第十一幕目:『ステイルメイト』
◇
暗闇に染まる視界は、僅かな時間で光を取り戻した。
しかし、僕が見た光景は──!
「──、へッ? 空!?」
巻き上がる風に服も髪も激しく靡かれ、眼下に広がる樹都フォールの光景に喉が閉まる。
(あの部屋、いつの間にこんな高くまで昇ってたんだよっ)
まさかまさか、万が一壁を破壊して出られた時を想定していたのか。この、明らかな詰みを拝ませる為に? それとも、誰にも手出しをさせないように?
いずれにしても、このままだと僕は橋の上に叩きつけられるか、街の下に広がる森に落ちて赤黒い肉のオブジェになるのでは。
打開策──打開策なんてあるのか?
どんどんと速度を上げて落ちていくパラシュート無しの躯体を、どうやって助けると言うんだ!
ぐんぐん迫る地表──!
鼓動は早まり、全身の筋肉が緊張して固まる──!
涎は全て吹き飛び、口内が冷たく、声も出せなくなって──!
どうすることも出来ない状況に、遂には思考も止まり、短い時間で一気に加速する景色に、何もかもが奪われるのだと──思った瞬間だった。
「──ぉ、ッあ!?」
……風が止んだ。
橋に鼻が付くか付かないかのタイミングで、僕の……僕の体が、落下を辞めた……のだ。
「なんで……ぁ」
徐に周囲を見渡すと……何か、白と黒の幾何学模様を施されたダイヤ型の物体が浮かんでいた。得体の知れないソレは、先端から青白く光る糸のような物を出し、僕の体に巻き付けているではないか。
「……え、もしかしてコレ、シュギさん……の?」
と思えば納得か。
流石にゲストなる人を落下死させる訳にもいかないよなと。それは良いけど、こんなギリギリで止めるのは、どういう趣味だろう。心臓バクバクなんですがまさかコレが噂の恋
「──キキぃ!」
「ぉおッ!?」
糸が解けると同時に、キサクラが勢い良く背中に覆い被さってきた。
「すごいね、頭メ○ー・ポピ○ズなのかと思った」
「なにそれ」
それだけ言うと、この子は抱き締める力を強め出す。
骨を折る気かと冗談を飛ばそうとした瞬間──パッと。……いやもう、文字通りパッと、景色が変わっ……た?
「お待ちかねの樹都の森だけど。……来たかったんだよね?」
「………はぃ…………ぇぇ…?」
僕から身を離したキサクラが「違った?」と聞く。
無造作に無秩序に、自由奔放に聳え立つ木々。さわさわと陽光をチラつかせて揺れる億千の木の葉。
草地は舗装道なのか、人が歩きやすい程度に整えられている。
目標としていた筈のそれらだったが、こうもあっさり来られると幻惑の類なんじゃないかと困惑してしまう僕がいた。
「ククお姉ちゃんの代わりってコトだよね、サクラは。ういでキキは、森の何処に行きたいの?」
この子も、流石開拓上級組に入れる事を自慢するだけあって、なかなか聡い。
ククさんが行動不能なのだと理解するだけに止まらず、ゲストの案内を手伝っている自分が何をすべきかを考えているようだ。
惚けたように寝かせた大きな狐耳からは到底見透かせそうにない、利発そうな一面にギャップを感じますね。
「……ぁああっと、この森にね、僕の友人と一緒にファイユさんって人がいるらしいんだけど……分かる?」
今の聞き方は、下手をしたら「子供扱いしてる?」と凄まれるかと内心身構えた。しかし、別にキサクラは鉤爪を向ける程気にはしていないらしい。むしろ、その小さな頭から≪カシャカシャピーン≫という計算処理音が聞こえてきた。
……ような気がした。
「ファユ姉か。…………うん。匂いする。……あっちだね」
自分は案内役を託されたのだと。
では、こう振る舞うのが誉められるのだと、簡単に想像出来そうなくらい素直に森の奥を差し示したキサクラを早速促す。
「キサクラ、案内して!」
「はあい。……後でちゃんと誉めてね♪」
やっぱりちゃっかりしていた狐娘は、あのよく分からない瞬間移動は使わず、先頭を切って走り出す。
きっと、案内している姿を見せびらかして、誉める言葉に深みを増させる算段なのかもね。策士だわぁ。
と言ってもいられない。僕は小刀『笹流し』を握り締め、全力で追いかける。
十分休ませて貰ったのだ。
既にスタミナは上限値。
これを全て消耗させる勢いで、樹都の森を駆け抜けた!
◇
わたしが触れた白亜のレンガは、硬かった。
「…………ぁ……」
水のように波打ったレンガの床は既に平坦。
力の抜けていく指が、微かに『ゲスト』様の立っていた場所を滑る。
離れて立っていた筈なのに、気付いたら元の位置にいて、両膝を床に付けて、手を伸ばしていた。
ふと、思う。
この手はなんだろう?
まだ何か言い残していた事があったのか。
それとも、他の宮地を見に行くと答えた彼に付いて行きたかった手なのか。
はたまた、こんな密室に独りにしないでほしいと潜在意識が助けを乞うたのか……。
ふと、思う。
この手は、何なんだったんだろう、と。
不思議なわたしの手を見つめながら、ゆっくりと、立ち上がる。
ケープの襟口に髪が擦れる音を聞きながら、独りになったわたしを囲む壁を見回す。
描かれているのは、洋館の外廊下。
中庭の再会。
その一瞬を刻んだ、四方の壁全面の絵画。
紳士の謂う『絶景』。
前までは、これの何処が絶景だと刃を刺していたものだけど……。何故か今は、不可思議な気持ちが背中を遡り、後頭部を熱く満たす『閃き』にも似た脈動を引き起こさせる。
「……もしかすると……。これって、これだけじゃない?」
何も確証の無いままに溢れた言葉。
自分でも、何を口走ったのか理解できなかった。
《……ハハッ。ナナツキ嬢仕……一歩、進んだね》
「ッ!?」
急に変態紳士の気さくな声が背中を撫でた。
思わず刀剣を抜きそうになりながら、わたしは跳ぶと同時に身を翻す。
「……何? 実力行使にでも出たの……?」
左手に握っていた吸魂の一振りを逆手に持ち返し、古魂の刀剣の柄に右手を置いて居合いの構えをとる。
だけど、襲いに来たとばかり思っていた変態紳士は、三つの黒の椅子を白のテーブルに揃え、ただ椅子に座っては腕を組む。
まるで敵意など無いような姿に拍子抜けしていくわたしに、彼は言う。
《……? 何の、話だぃ? ……そんな事よ、り、……御家の次女が来るまで、暇だろぅ? ………どぅだい? チェスでも》
「……チェス?」
変態紳士の枯枝みたいな黒い手がテーブルに翳される。
彼の手が操り人形の糸を引く仕草を見せると、卓上に白と黒のチェスボード──そして、盤上で白と黒に分かれて相対す王妃兵が、それぞれ十六ずつ出揃った。
《…ホラ……ルールを知らないわけでは、なぃ、だろ?》
「…………はぁ」
わたしは呆れて息をつく。
刀剣の柄に置いた手を離して、変態紳士と向き合う場所の椅子に警戒しながら座った。
「……またシュギが先攻?」
《ハハ、ハ。二戦目は、譲るょ》
背を向けた黒の駒達をジトっと見下ろし、変態紳士が摘まんだ白のポーンをe3のマス目に進められるのを見届ける。
わたしも黒のナイトをc6のマス目に置くと、彼に訊いてみた。
「……吸魂の一振りは、もういいの?」
変態紳士がd2に立っていたポーンを摘みながら応える。
《……強奪は、柄じゃなぃ。……そもそ、も、御家に渡る流れとなるなら、どちらでも構わなぃか、らね》
「………?」
どちらでも? 構わない?
《我の、仕事は、終わりだ。……ナナツキ嬢仕も、御家の次女が来るまで、決してそれを、離さな、ぃ、だろぅ?》
だから、自分の役目は終わったのだと、シュギはポーンを手放しながら笑った……ようだった。
これに、ついさっきまで頭を閃かせ、高速回転させていた思考の名残りが、フォール大橋で急に人が払われた事と彼の態度から、とある仮説に紐を結んだ。
「……上層部の回し者ですか。貴方は」
《……深くは、聞かないでくれると、ありがたぃ。……何分、我にも詳しい話は、通されてぃない、からね》
自白した。
やはり、シュギは完全に『奪う』側には立っていなかった。
『奪う者のフリをしていた』側の……味方だ。
案の定過ぎて呆れるのも忘れる。
そして樹都フォールの最重要機密事項。
アーツレイ家に仕えるわたしでさえも知り得ない話に、この『吸魂の一振り』が絡んでいたという事も捨てきれない。
……やっぱり、アーツレイ家か御家を取り巻く機関で、何かが動いていると考えるべき?
わたしが思い当たるものとすれば、ファイユ様の術式だけど、それの経緯は流石に知り得ている範囲だから、もっと、別のモノ……?
想像が及ばない。
不審な点が見当たらない。
それも当然と言えば当然。アーツレイ家の次女に仕えているだけの小娘などに、そう易々と知られて良い情報なんか、最重要機密とは言えないでしょうから。
それでも、わたしが視界が曇る程に思考を優先させていると、シュギが次はわたしの番だと促した。
我に帰って、もうひとつのナイトを手に取った時、彼の一言で話が転換する。
《キミは、てっきり、御家の次女にご酔心だと思っていたがね。……眼でも覚ましたのかな?》
「何を饒舌に言って……?」
?
何故か、そう言われて手が冷たくなる。
眉を顰めるわたしを前に、シュギが背凭れに寄り掛かりながら、わざとらしく声に抑揚を付け出した。
《おや? ……気のせいだったか。では、話を変えて……。この部屋に描かれている絵はね、見る者によって物語が動くのだょ。……『過去からの状景』『現在の再会』『未来の岐路』。前までのキミは、この絵を前にしても、すぐに興味無さげに目を逸らしていたが……今はどうかな。何が見える?》
「……何が……って」
徐に、促されるままに横の壁に描かれた、『物語』の中心と思われる、再会した男女を見る。
「……なにが……って……」
暖色気味の照明が雲を刺す陽光に見え。
雨露を煌めかす草花が鮮明に映り。
男性の薬指を飾る輪に気付く。
更に、わたしは『それを眺める外廊下に居る』と気付いた時、何故か、胸の奥が『ツクッ』と蠢いた。
……でも、ソレだけで、別に物語が動く感じはないと、わたしは訝しげな表情でシュギに向き直る。
だが、わたしの反応を待っていた彼は、まあ、それでもいいとするように「おめでとう」と言いながら、妥協感たっぷりの拍手で迎える。
もう、訳がわからな過ぎて……。
……治安当局へ。不審な変態がいます。が、正しい反応ですか……?
「どゆこと」
《いやいや。今、キミが見えたのは、『未来の岐路』だね。我としても、ナナツキ嬢仕を祝したかったが……そうはならないらしくてね》
意味不明な言い回しをしながら、駒を進める変態紳士。
……やっぱり、この変態紳士が望む展開は解らない。
ハッキリと言ってくれればバイオレンスな衝動もスタートダッシュを決めないと言うのに。
「なんか、ガッカリさせたみたいで申し訳ありませんでしたッ」
白と黒の鬩ぎ合いを適当に加速させ、わたしは大人様に小娘の不満をぶち当てた。
そんな戦略も何も無い雑な手に好機を得た変態紳士は、わたしのルークをナイトで喰らいながら、尚も話を続ける。
《なぁに。キミもまだ若い。解りたくなったら、またこの絵を見に来ても良い。その時は、殴らないでくれたら、特別な紅茶で迎えてあげよう》
「誰が来るか」
でも紅茶は頂く。
殴るのはファイユ様次第なので、わたしは知らない。
そんな話よりも、だ。
「……変態さん、そんな饒舌に喋れたんだね。いつもそれでいてよ」
《ハハッ。興味のある話だとね。自分のキャラクターも忘れる程、声に力が入るんだよ》
キャラクターて……。
「興味って、絵画自慢? それとも心理テスト?」
《それは、どっちもきっかけかな。観たいのは、絵を見る人物の心に芽生えた『恋心』でね。特に若者のそれを眺めるのが楽しくてしょうがな》
わたしが動かそうとしていた黒のクイーンが、チェスボードから≪ッソーン≫と飛んでった。
言い終わる前の珍事に、変態紳士が手元を狂わせたわたしを笑った気がした。
レンガの床に転がったクイーンを追い、肩越しに「──悪趣味……ッ」と吐き捨ててやる。
てことはなにか?
さっきのは、わたしの、わたしでさえも自覚していないような感情を、掘り起こそうとしていたわけですかね?
そして、あまつさえ自覚させて乙女になったであろうわたしを、無銭観覧しようとしていたんですかね??
これもう……。
……バイオレンス展開待ったなしなんですが。
とりあえずその方向でスイッチが入ったわたしは、クイーンの駒を元のマス目に戻すと、『恋心』などと宣った変態を睨む。
そして、いざ憤怒! ……と拳を硬くした時、まだ止まり切れていなかった思考の回転が、彼の言葉を『違和感』だと分別したようで…。
わたしは、テーブルの前で立ち尽くす。
「………ん。あれ。……ちょっと待って。『恋…心』?」
恋心……?
恋心って?
『こいごころ』?
『誰』の『誰』に対する?
『コイゴコロ』?
《……? 何か引っ掛かったかな?》
とぼけた調子で変態紳士が訊く。
それを訊きたいのはわたしなのだけど……。どういうわけか、突然思考が彗星のような大きな楕円軌道を描き出し、近付いたと思った『結論』が遠退く。
思い返そうとしても、まるでもう一人の自分が、拒否をしているみたい……。
それはもう、「アレ? 今何を話してたんだっけ?」と溢してしまう程、わたしは無自覚に、チェスボードへ目を落とすままの木偶人形になっていた。
《……そこまで混乱させるつもりは無かったが……。ほら、キミの番だよ》
まあ、最早光が届かない所まで飛び去ってしまった彗星など、とりあえず戻ってくるまで放っておこうと結論付けたわたしは、再び意識を盤面に戻したのだが……。
「……あの、コレ……わたし、動けないんですケド」
ほぼほぼ無意識に動かしていた黒の駒達は、たった今白のクイーンに喰われた黒のクイーンが退場した事により、わたしのキングが、完全に逃げ場を失っていた。
もう、例えキングを動かせたとしてもチェックが入る状況だ。
《あぁ……。そぅいえば、ステイルメイトの場合は、どうする、か、決めてぃなかったね。……降参するかぃ? それとも》
「引き分けで。限り無く負けに近い『引き分け』でッ」
力強く提案したわたしは、滑稽に見えたのだろうか。
変態紳士は、大人らしい苦笑を吐きながら、この決定を受け入れてくれた。
そして、次はわたしが先攻の二戦目。
今度は負けない。
そう意気込んで、白のナイトを手に取る頃。
とうに意識から外れた『違和感』を、わざわざ掘り起こそうだなんて思うわけも無かった。
◇