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鑑士   作者: 緒方杝尭
1/1

天鳳宮 盗まれた太刀 前

鑑士(かんし)

 

 賑やかな表参道は無機質な靴音を響かせる石畳が続く。並走感あふれる軒を連ねた店先の多くは暖簾や提灯が控えめな様相を見せながらも、その存在を主張してやまない。そんな代わり映えのしない都の一角。人ごみを軽く避けるようにして歩く影は、ふと一軒の店に目を止めた。なんのことはない。どこにでもあるような店だ。だが、迷わずそこに足を向ける。無機質な靴音が店に入ると同時に重みを増した。

 茶碗、壺、蒔絵、掛け軸、刀や銅像など、数多くの品が並んでいるが、どれも功器(こうき)である。もちろん、この手の店は今の()(こく)には珍しくもなくなっていた。

「あら、父の収集品と同じ茶碗だわ。たしか、丹乃(にの)()きの茶碗よ。この特徴なら作者は有名な蔵志(ぞうし)ね」

 韓紅色の鮮やかな衣から伸びた白い手が、ゆっくりと箱に収まっていた茶碗を持ち上げ、慎重な動作で茶碗を裏返す。彼女の目が輝いた。髪に挿している翡翠の簪がチャラリと音を奏でる。たまたま入った店に置かれている多くの品を軽く見ていた時、ふと奥の机の上に置かれていたそれが目に止まったのだ。

「やっぱり、同じ印だわ。それにこのゆがみ。この特徴が私好みなのよ」

丹乃焼きの特徴は左右対称の整えられた姿ではなく、ゆがんだ形に美点を置く焼き物になる。そして蔵志はなかなか出回らない品だと父が言っていたのを彼女は思い出した。

「ほう。あなたのような若い方が、蔵志を知っていらっしゃるとは驚きました」

 そう言って奥からスッと店の主らしき男が出てきた。無表情だが、それが逆に媚を売るような口先の軽い商売人よりか誠実そうに見えるから不思議なものだ。愛想笑の一つもしないその店主は、ゆっくりとした動作で丹乃焼きの茶碗を指差した。

「呪い(まじな)は『整』を中心として施された作品です。季節や天候などに応じてその時の一番の味に整えてくれる実用性の高い品ですよ」

 素敵とばかりに、じっくりと茶碗に視線を注ぐ。漆黒の肌に無造作に捻じ曲がったかのような形。丹乃焼きによく見られる特徴だ。器の形をゆがみであえて形成し、それを美と表現しているのだから、作り出した人々の発想と視点は並々ならぬものがある。これなら本物だろうと彼女は確信したのだろう。輝いた目にさらに力が入る。

「これ、おいくらかしら?」

それを聞くと、店の主人は無表情からむすっとした表情に顔を変えた。

「残念ですがお客さん、それは店に出してる品じゃないんですよ。最近、とある貴族様の息子が放蕩三昧で作った借金のカタに泣く泣く手放された品。滅多にお目にかかれない貴重品なうえに、急ぎ金に換えてやらないといけない。明日にでもお得意さんの所に持ってくためにそこに置いてあったんですから」

 あら、そうなの? と言った口だが、女の目には逆に火が灯ったようだった。茶碗を慎重に箱に戻すと改めて主人を見る。

「要は、すぐにでもお金に換えられるなら相手が私でもいいという事ではなくて? おいくらか聞かせていただけないかしら。金額次第では少し上乗せして引き取ってもかまわないんだけど」

 女の言葉に主人は少しだけ考えると渋々値段を口にした。

「・・・・即金で金参百輌だしてもらう品ですよ。持ち合わせが無いならお帰りください」

 金参百輌、確かにポンッと出せる金額ではない。

「蔵志は近年需要が高まっている傾向にある。今は参百も出せば買えるが、後になって見てみたら、いつの間にか金五百輌になっている可能性の高い作家ですからね。目の肥えた常連相手なら参百五拾輌で売っても買い手はすぐにつく」

 そう言われてしまえば、参百五拾輌以上を出さないとこの主人は自分に売らないだろう。確かに高いが予想の範囲内ではあるのだ。頑張れば出せない金額ではない。

 店主は何も答えない事をあきらめたと思ったらしく、茶碗の入った箱を持って店の奥に引っ込もうとした。

「待って。即金で金参百輌はないけど、前金で金壱百輌なら出せるわ。参百六拾輌出します。明日、残りの金弐百六拾輌を持ってくれば問題ないでしょう?だから他の方には売らないでいただけないかしら?」

 それを聞くと若干眉を顰めながらも、客の真剣な表情に目を向けた。

「まあ、そこまでして頂けるなら買い手があなたでもかまわないですが。お金はきちんと支払って頂けるのでしょうね?」

「もちろんよ」

 さっそく懐から金壱百輌をだす。それは彼女の所持金のほぼ全額だった。

「これで文句は無いでしょう? この丹乃の茶碗は明日受け取りに来ますから」

「確かに。では明日残りの分と引き換えと言う事で」

 差し出された金額が揃っている事を確かめると、店主はその金を受け取ろうとした。

「それ、偽物ですよ。奥様」

 不意に背後から声がする。歩み寄る足音が風のように軽い。控えめな色合いの羽織物だったが、視線の先がなぜかその色に奪われる。すっと彼女の横から出てきた男は淡い笑みが後を引くほど印象的な顔立ちの男だった。

「偽物?」

 女の顔色が変わり、反射的に主人に渡そうとしていた金をさっと引っ込める。それを見た店主は剣呑な雰囲気を漂わせ出したが、激怒しないだけマシな店主だったと言えるかもしれない。

「君、急に横槍を入れるような真似をしないでもらいたいね。それに偽物だという証拠がどこにある?」

「本物だという証拠だってないですよね?」

 男はふわりと笑って答えた。店主の威嚇的な視線をもろともせずに受け流す。

「奥様も移商(いしょう)で功器を購入なさるのなら、常に疑ってかかったほうがよろしいですよ。最近の移商は偽物を扱う店が増えてきましたからね」

 彼が言う移商とは、主が手放した功器を取り扱う店の事である。主が移ると言う意味がその由来らしい。前まではそんなことも無かったのだが、功器の需要が高まるにつれ移商の数も増え、その分悪質な移商も増大しつつあるのが現状だった。

「そうなの?」

 お金を懐で握り締めながら、疑惑の目で丹乃焼き茶碗を彼女は再度見る。だが、男からそう言われない限りは疑う余地すらないように思えた茶碗だ。実家にある父の収集品を昔から身近で見ていたこともあって、ある程度の真贋なら分かるはずと思っていた。

「どうしてそれが偽物なのか説明できるかしら?」

 彼女の意見に店主も賛成する。

「君に丹乃焼きの何が分かるのか説明してもらおうか」

男は「そうですね」と変わらない微笑を崩すことなく説明しだした。すべりの良い口調はさらさらと詰まることなく説明していく。

「丹乃焼きの特徴はその歪みに目が行きがちですが、実はその斬新な姿から来る存在の重量感が他の焼き物よりも群を抜いているという点が最大の特徴です。ですから遠くから見ても一目瞭然にその真贋が分かります」

 説明しながら、ひょいと丹乃の茶碗を手に持ち上げた。彼の思ったとおり重量自体軽い。

「これは重くないんです。見た目にも、実際の重さも。それ以前にこの歪みもそうですが、無理やり歪ませた感が否めない。勘違いしていらっしゃるみたいですが、丹乃焼きは歪みが美しさを象徴しているのではなく、美しさが歪みとして現れている作品なだけです。こちらの作り手はそこをまだ悟りきっていないようですね」

 筋は悪くないんですけどね、と造作な扱いで奥方の手に茶碗を置いた。

 彼女は手に置かれた茶碗を感じてみた。言われてみれば父が所有していた物より幾分か存在感も重さも軽い気がする。

「知識があるのはよろしいですが、それと真贋を見分けられるかどうかは別物ですよ。それに大金持ちの貴族とまではいかないが、ある程度のお金なら少し無理すれば出せそうといった風情をだしておられる。上等な絹の衣に翡翠の簪、それだけ見れば十分でしょう。金参百。安くも無ければ、目玉が飛び出るほど高くも無い金額ですよね。そんなちょうどいい金額を提示されてみれば、たったそれだけの演出で本物と疑わなくなってしまう。あなたみたいな方はいい鴨にされやすい」

 男の言った事をよく考えてみれば、確かにそうかもしれないと思えてくる。ここまでの一連の流れからしてみても、この男の言っていることに一理ある気がしてならない。

「それと、付け加えるならこの色でしょうかね。これは丹乃焼きの中の澱黒(おりくろ)を真似た物なんでしょうけど、澱黒に使われる天黒錆釉の色は濃い漆黒の色合いを表現できるのに対し、これはその半分しか出せていません。色にすら深みが無いうえに、呪いもせいぜい五、六回使えば、消えてなくなるような粗悪な物―― でしょう?」

 彼の笑いを含んだ問に、主人の無表情な顔は変わらないものの、顔色は無いように見えた。

「ふん。それはあくまでも君の言い分にしか過ぎないだろう。偉そうに分かったような口を聞いて。商売の邪魔をするなら役人に引き出すぞ」

 そんな脅しにも、ふっと笑ながら「お好きにどうぞ」と男は請合わない。

「あなたはどうなされますか?」

 聞かれた女は、興味が薄れてしまっている自分がいることに気付いた。

「もういいわ。それが本物だったとしても買う気が失せちゃったし。私はこれで失礼するわね」

 興醒めしたような、夢から覚めたような、どちらともつかない私感だけが残るような表情と落胆にくれた声でそう言って、さっさと帰っていく女の後姿を笑いながら見送る。 

そして男は視線を店主に戻した。

「駄目ですよ。移商が素人相手に贋作を引っ掛けようとするなんて」

 店主は無言のままだった。しいて言えば、その男を注視していたせいでもあった。

 なぜあそこまで分かったのだろう? 仲間内でも簡単に引っ掛けれるほどの出来栄えなはずだった。

 散々非難されたが、贋作師としては一流の人物が作った茶碗だ。偽物の中でも上位にあたるモノになる。確かに手に入れた当初は同業に掴まそうと思っていた程の茶碗だった。女がわざわざ見つけなければ確実に別の業者に売っていただろう。

そんな店主の心の内を男は読んだかのように言った。

「引っ掛けるのであれば仲間の移商の方々で留めておかないとね。確かに贋作の中では出来が良かった方でしたし」

 まさか・・・・?

 ふと一つの可能性が頭の中を過ぎる。

 そしてまた心の内を読んだかのように男は懐から取り出した物を店主に見せた。

 すると今まで無表情を崩さなかった店主の顔があっけなく驚愕の表情に変貌する。

「そんな――」

 男はそんな店主の反応に満足したかのように「ふっ」と最後に微笑んだ。

「少しだけ時間があったので、ちょっと違法功器でも置いてないか抜き打ち監査しようと思って入ってみたんですが、どうやら置いていないようですね。善良な市民も騙されずにすみましたし、今回は大目に見て差し上げましょう」

 軽い足取りで踵を返し店を出て行った男を、店主はそれ以上見る勇気は出なかった。

 彼には分かっていたのだろう。本来ならあの作品は店に来た客に売るものではなかったことを。別に贋作を店に置く事自体違法ではない。それどころか移商は贋作の取引で成り立っている面もある。一般市民相手に贋作を売りつける行為が問題ないわけではないが、ある意味では男の言った言葉は、ただ見せかけの脅しにしか過ぎない。店主もそんな事は十分に分かっていた。

 だが男が帰った後になっても店主は冷や汗が止まらなかった。あの玉印の紋は確かに、一度だけ見たことがある。

 その存在は有名だが、見える機会は移商であっても極端に少ない。この国では絶対的な存在。

 彼らに下手に目を付けられれば、一生この世界で生きていく事はできなくなる。

 店主はそっと偽の丹乃焼き茶碗を手に取ると、力いっぱい床に叩き付けた。重みの無い乾いた軽い音だけが周囲に響き渡っただけであった。


  氣鳳の都―


陽東(ようとう)大陸(たいりく)と呼ばれる広大無辺な地。

大陸で古より万物の気の根源と言われている精気。人々はそれを神功(しんこう)と称していた。神

功が集まる場には多くの神々や神仙、神獣などがその地を護持。共に森羅万象の均衡を保つ任を負っていた。

まだ多くの者が空、地、海に眠る様々な神功の知識を持ち合わせてはいない神代の時代。人々は神獣や神仙など神々の持つ膨大な神功の力に憧れを抱きつつも、それと同時に畏敬していた。

しかし、時が流れていくと共に人々は知類を広め、神功を開拓していく中で様々な発展

と新化をとげた。ついには多くの神妙を操り支配するまでに到ったのである。やがてこの神功が集まる地には、その力の恩恵を受けるために多くの人々が集まり、国が興り、躍進を遂げる。

中でも、特に神功の集う地の中の一つ、()(こく)

大陸の東方に位置するこの国は、他国に類を見ないほど神功を操る技術に長けていることでその名が知られていた。そして俰国の人々は、この国の王都である(せい)(りゅう)をある人物の名にたとえてこう呼んでいた。

 ()(ほう)の都

 この国がこれまでの様々な陽東大陸の歴史の中で、今までにないほどの発展を遂げていたのは、この氣鳳と呼ばれている天才術師がいたからであった。

仮にも王都を王の名で呼称するのではなく、一介の術師の名で呼ぶことを許されていたのは、この氣鳳がいかに優れた術師であるのかを物語っている。

 神仙の出だと噂されるほどの強大な力を持ち合わせ、この氣鳳以上の力を持った者は、その後も歴史上に現れること無く今に至り、氣鳳のおかげで過去に扱いきれなかったさまざまな神功の開拓及び、支配を実現可能なものとしたのである。また氣鳳は未来をも見ることができたといわれており、神の術師と呼ばれる存在にまで上り詰めた。

この神功を活かして作られた様々な物は総称して功器(こうき)と呼ばれ、中でも氣鳳が仕えていた王、昴閻(しょうかく)の命で始めた神功封納と呼ばれる神功改革を行った事から、誠龍は功器の技術発展で他に 類を見ないほどの飛躍を遂げることになる。

 このため、俰国は自国のみならず、他国からも様々な優れた技術者が集まる場所となり、彼の死後も国は飛躍の一途をたどった。

 

 そして、いまや人々が神功を扱う上で必要不可欠となった功器。

 方術師ともなれば、わざわざ功器を使わずとも神功を扱うことは可能であるが、それは所詮限られた者にしか過ぎない。その為、多くの人々は功器を使うことで神功を操る力を得ていた。

この功器にも様々な物が存在するが、扱える神功の力が大きければ大きいほど高値で取引される。もちろん神功をどれだけ扱えるかは作られる功器によるが、ごく稀に特殊な物で功器が使う者を選ぶ事もある為、一概に功器と言っても多種多様である。

功器の価値は第一級から第十級までの位置づけがあり、その数が小さくなるほど高価な物とされ、一般にこれを基準としている。

さらに氣鳳が手がけた功器は上級品として位置づけされ(けい)功器(こうき)と称された。その禊功器は王や各地を治める豪族などが所有、または聖地などの秘護下に置かれ、力の象徴として人々から崇められる存在となった。

氣鳳がこの世を去って後、禊功器はその強大な力を殆ど発揮することなく、その存在意義の真の目的すら誰も知らないまま、人々は長い歴史の中をただ語り継いでいった。

 そして、この功器の発展に伴い、この国に起こった独自の(なりわい)があった。

(きょく)(こう)鑑士(かんし)――。

略し、鑑士または極士と呼ばれることが多く、この俰国において重要な役目を担う職務の名である。元は禊功器の保護や管理を任されていた者達が起源とされている。


その業務の内容は幅広く、功器の真贋、価値を評価し判断することを基本とし、貴重な功器の保護や管理、功器の講究、情報や資料収集を手がけることもあれば、違法功器の取り締まりや、裏市場に流れた希少な功器の回収等をすることも稀ではない。

神功は土地や場所によって本質が変わってくる為、それによって功器もその地独自で発展する場合が多い。その為、鑑士はその土地の歴史や性質も把握していなければならないのである。

極功鑑士になるためには功器に対する造詣も深く、審美眼も確かでなければならない。

そのため極功鑑士の科試を突破することは難儀である。天稟の必然性もさることながら豊富な経験も厖大な知識量も必要となる。勿論それら全てが揃う蓋然率はかなりのものと言わざるを得ない。

 その為、宮城から正式に認定を受けている者はいまだ数少なく、鑑士になる為の科試は仕官するよりも関門であると言われていた。

科試を突破した鑑士の多数は宮城に仕えるが、それをせずに個人からの依頼を受けて仕事をしている者もいる。さらには自らの研鑽を積む為、様々な土地を巡回し神功や功器についての調査を独自に行っている者も存在し、鑑士は千差万別な人材の宝庫なのである。 

極功鑑士、それは俰国中の人々の憧憬の象徴でもあった。


臥龍商

俰国王都・(せい)(りゅう)―。

美しき都の中央に位置する京城である()(りゅう)殿(でん)。その名のごとく東西南北の龍を象徴した御殿が四つに分かれており、その中央に()(しょう)殿と呼ばれる宮殿がある。

誠龍は五正殿を中央とした四龍殿を中心にそのまま都が四つの区画に別れている。

その分かれ目を東龍、北龍、西龍、南龍の大路が仕切っており、そこから碁盤(ごばん)(じま)の様に綺麗な小路が縦横無尽に延びている。東龍大路から北龍大路の区画を(しん)龍区、北龍大路から西龍大路を(かん)龍区、西龍大路から南龍大路を()龍区、南龍大路から東龍大路を()龍区と分けられている。

そして四龍殿に近い四つの大路の(かたえ)にはたくさんの商家が並んでいる為、いつも多くの人々で賑わいを見せており、毎日のように各大路には大勢の大衆の群れが行き交っていた。 

ただその実、煩雑さは見られない。むしろ往来している者達には一種の余裕がある。人々の数多の群れがごった返そうとも見苦しさが無い。これが東にある大都の()(はん)であればそうはいかないであろう。喧騒と熱気のこもる杷繁はそこが売りでもあるが、煩わしいとも表現できる。だがそれは同時に活気に溢れる杷繁の自慢でもあるからだった。逆に誠龍は神都全体が品性を保っているのだと、ここに住む者達は思っている。その代わり杷繁ほどの熱を帯びた活力さは無い事も認めてはいた。

さて、そんな神都の中でも離龍区の東龍大路沿いに、誰もが目を引く豪華な店が一軒ある。その店の闇色の大きな暖簾が風にはためくと、書かれている猩々緋色の文字がその店の存在感を際立たせていた。

 その名を()龍商(りゅうしょう)――。

この国でも屈指の功器工匠達が手がけた美術品の品々を扱う老舗中の老舗である。

 臥龍商は暖簾に同じく建物全体を漆黒に統一しており、外からの視界を遮る為の格子も他の店より長く連なっている。庇からは金の吊り灯籠が下がっており、昼間にもかかわらず陽の光にあたった吊り灯籠の光が建物の闇のような暗さに伴い、まるで夜を照らしているかのような様相を見せていた。

勿論この臥龍商、一般庶民には外装を眺めるくらいが精一杯。さらに言えば、店の中などはもはや想像を絶する境地である。店を訪れる客たちの間でさえ、密かに呼称されている名が別名――宝物庫。

一足踏み入れれば、店内の造りは意外にも簡素なものであるが、その分、店の隅々にまで鎮座している名品や珍品の数々が、それらの存在感を最大限に引き立たせる役目を果たしていた。そして店を訪れた客達は、案の上に置かれている様々な品を前に夢心地となる。その異名がそのごとくに現れた店であった。

美しい曲線、圧倒的な色彩、存在感を際立たせる質感と量感、その全てを生み出す技の研鑽。

まさに至高の境地―。

今日もそんな客達の欲を掻き立て、その欲を満たす為に臥龍商は繁劇さを極めていた。

そんな店の前に煌びやかな半蔀車(はじとみくるま)が一台停まり、中から人が降り立つ。その人物は金の文様でうっすらと応竜が模られた引き戸に手をかけると、ゆっくりと臥龍商の扉を開けた

その音を聞き、いつものように彼は開いた扉の方をゆっくりと振り返える。

「いらっしゃいませ」

商売っけのない、はにかんだ表情が出迎えた。整った顔に、少し高めの落ち着いた声。

少し声量は足りないが、聞き取りやすいので結局は誰も気にしない。

次の言葉を発するのに一瞬つまった彼の表情は、先ほどのものから一転して困惑の色を隠せないものえと変わっていた。なぜなら事前に知らせられていた時刻よりも彼の到着が早かったからだが、こうも分かりやすいと接客には向かない部類だとすぐ判る。

「こ、昂楊様、伺っておりました時刻よりだいぶ早いお着きでございますね」

「意外にも用事がとんとん拍子に片付いてしまってね」

 肩でため息をつきながら、つい早く来てしまったよと常連は笑った。

「そうでしたか。こちらとしては、いつお越しいただいてもかまいませんが」

「そうかそうか」

「はい・・ ――」

 それ以上は言葉が出てこず、客を前に無言になってしまう。もともと口数が少ないうえ、喜怒哀楽をあまり表現できない彼の性格が百群色の羽織と相まって、その存在を控えめに映しだしていた。

 常連客もつい笑顔でそのまま無言に付き合ってしまったが、間がもたずに「相変わらずだね」と言葉を投げるしかない。

「も、申し訳ありません」

言いながら頭を下げたこの青年を飈紹瑛(ひょうしょうえい)といい、歳は今年で十六。次期、臥龍商の後継と呼ばれている人間なのだが、とても商の世界で生きていけるようには見えない。

「いや、私は別に気にしないがね」

 そう言って苦笑気味に笑うこの客の名は()(こう)(よう)といい、臥龍商の常連の大物客である。

俰国一と呼ばれるほど美貌、教養、芸ともに一流の芸妓が数多く籍を置く置屋(おきや)(いん)月亭(げつてい)

(あるじ)、それがこの常連の肩書きであった。

「――――」

「ところで頼んでいた物は?」

 仕方ないので取り寄せを頼んでいた品に話を移す。彼はお茶屋も多く手がけており、そのお茶屋を飾るための品や調度品など、買い付けのほとんどを自ら足を運んで行っていた。

「あ、あの、昂楊様には大変申し訳ないのですが、ご予定より早くお越しになられたので、注文されていました御品を渡す父の方が不在でして・・・・」

「そうか。早く来たのが裏目に出てしまったな」

 鼻で息をいったん出し切ると、僅かに首を傾けて腕を組み、ならば、と言葉を続けた。

「久しぶりに今季の新作でも案内してもらおうかね」

 そう言うとスタスタと店の奥に進みだした。馴染みなために、店もある程度勝手知っているからこそできる芸当である。店の人間が客に置き去りにされるという事態に、内心戸惑いつつも急ぎ彼の背を追い越しながら紹瑛は個室へと先導した。

「昂楊様、私が案内でよろしいのですか?」

 さっそく個室の椅子にどっかりと座ってくつろぐ昂楊に再度確認を取る。自分でも自覚しているが、紹瑛は接客に向いていない。だが、昂楊はたまにこうして自分を指定してくることがあった。

「もちろんだ。私なら幼い頃から顔見知りだし、君も少しは話しやすいだろう? それに君の功器に対する造詣の深さを評価した上で指名しているんだから、君も気楽にしたらいいさ」

 昂楊は紹瑛が店に立ち始めた頃から頻繁に店を訪れている為、他の客よりは紹瑛のことを理解している人物の一人には違いないが、そう簡単と「これはいかがでしょう?」などと愛想を振りまけるわけでもない。

 気楽にって言われても――。

 だが、ごちゃごちゃと考えている暇はなさそうで、内心で溜息をつきながらも、頭の中でめぼしい物に検討をつけていく。

昂楊曰くだが、紹瑛の勧める品は昂楊の趣味、嗜好に沿いながらも、それまで見向きもしなかった作品に目を向けさせるような面白みがある。

 そんなこととは露知らず、何点かの作品をすぐさま用意した紹瑛は案内した個室に作品たちを慎重に運び込むと、片隅に置かれている木台にそれらを移し並べた。そこから一番端に置いていた仰々しい桐箱をそっと昂楊の目の前の机へとのせ、きっちりと締められた紐をゆっくりと解くと、慎重な動作で蓋を取り外したところで口を開いた。

「まず初めにご紹介させていただきますこちらの品は弐谷(ふこく)焼きの鉢、作品名は七宝(しちほう)、名匠、耀轍(ようてつ)の作品でございます。最近新たに開発されました釉薬と呪いの生成技法、革新的な最新技術による新作で、まだ一般には出回っていない逸品です。玉のような輝きと色合いの表現を可能とし、日によって色彩が変化する品です」

「これはすごいな。鉢の中心から玉の輝きが溢れ出ている様だ」

 目を細めながら作品を眺める。光が溢れていると言うよりはこぼれ落ちていると表現したほうがこの場合はあっているだろう。好きか嫌いかと問われれば嫌いでない程度の部類に入った。鉢は中心部に近づくほど色が濃くなっており、輝きもそこから湧き出ているように見える。すぐに溢れてはそっと消えていくような儚さがあり、不思議と煌びやかにも見えない。

「昂楊様が華美な作品を個人的に好んでいらっしゃらないのは存じております。ただ、この作品ならば許容範囲内ではないかと思いましてご紹介させていただきました」

 じっくりと見入れば、意外にもこの鉢の色から目が離せなくなっていることに気がついた。

「本来、弐谷焼きは鮮やかな色で描く絵が中心の焼き物ですが、耀轍は絵ではなく色で作品作られる大変珍しい方です。色を追求し、色で遊ぶ。色彩の美を究極的に表すことに時間も手間も一切惜しみません」

 誘惑されるかのように吸い込まれる視覚。

「形状の美しさも勿論重要ですが、たまには色を愛でられるのもいかがでしょうか? 先程も申し上げましたが、耀轍の作品はその作業工程故に、非常に手間隙のかかる一級品です。これから需要は増えても供給がそれに比例することはないでしょう。今、手元に置いておかれても決して損のない作品です」

「そうだな、たまにはいいかもしれん」

 そう思えるほど目の前の作品をいつの間にか肯定できていた。昂楊自身も思った以上にこの作品が気に入りだしていた時だった。ふと紹瑛の口元に笑が灯るのを目が捉えた。

「本当に美しい作品だと私は思います」

 急に紹瑛の顔から僅かな緊張感が消え、次は目元が緩む。少し呆けたその顔は目の前の美に対して誰よりも心酔しているように映った。本人がどこまで気づいているのかは分からないが、空気が柔らかくなる瞬間はいつもこんな時だ。

「君はこういう時は饒舌になるな。それ以外は待てど暮らせど鳴かぬ鳥のようで、それはそれで面白いがね」

「いや、その――」

 そう言われ、また言葉に詰まってしまった。

 だからこの人は苦手だ――

別に人が嫌いなわけではないし、喋ろうと思えば普通に会話くらいはできる。ただ、常に笑ったり、言葉の駆け引きだの世辞だの世間話などといった類を好まないだけなのであるが、自信の立場上それは致命的であることも確かであった。

「まあ、まだ若いし顔は商売向きなのだから、もっと前向きにやったらいいさ。功器に関する深識は、同年代と比べると一線を駕しているのだから引け目に感じる事はないだろうしな」

「いえ、自分はそこまででは・・・・」

 と本人は言っても実際その通りで、実家の商い上必要な知識だからということもあるのだが、同じ年頃の者達と比較しても比べ物にならないほどの知識を有しているのは確かだった。

「所詮、好きが高じてという程度です。どのみち必要になる知識ですから、知っておくに越したことはありませんし、接客下手な自分が役に立てることと言えばこれくらいですから」

 そう言って他の作品に手を伸ばす。

「その接客慣れしていない態度に逆に好感が持てると、実は君目当てに通っている常連もいるくらいだから気にすることはないと思うがね」

「は?――」

 訝しむような顔に昂楊はますますにやりとした表情に思わず溜息が出てしまった。

「君は君のままでいいということだよ。さて、次は何を見せてくれるのかな?」

「――――」

 昂楊はよく笑う。それもいろんな意味で。紹瑛はそれが分かっているからこそ、今度は肩で溜息をついてから次の作品を昂楊の前に置いたのだった。

 結局、昂楊の作品鑑賞の途中で臥龍商の主である炬玖(きょく)が戻り、その場は引き下がれたものの、えも言われぬ疲労感に襲われたまま紹瑛は自室に戻るはめとなった。

「はあ・・・・」

 いつにも増して大きな溜息を自覚なくついたところで後ろから声がする。

「紹ちゃん、どうしたの? そんなに大きな溜息なんかついちゃって、珍しい」

 振り返ると姉の華凛がにこやかに立っていた。

「姉さん――」

 そんな姉の姿を見て少しばかりホッとする。華凛は紹瑛の二つ上の姉で、性格は正反対。容姿は華凛の方が妹と見間違われるほどの幼さを残した可愛らしい姉で、口元のほくろが少しばかり艶めいた印象を逆に抱かせ、笑うと柔らかい雰囲気がフワリと舞う。紹瑛を幼い頃から可愛がってくれている彼の一番の理解者でもあった。紹瑛以上に臥龍商での様々な事を手伝っており、最近は取引相手や納品先に出向く事を主に任されているため、臥龍商に不在していることが多い。

「あらあら、随分と冴えない顔ね。せっかくの男前が台無しよ。ね、(あき)

 華凛はそう言って、肩にちょこんと乗っている白い小猿に顔を向ける。

「だいぶお疲れのご様子とお見受けいたします。早めにお休みになられた方がよろしいかもしれませんね」

 晶と呼ばれた小猿は大きな瞳を瞬かせながら紹瑛を見つめてそう答えた。

「そう見える?」

 華凛と晶は揃って頷いた。紹瑛は苦笑するしかない。すると晶が華凛の肩からするすると降り、すぐに紹瑛の腕に収まってきた。そんな晶の頭を軽く撫でてやると、気持ちよさそうに甘える。その姿に紹瑛の表情はいつの間にか苦笑から普通の笑に変わっていた。

「あら、晶は相変わらず甘えん坊さんね。私の()()なのにまるで紹ちゃんが主みたい」

 嬉しそうに晶を可愛がる弟の姿に華凛も嬉しそうに笑った。

「晶は本当に可愛いよ。優秀だし。姉さんが羨ましい」

この二人が言う廝具とは、()(せき)という特殊な石に形と呪をほどこし、その中に生獣の魂を封じ込め、生獣の持つ本来の能力と礇石の持つ神功の力を合成し特化させ具現化、半永久的に隷属させることの出来る功器を言う。廝具の能力の高さは礇石の種類、呪、製作者によって異なってくるが、昌のように言語を操る廝具は能力が高く、第三級品以上のものである証でもある。廝具は他の一般的に流通している功器とは少々異なり、本体となる礇石自体が大変希少であることから一般への普及率はかなり低く、高額の値で取引される功器である。

「いいかげん、紹ちゃんも一つくらい持ったらどうなの? 晶を可愛がってくれるのはありがたいけど、そろそろ自分の廝具を選んでもいいんじゃない? 有能な廝具は便利よ」

「――でも、値も張るし。晶がこんなに可愛いなら、自分の廝具なんて、大事にしすぎて困るかなって・・・・」

 確かに今の様子を見ている限りでは、溺愛するより入れ込み過ぎて仕事にならないかもしれない。弟のそんな姿を華凛は容易に想像できた。

「それもそうね。それより、お店で何かあった? また接客のことを誰かから言われたの? 紹ちゃんは確かに表情があまり変わらないし、余計なことは喋らないから店頭に立つのは向かないけど、それでも少しずつ慣れてきてると私は思うのよ」

「紹瑛様がなれない接客をいつも努力なさっておいでなのは皆知っていることです」

 いつも何かしら心配して、あれやこれやと気を使ってくれる華凛と晶に紹瑛は嬉しくなる。

「ありがとう。大丈夫だから心配しないで」

「無理はしちゃダメよ。店で扱っている品の事は紹ちゃんが一番良くわかってるから私もすごく助かってるし。それよりも、店の手伝いもしないで部屋に引きこもってるひーちゃんの方が問題よね」

「そうだね ――――」

 飈家は華凛、紹瑛の他にもう一人、紹瑛の下に一つ離れた弟がいる。名は()(じゅん)。滅多に部屋から出てこない変わり者で、両親も手を焼いている存在だが、彼には彼なりの事情があるため、誰もあえて干渉しようとはしない。

 二人揃って溜息をついたところで紹瑛より背の低い華凛が上目づかいに顔を覗き込んできた。

「前から思っていたのだけど、紹ちゃんは他に何かやってみたいことってないの? ほら、家が商いをやっているから自然と仕事が趣味みたいな感じになってるけど、本当は別のこともしてみたいんじゃない?」

 問われてはたと考えてみるが言葉どころか考えすら浮かばない。自分って他になにかやってみたいことなどあっただろうか? 

 華凛が心配するのも無理はない。紹瑛は幼い頃から店の商品や飈家所有の功器を日がな一日眺めて過ごすことが多く、眺め呆けるのが日課と言われても否定できない人間であった。自分でも驚くほど朝から晩まで飽きないのだから不思議なものである。

「私はこの仕事好きだし、お父様のことも尊敬しているからかまわないのだけれど、紹ちゃんは無理して苦手な接客とかしているように見えるからついね。深く考えなくてもいいのよ。紹ちゃんが功器を本当に好きなのは知ってるわ。だから、たまには生き抜きに別のことにも目を向けていいじゃないかなって思ったのよ」

 無言のままの弟を見て華凛はクスリと笑った。華凛は忙しい合間を縫って茶の稽古に勤しんでいる。要は、他に趣味でも見つけろということなのだろう。

「このままじゃ紹ちゃん、功器眺めて、そのまま功器が恋人になって、功器とお墓に入るような一生を送りそうなんだもの」

 姉の目を見つめたまま結局言葉は出てこない。事実、そうなってもおかしくないのだ。腕の中で晶がゴロゴロと喉を鳴らすのがかすかに響く。

「新しいことを何か一つ始めてもいいんじゃないのかしら」

 晶、と呼ばれ紹瑛に甘えていた晶がすぐに華凛の肩に納まる。そのまま華凛と別れて自室に戻った紹瑛は座り込むと同時に「新しい事」という言葉を心の中で反芻したのだった。

 他にやりたいことなんて自分にあっただろうか? 他にやりたいこと・・・・。

 姉のように御茶や御花などの類はどうにも落ち着かない。やろうとしたことはあるのだが、使っている茶碗や道具、鉢などに目が奪われてしまい、結局それどころではなくなってしまうのだ。弓や剣術なども苦手である。歌舞とも浮かんだが、最近の流行りもとんと疎い上に、そもそも素質も無いと自覚している。

 そうしてしばらく考えていたが、そのうち視線が机上へと移る。そこには大皿が一つ。その姿が視界に入るや、すぐに意識はそれのみに集中した。

今座っている場所からでは少し影のある白肌の大皿にしか見えない。ゆっくりと立ち上がり一歩、また一歩と近づく。

すると一本、また一本。不確かな白い線が浮かび上がっていく。

ぼんやりと見えていた影は徐々に濃くなり、それにつれて、ふわり、ふわりと雪の結晶が表面に現れていく。その美しき文様に釘付けとなるのは自分だけではないはずだ。

触れば溶け消えてしまいそうな紋様は本物の雪のようだが、繭糸のような細やかな線と点を一つに力強く結びつけ、その一片をはっきりと映し出す。全ての紋様が眼前に姿を現すと、吸い込まれそうな感覚、と言うよりも、自分がそれに染まっていくような感覚を覚える。はらりはらりと落ちていく白い結晶が淡い闇をほのかに照らし、光を灯す。その一瞬を投影したかのような皿の姿。その儚い世界に切ない思いが込み上げた。

ただ美しくあるだけの存在。どれだけ眺めても、どれだけ見惚れても、その姿形は変わらずにそこにあってくれる。

美しい。本当に美しい。何度見てもため息がでる。

今雪(きんせつ)作、華雪。

遠距離からでは霞んで見える紋様は間近で見ないと、その麗しき姿を浮かび上がらせない。手間のかかる墨はじき技法を今雪が追求し続けたことによりここまで進化し、こんなにも素晴らしい作品がこの世に送り出された。いや、贈りだされたと言っていい。作り手の感じた世界がそのまま伝わってくるようなこの感覚に酔いしれることは言わずもがな。この美しき淑女のような品格。そこに憂うかのような儚さを映し出す輪郭。雪の結晶はまるで冬に咲いた仮初めのごとき可憐な花のよう。手を伸ばせば摘み取れそうなその紋様は、その実、掴んでしまえばあっけなく散り消える幻のよう。言葉で説明しても説明しがたいこの美しさ。形容の在り方を見て感嘆するのは容易だろう。だが作品は目に見えるものが全てではない。目に見えない部分を丹念に、緻密に、時間をかけて、じっくりと思いを込めて作り上げてある。それがこの技法であり、この人であり、この作品だ。人の持つ芸術性と可能性は無限大であることを、これ一つを見ても分かるというものである。世代を経て、なおも輝く技術と伝統の美を、新たな段階へと押し上げ生まれ変わらせる匠の絶え間ない尽力。人の創造の力が創り出す過去、現在、未来の全てがそこに詰まっている。そこから伝え受け継がれてきた思いが、自分の心に語りかけてくる。この時代だからこそ出会えた作品なのだから、夜を明かして観賞しなければ損と言うものだろう。

彼の頭の中は、いつもこう(・・)なのだ。

口数は少ないが、考えていることは膨大である。しかし、常に考えていることは功器のことばかりなので、他の事を急に考えろと言われても首を傾げるしかない。結局、考えても考えても、考えている内容そのものが、いつのまにかすり替わっているのだから本人もお手上げなのだ。

自分は功器にしか興味が持てないだけの人間なんだろうか?

ぼんやりとした思考の片隅で考えた。これだけなのだろうか? この先はあるのだろうか? 何故だろう。言いようのない引っ掛かり、わずかばかりの懸念が残る。そこからは自分でも分からない。華凛が心配するのも必然である。

僕は苦しいのか? 

微かに吐いた溜息。ふと伸ばした手。だが、途中で止まる。そのままゆっくりと目を閉じた。耳に届いた小さな音。

そして今日も東の空から光が射す。鳥のさえずりが明けの空に響き渡った。


 結局呆けたまま朝を迎えてしまい、答えの出ぬまま店に出る。

「紹瑛、今日はやけにボーっとしているようだが体調でも悪いのか?」

 朝から店で本人も知らぬうちに嘆息が口から零れ落ちている様子に、父である挙玖が怪訝そうな顔で紹瑛を見た。

「い、いえ。大丈夫です。なんでもありません」

そう言いながらも、今度はうっかり手から帳簿を落としそうになった紹瑛に挙玖が呆れて溜息をつく。

「何か心配事や悩み事でもあるのか? 接客のことを気にしているのか?」

「それは前から悩んでますから、いつものことです」

「まあ、それもそうだが・・・・」

 挙玖もそのことに関しては十分理解している為、それ以上は何も言わない。

「はい・・・・・・・・」

 ちょうどその時、臥龍商の扉が開いた。

「いらっしゃいませ」

出迎えの挨拶を聞きながら軽やかに入ってきたその人物は、淡い笑みを浮かべたままフワリと二人の前に立つ。紹瑛はその男の顔に見覚えはなかったが、視線が妙に吸い寄せられた。

「これはこれは、琥騨(こだん)様。お久しぶりでございます」

「久しぶりだな」

 琥騨と呼ばれたその男は特徴があるようでないような人物だったが、逆にそれが印象的なように見える。面識がない来訪者と父のやり取りを黙って聞くことしかできないはずだが、紹瑛はなぜかその場を離れられなかった。

「いや、立ち寄ったのは他でもない。例の件だ。ここを通してしか依頼を受けない頑固なじいさんの様子を聞きたくてな。ずっと仕事が溜まりに溜まって増える一方で、ここまで足を運ぶのも一苦労だ。まったく参るよ」

 淡い笑みと変わらない表情に少しだけ疲労が混じる。

「そうだと思っておりましたよ。午前中に見に行ってまいりましたので、ちょうど良かった。運がよろしいですね琥騨様」

「おお、そうか。それは助かった。なにせ今回、二百年ぶりに遷宮が重なるで、どこもかしこも大騒動。通常の業務に加えてこっちも担当しないといけないのに人手も足りない。おかげで、ここ何年も負担が二倍三倍どころじゃなくてな。もう少し早く来たかったんだが――」

「お聞きに及んでおります。司子(しし)先生もここ何年もこもりっきりで没頭していらっしゃいますから当然、宮に情報が行かぬのは無理もありません」

「あのじいさん、俺らに様子を見に来られるの嫌いだからな。お蔭で進行具合が全く把握できないせいでこっちは冷や冷やさせられるよ」

「ここ数年は不眠不休で無理をなさっておられたので私も心配いたしましたが、それでも不満一つ漏らさずに制作されていらっしゃいましたよ。残りの神宝もほぼ出来上がっておりましたので、納品期日までにはあちらにお届けできそうでございます」

 それを聞いた琥騨から肩の力が抜けていく。

「助かる。今回は本当に間に合わないかと思ったが、さすが司子先生。やはり一級の職人さんだ。通常六年は最低でもかかる作業を五年で間に合わせてこれるんだから、まさに神業だな」

「はい。あの方は素晴らしい才能の持ち主です。父が貧しかった先生に目をかけ、色々と面倒を見る中で神宝作りの継承者にと推薦したのも遠い昔の話になりますね」

「おかげで、神宝の中でも難題とされる俰組(かくみ)(ひら)()の技術を伝承できたのは救いだったよ。跡を継ぐ子供も弟子もいなくて宮としてはだいぶ焦ったが、無事に先代のお眼鏡にかなう技術者を紹介してくれた功績は多大だ。代わりに臥龍商を通してしか仕事を受け付けない厄介な匠になってくれて、わざわざここを経由しないといけないことに涙がでるよ」

「こちらは司子先生のおかげで大助かりでございますよ。まさに先代様様です。今は息子さんに跡を継がせるため、親子で日々励んでおられますよ」

 深く安堵の息をついた琥騨と呼ばれる男はふいに紹瑛に視線を移した。

「ところで、この(ぼん)はたまに君から聞く自慢の息子君かな?」

 坊と呼ばれるほど幼くはないのだが、あまりにも急に話が飛んだため、すこし戸惑ってしまった間に挙玖が「そういえば」と呟いた。

「いつもは私から宮城へ出向いておりましたので紹介する機会もございませんでしたな。長男の飈紹瑛でございます。次男もおりますが店には出ておりませんのでお会いする機会は無いでしょう。そうでした。今回の納品は息子にさせようと思っております。どうぞよろしくお願いいたします」

 親子ともども頭を下げる。

「ご紹介に預かりました飈紹瑛でございます。父がいつもお世話になっております」

「そうか~、今回は君が行くのか。まあ二十年に一度しかないからいい機会だ。君にもいい勉強になるだろう。しかし、君のとこは本当に美形ぞろいだな。この前君の娘にも会ったが、宮女に推薦してもいいくらいの美人で驚いたよ」

 実に羨ましいと呟く琥騨を今度は挙玖が紹介する。

「紹瑛、こちらは鑑士の呂琥騨(りょこだん)様。いつも私が宮城へ納品する際にお世話になっている方だ」

「あっ、鑑士の方でしたか。初めてお会い致します」

「そうか。坊が出会う初めての鑑士が私なのは光栄だな。君がこの店を継いだら私と会う機会も増えるだろうし、今回の納品で他の鑑士とも会えるはずだ。ツテは多く持っておくに越したことはないからね。あ~だが、今回はかなりの訳ありで、派遣されてる奴らも一概に知り合っていい部類なのか判断に困るが・・・・」

 紹瑛には初耳の話を二人で進めるので訳が分からずにいる。神宝? 君が行く? まったくついて行けない。困惑した表情は出さずに済んだが、それでも横にいる父に視線を送ると挙玖は笑って教えてくれた。

「今年が天鳳宮の遷宮年なのは知っているだろう?そこで新しく新調奉納される神宝の一つを出来上がり次第お前に届けてもらおうと思ってな。行きだけでも十日はかかる道のりだ。そこまで長い期間、私が店を開けるわけにもいかないし、大事な奉納品を使用人に任せることもできない。華凛をとも考えたがお前のほうが適任だと思ったんだよ」

「国随一の匠や名人達が作り上げる神宝が一か所に数多く集結するんだから、穂勢の方角を見るだけで後光が指しているように見えるよ。ありがたや、ありがたや」

 そう言いながら手を合わせて拝む琥騨を見るかぎり、よほどの場所に行くのだと理解した。

「そ、そんな大役を私が引き受けて良いのですか?」

「大丈夫だ。本当に届けるだけだからな。ここから穂勢までの道程や泊まる宿も全て決まっているし、あとはお前が納品するまで肌身離さず持っていてくれればいいだけだ」

「えっ、それだけって・・・・」

 随分と簡単に言ってくれる。紹瑛は見開いた目で父を見たが商売用の笑顔で一蹴されてしまう。確かに店で接客をしているよりはよほどマシな仕事のように聞こえはする。だが、実際に行くとなると気疲れは多いだろうとの予測はついた。

 その様子に気づかないまま紹瑛の方を琥騨がばしばしと叩いく。

「頼んだぞ。大事な大事な神宝だ。君なら大丈夫だろう」

 琥騨の高らかな笑いが店内に響き渡る。

どこからそんな根拠が出てくるのだろうと不思議に思いながら紹瑛は「はい」と頷くしかない。

再度、琥騨の笑い声が辺りに響くと、挙玖の笑い声も混ざり、紹瑛はとてつもなくいたたまれない気持ちになったのであった。


(てん)鳳宮(ほうきゅう)


鳥のさえずりがやけに響く明け方の朝。木漏れ日の心地よさに目を細める。南にそびえる神霊山の近くにある都、穂晒(ほせ)

 誠龍から南に百二十里。地方の都の中では大きい部類に当たる。古風な華やかさを持つ神都の一つであり俰国二大神宮の内の一つ、天鳳宮のある地である。

 南地方最大の山、大鳳霊山に住むといわれている鳳凰を祀つる宮で、広大な敷地の周りを深く濃い聖域とされる延々と続く森に囲まれている。その清廉された場所は訪れる者の心神を引き締める、まさに神域である。

 仕事でここに来るとは思わなかった――。

 紹瑛は天鳳宮の入り口である(てん)(せい)(ばし)の上に佇み、川の水流の音を聞き入っていた。霧がうっすらとかかる森の木々の緑に吸い込まれそうな感覚を覚える。

御朋(おんほう)神宝(しんぽう)の納品。それが今回、紹瑛の任された仕事である。

 神宝とは神々の調度品のこと指しており、天鳳宮ではこれを二十年に一度、古式のまま新調し奉納する。このことを御朋神宝という。

 天鳳宮での御朋神宝の新調は本来、天鳳宮にある神祇庁(じんぎちょう)造営(ぞうえい)神宝使(しんぽうし)という役所が管轄しており、新調の年になると王都の宮から鑑士が造営神宝使としてここに派遣され、天鳳宮の神官達と共にこの新調にあたるのである。

 天鳳宮は天清橋(てんせいばし)と呼ばれる橋を境界とし、その天清橋を渡ると天鳳宮の敷地に入る。

 この天清橋は天鳳宮を代表する象徴の一つで、三百尺の長さを誇る木橋である。この下を流れる天霊川(あまりょうせん)と呼ばれている川は、とても浅いが幅が広く、天清橋の長さの所以はこのためである。加えて、天霊川を渡ることで神域である天鳳宮との一線を明確に区切り、訪れる者達にそれを意識付けさせる意味をこの橋は担っているのである。それゆえに、異空間に足を踏み入れていく感覚を覚えるには十分な演出がなされていた。

 橋を渡り終えれば、次は玉砂利のさくっとした気持ちの良い音色が響き渡る神苑が紹瑛の目の前に広がっていた。歩くたびにザッ、ザッと音が鳴り、玉砂利を踏みしめる感覚を楽しむ。道なりに燈籠が一定の間隔で配置され、その長い道を抜けた場所まで来たところでふと足を止めた。

 右側になだらかな石階段が浅瀬の川に向かって作られていた。その階段の下、水辺に一人の人物の背中が見える。小川の中に手を浸し、静かに流れを感じているらしい。見ると木の立て看板に禊場と表記されている。紹瑛は邪魔にならぬようなるべく音をたてず、ゆっくりと近づいた。だが微かな音を察したのであろう。その人物は紹瑛を一瞥すると感心したように口を開いた。

「若い者がこんな朝早くから参拝とは珍しいな」

 紹瑛は「お、おはようございます。そんなに珍しいでしょうか?」と軽く挨拶を済ませると川の水で手を清める。ヒンヤリとした温度が心地いい。

「朝が早すぎるせいもあるが、最近はあまり見かけないな」

 横に並んでから分かったが、年配なその男は立ち上がると同時に水から手を引くと懐から手巾を取り出し水滴を拭う。出で立ちからすると神官ではなさそうだが参拝客にも見えなかった。

「でも、私も参拝が目的ではありませんから褒められたものでもありません」

 正直に言うと紹瑛も手をそっと水から引きあげた。紹瑛の横に置かれている包に男は目を留める。

「出入りの業者かね? どこに用があるのかな?」

「はい。神祇庁へ奉納品を届けに行くところです」

 それを聞くと男は少しばかり目を見張る。よく見るとなぜか目には薄らと隈ができていた。どうやらとても睡眠が不足しているらしい。

「もしかして臥龍商の人間かね?」

 唐突に言い当てられ内心驚く。何故わかったのだろう?

紹瑛がここに来ることを知っている人間はごく一部に限られている。それから考えると、ふと琥騨の言葉が甦ってきた。

―なら今回の納品で他の鑑士とも会えるはずだ―

 あ、この人――。

「あの、もしや鑑士の方でいらっしゃいますか?」

「そうだ。で、君はどうなんだ?」

 随分と淡泊な答えに呆気にとられてしまった。

「えっ、はい、その通りです。臥龍商から納品に参りました飈紹瑛と申します」

 紹瑛が名乗ると男はそうかと納得したような表情になった。

「ああ、主ではなく別の者が来ると聞いていたが、息子が来たのか。まあいい。思っていたより早かったな。期限ぎりぎりだと案じていたんだが、結構結構」

 そう言って踵を返した男の姿が、一瞬琥騨の雰囲気と似たように感じた。もしかすると鑑士はこういう感じの方が多いのだろうかと内心で考えていると「ついてきなさい」と声が飛ぶ。

「は、はい」

 反射的に思わず男の後を追ったが、疲労の感じられる顔からは想像もつかないほどの颯爽とした足取りだった。

「私は名を平慶(ひょうけい)(しん)という。今回の御朋神宝新調で奉納される神宝類の最終鑑定を行う為に派遣された者だ。私を含めあと三人、宮鑑士がここに派遣されている。届けてもらった神宝の鑑定が終わるまで君にはここにいてもらわなければならないが、その件は聞いているかね?」

 自分が想像していたのとは裏腹に、慶進を合わせても四人しか鑑士がいないことに驚くも、そんな紹瑛の心の内などは関係なく神宮杉に囲まれた静寂な参道をどんどん進んで行く。

「はい。不備があればすぐに持ち帰り、再度納品しなおさなければならない事もありうるので、神宝の鑑定が終わるまでは待機しておくよう父から承っております」

「よろしい。まあ、そんなことはないと思うが一応必要なことなので了承してくれ。琥騨があちらで見た限りでは問題無いと報告が来ているし、司子先生に限ってそのようなお仕事はされないのも重々承知だ。さらに言えば、今回は再納品などという悠長なことを言っている場合でもないからな。単に形式的なものだと思ってくれればいい」

 どうやら『訳あり』の影響が多大な弊害を引き起こしているらしい。挙玖はそこまで紹瑛に話してくれなかったが、琥騨の様子といい慶進の物言いからだけでも面倒な事態であることは察することができた。

「ところで、なぜすぐに神祇庁に直行しなかった? 天清橋を渡ればすぐだっただろう?」

 それは紹瑛にも分かってはいた。だが迷わず紹瑛は神祇庁への直線の道ではなく御手洗場である右の道を選んでいた。

「さすがにそれは非礼かと思いまして。ましてやここを訪れる機会もこれから先滅多にあることではないでしょうから、まずは天鳳様に参拝するのが道理かと。届けてからのほうがよろしかったでしょうか?」

 それを聞いた慶進が前をふっと指す。

「礼節をわきまえているようで安心した」

 いつのまにか拝殿に続く石段がもう目の前だった。風になびく木々の葉の擦れ合う音だけが響き、一段一段上がるごとに目の前が霞むように見える気がした。

 無事に奉納品を届けることができたことを天鳳様に感謝し拝礼を済ますと、さっそく神祇庁へと二人は足を向ける。

「遷宮での御朋神宝は二十年毎の新調ということくらい聞いていると思うが、私は前回の新調に派遣された経験を持つ為、今回の派遣鑑士の統括を任されている。その他は、二十代、三十代の若手鑑士で新調経験は無いが、優秀なのをかっぱらってきているから私より話しやすいだろう」

 それでも紹瑛とはかなりの年数差があるので、あまり慶進と大差がないように思える。

「あの、慶進様以外はどうしてそのようにお若い方が派遣されているのでしょうか?」

「ああ、引継ぎと経験を積ませる為だ。次の二十年後の遷宮に派遣できないような老い先の短い輩を選出するわけにもいかないのでな。なるべく若い者が多いほうがいい。実力なら年配鑑士とそう変わらないのでな」

そこまで話し終えると、ちょうど一人の神官がこちらに歩み寄ってくるのが見えた。

「おはようございます慶進様。朝の参拝は終わられましたでしょうか?」

目の前まで来ると、軽く一礼した神官は紹瑛にも挨拶をする。

「君たち神官は毎朝大変だな。暗いうちから起きだして朝御饌の準備や掃除で大忙し。毎朝感心させられるよ」

 慶進の感心の基準はどうやら朝早くから行動していることにあるらしい。

「これも奉仕する者の勤めです。私共よりも早朝から拝殿に足を運んでいらっしゃる慶進様のほうがよほど感心させられますよ。朝餉の支度ができておりますので早めに召し上がってください。で、こちらの方は?」

「司子名人の奉納品を届けに来てくれた臥龍商の者だ」

紹瑛は先ほど慶進にしたばかりの挨拶を同じ文句で済ませる。

「これはこれは、遠くからよくお越しくださいました。しかし、思っていたよりも早くお着きになられましたね。ありがたい限りでございます」

 深く一礼する神官に、思わず紹瑛も頭を下げた。

(わたくし)は神宝造営使所属の(おん)()(えい)と申します。派遣された鑑士の皆様のお世話役を仰せつかっております。どうぞよろしくお願いいたします」

顔を上げた彼と対峙した紹瑛は、改めて嘉永を見た。

すらりとした高い背。額から滲み出る聡慧さ。口元に宿した笑みが誠実さもよく表している。落ち着いた面持ちに加え、神官の持つ独特の雰囲気を濃厚に纏っていた。嘉永はちょうど慶進を探していたらしく、三人で神祇庁まで足を進めることとなった。

「予想外に若い方が来られたのでびっくり致しました。紹瑛様はおいくつになられるのですか?」

「十六です」

「十代ですか。今が一番楽しいときですね。羨ましいかぎりです」

そう言いつつも本人も若い。一見したところでは二十代前半に見える。

「そういう君も若者の内に入ると思うが?」

紹瑛の気持ちを代弁したかのように慶進が聞く。

「もう三十路を過ぎましたので、若者とは言いがたいですよ」

さらりと言ったが、どう見ても十歳以上も年上には見えない。見た目もそうだが、それよりも彼から発せられる『気』が若い。顔も廉潔さが漂うさっぱりとした面立ちだからなのだろうか。一目で好感が持てる。

 嘉永が笑いながら答えたところで遠くからでも分かるほど大きな建物が見えてきた。その建物、神祇庁は豪奢ではないが荘厳さあふれる佇まいで、いかにも月日を経てきた感じを漂わせていた。ただ一部を除いては―。

「やはり天鳳宮の中にある建物はどれも素晴らしいですね」

「しかし、この神祇庁の一部だけ新しく建替えてしまいましたので、どうしても違和感があるように見えてしまうのが、唯一の欠点とでも言いましょうか・・・」

 神祇庁の奥端の方を見ると、確かに一部分だけが新しく建て直されている建物が視界に覗く。それを眺めた慶進は何とも言えない双眸をした。

「今回の新調は厄介だな。御朋神宝の新調が始まる直前に神庫から火災とは。おかげでこちらも事後処理に追われる羽目になってしまったが、不幸が重なった(・・・・・・・)のは致し方ない」

「慶進様にはご足労をおかけ致します。新調業務には鑑士の方々の負担ばかりが増してしまいました」

 嘉永が申し訳なさそうに俯く。二人の様子からもよほどの惨事だったことが伺えた。

「紹瑛様はそのご様子だと事情はご存じないようですね」

 嘉永が簡単に事情を説明してくれたので紹瑛はやっとこの一連の騒動がどういったものなのか知ることができた。

 元凶は約七年前に遡る。御朋神宝の新調は遷宮が行われる七年前から始まるのだが、この新調が始まる少し前に神祇庁で火事がおきた。大事には至らず、建物は少しの損傷で済んだのだが、事態はそれだけでは収まらなかった。問題は火の手が上がった場所にある。

そこは御装束神宝に関する資料や仕様書が保管されている神庫。この事が幸だったのか不幸だったのかは論議できないが、小火で済んだことには幸いだったと言えよう。ただ残念なことに新調に必要となる大切な書巻と仕様書の一部が燃えた。その上、消火する際に撒いた水のせいで、解読不能になってしまった書巻が多数。火の手から守るために無造作に運び出された多くの資料や書巻が乱雑状態。などという様々な不幸が重なり、現在、新調作業が遅れに遅れをとっていた。

どの資料などが駄目になってしまったかの解析、同様の資料、書巻の検出、運び出された山積み状態の書巻整理など、大変に手間のかかる作業が彼らを待ち受けていたことである。

御朋神宝はその数を約七百種、ざっと千六百点にも及ぶ。

新調はその度ごとに神宝類の実寸大の図画を極細の筆で描く作業から始まり、これと共に仕様書を作成する。

この仕上がった仕様書を無事工匠達に渡すことはできたが、もちろん神宝類を手掛ける為に費やす時間の方がかかる。この時点で初期の段階にも関わらず、かなり期間の遅れをとっていた。

その上手抜きなど一切許されない新調作業。数々の名工達が納得行くまで精製するのだから、本来時間などいくらあっても足りない。そもそも、神宝そのものの制作期間が数年に及ぶものも珍しくないのだ。加えて作業開始期間がずれ込んだせいで、期限内に間に合わせる為に時間をぎりぎりまで使い仕上げくる職人が大多数を占めたのも今回の災難の一つだった。

そして奉納期限の迫った今、出来上がった数多くの神宝類が天鳳宮に終結している状態であり、その山のような神宝類の最終鑑定をするのが慶進達、鑑士の仕事なのである。

詰まるところ、短期間で厖大な数の神宝鑑定を少人数でしなければならない正念場に紹瑛が足を踏み入れているのである。

もちろんこの鑑定一つ一つにも時間がかかる為、慶進の隈の原因はまさにここにあった。

「期限までに間に合わないかとも焦りましたが、無事に神宝も揃いそうですし鑑士の方々には頭が上がりません」

 だから琥騨は司子に対してあの期間で仕上げてきたことに絶賛していたのだろう。

「特に今回紹瑛様がお持ちになって下さった俰組平緒は長期にわたって制作される神宝の一つで、三日で一寸しか組み上げることのできない繊細な代物です。その美しさは言葉にすることができません。長きに渡り伝えてきたこの伝統を守り続けていくことの難しさと重要さが、この俰組平緒一つをとってもよく実感できます。遷宮は千年以上も前から続く古来伝統の祭儀。伝統を受け継ぐという重みがこれからも伝わってきますね」

この時、嘉永が奉納品に向けた表情はどこか哀愁の漂うものだった。それが僅かに心のどこかで引っかかりを残したのだが、朝餉が冷めてしまうと嘉永に急かされ、神祇庁の中に案内されるがままに入ると、結局その引っ掛かりは頭の隅に追いやられてしまい、いつの間にか目の前には朝食が置かれていたのだった。

「朝からしっかり食べないと持たないからな。若者は特にだ。ここの飯は美味いぞ」

 紹瑛の横ですでに朝餉に手をつけている慶進は、歩く速さ同様に箸の動きも早い。

茶碗からほのかに立ち昇る白い湯気。冷奴に山菜と野菜の煮付け。川魚の丸焼き、お吸い物と豪華ではないものの、食欲をそそられるには十分の品々だった。

手を合わせてこの恵に感謝し、ご飯に箸をつける。口に運ぶと、その美味さに思わず声が出た。

「お、おいしい」

他も自然の味が色濃く出ている。素材を引き立てる程度の味付けしかされていないので余計な味がしない。それがこうも美味しく感じるとは。

「ここの米は特別だ。天鳳様に供えたお下がりを頂いているからな。その上、天鳳宮が自ら御食の為に作っている物だから、ここでしか味わえないものだ」

「そうなんですか。とても貴重なものを頂いているんですね」

 それを聞くと、なお美味しさが増すというもので残さず腹に収めてしまう。精力をそのまま食したような感覚になれるほど、内側から力の要素が広がっていく気がした。

「お口に合いましたでしょうか?」

 見計らっていたかのように食後の茶を嘉永が運んできた。

「はい。こんなに美味しい朝餉を頂けるとは思ってもみませんでした」

「それは良うございました。都とは違ってなにぶん質素に作っておりますので、お褒めに預かれるとは嬉しい限りです」

焙じ茶の香ばしい香りで一息つくと、早々に慶進は立ち上がる。

「私はこれから別の神宝を見なければならないので先に行く。君の持ってきた神宝の鑑定は焔祀汶(えんしもん)という者が担当するので、彼のいる部屋まで嘉永に案内してもらうといい。ここにいないということは、朝餉はとっくに終えて部屋で仕事に従事しているはずだ」

「あ、はい。わかりました」

 慶進が部屋を出たあと、すぐに紹瑛も嘉永と共に部屋を出る。いくつもの板廊下を曲がり進なかで何人もの神官とすれ違ったが、皆忙しそうに走り回っている。嘉永が最初に会った神官だった為気づかなかったが、ほかの神官達にも一様に隈ができていたり、疲労感が漂っている。どうやら切羽詰っているのは鑑士だけではないらしい。

 ちょうど目の前を足早に通り過ぎようとした若い神官が嘉永に目を止めると、慌てたように駆け寄った。

「嘉永様、お探ししておりました。急務により、鳳凰の間まで呼び出しがかかっております」

「・・そうですか。すぐ行きます。紹瑛様、大変申し訳ございませんがここからはお一人で行かれてください。この先の突き当りの部屋ですので迷われることはありません。祀汶様も必ずそちらにおられますから安心されてください」

「分かりました。ありがとうございます」

 嘉永とそこで別れると、そのまま突き当たりの部屋を目指す。長い廊下を進んでいくと嘉永の言ったとおり突き当りに部屋があった。

 祀汶さんか。慶進さんも琥騨さんも貫禄のある立派な鑑士様だけど、祀汶さんは若い鑑士の中で優秀って慶進さんがおっしゃっていたし、どんな方か少し楽しみかも。

 少しながら期待を抱き、扉をゆっくりと開ける。

「失礼します。臥龍商から神宝をお届けにあがり――」

 最後まで言葉をつなぐ前に雷が飛来したかのような怒声が部屋いっぱいに鳴り響いた。

「遅い。何をグズグズしていた。来いと厳命していた時刻からだいぶ過ぎているぞ」

 一瞬のことで呆気にとられた紹瑛の目の前には殺気を纏った一人の男が立っていた。服装は慶進と同じだが、同じ鑑士とは思えないほどの殺伐とした雰囲気をかもし出している。

 目が大きく、一見すると可愛く見えるのだが残念なことに目つきが不釣合なほどに悪いのが印象的で、隈はないものの充血しているのがはっきりと分かった。イライラの絶頂なのだろう。不快感極まりないと言わんばかりに口を曲げている。そのあまりの眼光の鋭さに身がすくんでしまい言葉一つ発せずにいると、紹瑛の頭をがっしりと掴む手によって、いつの間にか部屋の中に引きずり込まれてしまっていた。

「えっ? えっ。あ、あの・・」

 これは一体どういう状況なんだろう? え? この人が祀汶さん?

「遅刻の言い訳は聞かないからな。今すぐ手伝え。どんだけ仕事が溜まってると思ってんだ」

 どうやら誰かと勘違いされているらしい。言い訳ではなく弁明をしようと口を開きかけたが、殺気立つ視線に押されてしまう。

「あ、あの。僕は違う――」

「早くしろ」

 慌てて祀汶の横に立つと、目の前には延々と矢が綺麗に列を成して置かれていた。

「今やってるのは神矢四千八十本の査定だ。これの厄介な所は形は全て同じだが、呪いがそれぞれ違うということだ。混合したり漏れがあったりしたら困るからな。それと扱いには十分注意しろよ。少しでも傷つけたら、その時は――」

「え? え? そ、その時は?」

「しばく」

 しば? 聞きなれない言葉に、急すぎて訳が分からない紹瑛だったが、これだけは理解した。

とりあえず下手な事はできない。

なんで自分がこんなことをしなければならないのだろうという考えすら浮かぶ間もなく、泣く泣く持ってきた神宝を部屋の隅にそっと置くと査定の補佐に取り掛かるしかなかった。


「あれ? 紹瑛様? 祀汶様の手伝いをされていらっしゃったのですか?」

 昼餉の用意ができたと嘉永が部屋に来るまで、紹瑛は山と積まれた終わりの見えない神矢に囲まれ、冷や汗を流しながら手伝いをこなしていた。嘉永の姿を見た祀汶が訝しげに紹瑛を指差す。

「ん? 嘉永、こいつ神官じゃないのか?」

 今になってようやく気づいてくれたことに紹瑛はホッとした。

「いえ、祀汶様。こちらは臥龍商から俰組平緒をお持ちくださった飈紹瑛様です」

「はあ? 俺はてっきり新しい手伝いの神官かと。そういえば、作務衣姿じゃなかったな。なら手伝いの若いのはどうした?」

「体調を崩して朝から休んでいます。こちらに回す人員が割けなかったので、その事を伝達しておいたはずなんですが」

「いや、俺は聞いていない」

 これで手伝わされた経緯は分かったが、紹瑛をじっと見た祀汶が放った一言は実に軽いものだった。

「あ――、まあそんなこともあるよな。それに言わないお前も悪い」

 謝る気はないんだなと紹瑛と嘉永は同じ感想を抱く。

「いえ、何度も言おうと思ったのですが」

 その度に祀汶の眼光に遮られたとは言えまい。そしてこの人がやっぱり祀汶さんなんだと夢であって欲しかったような現実を噛み締める。

「大丈夫ですか紹瑛様? お顔の色がすぐれませんが?」

 嘉永が心配そうにこちらを伺う。できれば祀汶に関する注意事項の一つでも教えておいてくれたらな状況は変わっていたかもしれないが全て後の祭りである。

「いえ、大丈夫です。寿命を半分位使い果たしたような気はしますが・・」

 当の祀汶は鑑定の進行が少し順調になったようで、朝のような殺気だった感じがいつの間にか薄れていた。目つきだけは相変わらず悪いが、よく見れば綺麗な額をしており、凛々しい眉を見れば聡明さが覗える。

「いや、まあむしろこいつでよかったな。わざわざめんどくさい説明しなくてもさっさと動いてくれるし、扱いにも慣れてるし。他の奴らは神宝とくるとビビってへっぴり腰になりすぎだ。怖くてこっちが見ていられない。お前の方がよっぽど使えるわ。まあ臥龍商の人間なら扱いに慣れてて当然か」

 紹瑛の頭に手を添えるとポンポンと軽く叩く。

「助かった」

 思いがけない祀汶の言葉に不覚にもウルッときてしまう。

「いえ、あの、お役に立てたか分かりませんが、少しでもお力になれたのなら良かったです」

 意外といい人なのかもしれないと思った矢先、祀汶がニッコリと微笑んだ。だが、そのあまりの胡散臭さに嫌な予感が過ぎる。

「よし、お前、えっと紹瑛だっけか? 午後からも頼むわ。お前がいれば今日中にはこれも終わるだろう。持ってきてもらった俰組平緒は明日鑑定ってことにしとくから」

「はっ? いえ、あの、それは・・・・」

 困りますと言いたかったが、腕組みした格好で頷く祀汶からは異論はないなと圧の隠った心の声が聞こえる気がする。紹瑛は天鳳宮での恐怖の一泊を覚悟したのであった。

 そのあとの昼餉には慶進や他の鑑士と同じになることはなく、結局、慶進と顔を合わせることができたのは夕食時。未だに天鳳宮にいる紹瑛に慶進も驚いたようだったが、祀汶が訳を説明すると納得した様子で朝と同様、俊敏に箸を動かしていた。

「ある程度扱いに慣れている人間が補佐をしてくれると、こちらとしても助かります。進行状況が芳しくなかったので少々焦っておりましたが、彼がいてくれれば私の負担も少しは軽くなりますし、今日だけでもと無理を言いました」

「猫の手も借りたいくらいの時期に、まさしく天の配剤だな。しかも君の補佐が務まるなんてそうそういない逸材だ。機嫌の悪い君の傍から逃げなかっただけでも大したものなのに」

 里芋の煮付けに手を伸ばしながら祀汶が相変わらずの胡散臭さで笑う。

「そうですね。いっそ、鑑定が終わるまで居てもらえるなら助かりますが」

 横で聞いていた紹瑛は思わず咳き込みそうになる。

鑑定が終わるまでって、一体いつまで? 

チラリと横目で二人を伺う。冗談じゃない。だが残念なことにまったく冗談には聞こえなかった。

「ん? そうだな。なら臥龍商の炬玖に文を出して伺ってみたらどうだ? 余程のことがない限り、宮からの協力願いを拒否することはしないと思うがな」

 それってただの脅迫なんじゃと思うが口にできない紹瑛の真横でどんどん話が進行していく。

「許しが出たら問題ないよな?」

「えっ? え、まあ、はい・・・・」

そうそう軽く自分を借り出されるのも困るが、自分が不在でも店は回るようになっている。むしろいなくてもまったく問題ない。そうすると、紹瑛がここに滞在するになんの支障もない上、鑑士に貸しを作れる機会をみすみす炬玖が見逃すわけがないのだ。

 今、自分の顔を鏡で見たら蒼白な面持ちに違いないと断言できるだろう。せっかくのご飯も味がしなかった。

「まあ、返事が来るまでの間、どのみちここから動けないからな。大丈夫だ。俺がちゃんと責任を持ってやる。それに神宝に関しては外部の人間の目にすら触れることのない代物だ。直接関係のないおまえが神宝に触れる機会なんて本来なら無いに等しい。喜べ、実に名誉なことだぞ」

 責任を持つってこんなに軽々しく口にしていい言葉だっただろうか? 

甚だ疑問に思うが、祀汶の言っている事は本当だろう。功器好きの紹瑛にとって、臥龍商よりも魅力的な場所には違いない。それを考えると祀汶を手伝う心労を伴ったとしても不利にはならないだろう。

それと夜までの間、祀汶と仕事をしていて分かったことがある。それは確かに祀汶とだと仕事がしやすいということ。

祀汶の場合は殺気さえ放っていなければ他は特に問題なく、むしろ指示している内容は基本的に分かり易い。最初の勘違いを除けば、理不尽に怒っているように見えて実はそうでもなく、自分の非をきちんと指摘してくる。仕事の効率や進行が悪いと機嫌が悪くなるのが難点だが、それについての苦手意識が定着さえしなければ誰とでもうまくやっていける鑑士ではあるのだ。問題は第一印象と口の悪さと人使いの荒らさくらいだろうか。

 紹瑛は気づいていないが、その第一関門を突破できる若手はそうそういない為、慶進が感心していたのはこの点である。

「文面は君の好きなようにしてくれてかまわないが、文を送るなら早めに手配しなさい。ところで、航閲と鄒眞はどうした? 朝から姿が見えないが?」

 全て完食した慶進が茶を啜りながら思い出したように言う。

「ん? そう言えばそうですね。でも、あの二人は普段から不規則な生活ですから、変則的になりやすいんでしょう。この前も朝と昼は顔を合わせませんでしたし」

 鑑士同士、同じ場所にいながら顔を合わせないというのも不思議なものだが、祀汶の印象が強すぎて他は一体どんな人達なのかとても気になる・・・・。気にはなるのだが、なんだか関わりたくないような気がしなくもない。

「あいつらのことだから心配する必要はないと思うが、戻るついでに様子を見てきてくれ」

 慶進にそう言われた祀汶は妙な顔をした。祀汶でもそんな表情をするのかと疑問に思っていると慶進はすぐに持ち場に戻ってしまう。するとすぐに彼はため息を一つ吐いた。しかも腹のそこから出している。その上、一言も発さないことが怖い。紹瑛が隣で縮こまっていると祀汶は無言で席を立つ。

「行くぞ」

「あ、はい」

 祀汶の後に続いてついて行くが、その間何も喋らない祀汶に対し、逆に耐えられなくなった紹瑛は様子を伺いながら聞いてみる。

「あの、残りのお二方はどんな方なんですか?」

 紹瑛の問は聞こえたはずだが、祀汶はやはり何も言わない。そのまま、ずんずんと突き進んでいくと、ある一室の前で急に止まり、また一つため息を吐く。さすがにこれ以上は声をかけずらい。あたふたしていると、祀汶は目の前の扉を開けてしまった。

 そのまま部屋に入ると二人の男が書巻を手に作業をしていた。それは一見、普通に見えたのだが、紹瑛が祀汶と一緒に彼らに近づくと、それが普通でない状況だと分かるまでに時間はかからなかった。

 そして彼らを目の当たりにした祀汶の怒りの沸点がふっ切れ、紹瑛の肝を冷したのはその三泊ほど後のことだった。

「飯時に顔出さないからわざわざてめぇの進行具合を見に来てやったのに、相変わらずふざけた真似してくれてるじゃねぇか」

 祀汶の冷えた声が室内の気温を確実に下げているにもかかわらず、目の前の二人は一向に動じる気配がない。

「え~何をそんなに怒ってるのさ。しーちゃんは相変わらずおこりんぼさんだなあ。それに先輩に向かっててめえだなんて言葉遣いはダメって前から言ってるのに。航ちゃんも何か言ってあげなよ」

「あいにく部署が違うんでな。先輩と呼ぶ義理は俺にない」

「祀汶君、この人に何を言ったところで変わりませんし、怒るだけ無駄ですよ。鄒眞さんも祀汶君をからかうのはやめてあげてください」

 鄒眞、航悦と呼ばれた二人の鑑士はこちらを一瞥しただけですぐに書簡に視線を戻す。

「いや、航悦さんもその状況で何を普通に作業してるんですか。そいつのその手を払いのけるなり、たしなめるなりしたらどうなんです。その動作を見てるだけで腹が立つんですよ」

 頭を抱えた祀汶の横で紹瑛もどう反応していいか分からずにいた。そう、何が普通でないかというと、鄒眞と呼ばれた鑑士の片方の手には書巻があるが、もう片方の手はすぐそばの航悦の尻に伸びている。さすりさすりと触りながら書簡に目を通している鄒眞も鄒眞なのだが、それを一切気にすることなく別の書巻に目を通している航悦も航悦だろう。

 鄒眞の方は宮御衣を少し着崩しており、全体的に楽な感じが口調と同様に漂っている。髪も後ろで高く結び上げ、宮御衣姿でなければ普通にそこらの街道を歩いていそうなす

かした中年に見えるが、肉厚な唇のせいなのか、性格もだが顔も異常に濃く見える。

 航悦は反対に宮御衣を隙なく着こなしているし髪もきちんと結わえてあり、切れ長の面立ちと細い目が几帳面さを際立たせていた。

「無駄だと分かっていることをしないに越したことはありません。この人は一生こんな感じなんですからしょうがないですよ」

「だからって俺の尻まで触られたらたまったもんじゃないですよ。なんであんたみたいなのが鑑士なんだ。よそでやれ、ここでするな!」

 祀汶さんも被害者なの! とびっくり仰天の事実にこの鄒眞が只者でないことだけは確からしい。 どうりで祀汶がため息を吐いたり無言だったりしたわけだ。紹瑛だって今なら祀汶の気持ちが理解できる。

「仕様書の変更改正欄に目を通してるだけなのに、怒鳴られるなんて心外だな~。それにいいじゃないか。今は君の尻触ってるわけじゃないんだし、男の君らがギャーギャ言わなくても減るもんでもないしさ。もちろん女の子の方が断然いいに決まってるけど、問題になっちゃうし。まあ、ここには女の子いないからどのみち無理だしね」

「男の俺らでも問題だ。それにあんたが視界にいるだけで腹が立つ」

 まあまあ、と航悦が二人を遮り、それよりもと続けた。

「祀汶君も、この人の冗談にいつまでも振り回されないでくださいね。それより、そちらの子はどなたなんですか? あなたが人を連れてるなんて珍しい」

 そういえばと鄒眞と航悦が揃って書簡から顔をあげて紹瑛を見る。二人から急に感心を向けられた紹瑛は祀汶と初対峙した時とは違った意味で硬直した。

「ああ、臥龍商から神宝を届けに来た飈紹瑛と言って、訳あって俺の補佐を今日してもらってたんですよ。なかなか使えるんで鑑定の進み具合が良くなりました。今からこいつんところに文出して査定期間の間、借り受けられないか打診する予定でいます」

 紹介された紹瑛は頭を下げて軽く挨拶する。

「それはよかったですね。あなたの場合、状況が悪くなると余計に焦ってさらに進行具合が悪化する癖がありますから。傍付きが優秀だと助かります」

 趨眞が紹瑛をねっとりとした視線で眺め回した。それだけでゾクリとした悪寒が走る。

「こんな可愛い子を補佐につけちゃって羨ましすぎるぞ、お前」

 可愛い子って・・・・。初めて言われたわりに嬉しくないのが悲しい。

「ねえねえ、君はいくつなの?」

 物凄く嬉しそうに質問してくる鄒眞に三歩ほど後ずさりしたくなる衝動を抑えて紹瑛は表情だけでも取り繕った。嘉永と同じ質問をされているのに答えにくいことこのうえない。

「じゅ、十六になりますけど・・」

「若いね~。今度おじさんとお茶しない?」

そしてそれを聞いた祀汶が殺気を鄒眞に向けて放った。紹瑛はさらに硬直するしかない。

「冗談でもこいつに手は出すなよ」

「あ~それは私からも言っておきましょう。こんな若い子があなたの餌食になるのは偲びないですからね」

 同感だと紹瑛も心の中で叫ぶ。何が楽しくておっさんとお茶したり、尻を触られるという状況にならなければならないのだろうか。

「しかし、焔に飈ですか。二人とも四基(しき)元姓(もとせい)ですね。珍しい。いえ、正確には三人ですが」

「あ、そうじゃん。珍しいね~。僕も四基元姓なんだよ~」

 それを聞いた祀汶が拒絶感もあらわに顔を背けた。紹瑛も「ああ」と今更ながらに気づく。

 四基元姓とは火、水、土、風の字が姓に入っている者のことを指している。他の姓と比べると珍しいことに違いはないのだが、ここで珍しいと言われたのには別の理由がある。  

四基元姓の人間はそれぞれの元姓で住む地域が固まる傾向にある為、別の元姓同士が二人以上顔を合わせることが珍しいといった意味で航悦は言ったのだ。

もう一つ補足しておけば、四基元姓の人間は自分の姓の性質にあたる神功を扱いやすい傾向があることも特徴である。

「紹介が遅れましたね。私は(しき)(こう)(えつ)、こちらのおっさんが汪鄒眞(おうすうま)と申します。こんな感じですが一応鑑士をしております。この人が特別なので鑑士に偏見を持たれないようにしてくださいね」

「なんで僕だけおっさん扱いなの? ひどいよ航ちゃん。まあいいけどさ。よろしくね~」

「は、はい。よろしくお願いします。僕のような右も左も分からない人間が関わっていいのか分からないですけど、できる限りのお手伝いはさせて頂きます」

 鄒眞は要注意そうだが、航悦なら大丈夫そうである。見た目は生真面目でお堅いように見えるが、鄒眞の奇行をモノともしていない寛容さ、いや妥協性を持ち合わせているくらいの器がありそうだ。

よかった、慶進さん以外にもまともな鑑士がいて。

思わず気が緩んだ紹瑛の視界に鑑定中の神宝が飛び込んでくる。それを捉えた瞬間、紹瑛は思わず神宝に駆け寄ってしまった。

「こ、これ・・・・」

なんて美しい形状。この曲線にこの模様、この磨き具合。初めて見た。こんな鏡があるなんて・・・・。

 突然机に駆け寄ったかと思えばそのまま作品にほぅ、と見惚れる紹瑛に三人の鑑士は思わず目を丸くする。

「あれ? 紹瑛君ってこんな感じの子なんですか?」

「いや、俺も知らなかったです。あーでも確かに査定中ボーッとしている時があったので怒った記憶ありますけど、今思えば神宝に見惚れてたんですかね」

「そうなんだ。神宝をダシにしたらお茶してくれるかな?」

「あの様子だと承諾しそうで怖いですね」

「ですね」

 そんな三人を置き去りにしたまま昇天している紹瑛の脳天を祀汶が軽く衝撃を与える。

「おい、こら。いい加減戻ってこい。神宝の前で精神を飛ばすな」

 呆れたような視線が紹瑛の羞恥心を呼び戻す。

「い、痛い。す、すいません。癖でつい・・・・」

 頭を抱えながら思わず謝ってしまう。気が抜けたせいだろうか。

自分でも思っていなかった事態にしどろもどろになっていると、そんな紹瑛を見た航悦が傍まで来て神宝を見下ろした。机の上には三十一面の鏡が連なっている。

「癖ですか。面白いですね君。これは御鏡(みかがみ)と言う俰鏡様式の神宝です。この背文の文様は(へら)()しして鋳型を作っているんですが、鋳造技法を用いて一面ごとに型挽きして作ります。あなたの言うように神宝の中でも代表的に美しい作品の一つです。調整者は角旙(かくはん)。釜師として右に出る者はいないと言われている方ですが、臥龍商の人間なら、あなたももちろんご存知では?」

「あの、名茶釜師の方ですか。うちでもあの方の作品は滅多に取り扱っていません」

 改めて見直せばやはり見惚れてしまう。机上の御鏡は鳳凰と牡丹の文様が美しく陰刻され、鍍金(ときん)を施され磨きあげられた白銅は洗礼された輝きを放つ。

「これはもう済んでしまったんですか?」

 祀汶が鄒眞とできるだけ離れた形で航悦に寄る。鄒眞はその様子を見ても嬉しそうな顔をしているので、航悦の言うとおり何をしても無駄なのだろう。

「ええ、もう済んでいます。あとはこの御鏡を収める轆轤筥(ろくろばこ)が残っていますが、そちらもほぼ完了です。息抜きついでに、次に鑑定する神宝類の仕様書変更改正項目の確認を行っていたのですけれど、意外に増えていて、ついつい没頭してしまいました。おかげで、ご飯をまた食べ損ねてしまいましたよ」

 どうりで顔を合わせなかったはずである。祀汶が不規則だと言っていたが、その習慣が染み付いてしまっているらしい。一食二食抜いても平気そうな顔をしている。

「前回に比べてだいぶ増えているのは確かですね。あまりいいことではありませんが、次回はさらに増えていそうで心苦しいです」

 祀汶が深刻そうな面持ちに変わる。そんなにまずいことなのだろうかと、つい気になってしまった。

「あの、変更改正と言うのはどういった事なのでしょうか?」

 疑問をそのまま口にしてみる。紹瑛の質問は思いのほか関心を買ったらしい。二人で代わる代わる説明してくれた。

「神宝の新調、まあ調整だな。それは決められた規定に基づいて寸分の狂いもなく作らなければならないことを差す。仕様書の通りに作るだけのことだが、古来の技法を変えることなく作ることは実は難しいんだ。それはお前も家の商売上知っている部分もあるとは思うが、特にこの神宝に使われる技術や材料などは他のものと比べても格段に違う」

 後継者の不足が深刻なのはどの世界にもある。確かに、臥龍商が扱っていた品を作る工芸元や窯元が後継者不足によりそのまま途絶えてしまうことも話には聞く。

「神宝調整者と呼ばれる技術者達はそれぞれの分野において最高級の匠達が顔を揃えています。しかも一つの神宝に対して複数の職人が関わり作り上げる物も数多い。その技術全てを長い年月をかけて伝承していくことはそう簡単ではありません。材料も同じく、使われているものはどれも最高級の素材になりますが、自然形態と神功の均衡も一昔前と比べれば、だいぶ変わってきています。ですから入手困難になってきた原材料が増えているのが現状なんですよ」

 遷宮は千年以上前から続いていると嘉永の話の中に入っていたのを思い出す。

「まあ古式のままでの新調をできるだけ貫くのが御朋神宝の伝統だが、材料の確保や伝統技術の継承に難がある場合には、改正を余儀なくされる。ようは、さっきまであのおっさんや航悦さんが見ていた書巻が前回の新調から変更改正された内容で、今回は特にそれが増えているって話だ」

「鑑定する際にどうしても必要になりますから目を通しておかないといけないのです。紹瑛君も祀汶君の手伝いをするなら知っておいて損はないと思いましたので教えました」

 そんな話を聞いてしまえば前に祀汶を手伝っていた若い神官が緊張して補佐しにくかったことも頷ける。値段もつけられないような神宝類を素人に急に扱えといっても無理な話なのだ。

「頑張ってね、紹ちゃん。その様子だと君は鑑定終わるまでここにいそうだからさ。しーちゃんは見た目怖いけど実は優しい子なんだよ」

 ニヤニヤとした顔のまま鄒眞が言うと祀汶がさっそく「てめー」と叫ぶ。紹ちゃんと呼ばれ、ふと姉の華凛を思い出すが、呼んだ人間を見て現実を噛み締めた。

なんだかんだで全員の鑑士とこれで顔合わせを紹瑛は無事? に終えたのだった。

 そして鄒眞の言葉どおり炬玖から返答の文が早々と届き、紹瑛はそのまま天鳳宮に居座る羽目になるのである。

「お前の父親最高だな。お好きなだけ息子は使っていただいて構いませんって簡潔に書かれてあったのには笑えるわ」

「いや、笑えないですから・・・・」

 その言葉通り朝から晩まで祀汶にこき使われることとなったのである。


小憩


天鳳宮の北御門口から入る参道。風に乗って微かに笛の音が聞こえてくる。決して僻地ではない場所にも関わらず清閑な地。ここでは大木や森が結界の役割を果たしている。

どこを歩いても神功が満ち、本来の姿を取り戻していくような気がする。紹瑛は嘉永に天鳳宮を案内してもらっていた。一通り鑑定の目処がついたからである。

嘉永はゆっくりした歩調を狂わせることなく、それと同じような口調で様々な場所を説明してくれた。

「紹瑛様は神舞楽を御覧になったことはありますでしょうか?」

ちょうど神楽殿に差し掛かった所だった。

「残念ながら拝見したことはないですね」

「そうですか。ここで奉納される舞も様々ありますが、どれか一つでも御覧になられる機会があればよろしいですね」

微かだった笛の音が今は耳に強く響く。天鳳宮で奉納される舞楽は「神遊び」とも言い、その舞は広くに名を馳せる。

「そうですね。是非一度見てみたいです」

残念ながら全ての仕事が終わったわけではないが、ほぼ査定は終わりに近い。残りはまだ天鳳宮に届いていない神宝類だけだった。そんなこんなで不眠不休だが、気を利かせて嘉永が天鳳宮を案内すると言って、紹瑛を連れ出してくれたのだった。

さすがの祀汶や慶進達も疲れが出たのか、今は休んでいる。特に神官達は疲れの色が濃く、もはや屍と化した彼らは、目の下に隅を作ってはいても起きている者はまだいいほうで、いたるところで倒れていたり、魂魄が宙をさ迷っていたりという有様であった。

そんな中、なぜか嘉永と紹瑛だけはいつもとまったく変わらずにいた為、周りから化け物呼ばわりさるという不名誉に輝き、祀汶から大笑いされてしまった。

紹瑛の場合、ただ単に若さと、日頃から寝る間も惜しんで功器を愛でるのに没頭していた習慣のせいで、このくらい慣れているだけの事だったのだが・・。

しかし嘉永の元気さには驚かされた。宮の神官は朝も早いが、嘉永は新調業務と鑑士の世話に従事しているせいで倒れる暇さえない。皆、疲れているのは変わらないが嘉永は特に疲弊していてもおかしくないと思う。しかし、そんな様子は一切見せない。

元々、体力の他に気力が他の人より多いのかもしれないなと考えた。

ここは神功の気に満ち溢れる場所でもある。気を使った分、すぐに補われる様な感覚を紹瑛も感じていた。やはり特別な地なのだと実感させられる。

「ここは本当に神功が溢れていますね。気持ちがいいです」

そういう場所なんですと誇らしそうに嘉永は笑う。「ですが」と、少し苦笑気味になった。

「最近はこの満ちた神功の力を授かるために訪れる方が多くなりまして、参拝される方は増えたのですが、こちらとしては素直に頷けないものがあります。受ける為だけに訪れてほしくないと言いますか・・・」

「そうなんですか。でもそれはそうですよね。宮は神を祀る場所。崇敬し祈りを捧げる所ですから、本来のお宮の存在意義を忘れないで頂きたいのでしょう?」

古木の楠が風に揺れる。緑の隙間から覗く晴天。風が二人の周りを通り過ぎていく。

「紹瑛様のようなお若い方が、そこまで分かっていて下さるのなら、私も安心です」 

 嬉しそうに微笑んだ嘉永。神官なのだなと改めて思う。

 また風が通り抜けていく。木漏れ日が揺れ、緩やかな石段をそっと照らしだす。しばらく穏やかさとは無縁の生活が続いていたので、余計に心地よく感じてしまうのだろうか。ただ訪れたくなる気持ちも分からなくは無い。

 しばらく二人で静かに歩いていると道の先に作務衣を着た男が一人、掃除をしていた。

燕泉(えんせん)さん、お疲れ様です。いつも綺麗にしていただきありがとうございます」

「おや、嘉永さんじゃないですか。お珍しい。こちらまで来られるのは久しぶりでございますね」

 燕泉と呼ばれた男は、ほんわりとした顔でにこにこと笑いながら、掃除の手を止めた。

「えぇ、まだ忙しいのですが、こちらの方と一緒に少しだけ息抜きをしに」

「そうでしたか。散歩は体にも心にもいいですからな」

 掃除の邪魔にならないよう、それだけ会話を交えると紹瑛も挨拶だけして先に進んだ。

燕泉も「どうも」と言ってすぐに掃除を再開しだす。この天鳳宮の静な雰囲気にとても合っているような人物だった。

「ここは土地が広いので清掃や手入れをするのにも一苦労です。私達だけではとでもではないですが手が回りません。神苑を管理してくださる方々には本当に頭が上がらないです」

 振り返ればすでに遠くの後方で掃き掃除を丹念に行っている彼の姿がまだ見えた。

「このお宮は多くの方に支えられているのですね」

 それを聞いた嘉永は嬉しそうに頷いた。

「しかし今回の新調にはまいりました。紹瑛様も急にお手伝いされることになって驚かれたでしょう」

「仕方ありませんよね。でも、いい機会になったと思っています。嘉永さんとも知り合えましたし、鑑士の皆さんとも一緒に仕事をさせていただけて、けっこう楽しかったですよ」

「鑑定が終了してしまえば紹瑛様も戻られてしまいますね。寂しくなります」

 名残惜しそうに呟く嘉永の言葉に紹瑛も同じ気分になる。

「参拝しにまた来ます。嘉永さんにも会いに来ますね」

「嬉しいことをおっしゃってくださいますね。ではお約束ですよ」

「はい。それに慶進さんや祀汶さん達はまだ残られるんですよね?」

「ええ、桐奉(とうほう)(わたし)まではいらっしゃるそうですよ」

「桐奉渡ですか? すみません。それはどのような儀式なのですか?」

「申し訳ありません。説明が足りませんでしたね。桐奉渡とは、遷宮で納められる新しい御朋神宝を神殿に納める儀式を言います。神宝は正殿に納められる際に青桐でできた箱に収めてから奉納する。つまり天鳳様にお渡しするので桐奉渡と言います。天鳳宮の正殿から見て東に鳳凰山があることから東方(とうほう)(わたし)と掛けているとの言い伝えもございます。そして、納められていた前の神宝類は桐奉渡が終わると撤下し、御古殿(ごこでん)にさらに収められ、納められていた前々回の神宝は、そこから出されると、その全てを燃やしたり壊したりして土に埋めてしまい、その役目を終えるのが慣例となっています」

「徹下した神宝をわざわざ御古殿に一度納めるのですか?」

「ええ。御古殿に納められている役目を終えた神宝を基に毎回仕様書を作成するのです。そのためのわざわざなのですよ」

 嘉永が長々と説明している内に奥地泉に足を踏み入れていたのだろう。視界が開け、景色が急に一変した。京紫の花々が艶やかに主張し合っている様が目に触れる。静寂さの中に自然の音が時折混じり、悠然とした時が流れていくのを目の当たりにしているようで、和みの境地であった。

「絶勝ですね。誠龍にある多くの名園にも引けを取らない美しさです」

「気に入っていただけてなによりです。私もここの景色を四季折々に眺めるのが楽しみの一つなんですよ」

 二人で景色を眺めながら、ゆっくりと池沿いの道に従って歩いていく。不意に妙な違和感が紹瑛の全身を包み込んだ。不快なほどではないが、思わず眉を顰めてしまう。

 急に会話が途切れたことで嘉永が眉を寄せた。

「どうかされましたか?」

「いえ、大したことは。ちょっと悪寒が・・・・」

 疲れでも出たのかと思ったのだが、まるでゆっくりと吸い込まれるように、視線が右へと移る。風に誘われて、流れるように見たその先には色濃く深い緑と微かに揺れる紫色。別段変わらぬ景色だったが、急に目の前の景色がぐにゃりと曲がったように見えた。思わずくらっとしてしまい、しゃがみ込む。何気に疲労が溜まっているのだろう。嘉永が慌てて紹瑛の顔を覗き込む。

「大丈夫ですか? 眩暈でもされましたか?」

「疲れが出てきたのかもしれません」

「遠くまで来過ぎてしまいましたね。戻られてお休みになられた方がよろしいかもしれません」

「いえ、大丈夫です。ちょっとだけ目にきただけみたいですから」

 クラリと来た感覚がすでにないのを確かめると嘉永に手伝ってもらい立ち上がる。

「・・・・そうですか。ですが、すこし休まれたほうがよろしいでしょうね」

 嘉永が紹瑛を見て少し考えると、思いついたように言った。

「そうです、お茶などいかがですか?」

 お茶? と一瞬思ったが、そういえば神祇庁のそばに茶室があると聞いた事を思い出す。天鳳宮の茶室は茶人達の間でもかなり定評があると祀汶が言っていた。だが、特別な神事などがない限り出入りできないと聞いている。確かに一度は拝見してみたい。

「私ども自慢の茶室になります。よろしければお茶をさしあげたく思います」

「いいんですか?」

 是非にと嘉永が勧めるので、紹瑛達はもと来た道を引き返した。相手が嘉永ならお茶に誘われても二つ返事で返せると言うものだ。

「本来でしたら一般の参拝者などは入れない茶室になりますが、紹瑛様は手助けしてくださったお礼がありますので特別ですよ」

嘉永に案内された場所は神祇庁近くの木立の中に建っていた。茶室はうっすら青々とした紅葉木に囲まれ、悠然たる佇まいを隠すかのような場所である。露地口から中に入り、飛び石を辿りながら着いた先の広間に一歩足を踏み入れると、床の間には白丁花が入れられており、まだ開ききっていない花弁の内側に見え隠れする白さにふと目を奪われた。そこに目が行くほど質素な造りの茶室の洗練さに飲まれそうになる。これなら確かに、一度はここで茶を点ててみたいと思う気持ちも分かると言うものだ。

少し緊張しながらもどこに落ち着いていいのか分からず、紹瑛は茶室の隅に突っ立ったまま、嘉永に恐る恐る聞いてみた。

「嘉永さん、あの・・ 今更なんですが、僕は茶席にお招きいただいた経験がないので、簡単な知識くらいしか持ち合わせていません。それでも大丈夫ですか?」

 そんな様子をみた嘉永は笑って紹瑛を客畳の位置に座らせてくれる。姉の華凛に少し習っておけばよかったと悔やんだ。

「私と紹瑛様しかおりませんから、ご心配無用です。作法など気にされなくてよろしいですよ。私も基本的な事しかできませんので楽になさってください」

 そう言いながら大きなお盆を運び出してくると、丁寧かつ手際よく茶を点てていく。

「正式な席ではありませんので、お盆点てにしました。どうぞ」

 すっと差し出された茶碗を見て紹瑛は感嘆する。これは―― !

「名人・(ふく)(らく)の黒楽茶碗ですね。うちでもいくつかこの方の作品を取り扱っています。茶の理想である、冷・凍・寂・枯の世界を追求したときに、茶碗の理想を目指した過程で生まれた楽焼茶碗。その中の黒楽。装飾性がない分、簡素な造形にその美しさが投影される、ごまかしのきかない一品。この手づくね技法になんど魅せられたか分かりません。しかも福楽の楽茶碗は茶人の好みに完璧に合わせつつも、福楽としての芸術性をとことん表現することで有名な方だと聞いています。家でもたまに眺めていたんですが、これもまた素晴らしい作品ですね」

 一瞬惚けそうになりはしたが、ここはぐっとこらえる。それと同時に嘉永が目を瞬かせて感心した。

「さすが、よくご存知ですね。鑑士の方々に引けをとらないくらいお詳しいではないですか?」

「と、とんでもないです。僕の知識は偏っている部分がけっこうありますから。たまたま福楽は好きな匠の一人なんです。福楽は名前の一字である『福』を基本表現に置き、呪いも『福』を中心として施されています。使う人を幸せにしたいと願う彼の作品は多くの人々に愛され続けている名作で、だから一目見てわかったんです」

 優しくなでるように感触を確かめた。茶を入れた時の温度と鮮度をそのまま保てるよう呪いが施されている。呪い自体はそこまで珍しいものではないが、呪いの組み合わせの中に『福』が上手に組み込まれているので、茶碗に入れられた物に上質な神功が集まると『福』に反応し、使う者を元気にさせるよう工夫されている。

「どうぞ。どちらからでもお好きなように頂いてください」

 そう言われ、お茶と共に出された生菓子から先に紹瑛は口に運ぶ。そうすることで後から飲むお茶の味がきわ立つ為だと姉の華凛から聞いた事はなんとか覚えていた。

 白餡に練りこまれた青梅の甘酸っぱさが餡の甘さと調和して口に広がっていく。見目も季節に伴うさっぱりとした薄緑色で、食べるのがもったいないほどだった。

 次にゆっくりとお茶を飲み干すと、茶の濃厚な香りが体中を満たし、苦味の少ないほのかな甘味が口に残る。

「やはり名品でいただくお茶は格別です。濃茶で出されたのは、この黒楽茶碗の黒に濃い緑が一番映えるからですか?」

「私の勝手な演出です。この黒にはこの緑が一番合いますから。いつもでしたら薄茶をお出しするようにしているのですが、濃茶はこの黒楽茶碗で出すようにしております。それと、この茶碗で紹瑛様にお茶を頂いてほしかったのですよ。気分のほうはいかがですか?」

 ああ、それでわざわざと紹瑛も納得した。病になら効かないかもしれないが疲れになら、この茶碗の効能が有効だったからだろう。

「甘い物は疲れに効くと言いますし、唐突ながらお茶をさしあげることを勧めさせて頂きました」

「心配して頂きありがとうございます。大分落ち着きました」

 紹瑛の顔をまじまじと見て嘉永は軽く頷いた。

「ああ、先程よりお顔の色も良くなられましたね。よかったです」

 安堵した嘉永は道具類をさっと片付けてしまうと、二人はゆっくりとした足取りで神祇庁へ戻った。神官達が死にそうな顔をしながらも動き出している。祀汶達が休憩している部屋へ帰ってみると、まだ皆寛いでいた。

「おかえり紹ちゃん。天鳳宮の探検はどうだった?」

「はい、楽しませていただきました」

「なんか面白いものあったかい?」

 何かをすごく期待しているかの様に身を乗り出して聞いてくる。なぜそこまで興味深深なのかよく分からないうえに、まるで子供が今日のおやつがあるのかどうか聞いているような顔だ。祀汶に習い鄒眞との間隔をできるだけ一定に保つ。

「そうですね・・・・多分ご期待に副えるようなものは特になかったと思いますが」

「それは残念。実は、ここ天鳳宮にどんな願いでも叶えてくれる鏡がひっそりと祀られてる秘密の場所がある、なんて有名な噂があるんだよね。それらしき場所があったら教えてもらおうと思ってたんだけどなあ」

 いかにも子供が好きそうな話だが、大の大人がまともに請合うような話ではない。そんな噂を本気で信じているんですかと言おうとした矢先、それを聞いた嘉永がくすくすと笑った。本当に可笑しかったのだろう。喉からではなく腹から笑っている。

「その噂は確かに有名ですが、ここに勤めて十年以上そのような場所や鏡など影も形も見かけたことはございません」

「そうなの? それは残念。まあ別にいいんだけどさ。ところでどこを周って来たのかな?」

「天鳳宮内を一周してきました。最後は近くの茶室でお茶も頂いてしまいましたよ」

「そっか、良かったね。でも、よく広い宮内を歩き回る元気が残ってるなぁ。おじさん関心しちゃうよ。やっぱり十代は違うね」

 紹瑛をまじまじと眺めながら何度も頷く。普段の言動は本当に子供みたいな人だ。だが、その言動や見た目とは全くの裏腹に、趨眞の仕事ぶりは文句のつけようがなかった。それは航悦も同じで二人には補佐である神官がついていない。お互いがお互いを補いながら仕事をするのが性にあっているらしい。

 部屋を見回すと慶進はどうやら別室で仮眠中らしく、祀汶は隅の壁にもたれかかってウトウトしており、航悦は椅子に座って書巻に目を通していた。

「ん~やっぱり、ただ功器の鑑定だけに没頭できるのも悪くないよねぇ。僕らは常に神経を尖らせて仕事してるから、こういう時間もたまには必要だよ。殺伐としたのは性に合わないのに、なんで違法功器の取り締まりなんかにまわされちゃったかなぁ」

 趨眞が背を伸ばしながら嘆く。

「今更言っても無駄ですよ」

 航悦がすかさず一言入れる。そう言えば祀汶が部署が違うと言っていたが、一体鄒眞達は何をしているのか謎である。鑑士の存在は有名ではあるが、実際どのような仕事をしているのか知っている者は少ない。

「祀汶さんとは別に仕事をされているんですよね?」

「そう。僕と航ちゃんは国が定めた法に違反している功器の売買を取り締まったり、盗まれた功器の行方を追って回収したりするのが仕事なんだ。慶進様としーちゃんは宮に納められる功器の管理が主な仕事だから部署が全く違うんだよ。まさか一緒に仕事することになるなんて思っても見なかったね」

 つまり、本来顔を合わせることのない面子がここに揃っているのだ。なら自分が混ざっていてもあまり違和感がなかったかもしれない。

「じゃあ紹ちゃんに一つ豆知識。僕達みたいに違法功器の取り締まりなんかを担当している鑑士の事は、監視する監と書いて別名監士(らんし)と言うんだ~」

 趨眞は相変わらす軽い口調で簡単に言ってしまっているが、監士は科試以外にも超試と呼ばれる試験があり、鑑士の中でもさらに優秀な者しかなれない猛者だったりする。  

「本当はなりなくなかったんだけど、監士のお偉いさんに目をつけられて無理やり・・ね」

「それは・・ きっと優秀な証拠なんですよ」

 心中ではあまり思ってもいないことだが、一応褒めておく。

「だといいけどね。でもやっぱり慶進様とか祀汶が羨ましいよ。でも紹ちゃんだって大変だよね。客に無理難題を押し付けられたりするでしょ?」

「はあ、まあ、たまにありますけど、僕の場合は接客に向いていないみたいなので、そちらをまず改善するほうに苦労しています」

 それを聞いた鄒眞も航悦も声を揃えて「ああ」と納得する。

「君、自分の世界に突っ走るもんね。客を置き去りにしてそう」

 笑いながら言われてしまったが、実際に否定できない。実に的を得ている。店に出ている時だと気疲れが多いが、天鳳宮での手伝いは意外にも気持ちの面では楽だったことを今更ながら振り返った。 

最初は祀汶と一緒にいるのも一苦労かと思われたが、結局そんなこともなくすぐに慣れてしまったので紹瑛にとっては楽しい時間を過ごせていたのだろう。

「今回皆さんと一緒にお仕事をさせていただいて良かったと思っています。大変勉強になりました。これからは、お宮での納品を任されることもあると思いますので、その時はよろしくお願いします」

 頭を下げると航悦が目を細めて笑う。

「そうですね。臥龍商なら慶進様や祀汶君に会う機会もあるでしょうしね。ただ、私達とはもうそれも無いでしょうが・・」

「えっ、そうなんですか?」

 確かに功器の取締などをしているなら臥龍商と関わる可能性はほぼ無い。

「僕達さ、普段宮にいないもんだから、実はこの宮御衣姿になるのも稀でね。逆にこの格好が新鮮なんだ。普段着慣れないから窮屈で仕方ないんだけど、航ちゃんはよくそんなにきっちり着こなせるよね、感心しちゃうな」

「むしろ宮御衣をそのように着こなす趨眞さんの方がよほど感心させられます。玉琴(ぎょくきん)様に叱責されても知りませんよ」

「玉琴姉様の怒った姿もいいよね。一度でいいからあの綺麗な御御足で踏――」

 ヒューンと紹瑛の目の前を鏑矢が飛んでいくのが見え、趨眞の眉間に見事に命中した。

「痛っ・・・・い、航ちゃん・・」

「未成年の前で、それ以上は禁句ですよ趨眞さん」

「ふ?」

 どうやら手近に飾られてあった破魔矢を投げたらしい。鏑矢だった為、先端の鏑に当たり余計に痛かったようだった。

「さすが。命中率は完璧だね」

 額を押さえつつもやはりうれしそうな声は変わらない。航悦でないと鄒眞と一緒の仕事は支障が出そうである。

「お二人は仲がいいですよね」

「ああ、話してなかったよね。僕達監士は必ず二人組みで行動するようになってるんだ。僕と航ちゃんは相方歴二年。今まで組んだ中では相性抜群だね」

 自慢げに趨眞が説明している向こうで航悦は疲労が顔に充満したような表情に変わる。

「私は今まで組んだ中で相性は最悪だと思ってます」

「ひどいな航ちゃん。僕ら業績上位なのにその言い方」

 年甲斐にもなく、ぷくっとふくれっ面になった趨眞をよそに航悦はついに眉間にしわを寄せた。

「そうですね。いままでの無茶ぶりを思えば、いくら業績を上げても命がいくつあっても足りませんし、寿命が短くなっていくばかりです」

一体どんな無茶をしてきたのかまではさすがに聞かないほうがいいように思えたので、話題を変えようと試みた。

「そ、そういえば、先ほどお話に出て来ました玉琴様とは、名前からして女性鑑士の方ですよね?」

 鑑士にはやはり女性鑑士も存在する。名前からするに、その内の一人であることには間違いないだろう。

「ええ。数少ない女性鑑士で私達の上司です。大変優秀な方ですよ」

「素敵な方だよ。僕だけじゃなくて、航ちゃんだって玉琴姉様のことすごく慕ってるし。既婚だけど、男は皆惚れちゃうんじゃないかな。紹ちゃんも一度会えたらいいね」

 航悦は誇らしげに、趨眞は惚けたように彼女のことを言う。部下にそこまで思われているとはさぞや彼女も本望であろう。

「鑑士と言っても監士である私達は宮で仕事をほとんどいたしませんので、顔や名前はあまり知られていない者が多いです。ですから玉琴様も女性ではありますが宮鑑士の中ではあまり知られていない存在ですね」

「ぜひお会いしてみたいです」

「会いたい? ふふ、でもお姉様は僕達より忙しい方だからね。実は部下の僕等でも滅多に会えないんだよ」

 趨眞が横に大きく手を振りながら苦笑する。航悦も同意見らしく深く頷いた。それを見る限りではまず会うことはない人物であろう。すこし残念ではある。

「あんたが部下なんて、その方も大変だな。俺なら死んでも上司なんて御免だ」

 いつの間にか覚醒したのか、祀汶が大きなあくびをしながら会話に入ってきた。

「祀汶さん、まだ休んでいなくていいんですか?」

 見るとまだ充血したままなので、目の疲れは取れていないようである。

「ああ、もういい。どうせ全て終わるまで気が抜けないんだ。横になれただけで十分だな」

 空いている椅子にどっかりと座ると首を回しながら肩を鳴らす。背丈は伸び盛りの紹瑛よりも少し高いくらいなので、そこまで大きくないのだが、どこか頼もしさを漂わせる体格をしている。祀汶の場合、体力よりも精神面に負担が掛かっているだけのように見えるのだ。それを不思議だと紹瑛は前々から思っていた。

「最後まで大変ですよね。でも、鑑定もあと数日で終わりますし、僕は先に帰らせていただきますけど、皆さんもここでの業務は残りあとわずかですよね――」

 急に部屋の外から大きな足音の迫る音がした。つかの間の休息は急に破られる。

「お休みのところ失礼します」

嘉永が血相を変えて部屋に飛び込んできた事態に皆目を丸くする。およそそんなことをする人間でないことは、ここに滞在した少々の期間でも知れるように、嘉永が蒼白な顔をして取り乱した姿を見る機会が来るなどと誰が予想しただろうか。

「神宝が・・・」

 カラカラに渇いた声だけがその場に響き渡る。何事かと息を飲んだ次の瞬間、同じく驚愕した顔になるのに時間はかからなかった。

「神宝が・・盗まれました」

 その一言でその場の全員が目を見張った。

「はっ? どういうことだ? 盗まれた?」

 祀汶、航悦、鄒眞はその場ですぐに立ち上がる。

「古御殿に収めてありました神宝が、盗まれておりました。他も確認したのですが、今鑑定中の神宝と御正殿に納めてありました神宝類は無事でございます」

「古御殿の神宝が盗まれたのですか? まさか全てではないでしょうね?」

 航悦の眉が寄る。それを聞いた嘉永は首を横に振った。

「いいえ。全てではないようです。私も先ほどその知らせを聞き、そのままこちらへ参りましたので、何が盗まれているかはまだ――」

 それを聞いた鄒眞が手を合わせ音を鳴らす。

「なら、すぐ古御殿に行こう。それなら僕らの本業だ。ね、航ちゃん」

 こんな事態に陥っても笑みは変わらず浮かべたままの鄒眞が少しだけ頼もしく見える。

「なら俺は、先に慶進様にこのことを伝えて待機していただくようお願いしてきます。ここを離れてしまえば、残りの神宝鑑定に支障をきたしますし、あの方はそのほうがいいでしょうから」

 それを聞いた航悦も鄒眞も頷いて嘉永と共に部屋を飛び出していく。どうしていいか分からない突発的な緊急事態に慌てふためく紹瑛の頭を祀汶が軽く引っ叩いた。

「お前もぼさっとしてないで行くぞ」

「えぇ?」

 祀汶に気圧されるのはいつものことなので、そのままの勢いに乗せられた紹瑛はすぐに部屋を出る。仮眠をとっていた慶進を叩き起した祀汶は詳細を伝えた。

 不思議なことに慶進はその知らせを聞いても驚いた顔を微塵にも見せはしなかった。ほんの僅かに目を見開いただけで「そうか」と一言こぼす。そのまますぐに祀汶は紹瑛を連れて御古殿へと向かった。

「あの、慶進さんはなぜあのように落ち着いていらっしゃったのでしょうか?」

 紹瑛にはそれが不思議でたまらない。走りながら目の前の祀汶に聞いてみる。その問いに声を張り上げて祀汶は答えた。

「ああ、慶進様だからだ。あの方はちょっと珍しい方でな。慶進様の担当する案件は何の因果か難事がよく発生するんだ。でもなぜか毎回机に座っているだけで、その難事は大事に発展することなく、最後は無事に終わっているっていう不可思議な方なんだよ。鑑士の間では落着の御仁とも呼ばれている」

 だから「あの方はそのほうがいい」と言い切ったのだろう。だが、それに感心している暇はなく、どよめいたざわめきが前方から聞こえてくる。

 すでに古御殿の前には慌てふためいた神官達が群れをなしていた。鬱陶しそうな表情で祀汶はその中をかき分けて進み、紹瑛は圧迫されそうになりながらもその背中を追う。古御殿の扉までようやくたどり着くと、中から航悦が出てきた。

「どうですか? 現状は?」

「どうもなにも、確かに神宝が無くなっていますね。あなたも見ますか?」

 そう言われ、祀汶と紹瑛は古御殿の中に足を踏み入れた。灯りのない御古殿の中は扉の外からの光だけではやや薄暗いが、持ち込まれた提灯の灯りでユラユラと照らし出された内部の光景。そこには神宝が入れられた桐箱が並んでいた。

「全ての箱の中を確認してみたんだけどね。一つだけ無くなっている神宝があったよ。なぜかたった一つだけね」

 肩で息をついた鄒眞が苦笑いをする。祀汶の後ろでその様子を見守っていた紹瑛は、今までに無い彼らの深刻な表情に手の先からグッと冷えるような心地がした。

「いったい何が無くなっていたんですか?」

「――――」

 航悦が大きく息を吐き、少し間をおいて答えたる。

(おう)太刀(たち)・・です」

 それを聞いた祀汶がごくりと息を飲むのがやけに響いた。

「あの重装麗美な太刀をか・・・・」

 紹瑛はさらに悪寒が増す。

「それって、六十柄納められる太刀の中でも一番豪華な装飾がなされている太刀のことですよね?」

 恐る恐る聞いてみると航悦が僅かに頷いた。やはりそうかと確信する。慶進がその太刀を鑑定していた際、たまたまその場に祀汶と紹瑛も居合わせていた。おかげで、どの太刀のことを指しているのか紹瑛にも分かる。美しいと呼称するにあれほどふさわしい太刀があるだろうかと思った刀。目を閉じればその映像が鮮明に思い出せるほど印象的な神宝だった。

「まいったね。ここから盗まれるなんてことがあるなんて、思いもしなかったよ」

 辺りを見回した趨眞は力なく首を振る。

「ここはいったん警衛の者達に任せて神祇庁に戻りましょう。慶進様に報告を」

 チリッと炎が弾ける音と共に、四人の顔を照らし出す提灯の灯りがボワッと妖しく揺らめいた。

 神祇庁で待機していた慶進はことの経緯を聞くと静かに目を閉じる。

「私が最後に確認したのは神庫の火災で燃えた仕様書を数枚書き直す為、造営神宝使として再度、御古殿に参向した時だったな。あのときまでは確かにあった。それが七年前だ。そこから今に至るまでのどこかで盗まれたとなると・・・・」

 祀汶が慶進の言葉を遮るように声を上げる。

「ですが、ありえないことです。神宝が納められる社殿全てには強力な結界が張られていますし、扉を開ける鍵も、天鳳宮の代表神官三人がそれぞれ許可を出さない限り持ち出すことすらできないようになっているのですよ。無理やり結界を破壊した様子も無いですし、中に入る際は必ず立会いの神官が三名以上は付き添います。持ち出すことなど不可能です―― !」

 はいはい、と今度は趨眞が祀汶の勢いを宥めた。祀汶は趨眞を睨みつけるが、相手が相手なので効果はあまり無い。

「しーちゃん落ち着いてよ。睨んでも駄目。現に無くなってるのは事実なんだから、持ち出すことはありえないことではないんだろうね。問題はなぜ凰ノ太刀だけがなくなっているのかということと、どうやって、いつ持ち出されたのかを僕らで明らかにしないといけない。そして、なんとしてでも取り戻さないといけないということ。遷宮が始まる前に――ね」

 この取り戻すとは自分達だけを意味していた。天鳳宮から早馬を出しても、宮からの応援が到着するのは遷宮が始まるぎりぎり前。それまで待つという選択肢はこの場合ない。

唯一の救いは監士である趨眞と航悦の二人がいることだった。だが四人の重い空気にそれがどれほど厳しいかヒシヒシと伝わってくる。そこへ嘉永が部屋に入ってきた。

「このような事態に皆様を巻き込んでしまい、大変申し訳ございません。どのように御詫びをしてよいか――」

 嘉永の顔は盗まれた知らせをしに来たときより悪くなっていた。それを見て紹瑛の胸は締め付けられるように痛む。

 神宝が無くなっていたのに気づいた時の状況を報告に来た嘉永は、それでも淡々とその時の事を説明してくれた。

 遷宮前に御正殿と御古殿の内部清掃をするのが毎回の慣例らしく、今日がその日だったということ。清掃をしていた数人の神官の内の一人が桐箱の蓋が僅かに開いていることに気づき、確認してみたところ中身が空になっていたのが神宝盗難発覚の経緯だった。

「でも何で凰ノ太刀なんだろうね? 他の神宝には一切手をつけていないし。目的がわからないなあ」

 趨眞の呟くような言葉に慶進が答える。

「だが神宝の中でも壮麗優美として名高い、技術的にも美術的にも最高峰と称される太刀だ。例えば、どれか一つ選んで持っていけるとしたら私もそうするだろうね」

「ですが、盗み出せるのなら太刀一振りだけ持ち出されたというのもおかしな話です。他の神宝とて、値のつけられないほどの物ばかり。太刀よりも持ち出しやすい神宝がいくつもある中で凰ノ太刀のみを持って行くことに何の意味があるのか、検討もつきません」

 確かに、と航悦の言葉に皆頷く。前代未聞の事態に神官達の動揺は収まりがつかず、嘉永や他の神官が収拾の為あちこち奔走している間に、こちらはこちらで推測や考察を測っていた。

「しいて言うなら、凰ノ太刀しか必要ではなかったということになります。盗み出した者にしか分からない何か理由があるのでしょう。当然、売却目的とはまず考えられませんね」

 航悦の断言にも誰もが頷く。そもそも凰ノ太刀ほどの太刀ともなれば買い手もつかない上に、足がつきやすくなる。そこまでの危険をおかして太刀一振りのみを盗み出すことに売却という理由が伴わない。

「加えて、この神宝に功器としての価値があるかと言えば、盗み出すほどのものではありません。神宝全てに施されている呪いは簡素なものですし、それは我々鑑士だけでなく、多くの者が知っている事です」

 祀汶が付け足した補足により、よりいっそう太刀を持ち出した理由が不透明になっていくことに頭を抱えたくなるのは鑑士ばかりでなく、何もできずに黙っていることしかできない紹瑛も同じであった。だが、先ほどから少しばかり不思議に思っていたことを思い切って隣に座っていた祀汶に小声で聞いてみた。

「あの、どうして盗まれたかというお話ばかりなさっていますが、どうやって持ち出したのかは調べなくてもいいのですか?」

 紹瑛の問いに大きなため息を吐いた祀汶が口を開いた。

「それも大事だがな、状況からするに内部犯の可能性が高い。それから目的がはっきりすることで太刀の場所を特定するのが先だ。ただ、持ち出されてから年数が経っているのなら、太刀の足取りを掴むのは一苦労だろうな」

 まだいつ持ち出されたのかも分かっていない、全てが謎だらけの中で夜の帳が開けようとしていた。ふと航悦が思い立ったように慶進を見る。

「御古殿に入れるのは造営神宝使の神官と我々鑑士、調整者も入るときがありますね。調整前の仕様書作成時と今回の清掃時のみ。可能性が高いのは調整の為に参向した時だと思うのですが、最後に御古殿に入った者はどなたがいたのか慶進様は覚えていらっしゃいますか?」

 慶進は少しの間、言葉を発さずにいたが、いつもより低い声を押し出すように一言言放った。

「最後に入ったのは私と、(はん)()()だ」

 それを聞いた趨眞と航悦は言葉も出てこないほど驚いたようで、二人ともお互い顔を見合わせる。

「柚羅? それって神宝調整が始まった後すぐに自殺した鑑士のことですか?」

 祀汶が訝しげに聞く。そうだと慶進が言うと祀汶もそれきり黙りこんでしまった。

 自殺? 初めて慶進に会った時に言っていた言葉が急に頭の中で反芻される。慶進はたしか言っていた。

不幸が重なったと――。

 カケコー、カケコー。神使とされる鶏の鳴き声が遠くから響き渡り、朝の訪れを告げたのだった。




長編とも言いがたいですが、このように長い文章を書くのは初めてのことになりますので、小説として足らない部分や駄文であることにはご容赦いただければと思います。それでも最後まで目を通してくださった読者の方には感謝いたします。前編、お付き合い下さりありがとうございました。後編はまた様子を見てあげさせて頂きます。

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