序章
八月の夏祭りの夜、そのむせ返るような熱気は人に幻覚を見せるのだとよく言われる。アスファルトから立ち昇る陽炎が、絢爛たる花火を見上げようとひしめき合う幾千もの人々の吐息と混ざり合うとき、現実と幻想の境界線もまた、熱に溶けて曖昧になっていくかのようだ。
夜空に咲いては散っていく眩い光は網膜に消えゆく残像を焼きつけ、腹の底に響く絶え間ない轟音は、人がその美しさに酔いしれる前に、最後に残されたわずかな理性すらも削り取っていく。
そんなふうに心が惑わされる瞬間だからこそ、人はくだらない奇跡なぞをいとも簡単に信じてしまうのだろう。そしてそれこそが今この瞬間、俺が妹の妄想じみた茶番に大人しく付き合ってやっていることに対する、唯一の言い訳でもあった。
花火大会はようやく幕を閉じたが、鼓膜に残る耳鳴りも、夜空に次々と咲き乱れた光の残像も、脳裏から消え去る気配はまだない。祭りの高揚感も次第に落ち着きを見せはじめ、あたりには屋台のイカ焼きから漂うかすかな煙の匂いと、胸の奥まで吹き込んでくる湘南の潮風のしょっぱさだけがただよっていた。江の島の上空に広がる夜空は、いつもの静寂の中へと再び身を潜めつつあった。
だというのに、何千という人波が一斉に下山していく中、俺は一人、辺津宮へとまっすぐ続く急な石段を逆流するように登らされていた。
より正確に言うなら、引きずり回されているのだ。
「お兄ちゃん、足に根っこでも生えたの? 早くしてよ、花火も終わったし、今こそ『あれ』を発動させるのに一番神聖な交差の刻なんだから!」
身にまとった清楚な紫陽花柄の浴衣とは裏腹に、鈴音は境内の静寂を切り裂くような甲高い声で叫んだ。
もしあの浴衣がゲーム内の装備で『着用者の移動速度低下』というデバフ効果を持っているのだとしたら、こいつは間違いなく状態異常に対する凄まじい耐性スキルを所持しているに違いない。急勾配の石段を前に俺の息が上がりはじめているというのに、妹は立ち止まって休む素振りすら見せない。それどころか、さっきよりもさらに気が急いているようだった。
「もう、お兄ちゃんったら!! 早く歩いてよ、神様が寝ちゃうでしょ!」
「神様は労働基準法に縛られたりしないよ、鈴音」 俺はため息をつき、額に浮かんだ汗の粒を袖で拭った。
このオタク妹が今度はどんな奇行をしでかすつもりなのか、まるで予想がつかない。普段から家の中で俺を相手にくだらないことばかりやっている鈴音だが、今日に限って江島神社のような特別な場所を選ぶとは珍しい。
「で、こんなところで何をする気なんだよ。みんなもう帰ってるぞ、俺たちもあまり長居すべきじゃない」
「ネットで調べたことをちょっと検証したいの。あとになれば分かるから、ほら、急いでよお兄ちゃん、このロートル兄貴!」
こいつはいつだってこうだ。無駄にエネルギッシュで、頑固なことにかけては右に出る者がいない。面倒ごとはご免だが、こんな夜の神社に一人でやらせるわけにもいかないから厄介だ。
鈴音は意気揚々と社殿へ向かって石段を登り続け、左手には食べかけのりんご飴を握りしめたまま、時折、最近観たアニメの主題歌らしきメロディを鼻歌で口ずさんでさえいる。一方の俺といえば、重い足を引きずりながらその後ろを追いかけている有様だった。
俺はそもそも心霊現象の類いを信じていないから、幽霊や怪異なんて怖くないと胸を張って言える。普段なら、間違いなくそうだ。けれど今この瞬間、八月のむっとするような暑さがまだ残っていて、潮風が肌にまとわりつくような不快な湿気を運んできているにもかかわらず、俺の身体は警戒するように小さく身震いしていた。
周囲の空間が、視界の届く範囲の音だけへと収束していくような感覚があった。妹の鼻歌、呼吸のリズムに合わせて響く規則正しい足音、風に揺れる木々のざわめき。ほんの少し前までは、遠くの海岸から寄せては返す波の音が聞こえていたはずなのに、今ではもうそれすらも途絶えていた。
高台にあるせいで海の音が届かないのかもしれないが、この時間帯の江島神社が、昼間の賑わいとはここまでかけ離れた顔を見せるとは思ってもみなかった。おそらく今この場所にいるのは、俺たち兄妹を除けば神社の管理人くらいだろう。
俺たちは辺津宮の社殿前に置かれた賽銭箱から数歩離れたところで足を止めた。鈴音は帯の間から慌ただしくスマートフォンを取り出し、何かを探しはじめる。画面の青白い光がその顔を照らし出し、大きく丸い瞳の中に、俺が嫌というほど見慣れたあの愚かしくも無邪気な好奇心を映し出していた。
「座標、確認完了っと!」 鈴音は、俺にギリギリ聞こえるくらいの声量で呟いた。
そのまま画面を俺の方へと突き出してくる。そこに表示されていたのは、どこかの匿名掲示板の書き込みで、いかにもオタク臭いタイトルが並んでいた――『新世界サーバー開放の儀式』。
「この名無しさんの書き込みによるとね、十年に一度の周期で巡ってくる八月十五日、夜十時ちょうどに、ここ辺津宮の本殿前に約二十分間だけ『世界間の交差ポイント』が出現するんだって。でお賽銭箱に五円玉を入れて呪文を唱えれば、異空間へのゲートが開くらしいの」
俺は小さく息を吐いた。舞台をどれほど由緒ある古風な場所に移したところで、俺の妹は俺の妹でしかない。こういうくだらない茶番に付き合わされて時間を浪費するのは、今に始まったことではなかった。
だいたい、匿名掲示板のこんな過疎スレッドの書き込みを真に受けるようなおめでたい奴なんて、世界中のどこを探してもこの妹くらいのものだろう。だが、ここまで来てしまったものは仕方がない。説教は家に帰ってからたっぷりするとして、今はとにかく暑すぎる。とはいえ、これだけ熱心に説明してくれた後に完全無視を決め込むのも少し不憫に思えて、俺は適当に相槌を打ってやったが、鈴音は俺のそんな投げやりな態度には気づいていないようだった。
「で、他には?」
「もちろんまだあるよ、お兄ちゃん。スレ主が言うにはね、空間ゲートが開くと魔法陣が自動的に起動して、術者をランダムな異世界へと転移させてくれるんだって」 鈴音はまるでその書き込みを見つけたこと自体が世紀の大発見ででもあるかのように、得意げに言葉を続けた。
「一番すごいのはここからなの。ほら見て! レス欄に一人だけ証言してる人がいて、その人の友達がこの儀式をやったら、本当に目の前で姿を消して、それから長いこと行方不明になったって書いてあるんだよ!」
そう、投稿から四年も経っているというのに、ついている返信はたったの一件だけだ。どうせスレ主の自演かグルに決まっている。そんな馬鹿げた話があってたまるものか。それでも鈴音は、自分の目的についてまくし立てるように説明を続けていた。
「交差ポイントの周期は十年って書いてあるでしょ。でね、なんと今日がその十年目の当日なの……! わたし、ちゃんと計算したんだから。絶対に間違いないよ!」
やれやれ、こいつの妄想語りを聞くのももう限界だ。俺は面倒なことが嫌いだし、こんな中途半端な中二病ごっこに付き合う気はさらさらない。もし三年前の俺だったら、もっとずっと様になるやり方で決めていただろうがな。
「もし誰かに怪しまれたら、俺はお前とは赤の他人ってことにするからな。さっさと済ませろよ、もう帰るぞ」
鈴音はむっと唇を尖らせた。それから木製の賽銭箱に五円玉を投げ入れると、小さく咳払いをひとつして、わざとらしく低く作った重々しい声色で詠唱者のロールプレイを始めた。
「三界を統べる神よ……異界へと繋がる門よ……鍵を握りし我、境界の壁の破壊を命ず……約束の地へと至る地平を拓け! 開!」
凛とした声で詠唱を締めくくると、鈴音はぱっと目を見開いてその時を待った。
数秒が過ぎた。当然ながら、何も起こらない。遠くの潮騒はいまだ届かず、あたりには風の音と俺たちの呼吸音だけが響いている。
失敗することなど、俺にとっても、そしておそらく妹自身にとっても分かりきっていた結末だ。もしこの世に魔法なんていう都合のいい奇跡が存在するのなら、人生はもっとずっとイージーモードになっているはずだからだ。
失敗すると分かっていながら、それでも若さゆえの熱病を満たすために意地でもやってみる。かつての俺もそうだったし、今になって当時の自分を振り返ってみても、なぜあんな死ぬほど恥ずかしい真似ができたのかさっぱり理解できない。だから、現役の中二病患者の思考回路を理解しようとすること自体が時間の無駄なのだ。いずれ時が来れば、その手の心の病は自然と寛解するのだから。
俺はため息をつき、適当なツッコミを入れて帰ろうと口を開きかけた――だが、声を発するよりも早く、喉の奥がひりつくように凍りついた。
目の前の賽銭箱が、ガタガタと震えだしたのだ。さっき五円玉が落ちていったばかりの細い隙間、その深い闇の奥底から、純白の光の奔流が突如として夜空へ噴き上がった。
それは今夜見たどんな大輪の花火よりも眩しく、強烈な輝きだった。光は凄まじい速度で周囲へと広がり、辺津宮の石畳の上に、渦巻く幾重もの魔法陣を描き出していく。
「え……っ、お兄ちゃん!?」
鈴音の声が裏返る。さっきまでの無邪気な余裕は消え失せ、その顔には見る間に動揺と不安の色が浮かび上がった。
周囲の世界から突如として色彩が失われ、俺の意識もまた、それに伴って遠のいていく。すべてがあまりにも急激すぎて、脳の処理がまったく追いつかない。幾重にも重なる魔法陣の輪が、俺たち二人の小さな身体を丸ごと飲み込まんばかりに包み込んでいく。
隣で鈴音が何かを叫んでいるが、俺の耳にはもう何ひとつ届いていなかった。足元の地面が消失するほんの一瞬前、俺にできたのは、妹の手首を強く掴み、離れまいと必死に握りしめることだけだった。
胸を押し潰すような浮遊感が襲いかかり、直後、底なしの虚無感と寄る辺なさが全身を貫く。
俺は強く目を閉じた。
次に目を開けることができたとき、湘南の夏の蒸し暑さは跡形もなく消え失せ、代わりに薄い浴衣の生地を透かして肌を切り裂くような、凍てつく突風が吹き荒れていた。
あたりは静まり返っていたが、江島神社にいた時とは違い、自分の心臓が早鐘のように打ち鳴らされているのだけははっきりと聞こえた。
急激に下がった気温に、身体がぶるりと震える。そしてその瞬間、俺は悟った――肌にまとわりつくこの骨まで凍るような冷気はあまりにも生々しく、夏の熱気が生み出した幻覚などでは到底あり得ないのだと。
こうして俺たちの夏休みは、あまりにも理不尽な形で幕を閉じたのだった。




