「あやされるでしょうよ」
えぐり込む様な回転を加えられた拳が、腹部に突き刺さる。
「ぐぅぅぅっ」
黒帯を締めた空手着の男が嗚咽の声を上げ、両膝から畳張りの床に崩れ落ちる。
「ゴメンね、オープンフィンガーつけてるから深くは入らないけど、かえって響くかも」
突きを戻し、構える空手着の涼が申し訳なさそうに謝るが、相手は返答もできない。
同僚たちに肩を貸されて運ばれつつ、良いんですよとばかりに手を弱々しく上げるのがやっと。
「じゃあ次、いいよ」
「オスッ、お願いします!」
次に両の前に立つのは細身の長身の男、帯は黒帯。
「ヒョゥッ!!」
独特の息を吐き、同時に男は蹴りを繰り出す、上段、下段、中段と矢継ぎ早で手加減はまるで感じない。
速い。
だが涼は上段は躱し、下段は自らの膝を当てて受け中段は……
「せいやあっ!」
迫る足の甲に対し、鋭いカウンターで肘を打ち当てた。
「ぐぁぁっ!」
足の甲に抱え床に転がり回る黒帯の男、フウッと息を吐いてから、涼は自分の白い帯を直す。
「骨までは大丈夫だよ、当てる瞬間に加減したからね、速いけど、どれも同じようなスピードでコースを変えただけじゃ、三発目は容赦なくカウンター取っちゃうよ」
「お……オスッ、ご指導あ、ありがとうございます、次からは気をつけますっ」
倒れて脂汗を流しながらの男は涼に感謝し、周囲からオオッと感嘆の声が起こる。
「あ、相手は男子だよ? 涼ちゃんはあんなに強いのか!?」
盆を持った琴名と並んで道場の入口に立った優太は驚く。
優太は格闘技は素人だ、しかし大学生の男子を全く寄せ付けない強さは理解できる。
「言ったでしょ? 涼ちゃんはお爺ちゃんが全国を駆け回って探してきた逸材なんだから、今度は香澄ちゃんだね」
道場はかなり広い、十名以上の道着を着た者たちが試合場を囲むようにしている。
「じゃあ頼むわね」
「……ああ」
交替する涼は声をかけるが、柔道着の上に袴姿に裸足というスタイルの香澄は頷くだけ、只でさえ鋭い眼差しを更にキツくして、立ち会い線の場所に立ち、
「誰でも来い! 一人が嫌なら何人でもこちらは構わん」
周囲の屈強の男達を睨み付ける。
二十歳そこそこの女子の睨みに、周囲の男達は明らかに圧倒されていた。
順繰りに睨まれていくうちに入口に立つ優太とも目が合うが、彼女は顔色ひとつ変えない。
相手の候補でも無いのにブルッと背筋を震わせていると、
「来たわね管理人さん、琴名ちゃんも差し入れご苦労様」
涼が手を上げて歩み寄ってくる。
「涼ちゃん、あんなに空手やるんだ?」
「なんだかなぁ、歳上なんだし涼で良いわよ、涼でお願い」
「そ、そうか……じゃあ涼は強いんだね」
「もちろん格闘家って言ったでしょ? 弱かったら話にならないじゃない、一応は格闘技でお金貰うんだからさ」
許可というか、要請された呼び捨て。
やや戸惑いながらの優太に、涼はグッと腕捲りをする。
「涼ちゃんは大学生だし、他にバイトもしてるじゃない」
「まぁまぁ……今は格闘技だけで食べていくのは辛いからね、香澄みたいにはいかないよ」
「香澄ちゃんは大学生じゃないの?」
琴名の指摘に首をすくめる涼、優太は凛とした立ち姿の香澄に目をやる。
「香澄は元々、由緒ある大きな道場からここに来てるからね、仕送りもキチンとね、だから学生でもないしバイトもしてない」
「へぇ~そうなんだ、そういえば今日はナディアちゃんは?」
「あそこ」
涼が指差した先には、道場の片隅で壁に背中をかけて脚を伸ばすナディアがいる。
周囲の男達の中、Tシャツにジーパンの彼女はリラックスというより暇そうに見えた。
「ナディアは型がどうこうとか、技が云々って方じゃないし、稽古は苦手なタイプだしね」
「稽古が苦手?」
「まぁね」
意味ありげに涼が頷いた時だった。
「願います!」
大きな声が道場に響き、香澄に向かって柔道着の男が歩き出した。
百九十はありそうな身長、体重も軽く百キロを越えていそうな大男だ。
「来たね……現役の警察官さん」
「警察官!?」
「うん、学生時代はオリンピックの代表候補にもなった事がある人だって、大学生の人の先輩で今日は噂を聞いてきたみたい」
涼は床に置かれていたスポーツ飲料のペットボトルを取る。
「体格が違いすぎるよ、だいたい香澄ちゃんは女の子だし!」
「さっき男子と組手したアタシも女の子ですけど?」
「いや、その……」
「だいたい男子しか相手いないでしょ?」
涼の細目でのツッコミに返事に詰まった優太は気づく。
言われてみればそうだ、この道場内には琴名と三人以外は全員男子だ。
稽古と聞いた時は女子相手だと思っていたが、一人もいない。
「女の子じゃ全く相手にならないし、力差がありすぎると怪我させちゃう可能性が高くなるからね、前は来てたけど今は滅多に来ないよ」
そこまで喋ると、涼はペットボトルのスポーツドリンクを何口か飲むと口を離す。
「まぁ……男子でも結果は女子と変わらないんだけどね、特に香澄とかになっちゃうと」
「えっ?」
「まぁ、観なよ、説明するより早いから」
言葉に含みが多く、どうしても怪訝な表情になってしまう優太に涼は目線で香澄のいる試合場を示した。
「堀田といいます、後輩達が全く歯が立たないと噂の、特に陣内香澄さん、あなたと手合わせがしたく参上しました」
「先輩という訳か、私と手合わせと?」
男は体格に似合わず謙虚に名前と目的を告げた、仁王立ちのままで彼を見据える香澄。
堀田は二十代の後半だろう。
年長者相手にも関わらず香澄は鋭い瞳で彼を睨む。
「柔道か……」
「はい」
「手合わせなら柔道の試合じゃない、一本取ったら終わりじゃないぞ」
「ええ……」
無礼と言えば無礼な香澄の立ち振舞いにも、大人である堀田は静かに頷く。
「良かろう、なら覚悟が出来たら来い」
「では……!?」
立ち合いの確認と承諾に堀田は両手を上げて大きく構えたが……香澄の様子に思わず目を見張ってしまう。
「な……」
「どうした? 覚悟が出来てなかったか?」
大きく構えたまま声が漏れる堀田に、香澄は冷たい笑みを見せた。
「な、な……なめんじゃねぇぇっ!」
警察官という自らの立場もわきまえ、礼儀正しくしていた堀田がキレた。
その理由は格闘技初心者の優太にもハッキリと理解できた。
なんと香澄は下の黒袴のポケットに両手を入れたまま、堀田に対峙しているのだ。
「貴方の柔道程度なら、これであやせる」
「こ……」
香澄の言葉が終わるか終わらない内に堀田が動いた。
素早い。
百キロの体躯からそんな瞬発力が出るのかという加速で香澄に詰め寄り、彼女の道着の襟と袖を掴み上げ、畳張りに地響きを立て思いっきり……投げられた。
「……!?」
周囲が唖然とする。
投げたのでない、投げられたのだ。
相手の襟を、袖を、しっかり掴んだ元オリンピック候補が両手をポケットに入れたままの二十歳の娘に……投げられた。
「柔道一直線じゃあ……ねぇ、香澄にはホントにあやされるでしょうよ」
周囲どころか投げられた本人ですら何が起きたか理解できていない中、やけに冷めた声でそう言いった涼は再びペットボトルを口に含んだ。
続く