第一月:お姉ちゃんの『尻拭い』
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樹都フォール。
都心部、古魂の郭。
フォールで最も巨大な魔法樹『古魂』の主幹下に建造された宮殿の、四方角別に露出された大テラスの一方。
名称『東展望郭廊』。
ここに、東フォール大橋を仲睦じく歩む二人の生娘を遠目に眺む者が居た。
百八十センチメートルを超える高身長に纏わす黒檀糸のビジネススーツは、包む者の『魅』『妖』『艷』に波打たれ、素肌を晒せずとも女の性を主張させる。
されどこの女は、野性を誘えば容易に狩れよう折角の女の形を、首から膝下までを覆い隠すクロークのうつけを許していた。
吹き荒ぶ風は、その忿怒か。
然して、守り手を翻さんと舞おう風は、クロークに施された刺繍を彼女の銀の髪糸で擽る程度に留まれよ。
この刺繍は、一本の樹でスペードの外枠を形取らせ、葉の中に小さな樹の根に包まれた学舎の正面外景を表した、『アーツレイの家紋』。
背負う紋を誇らんとした素顔は、対する全ての知或る者達の眼に、アーツレイ家の長女、『ティルカ』の名を刻印させていると知れ。
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亜章 : サラセニア体験
本編第一部 『 月に筆を 』
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《ティルカ嬢》
「……一時の紳士か」
テラスの外端で、聳えていたティルカに男の弱々しくも饒舌な声が掛かる。これに、彼女は向く事無く、主を特定した。
「なんだ? 賭けは暫くお預けだぞ。……ボロボロに負けたからな」
急な客人にも寛容な応対。飽くまでけしからんとしながらも、戯けた抑揚で自虐した台詞に、虚空を漂う正八面体の開拓物から這い出た亜人も同情する。
《ハハハ……。妙に汐らしく黄昏ていると思ったら……。災難だったね》
紅茶でも啜るかい? 亜人の紳士が名葉名高い香る食草を詰まんで見せ、茶会に誘う。だが、ティルカは呼ばれるのも悪くないとしながらも、瞼を伏せ、風に運ばれる香りだけで満足だと、勇ましい顔を綻ばせた。
「それで? 先程まで、幼気な少女を監禁していた変態が、私に何か用か?」
出頭なら感心だなと、枠柵に肩肘を乗せて、その土産物を持たぬ男の黒い顔を振り返る。
《最近は急に強者とチェスを打ちたくなってね。少し自制が効かなくて困ったものだよ。……紳士は付けておくれ》
「……下階の娘に勝ってきたわけだ?」
《……ハハ。君の妹嬢に救われてね。危うく負ける所だったが……》
相手が決めたルール。限り無く負けに近い引き分けを、言葉通りに適用するのならば、一勝一敗一分けでも勝ちは勝ち。
そう胸を張る紳士だが、残念ながら上階の主は。
「悪いが気が乗らんよ。たまにはセンチメンタルにさせてくれ」
と、闘いを挑んできた勇者を追い払おうとした。
階を上がる程に腕を増す強者と闘い、頂上の悪を打ち倒さんと意気込む勇者にとってみれば、その頂上で待ち受けていた筈である彼女の物言いは、急転直下のエンディングを迎える言葉だっただろう。
空気を読まない敵が唐突に見せたアンニュイな人間味に、逆に此方が空気を読んで拍子抜けしたような……。これには、勇者のみならず、ギャラリーも熱を忘れて目が覚めよう。
けど、今回彼女の前に現れたのは勇者ではない。
飽くまで、友人である。
故に。
《では、日を改めて。……そうだ。ナイトがティルカ嬢と手合わせしたがっていたよ? たまには遊んでやりなよ》
今日は遊べん。そうした心情を察するように、その紳士は疑い無く身を引いていた。
「はっはっは! 色気づいたとからかったから、騎士の目を覚ましたのかな。……わかった。考えておく」
言葉の最後まで笑みを含ませ、ティルカは正八面体と共に煌散と消えた紳士の退席を見届けると、独り、誰に聞かせる訳でもない小さな声で「……そうかそうか」と感慨深そうに呟いた……のだが。
「何が『そうかそうか』なのだ?」
吐露した息を鷲掴んだ者がいた。
それも、すぐ隣。一秒前には影すら落としていなかった男の姿が、ティルカを映す鏡の如く息を吐いた。
何も知らない常人であれば、恐らく彼の在り方に恐慌し、不意を突かれて思わず距離を取るだろう。そうなれば、その場は露呈の卓上。ひとつ、またひとつと重ねられる問いに、どんな企みも骨の髄まで引き抜かれ、終わる。
しかしながら、この女は違った。
知りえた展開に狼狽するなんて愚は、銀糸の細髪一本にすら表さず、言の葉を揺らす雫を滑らせて見せたのだ。
「分からないか? この、可愛い妹の可愛い友達に、一緒に遊びたいと微笑まれる姉の気・持・ち・がッ」
「……すまん。分からん」
自然な振る舞いにより、地に落とされたその雫は青年である。
ティルカのような黒檀糸の装束に軽装アーマーを五体に重ね、同種のアーツレイ家の家紋を施されたクロークを羽織る。
ベルト式の眼帯で左目を覆い、藍色の瞳ひとつだけを覗かせた銀淡な髪の……青年、と言えば、やはり若造かとも聞こえるが……。
彼の醸す気衣は、年に揺蕩う挙動を一縷とも晒さない。それこそ、落ち行く雫の直線軌道が彼の芯に沿うものであると物語るように、一言で若造だと差すには、余りに盲目で稚察だ。
「……はぁ。今度はトグマ兄さんが私の黄昏タイムの邪魔をすると。なるほどなるほど」
けれども、ティルカにとっては、兄さんは兄さん。
警戒するもなにも、彼への対応は曲げる事なく、同じアーツレイ家の子として、飽くまで『兄妹』として、悪戯風に迎え入れていた。
「鴨女になった途端、モテ期到来じゃないか。…………誇るなよ。こっちが悲しくなる」
「では、この愛しの妹をハグして厄を落としてくれるか? 日々お疲れ様のハグでもいい。コラコラ拒むな拒むな」
不敵に笑い、両手を広げて近付くティルカを眇み、トグマは同じ目線の高さから通常営業の妹に溜め息をかけた。
「なんだ? ハグするついでに殺す気か? ……可愛い妹とやらと戯れた事を、まだ引き摺っているとか言うなよ?」
「兄さんとファイユんの喧嘩は風物詩。観ていて愉しいさ。むしろ微笑ましい。……兄さんがわざと、あの子に大怪我させないよう守りの硬い箇所を打っている所を見ると尚更ね」
でも、今回は無用な手が多すぎたなと、ティルカは宣告通り棒立ちであった兄の身体に吸い付き捕獲する。
「……あれは『吸魂の森』を託された娘だ。謂わばフォールの矛。壊すわけにいかないだろ? それだけだ」
性感をなぞるような甘い女の桜香に包まれたにも拘わらず、ミリともたじろがないトグマではあるが、流石に億劫には感じたか、樹都フォールの領首としての立場から、単刀直入に、この女に質問をした。
「ティルカ。……ファイユの術式の解き方を聞いたか?」
「さあ? あの馬鹿娘は口が固いからなぁ」
「……だろうな」
お前と戯れるつもりはないとの意思を悟ったティルカが、未練なく身を離すと、呆れたと言う顔で男を見る。
「拒まれたのに、諦めないのか」
「『フォールは弱くて良い』などと言う馬鹿娘の主張に屈しろと? 残念だが、この封書にある書面は、全否定してよいとしているぞ?」
トグマがクロークの内から、白い封書を取り出す。彼のふたつ指に挟まれた紙は、少し土に汚されていた。
「? それって……」
「ファイユが渡されていた物だ。フォールの領首宛……。俺に何かを報せる手紙のようだな」
「くすねたわけか」
「あいつにも事情があるなら、直接俺に渡しに来るなどバツが悪いだろうと思ってな。寝ている所を失敬した」
それはそれはお優しい事で。
兄としての妹への気遣いを憎む様か、トグマの腕を人差し指でグイグイと押しながら、ティルカは「して、その内容は?」と訊ねる。
「……強くあれ。さもなくば力を奪いに行くぞ。……そんな感じだ」
「……へぇ……。ならば強くあるか? 人の手を借りずに」
それを拒まれたのだろう? と、煽る妹を、彼は封書をクロークにしまいながらその眼差しを眼下の森へと流した。
「学徒らは矛には向かない。……然し、『彼ら』ならば身も軽い。馬鹿娘を介し兵団を成せれば、戦力は十二分に足りるだろう」
森で立ち上がる土煙と、チラチラと木々の合間から姿を覗かせる若葉色の塊が、ティルカの視界にも映る。
一見、暴れたくて暴れたくてヤキモキしている様にも見える巨体だが、この男には、そう見えているのか……?
「……魔法樹の魂はファイユんの言うことしか聞かない。そうしたのはあの子だし、そうさせないとするのも、またあの子だ。……力ずくで制するなら、私は手伝わない」
「…………余裕だな、ティルカ。……実はもう、手を打っているとか?」
「まさか。……馬鹿でも妹は妹。可愛い主張の裏を見届けたいだけだよ。だから、私の酒の肴を奪うなよ?」
瞬間、両者の間の大理石の床が≪ ガィンッ! ≫との衝突音を轟かせた。
硬い床を穿ったのは、ティルカの手から伸びた、人よりも大きな紫紺の鎌の刃先。
『死を匂わす大鎌』。
突如として現れ、彼女の腕に従い降り下ろされた兇器は、なにも、兄を脅すために使われたのではない。
もし、何かあれば。もし、馬鹿娘の作戦が元で不測の事態が起きれば、彼女の姉として尻拭いを買って出ようと示す、ティルカなりの覚悟を表していた。
出来れば、事が起こる前に行動を起こすべきだと考えるトグマには、自ら責任を重くする愚行にも捉えられたが……。
それを容認する彼も、負けず劣らずの愚か者か。
いや、敢えて良く言うのならば、美しき兄妹愛だろう。
「……好きにすればいい。だが、俺の方針は変わらない。勝手に破るような真似をしないでいてくれれば、兵の構成を試行する時間を作れて助かる」
「元よりそのつもりかな。私は常に中立に居る。どっちも頑張れ頑張れってね♪」
大鎌を光の粒に煌散させ、兄に茶目っ気ある妹の姿を披露するティルカ。片手を扇子の舞いのようにひらひらゆらゆらと泳がし、予想通りにトグマの失笑を買う。
「余裕もそこまでいけば災厄を産めるな」と、彼は皮肉を残して立ち去ろうとするが、そんな後ろ姿をティルカは「一応言っておく」と引き留め、振り向かせた。
「あの狐、また兄さんの『歯輪』をおもちゃにしていたぞ? 管理が行き届いてないな」
「……む。……今度見付けたら焼いておく。……奴の好きな桃をな」
焼き桃か。アリなのか? と、ティルカが訊こうとした時には既に、額に手の平の押し付けたトグマの姿は景色に溶け、影も綺麗に拭い去っていた。
それは正に、狐のサクラの瞬間移動を再現する、神妙の業であった。
賢すぎる獣を傍に住まわせるのも大変だな。
ピンと形の良い鼻から一息の笑いを飛ばし、ティルカは再度、森で立ち昇る土煙を眺める。
空を漂う煙は尚も止まず、何度も何度も何度も森から噴出していく様子は、いい加減センチメンタルを決め込みたい彼女の眉を顰ませた。
(……何を、そんなに荒れている? 何か居るのか?)
仮に居たとしても、流石に森を荒らしている様は、吸魂の森の主でなくとも目に余る。
本来なら主たるファイユが「何を荒ぶる事があるのです! 無辜之魂よ、鎮まりなさい!」とかなんとか女神っぽい口調で手綱を引きに行くのだが……。
あの子は、友達とはしゃぐのに夢中なようだ。
「………おし。代わりに沈めてあげようか」
気合いに胸を張ったティルカが、早速、馬鹿娘の尻拭いを買って出る。
展望郭廊の枠柵から数メートル程離れ、軽く天に掲げた片手に、紫光に煌めく二等辺三角形を浮かばせた。すると、虚空にあらゆる図形が集束。積み木のように次々と継ぎ接ぎ組まれ、先に出した『死を匂わす大鎌』を形取った。
然し、その大きさは一回りも二回りも増され、古魂の傘下で邪気を放つ。
ティルカが、彼女の手には余る太さの柄を掴むとズシンと重さを示し、真下の大理石の床が薄氷のようなひび割れる音を鳴らす。
明らかな超重量。だが、これを片手で振り回し始めた女の顔に苦など過らん。
振るわれる刃は慈悲を裂き、気流を鳴かせる。
嗤う眼は遂に巨兵の背を捕らう──その末!
「……ンンッ。──ぬんッ!!」
剛腕に見えぬ細腕が、豪快に撓らせた躯体より大きく振り下ろされ、狂気は放たれた。
終ぞ、猛烈な回転を魅せおる巨大鎌が、砲弾の如き『突』と『撃』を描く。
この光景こそ女にとっての至福。
物好きたるや、なんと物好きたるや。
嗤う口端は、獲物に訪れよう凄惨な末路を期待してか、尚一層吊り上っていた。
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