門も所々ペンキが剥がれ錆びた金属が顔を覗かせていた。階数は少ないがそのぶん敷地は広く、今まで背景に見えたビルやマンションが見えないことも相まってどうにも学校という認識に違和感があった。
校舎の後ろに広がる晴天の空も、今は得体の知れない不気味さを放っていた。
校庭を半分ほど歩きふと校舎を見上げるとどこのクラスかも分からない教室の窓際、外を見ていた女子生徒と目線が重なる。恥ずかしくなり逸らそうとしても彼女から視線を逸らしたくなかった。
遠かったうえ顔を隠すように伸びた前髪が邪魔をしてよく見えなかったが、可愛いかと言えばそうなのだろう。けれどそれとは別の何か、彼女の持つ独特の雰囲気に魅せられていた。
儚げと言えばありがちに聞こえてしまう。凛としているかと言えば、そんな勇ましいものでもない。もっと弱々しくて切なさがあって……。
彼女の近くで彼女の持つ空気を味わってみたい。
そんな邪な考えを吹き飛ばすように吹いた向かい風は、窓際にいた彼女の長い前髪をかき分けた。先程よりもよく見えた顔は、やっぱり可愛かった。
ほんの数秒重なっていた視線はあっと言う間に逸れていた。僕が瞬きさえしなければ、もっと見つめ合っていたのだろうか。あるいは視線が重なっていたのは僕の願望が生んだ気のせいで、最初から僕なんて見ていなかったのかもしれないけれど。
きっと違うだろうけど、万が一同じクラスだったらいいなと思った願いはすぐに叶えられたのだけれど、僕が彼女の持つ独特の雰囲気の正体に気づいたのは、それから一週間後のことだった。
担任の教師に連れられて階段を登って行く。緊張で何回か躓き心配されるも頭の中は真っ白で何と答えたか覚えていない。
不安も心配も綯交ぜになったマイナス思考は結局、たった一つの出来事で全部吹き飛んでしまった。
教室に入っても気づかなかった。席に座っても気づかなかった。気づいたのは、担任に言われ隣の席の女子生徒に教科書を見せてもらった時だった。僕の隣に座る窓際の彼女。
「また会ったね」
校庭から見上げた前髪の長い彼女は、今度は僕の真横で小さく微笑んだ。小さくて一瞬だったけれど、僕の頭を彼女で埋め尽くすには充分だった。
ややふっくらした頬は仄かに赤く、微笑んだ際細めた瞳にはしなやかさと柔らかさが入り混じっていて、夕日が似合いそうな笑顔だなと口には絶対しないような恥ずかしい事を脳裏に浮かべていた。
また見たいと思ったのは彼女自身も夕日のようで。あと僅かで夜に消えてしまいそうな、一度消えてしまったらもう二度と見ることが出来ないと不安になるような笑顔だったからで。また見たいと願うような気持ちでいた。
気づけば五月の寒さは消えていた。それどころか、一足早く僕には夏の暑さがきていた。
教科書のページを捲るとき緊張でうまく手が動かず、何度もぶつかった彼女の手は温かくて、触れるたびに体は熱を帯びていった。
彼女の温かさは、心にいつまでも残り続けた。
クラスにおける僕の立ち位置は、一週間もすれば定まっていた。様々なグループがある中で僕はどこにも属していなかった。勉強も運動も得意ではなく、面白い事の一つも言えなかった僕はクラスに溶け込むタイミングを逃がし自然と一人でいることが多くなっていた。
前の学校では少ないながらも友達がいて休み時間は好きなアニメやゲームの話をしたし、日曜日になれば遊びに行ったことも度々あった。
そんな日々が恋しいかと言えば少なからず未練はあるが、友達のいない独りの学校生活も慣れれば別に寂しいわけでもなかった。
何事もなく卒業できればいい。
違和感に気づいたのは緊張もほぐれ周りのことを見る余裕が出てきた頃だった。隣の席に座る彼女の名前は互いに自己紹介はないままだったため、教科書に書かれた名前を見て知ったのだった。水に濡れたのか紙がふやけて大きく広がった教科書には〝福島ミサキ〟と書かれていた。
僕の名前は入学初日、黒板に大きく書かれた〝有川フミヒコ〟の文字を見て全員が覚えたに違いないが、僕はまだクラスの半分も名前を憶えていなかった。どうせ友達にはならないと早々に距離を置いてしまったからだろう。
福島も独りだった。休み時間は誰とも話す姿を見たことがなかった。自分と一緒でクラスから孤立している存在。きっと友達もできず卒業まで一人で過ごす事実をすんなり受け入れることができたのは、福島の存在があったからに他ならない、と思う。
似た存在と意識しながらも彼女はただ一点、僕と決定的に違うところがあった。クラスから忘れられつつある僕と違い、福島の存在はクラスでもひと際目立った。
登校しているのにも関わらず彼女はよく授業に遅刻した。宿題を忘れることも多く、他者とトラブルこそ起こさなかったものの担任からの評価は決してよくなかっただろう。
噂もあった。両親に捨てられたとか売春をしてるとか、校内でタバコを吸っていたとか。ありとあらゆる悪い噂に彼女の存在はついて回った。
「また会ったね」
彼女との会話は今日に至るまでたったそれだけ。けれど、僕の中にある彼女のイメージからはそんなことをするイメージは全く浮かばなかった。
その日、彼女は日直で教室から生徒が消えたあともしばらく残っていた。僕が教室に戻ったのに意味はなかった。
変わらない日々に、少しだけ感傷に浸りたくて誰もいない教室へ行きたかった。何かを期待したわけでもなく、ただいつもと違うことがしたかった。
だからそこに彼女がいたと気づいた時点で帰ろうと足を引き返した。
そのまま帰ろうとしても、一度見た光景は頭から離れなかった。
目が合った瞬間、言葉こそ発しなかったが何かを言いかけ、結局何も言わずに俯いた彼女の小さく丸まった体は帰ろうとした足を止めた。地面に突き刺さったかのように動かなくなった足は、数秒考えたのち彼女に振り返ろうと決めると自分でも驚くほど軽やかに一歩二歩距離を縮めていった。
いつから気づいていたのだろうか。少なくとも今この瞬間ではないことは確かで、僕は見て見ぬふりをしていた。巻き込まれるのが嫌で、自分に火の粉が降りかからないよう目を逸らしていた。
彼女は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。伸びた前髪はさらに下に垂れ顔を隠していた。表情が分からなかったのが幸いし僕は普段と変わらない調子で話すことができた。
「まだ帰らないの?」
言ってから、自分が酷く滑稽な、あるいは彼女を傷つけることを言ってしまったのではないかと思った。
帰れるわけがなかった。
地面に落ちていたのはバケツでもかけたかのように濡れた教科書とノート。彼女の持つカバンは教室のゴミ箱の中身を押し込んだように汚く溢れ。
これ以上かける言葉が見つからないまま沈黙が続いていると、彼女は一冊のノートを拾い軽くはたいた。それが何の意味もないことをきっと分かって。返ってきたのは、質問の答えとは別の言葉だった。
「ノート……ぐしゃぐしゃになっちゃった」
汚い言葉が書かれたノートを見せながら彼女は笑っていた。
「これじゃ、宿題できないね……」
口元は震え、今にも崩れそうに体は縮こまっていた。それでも必死に笑おうとする彼女に僕は何も言えなくなってしまった。
静かな教室で、彼女の制服の擦れる音がやけに響き渡っていた。中身をゴミ箱に捨て空っぽになったカバンにノートを入れようとして、彼女は小さな悲鳴のような声をあげた。仕舞おうとしたノートは手から零れ落ちた。零れ落ちた反動で挟まっていた物が顔を覗かせた。
色は赤。鮮やかすぎて眩しいほどの赤は、指を伝い零れ地面をゆっくりけれど確実に染めていく。
濁った鉛色の刃は鋭く、反射した教室の電球はうっすら足元を照らしていた。福島は何かを言おうとして、きっと言いかけた言葉を無理やり押し込んだ。出てこないよう唇をきつく結び、握りしめた手は力を込めすぎて、小刻みに震えていた。
僕がカバンから取り出したのは二つ。ノートと絆創膏。ノートがぐしゃぐしゃになり宿題が出来ないのを不憫に思ったのもあるが、それ以上に福島がそのぐしゃぐしゃのノートを見なくて済むように、触れなくて済むように。差し出したあとノートを拾いあげ、受け取ろうとした手を無視してカバンに仕舞った。
前の学校にいた頃は授業が終わると早く家に帰りたくて、チャイムと同時に走り出していた。ゲームをしたり漫画を読んだり、学校が嫌な訳ではなかったけど、それでも元々一人で何かをすることが多かった僕にとって、一番楽しい場所は家だった。
殆ど毎日走って帰った。けれど運動神経の余り良くなかった僕はよく転び、手を足を擦りむいては絆創膏をつけていた。カバンにはいつも絆創膏が入っていた。新しい学校に通うことになって、走るにはいささか危ない坂道が通学路というのもあり、走ることはなかったがその時のまま絆創膏はカバンに入れたままだった。
そういえばいつの間にか、家に真っ直ぐ帰ることもなくなっていた。相変わらず一番好きな場所なのに何かが物足りない気がして、だらか今日も誰もいないはずの教室にもどって来たりして。
けれど君はいた。
僕がここに来たのは偶然だけど、ここにいたのが君なのは特別な何かを感じずにはいられなかった。運命なんて大それたものじゃないけど、僕らにとっては大切な出来事な気がした。
冷静を装いつつも、胸は高鳴り何をせずにはいられない僕を突き動かすのは福島の今にも崩れてしまいそうなこわばった表情や、怯えたように動く弱々しい仕草。
機械のようにぎこちない指先は、絆創膏を受け取ろうとして間をすり抜け地面に落ちた。
拾おうとしゃがみ込んだ福島は、そのまま膝をついた。
何がきっかけだったのか、それとも堪えていたものに限界が来たのか。僕が下を向いた時、福島のスカートはいくつもの涙の粒で深く黒い水玉が出来ていた。
「あり、がとう……」
泣きながら呟いたその言葉の意味を、僕はよく理解できなかった。一体何に対しての「ありがとう」なのか。ハンカチはあったかな。そう思って出てきたポケットティッシュを福島の手元に置いた。
ちらりと見えた横顔に僕は何て酷い事を思ったのだろう。空は夕焼け。涙で濡れた顔は夕日に照らされ染まっていて。
福島が今どんな感情なのかは分からなかったけど、僕はその姿を見てああやっぱりと思った。
目に焼き付けておきたかった。今までに見たどんな景色よりも美しくて、一枚の絵画のように完璧なその瞬間を。なぜだろう、福島は夕日を浴びて一層映えていた。
泣いている姿が綺麗でいつまでも見ていたかった。もし日が沈み空が暗くならなければ、きっと自分から声などかけなかっただろう。
「そろそろ帰ろう」
校舎に響いたのは僕らの足音だけだった。
並んで歩く僕らをすり抜けていく夜の風は涼しくて、けれど坂道を下って踏切を渡り、静かな土手沿いを歩く頃には少し肌寒く感じていた。橋の手前には神社があって、僕はそこを横切って帰るのが習慣だった。
「いつも、ここを通ってるよね」
ずいぶん久しぶりに福島の声を聞いた気がした。掠れていて弱々しくて、今にも消え入りそうな声。聞き逃さないよう半歩だけ距離を詰めた。たったそれだけで、息遣いが耳元に流れ込んできた。
福島と途中まで帰り道が一緒なのは知っていたが、そんなことまで知られていたのかと思うと、急に普段の行動で変な動きをしていなかった気になってしまう。
「うん。ちょっと遠回りなんだけどね。神社って静かで好きなんだよね」
「私も」
今日はいつもより遅い時間なのもあり一層境内は静かだった。
心なしか福島の声色が明るくなっている気がして横を見ると、薄暗い中でも表情が和らいでいるのが分かった。本当はもっとはっきりと見たくて、伸びた前髪をかき分けたい衝動に駆られていた。
見つめていた。何秒かそうしていた視線に気づいたのか、やや伏し目がちに恥ずかしがりながら声をあげた。
「ど、どうかした?…………わたし、何か変?」
足を止め、僅かに背の高い僕を見上げる。重なった視線に思わず目を逸らし言い訳のように捲し立てた声は裏返っていた。
「変じゃないよ。今まで福島と全然話した事なかったけど、なんか話しやすいなって思って」
「そうだね。席隣なのにね」
どちらからともなく、神社の整った砂利道を外れていた。手水舎の奥、明かりの少ないベンチに座る。何ができるわけでもなかったけど、もう少し傍にいてあげたかった。いや、もしかしたら僕が居たかっただけかもしれない。
話していたのは他愛もないことばかりだった。最近見たテレビの内容や好きな漫画の話。時間はあっと言う間だった。神社の中央にある時計はもう七時を回っていた。
長い時間話していたにも関わらず、学校関係の話は一度も出なかった。福島が避けていたのか、僕から話題に出さなかったからなのか。けど、なかったことに安堵している自分もいた。
神社の出口に僕らは立っていた。
「じゃあね」
あると思っていた返事はなかった。福島は下を向いたまま、何も言わずにじっとしていた。何かを言おうとしているのは分かっても、それが何なのか僕には察することが出来なかった。
必死に考えても、浮かんでくる答えはきっとどれも違っていて。悩みを打ち明けられるわけでも、まして愛の告白なんかでもない。分からない僕は、福島が自分のタイミングで切り出せるまで待っていることにした。
一時間でも二時間でも待ってようと思っていた覚悟は、ほんの十分ほどで打ち砕かれた。
「じゃあね、ばいばい」
言い放ち、その場から逃げるようにして立ち去って行った。
僕は福島が言わなかった言葉を探した。言いかけて、結局飲み込まれてしまった言葉は何だったのか。そんなもの分かるわけないと思いつつも、頭を働かせた。
離れていく福島に言った。
「福島っ」
もうずいぶん離れてしまっていたが、それでも足を止め振り返ってくれた。
夜、外灯は近くになく月も隠れてしまっているせいで表情を読み取ることが出来なかった。不思議そうにしているのか困っているのかまるで分からなかったけれど、心なしか笑っているような気がした。
「また話そうねっ」
「うん!」
返事はすぐだった。手を振ると大きく手を振り返してくれた。そのまま背を向け走り去っていった足取りは先程よりも軽かった。
僕はその後ろ姿が見えなくなるまで見続けていた。
*
結局の所、僕には度胸がなかった。踏み出す勇気も受け入れる覚悟も。福島が僕と一緒にいたのはどうしてだろうか。幻滅しないわけがない。虐めを知りつつも助けなかったのだから。
あの日以来、僕と福島は話すようになった。その場所は学校ではなく神社だった。放課後、僕は神社の手水舎の奥のベンチに座っていた。普通に神社を横切っただけでは見えない位置にあり、わざわざそのベンチに腰掛ける人などいなかった。だから、椅子に座り待っていると聞こえてくる砂利道を歩く足音は福島以外ありえなかった。
「有川君」
福島の最初の一言は必ず決まっていた。
「ありがとう」
福島は時々、よくわからないタイミングで「ありがとう」と言った。僕はその意味を深く追求しなかったし、福島自身も説明することがなかった。
こうして放課後に神社で二人、日暮れまで話す時間が楽しかった。福島の言葉の意味や分からない部分を一つ一つ解明していってしまったら、この曖昧な関係が壊れてしまう気がした。
もっと知りたい。けど、失ってしまうのが怖かった。
そんな日々が夏休みに入るまで続いた。
僕らの関係は一学期最後の日、不用意な一言で変わってしまう。福島にとっては、一番触れてほしくなかった一言で。
夏だというのに福島は長袖だった。寒がりなのかと思ったが七月に入っても変わらない服装だった。だからきっと、肌が日光に弱いのだろうと思った。
神社のいつものベンチは後ろをアパートに、周辺は背の高い木がいくつも並び年中日陰を作っていた。福島が日に当てられることはなかった。
「有川君は夏休み、何する?」
「うーん、ゲームしたり本読んだり……宿題したり?」
指先が少ししか出ていない長袖で口元を押さえながら、小さく笑っていた。
「いつもの休みと変わらなくない? それに最後の宿題は、なんかしなさそうな言い方だったけど、本当にするのぉ?」
「するよ、ちゃんとする」
「夏休みの終わりに?」
「う、ん……まあね……」
しばらく会えないのかと思うと、僕らの会話は段々と途切れてきてしまう。その間も会いたい。そのきっかけを作ってくれたのは福島だった。
「小説ってあんまり読まない?」
普段、自分から何かを提案したり勧めることのなかった福島だったが、この時ばかりは随分と積極的だった。それこそ僕のイメージを覆すぐらい饒舌で必死に勧められてしまう。
受け取ったのは一冊の本だった。あまり小説を読まない僕にとっては馴染みのない作家の一冊。
「絶対に面白いから、読んでみて!」
何度も読んだのか紙質はずいぶん柔らかくなっていた。
「ちゃんと読んでね」
「うん、読むよ」
漫画はともかく、小説は読まなかったしこれからも読まないと思っていた僕を動かしたのは、福島の喜ぶ顔が見たかったからだった。
「じゃあ……よ、読んだら連絡して。それでさ、感想聞かせてよね、絶対だよ?」
カバンから取り出したのはシャーペンとメモ帳。書き込まれていく数字が番号だと分かったとき、僕の脈は速くなり体温も上昇していった。
「これ、私の番号ね。終わったら連絡して…………こういうの迷惑?」
「ううん、迷惑だなんて。絶対連絡するよ。あんまり小説って読み慣れてないから、時間かかるかもしれないけど」
小さな紙だった。手のひらサイズの小さな紙。
風が少し吹いていて、ひらひら動いていた紙をうまく受け取れず下に落ちてしまった。
「あ、ごめんね」
「私も」
僕より早く福島は落ちた紙を拾おうとして、伸ばした右の制服の袖は膝の上にあったカバンに引っ掛かってしまう。
「あ……」
福島は僕を見た。けど、僕が見ていたのは福島の手だった。一瞬だけど見えた、袖が捲れてしまい隠れていたソレが露わになった。
頭の中は、バラバラだった欠片が一つに収まっていくような感覚だった。
なぜ福島は虐められていたのか。夏でも長袖だったのか。その袖は不必要なほど長かったのか。
「その手…………あ……」
気づかなかったふりをすればよかった。あるいは、気づいた上で触れなければよかった。
福島は今にも泣きそうな顔で、見えてしまった右手の甲を押さえながら僕を見て固まっていた。触れてはいけない場所に触れてしまったんだと気づいた時には長すぎる沈黙に包まれ、何かを言わなくてはいけない状況に追い込まれてしまった。
「痛くない?」
「大丈夫…………」
何もかもが余計な言葉だった。ソレに対して、僕はただ押し黙るしかなかった。
醜い痣。日は暮れ始め暗かったにも関わらず、右手の甲に広がった青黒い痣ははっきりと脳に焼き付いた。
福島が隠したかった秘密。醜いと、一度でもそう思ってしまえばまるで福島自身がそうであるかのように思えてしまう。たった一か所、右手の甲に痣があるだけで。
決して綺麗ではない痣。それだけではないのかもしれないけど、きっとそれもあり虐められている。そして僕は知りつつも福島を助けない。
拾い上げた紙は、手に力が入っているのか少し皺ができていた。痣は袖の中に隠されている。俯いた顔は前髪が垂れ表情が見えない。
何度が鼻を啜る音に、どうするか迷ったがハンカチを福島の手にそっとのせた。痣のある、紙を握り締めた震える右手に。
「ごめん」
出てくる言葉はそれだけ。
「……ううん…………有川君は、悪くない……」
拭っても拭っても零れてくる涙は、きっと僕が想像するよりも悲しかったりつらかったりするんだろう。
僕はきっと虐めを止めたりはできない。仕方も分からないし度胸もない。ただこの瞬間だけは、二人でいる時間だけは福島の味方でいようと思った。
福島の手からくしゃくしゃになった紙を抜き取った。渡すのが嫌だったのか、取り返そうと伸ばしたが途中で力なく元に戻っていった。
紙を見ながら携帯電話に番号を登録していく。強引で怒らせてしまったかと福島を見たがまだ俯いたままだった。せめて帰らないでいてくれたら、ちゃんとワンコール鳴らせるまでは。幸い、福島の足が動く気配はなかった。
「いま電話したから、福島も登録してね」
カバンの中で、携帯が振動している音が聞こえた。それだけで満足だったけど、今日の僕はあと一歩踏み込んでみたい衝動に駆られていた。
福島の涙はいつの間にか止まっていたが、顔を上げることも返事をすることもなかった。
福島はおそらく学校に友達はいない。もしかしたら僕の思い違いかもしれない。虐められて悲しい思いをしてる。ただ同情していただけかもしれない。毎日こうして神社で話しているのも福島にとっては大した意味もないし、何の救いにもなっていないかもしれない。
考えているうちに、また余計なことを思い付いていた。嫌われるかもしれない。もう話せなくなるかもしれない。なのにこれから自分のすることが間違ってはいないと思えてしまうのはきっと空のせいだ。
空が暗くなってきて、けれど雲に掛かった満月は外灯よりも輝いていて。見上げると心は落ち着いて、浸っていたくなるほど物音ひとつしない静寂だった。やんわり吹いた風の終わりで僕は言葉にした。
「見てもいい?」
何も言わなかったが小さく頷いた。
僕はカバンを横に置いて肩が触れるほどの距離に座り直した。
袖を少しずつ捲っていった。ゆっくりと、福島の顔を見ながらなるべく痣に触れないように。痛くないか聞いた時「大丈夫」と答えていた。それでも僕はあえて触れないようにした。その瞬間はちゃんと作りたいと思った。
痣が全部見えるまでしようとしたが終わりはなかった。十センチ、二十センチと捲っても痣は続いていた。
腕が晒されていく度に予測は上書きされていく。まだ終わらない、まだ終わらない。
「手だけじゃないの」
小さな声だったが、僕の体はナイフで突き刺されたかのように胸辺りに痛みを感じていた。
僕の手は止まっていた。僕が一体どんな表情で止まっていたのか分からなかったが、福島の声色はずいぶんと静かだった。
悲しませるような顔ではなかったはず。けど、どんな表情でいることがいいのか分からず、口を結び無表情を心掛けていた。自信はなかった。痣を見た瞬間、一度でも福島を敬遠するような素振りをみせなかっただろうか。
「二年生になってからなの」
前髪から覗いた瞳からは涙は止まっていた。
「それまではね、担任の先生には事情話して体育は見学でもいいことになってたの。何か聞かれたら身体が弱いから運動はできないって。でも……」
誰にだって嫌いな教師はいる。考え方や教え方が合わなかったりもする。その体育の教師は僕も好きな方ではなかった。インドアで口数の少ない僕にとって、明るく元気よくがモットーと言わんばかりの熱血指導は肌に合わなかった。
その教師は、授業の見学者を減らそうとしたらしい。身体が弱いなら、負担にならないようみんなとは別の内容を考えるから。
事情を話したくなかった。この痣を知る人は一人でも少ない方がいい。
「ちゃんと断れなくて」
夏の暑い日だった。教室に吹き込む風は生温かった。そんな日でも長袖を着て登校していた福島に視線が集まった。
見ていたのは私ではなく、この痣だとすぐに気づいた。賑やかだった教室は一瞬にして静まり返った。背筋がひんやりとした。
体育の時も授業の時も友人は変わらず接してくれた。痣を時折見てはいたけど、何事もなく一日が終わったと思った。
何事もなかったのはその時だけで、友人たちの胸の内はとっくに変わっていた。日に日に話しかけられる回数が減った。遊びにも誘われなくなった。私は三日も経たないうちに独りになっていた。
それから一週間もすれば最初の虐めは始まっていた。消しゴムを隠されるという小さな小さな虐めが。
福島は悲しそうではなかった。それどころかいつもより口数が多くて、話したがらない自身のことを話してくれた福島はどこか明るかった。
終わりにするつもりだろうか。学校帰りに神社で話すという二人の日常を。僕らはそれでしか繋がっていなかった。学校では話さず放課後に遊ぶこともない。この日常が終わることは僕らの関係も終わってしまうことに等しかった。
袖を掴んだままだった僕の手は立ち上がった福島に振りほどかれた。
「有川君…………さよなら」
そんな言葉は僕らの挨拶にはなかった。
福島はもう一歩踏み出していた。
話すだけ話しておしまい。福島はきっと諦めたんだ。痣のある自身と僕が接することを。あるいは僕が離れる前に自分から離れたんだ。
頭の中では福島の放った一言が木霊していた。
「有川君は悪くない」
じゃあ誰が悪いのだろうか。
「有川君は悪くない」
まるで福島が悪いようではないか。
痣があるだけで自身を中傷してるような、福島が悪い事をしたかのような言葉を吐かなくてはいけない理由なんてない。
虐められ続けているうちにそんな気持ちに陥ってしまったのだろうか。
「待って」
そう思って消え去ろうとする福島の腕を掴んだ。握り締めるように強く掴んだのは右腕だった。
「離して! 終わりにさせてっ!」
その声は今までで一番大きくて、思わず仰け反りそうになる。それでも今この瞬間を逃がしてはいけないと思った。
救うとか助けるとかそんなんじゃなくて、ただもっと二人でこうしていたかった。真っ白な頭で分かるのはその思いだけ。
「離したくない」
言うことが纏まらず、ただ離さないように強く強く掴んでいた。
「私はきっと、次も有川君を探しちゃう。いなくても必死に探して、きっとまだ来てないんだって、何時間でも待っちゃう。そんなの惨めすぎる!」
福島の性格も選択も、人生も全てが痣に支配されているようだった。そんなの気にする必要ないと思うのは、僕に痣がないからだろうか。
少なくても、福島の痣は僕にとっては何かを変えてしまうほどの存在ではなかった。
「絶対に来るからっ」
また失敗するかもしれない。けど、何かを言わずにはいられなかった。必死に伝えたかった。言葉の取捨選択よりありのままで叫び続けたかった。
「だって……また福島と話したいから」
「ううん、有川君は来ないよ……来ない……」
全てを知ってると言わんばかりの目だった。僕の考えが全部分かって、僕のこれから取る行動も分かる。決めつけた言い方が悲しかったし、腹が立ったのもあった。
福島にとって少しは特別な人間になっていると思っていたのは僕だけ。
「結局、福島にとって僕もクラスの連中と一緒なの? 痣を見たか見てないかの違いなの? 見たからもうおしまいで、急に話すのも嫌になるの?」
「違う! 有川君と話すのは楽しかったし、もっとこういう時間が続いたらいいなって思ってた。でも終わりなの、終わりにするしかないの」
普段僕の目をしっかり見ることのない福島の目が僕の目を見続けていた。声も表情も怒っているのに涙がこぼれていた。
「だって見てよこれ」
自らの袖を捲っていくと、そこには痣があった。
「汚いでしょ! 気持ち悪いでしょ!」
「そんなことない」
それは本心だった。確かに気持ち悪がる人はいると思うし、福島自身にとってもそれが隠したいものだというのは分かる。
「うそ! じゃあ見てよこれ、これ見てもまだそんなこと言える?」
福島は着ていた長袖を脱いだ。下は白いシャツ。一瞬恥ずかしそうに躊躇いつつそれも脱いだ。いまはもう胸を隠した下着だけ。
「ね、酷いでしょ」
予想はしていた。きっと右腕にある痣は身体にもあるんだろう。けどそれを見て、やっぱりと思った。僕が普通ではないのかもしれない。でも確かに、僕は痣を見て不思議と嫌な感情が湧いてこなかった。
それどころか、その痣こそが僕が初めて見たとき感じた独特の雰囲気の正体なんだと納得してしまった。校庭で見上げて、また会いたいと思った雰囲気は福島だけが持つもの。それに惹かれて毎日神社で話していた。だからだろう。僕は痣こそが、福島という人間性を作っているような気がして、痣があるからこそ福島なんだと。
有無を言わさず身体の痣に触った。手を伸ばした先は右肩だった。拒絶されるかなとも思ったが、福島は何も抵抗しなかった。
青黒くて硬くて、ざらざらしていた。それでも触れていた手のひらに福島の熱は伝わってきた。
「痛くない?」
そっと優しく撫でた。
「平気…………有川君?」
一体この痣でどれほど悲しい思いをしてきただろう。
「ねえ、有川君っ」
せめて僕といる間だけでも、この痣で楽しい思いを、喜びを感じてもらえればいいなと思った。
「なんで泣いてるの?」
僕も泣いていた。もしかしたら、福島以上に涙をこぼしていた。悲しいのは嫌だな。僕といる時間は笑っていてほしい。
「有川君は悪くないよ」
「福島も悪くない」
福島自身が悪いかのようにまた言った言葉。今度はすぐに返すことができた。よく意味が分からない様子で首を傾げた福島の右肩に僕は嚙みついた。
「痛いっ、何するのよ」
少し和んだ表情の福島に言った。
「風邪引いちゃよ」
「……寒い……もう引いたかも。有川君のせいだよ」
そう言った顔はようやく笑っていた。
辺りは暗くなっていた。僕らは帰る間際に一つだけ約束をした。この神社の夏祭りに来よう。場所は言わなかった。僕らにとって場所はこのベンチ以外にあり得なかったからだ。
「月が明るいね」
福島が見上げると前髪が左右に分かれて普段隠れていた顔を見ることが出来た。
「そうだね」
僕が見ていたのは福島の顔だった。月を見上げ嬉しそうに口を開ける横顔は青白く照らされていた。月明かりで瞳は輝いて、その光景の美しさに目を奪われてしまう。
僕は福島が振り向くまでのその間、月が雲に隠れないようにと願っていた。