第十六月:『食え』
◆
──茫然。
ステルスチートは『気付かせない』才の筈だ。
それなのに、なぜ僕は標的になったのだろう。
茫然と考える。
魔法樹の魂塊を相手にした時は上手くいった。
それなのに、この実戦で失敗したのは何故なのか。
「……あれ?」
改めて認識した状況に、僕は押し倒された時と同じ台詞を吐く。
居る場所は漆黒のお花畑の中。
洞穴の聖堂に差し込む十字型の陽光は仄かに暖かく、煌めく真っ白い肌は冷たい。
気付けばソレは、人よりも背丈の高い身体を凭れさせ、僕は脚も腕も、魚形の下半身や腕のような鰭で押さえつけられて、動かせない状態にあった。
「少ねン。喚かナい」
胸に掛かるとても冷たい息。
僕を押し倒したモノの口調は、穏やかだ。
次いで、懐に潜っていた頭がゆっくりと持ち上げられ、薄緑の髪がしだれて頬に落ちる。
「……ゥ」
その全貌は、やはり、人魚。
祭壇で磔にされていた筈の人魚が、僕の上にいた。
高貴そうな顔立ちは、童話にある『人魚』の風貌。だが、獣の様な鋭い目尻や、キロッと覗く黄土色の瞳に、知性とはかけ離れた血生臭さのようなものを感じるのは、気のせいではないだろう。
これは明らかな敵意。
童話にもあるように……人を食らわんとする悪鬼の顔。
まさか、暗い霧はグールを花の化け物に変えるのでは飽き足らず、人魚にまで乗り移ったのではないかと思った。
──その時、
「──ッわ?!」
ステルスチートを解いた僕を捉えたか、周囲に咲き乱れる花の化け物が、顔の近くに暗い蔦を打ち付けた。
「ォ。……ハハ、漸ク捕まえたコを壊されテハ敵わなイわ」
……人魚は顔を綻ばせ、生き生きと喋る。
この物腰を見るに、少し話せば分かり合えそうな、淡い期待感を抱けた──が、その想いは秒殺される。
「……へ……?」
事に瞠目。
ふと人魚が視線を移した花の化け物が──糸が切れた操り人形のように、崩れたのだ。
「これデ安心」
再び人魚の瞳が僕を映す。
(……は……?)
中軸。根幹。不要になった枝が切り落とされる様に似た光景を目撃し、否が応にもひとつの仮説が立つ。
いや、立つどころではなく、これは断言出来るに近い。
「──ン、ㇰ」
飽くまで淑女な口の柔らかさを保つ人魚を前に、舌が急速に渇く。生唾を飲もうにも、喉が動くだけで空振り。
泳ぐ目線が薙ぐのは大小様々な暗い花の化け物。遠くに見える滝はテクスチャバグの欠片のよう。
──なんだこれ。
なんだこれは……。
こんなの、バッドエンドのイベントCGのような光景じゃないか!
もう、選択肢のないシナリオパートに入り、後は畳み掛ける鬱展開からの絶望エンディングが流れるだけなのか……ッ。
(ハウは……!?)
メタい思考は現実逃避ゆえ。しかしそれでも足りなかったか、ステルスチートを使う前、滝と直結する流水道に隠れさせた友人が脳裏を過る。
綿毛の獣。
元は白髪のヤンチャボーイ。
彼の姿を捉えようと首を振った。だが先にあるように、咲き乱れる暗いお花畑が視界を遮り、彼の姿を見付けられない。
(まだ隠れられてる……?)
それならまだ『やり直し』が使える分、救いはありそう……だけど。
「荒ぶるコトハ無いぞショウねん。お前は、『コ』に選ばれタ。……喜べ」
「……は?」
僕がまだ脱却の手を探している途中だと言うのに、人魚は白い顔をググッと近付けては卑しく微笑む。
それより、『こ』……とは。
「アノ獣は、お前デ良い? ……『コ』に成レるのは、褒美ト合。獣なんテ辞メ、ワタシの『ケシン』と成れ」
「……ケシン?」
馬乗りになった人魚は理解が追い付かない僕を一瞥すると、その黄土色の瞳は一体の花の化け物へ向く。
「────」
途端、人魚の眼が暗い霧に覆われた。
続き口を開ける。
するとこれに呼応したか、花と構成していた暗い霧が化け物から剥がれ、『従順な様』を以て、漏斗でも通るかの如く人魚の舌へと、一直線に雪崩れ込むッ。
……やっぱり。やっぱりだ。
人魚は暗い霧に操られているのではない。
女のグールを蛇の化け物に変えたのも、花の化け物を量産して暗いお花畑を作っているのも、全部コイツの仕業。
この人魚が。この人魚こそが、権化!
暗い霧の本体は、この人魚なのだと僕は確信した!
「──」
観るも即に花の化け物から元のグールへと戻された個体は、その場に力無く崩れ落ちた。
その一方、舌鼓に悦した人魚の舌には暗い霧がまとわりつく。小さく細かく蠢く無数の触手。それはウニやヒトデを連想させられる。
「ぅワ……ッ」
これは、余りに、全身がストレスと拒絶の意でチクチクと痒まる光景……ッ。
このネクロの洞穴は、何度僕に気持ち悪い思いをすれば気が済むんだと、僕は心の底で仮想ログアウトボタンを鬼連打するっ。
「……さァ、褒美を……噛み千切レ」
「──ッかっ?!」
さて、噛み千切れとは何か。
何を噛み千切れと言うのか。
予想? 予想は、近付く人魚の顔で分かるものか?
分かって堪るものなのか?
「ちょッ、待っ……!」
何故か首を横に振れなくなった。
暗い霧のせい──人魚の仕業?
人魚を向いたまま、僕の口が開かれるのも、コイツのせい!?
訳が分からないっ。
解りたくもないッ。
最早現実逃避も儘ならない此方の挙動などお構い無く、人魚はゆっくりと顔を近付け、化け物と化した己の暗い舌を──無慈悲に──快楽的に──僕の口内へと潜り込ませた……!
「ンゥグッ?! ──ォゔオ、ンッ!」
粘膜に、歯に、唾液に、喉にまで絡み付く細かな触手。
人魚の冷たい息が鼻腔を逆流し、頭の内部はおろか、思考までもが分解され、思う言葉が辿々しくなる感覚。
これは『犯される』?
これは『洗われる』?
これは『溶かされる』?
何と比喩すれば合う文句になるのだろう。──とにかく分かるだけを言うのならば、『冷たい』。
味わう感覚については、その一言に尽きさせて頂きたいっ。
「っ……!」
自分の意思が散漫とした時、突如として勝手に動き始めた己の顎に、否を突く。
しかし、抵抗が上手くいかない。
ゆっくりと、確実に、僕の顎は差し入れられた人魚の舌を噛み切ろうと閉じられていく。
蠢く触手らの動向。間違いない。口内に張り付いた無数の細かい触手が、下顎を引き寄せているのだ。
噛み千切れとは、この事。そして、褒美とは、人魚の舌。つまり、『人魚の肉を食え』と……。
そう言う意味である。
「──グっ……ォあ゙!」
なんにせよ、人魚の肉を食うとか、人魚の肉を食わないとか。この選択肢は、拒絶、抵抗、拒否の意思を奮い立たせるのには十分過ぎた。
残念ながら、我が姉でさえもゲテモノは好かないのだ。
当然、彼女の弟である僕も同感。
無理矢理食わされようものなら、敵意を露にして、中指を立てよう!
「ン? ……フふ」
獲物が無駄な足掻きを見せたぞ。滑稽だな。
そんな心中を悟らせるように人魚は嗤う。
嗤われた通り。獣衣装を纏っていない僕の力では、腕を押さえ付ける魚様の鰭も動かせない。
中指を立てるのが精一杯であった。
これでは為されるまま。
第一次反抗期や第二次反抗期に、己の我が儘を押し通そうとしても、大人の理不尽に阻まれる無策で過嘆な子供のよう。
必死の足掻きも虚しく、無情にも各歯が冷ややかな舌肉に食い込み始める。
「──ゥウッ!」
プシッと──何か……液体が噴き出した。
柔いとか、肉厚の弾力がどうだとかを感じている暇もなく、機械的に圧し進む歯と肉の合間から口内に広がる粘液に嫌悪感が振り切れる。
ガチだ。
なら次は、肉がゴロンと転がる瞬間が訪れ、千切れた肉が咀嚼されて喉を通ると。
親鳥が雛に餌を与えるみたいに、喜んで飲み込めと。
それが、このバッドエンドのシナリオ。
行き着く先は『こ』。
そもそも『こ』とはなにか。
暗い霧を纏わされた化け物?
グールみたいなガリガリ無生気の廃人?
そんな話、『願・い・下・げ』である。
この瞬間──ッ、
「──ほッ!」
「っンぐ──?!」
人魚の顔で埋まる視界の端。突然現れたハウが、みかん大の木のボールを抱え、勢い任せに人魚の頭部にブチ当たったッ。
「ッ? ォコあ゙ッ!」
不意の衝撃に目を剥いた人魚が舌を抜いた事で、口内を犯していた全ての液体が噴き飛んだ。
暗い花々をビシャビシャと汚しながら咳き込む僕の上で、人魚と獣が相対す。
体格差は歴然なれど、条件付きに喧嘩っ早いハウは微塵も怖気ず、自分よりも遥かに巨大な『敵』を睨み付けていた。
「ホラ、そこ退けよ。そいつ嫌がってんじゃん」
イケメン様の台詞です。
物言えぬ僕の心理状態を代弁するように、綿毛の獣が二枚目役者の如く魅せまくる。
だが、睨まれた側である人魚は、当然ながら相手がイケメン様であろうが、そんな台詞に従う素振りを見せない。
むしろ「……カゥバン? 何処カら湧いた」と訝しむだけに止まっていた。
──かぅばん。
ハウの獣の種類名だろうか。
それはそれとして。
あのタックルは、もしも木のボールに暗い霧を払う力があるのならと、僕が予想した事を受けての一撃だったと思う。
然し、暗い霧の本体と睨んだこの人魚にとっては、一瞬だけ驚かされる程度の効果しか無かった。
その事はハウでも感じられるだろう。
バッドエンドなシナリオは、我が姉の信者も望んでいない。
それでも、今の状況が実に芳しくないのは痛い。
圧倒的窮地。窮地過ぎて、バッドエンドの余分要素。シナリオライターの悪ふざけ。知りたくもないマイナススパイラルに呑まれていく後日談を見ているようだ。
案の定、そのちっぽけな『珍客』の正体を認めると、人魚の表情は小馬鹿にするように歪んでいく。
「親とはぐレタ? 此処にイては食べられルよ?」
ファイユさん曰く、ハウの獣は幼生。
それ故の子供を諭すような口調か。
人魚的には、迷子の子供を気遣った発言だったのかもしれないが、少なくとも僕には、ただの煽り文句にしか聞こえなかった。
──にも関わらず、ハウは折れない。
「退けって……俺、言ったんだけど。わかんねぇ?」
やり直しが出来るからなのか、ちっこい獣も煽る煽る。
むしろ、やり直しをするために、わざと殺されに掛かっているとしか思えない。
「ハ──」
「そうキャンキャンと吠えルな。……あァ、言わんコとない。見付かってシまったゾ?」
ハウを小馬鹿にした表情は崩れない。それどころか、小さな獣を覗き込んだ花の化け物の動向に、一層の卑しみを加える始末。
「かァいそうに。今のワたシでは助けてやル余裕が持てナいのに。困り果てタなぁ♪」
化け物の一手一足にも深く関わっているだろうに。
白々しくおどける人魚の面に、ハウに代わって拳を入れたくる。なのに、それも叶わない現状が胸糞だ。
「ハウ、噛め! 噛んじゃえ!」
「お。んならイクか? ガブッじゃなくてハムッてなるけど、一発イッとくかあ?」
威勢の割になんと可愛い抵抗か。これが僕らの残り手札だと思うと、悲しさを通り越して逆に俺達つえー的な妄を患ってしまいますな。
流石の人魚も、哀れにも無駄に威勢を良くした僕らを眼下にするのは飽いたのか、
「──ハ……ッ」
嘲笑にもならない声を吐き捨てると、クッと顎で花の化け物を促した。
途端、ハウを見下ろしていた化け物の蔦が、目標に目掛け、突──!
「──……え?」
今度は、僕らが目を剥いた。
化け物の蔦は、小さな獣を打ち潰そうと、豪と振り下ろされた……筈だった。
なのに、とうの蔦は友人を捕らえる事は無く……ただ宙を舞っていた。
「──ナに」
化け物の体から離れ、ヒュンヒュンと空を掻き、暗いお花畑の中に落ちていくのを、人魚は僕らと同様──いや、僕ら以上に狼狽し、見届けていた。
その間に、この事態は次を見せる。
今の現象は、ハウを捉えていた化け物だけに起こった事では止まらない。
周りを取り囲んでいた暗いお花畑が、一斉に分離──いや、何かに切り刻まれ始めたのだ。
「な二が──ッ?」
更には。
「アぅ、ガッ?!」
人魚の腕鰭も。
僕の腕を押さえ付けていた長い鰭が、一瞬の閃きの直後に吹き飛んでしまった。
「──うぇっ!」
そんな事になれば、当然支えを失った人魚は、否が応にも僕に覆い被さって来るもので。
「ちょ、重──っほおッ?!」
──と、冷たく生臭い人魚の重さに加え、何かが突然乗っかってきたのか、突発的に荷重が増した。
それは何か。
僕が正体を見る前に、それは言葉で存在を示す。
聞くも分かりやすい、「へっハッ! 任務完了ぃ」──との、また別の一難がやって来たような、実に賊っぽい男の声であった……。
◆