夢屋 3
普段の自分では考えられない事ではあるが、類は妙に取り乱し、椅子から勢いよく立ち上がると、シャットダウンの段取りも踏まずにパソコンの電源ケーブルを引っこ抜いた。
根っこから切り離さねばならないと思ったくらいに恐怖を感じたのだ。
息が少し上がり、肩が微かに上下する。
耳に入る事務所内の空気が、何かを囁いているように、ざわざわとざわめいている。
なんなのだ…一体…。
『ミナミサン』。自分の事以外に思い当たる節がない。
何故、スレッドを見ていると知っているのだ…?
類はじんわりと掻いた額の汗を拭い、暫く立ち尽くした。
時計を見ると、四時少し前だった。窓の外を見ると、空の色味が少し抜けて淡くなっていた。
昼に事務所を開けて、すぐに小笠原が来て、居眠りをして、スレッドを読んで…。
そのくらいの時間にはなるか、と納得して、漸く落ち着いて来た。
スレッドを介してであれ、類に直接接して来た事は間違いなさそうだ。ならば、先程の夢の呪い主は”夢屋”という事になるだろう。
”夢屋”の正体を突き止めねばならなくなった。
手っ取り早いのは夢買いの交渉する事だが、恐らく”夢屋”は、交渉を持ちかけ、正体を暴くという類の思惑など解り切って接して来るだろう。
こちらは常に後手に周る事になる。
「夢の中しかないか。」
不本意ではあるが、昼寝をする立派な理由が出来てしまった。
そうと決めるとあっという間に落ち着き、類はその後四時間ほど事務机に着いて、引っこ抜いたパソコンのコードやら、シャットダウンの正規手順を踏まなかったために壊れかけたファイルの整理などを淡々と行った。
ただ、どうにも気が乗らないので、インターネットだけは使わないでいた。
やがて夜になり、腹も若干空いて来た九時頃、ふと背中がざわついた。
落ち着いて様子を探るが、小笠原だと判断出来た。
ざわつきにも多様性があり、その人物の印象と同じものを感じるため、よほど印象の似た他人でもない限りは、その夢と夢主を間違える事はない。
類はパソコンの電源を、今度はきちんと切り、背筋を伸ばして鼻から息を吸い込むと、短く一気に吐き出して、振り返った。
突如包まれた闇の中を、類は下へ下へと舞い降りて行く。
下から吹き上げる風は、神保町の路地を抜ける風の様に温かく、ぬめっと体に纏わりつく。
闇は深く深く、底なしのようだった。
夢に入るまでの闇は、その人の本当の心と、表立った性格との落差を意味すると、祖母に習った。
この闇が深ければ深いほど、内に秘めた感情と表情に差があるのだそうだ。
落下速度が緩んだ。そろそろ地面なのだろう。
改めて足元を見ると、見覚えのある街並みが見えた。
あれは…。
「…神保町…?」
間違いない。しかも事務所の近所である。
何故…?
小笠原の夢は、類が入り込んだ事で”悪夢”であると証明された。
その内容が神保町である以上、神保町が何かしら意味を成している事になる。
呪い主が神保町に思い入れがあるのか。それとも小笠原に神保町に関する何かを知らしめたいのか。
類は眉間に皺を寄せ、最後にぶわりと舞い上がった風に乗って夢の中の神保町に着地した。
臭い、雑踏、ビルの古ぼけた様子、見上げる空の狭さ…。
何もかもが見覚えのある、否、自分が今知っている神保町に他ならなかった。
この街のどこかに、呪い主と夢主がいる筈だ。
「さて…。」
どうしたものか。
夢の中は、本人の意識や記憶を反映させた世界。
元は他人が影響を及ぼしている悪夢と言えど、作り出された世界は紛れもなく、夢主本人の知る世界だ。
その小笠原の記憶そのものと言える神保町は、人通りもなく、車も通らず、しんと鎮まり返っている。その中で、路地を吹き抜ける風と、古い喫茶店の換気扇の音だけが無秩序に散らばったまま耳に入って来る。
居心地が悪い。
この感覚は、即ち小笠原自身が神保町に持ったイメージそのものであろう。
神保町は、大通りこそ整備されていて整ってはいるが、路地に入れば薄汚れ、古い店ばかりが立ち並ぶ。苦手とする人もいるだろう。
だが、人の気配が全くしないのは何故だ。
類は慎重に歩みを進めた。
この神保町のどこかに、小笠原がいる筈だ。そして、呪い主も。
空を見上げる。
堕ちて来る時は闇だが、世界に入り込んでしまえば現実世界と殆ど変わらない。見上げれば、空は普通にそこにある。
夢の中の神保町は、晴れてはいるが、靄がかって汚い色をした青空だ。
雲はなく、影が若干北へ伸びているから、陽は南、正午頃という”設定”なのだろう。
日差しは妙に強く、日向がとても眩しく光っている。
ふと横を見ると、あの定食屋があった。
試しに扉を開けてみるが、誰もいない。ただ、テレビだけが、あの小さな音量で流れていた。
店を出、再び歩く。
当てもなく歩くと、対象のいる場所から遠ざかっている可能性もあるが、類には確信があった。
定食屋から五分。類は、とある雑居ビルの前で立ち止まった。
自身の事務所が入っているビルだ。
類は事務所を目指し、エレベータのボタンを押した。
いつもは階段だが、何故かこの時、エレベータを使うべきだと思ったのだった。
エレベータは、最上階の七階に止まっていた。それがゆっくりと降りて来る。
六、五、四、三、ニ…。
チン、と古臭い音が鳴って、エレベータの扉が開いた。
同時に、類は一瞬心臓が止まりかけた。
誰もいないと思っていたエレベータに、人がいた。
見覚えのない、男だった。
男は帽子を目深に被り、この季節だというのにトレンチコートの襟を立てて、猫背気味にエレベータの隅に立っていた。
降りるかと思い、暫く待ったがぴくりとも動かないので、類は警戒しつつもエレベータに乗った。
五階を押し、男に背を向ける。少し躊躇ったが、そのまま「閉」ボタンを押すと、エレベータの扉が閉まった。一瞬だけ上下に揺れ、その後、ぐおんという大袈裟な音を立ててエレベータが上がった。
二、三…。点滅をしていく回数ランプを見ながら、男を視界に入れて注視する。
男は相変わらず、ぴくりとも動かずそこにいた。
やがて、チンと言う音が鳴って、扉が開いた。類は今更に気味が悪くなり、足早にエレベータを降りた。降り際、男を振り返ると、男はやはり、微動だにせずそこに立ったままだ。
もしや呪い主ではと思い、類は振り返り、エレベータの扉が閉まるまで、男と睨み合う様に立っていた。
男はボタンを押す事もなく、すぐにエレベータは何事もないように扉が閉まり…。
そのまま一階へと降りて行ってしまった。
何だったのだ。
類は眉間に皺を寄せ、事務所のノブを回した。
何故か、鍵はかかっていない事を知っていた。
ドアを開けると、中からいつもの冷たい風が吹き抜けた。後ろ手にドアを閉め、土足のまま事務所へ上がる。いつもと変わらぬキッチンに、いつもと変わらぬ事務机、いつもと変わらぬ応接セット…。
小笠原とは今日会ったばかりで、仮に過去に会った事があっても、事務所を訪れた事はない筈だ。その割りに、この事務所は類の見る限り、類の記憶にあるまま、何もかもが正確に並んでいる。小笠原が見えたであろう筈のない、事務机の足元のダンボール箱まで…。
応接セットは壁際に置いている。壁は薄汚れてはいるが白く、何もかかっていない。
そこに、赤い塗料で何かが書き殴ってあった。
『ミナミサン』…。
類の背中に悪寒が走った。一歩壁に近付く。そこで、はっと息を飲んだ。
塗料ではない。
血だ。
何の冗談だ。