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手順書

作者: 真核生物
掲載日:2026/09/07

 手順書というものは、たいてい、書いた人がいなくなってから読まれる。


 *


 引き継ぎの資料を受け取ったのは、四月の頭だった。


 A4のバインダーが三冊。背に油性ペンで「三号機」「四号機」「共通」と書いてある。中身は全部手書きだった。打ち直された形跡はない。


 田島さんは三月三十一日に定年を迎えて、その日のうちに帰っていった。送別会はやらなかった。本人が断ったと聞いた。


 *


 私は製造課の課長代理という肩書きで、三年前に中途で入った。


 前は物流にいた。プレス加工のことは何も知らなかった。それでも採ってもらえたのは、工程を整理できる人間が欲しいと言われたからだ。面接のとき、工場長にそう言われた。


 「うちはね、田島さんの頭の中で回ってるんですよ」


 黒木工場長は笑いながらそう言った。


 「それが悪いとは言いません。ただ、あの人が辞めたら誰も分からなくなる。困るでしょう」


 困る、と私も思った。


 だから私は、田島さんの頭の中を紙にする仕事を引き受けた。


 *


 前の会社で、私は伝票を三種類やめさせたことがある。


 三十年前から回っていた紙だった。誰も見ていなかった。誰も見ていないのに、毎月、事務の人が二日かけて作っていた。


 なぜ作るのかと聞いたら、決まりだからです、と言われた。


 決まりを作った人はもういなかった。私はそれを廃止した。誰も困らなかった。事務の人には感謝された。


 その話を、私は面接でした。黒木工場長はそれを気に入ったのだと思う。


 *


 バインダーを開いて、最初に思ったのは、よく書いてあるな、ということだった。


 手順が細かい。どのボルトから緩めるか、何回転で止めるか、そこまで書いてある。字は大きくて、丁寧だった。


 次に思ったのは、なぜ、が書いていないな、ということだった。


 *


 たとえば、こういう行がある。


 ——三号機の型交換は二人で行う。一人は操作盤の前に立つこと。


 それだけだ。


 安全ブロックを入れること、安全プラグを抜くこと、そのあたりは別のページに書いてある。法令の話だから当然だ。労働安全衛生規則の百三十一条の二に、そう決まっている。ボルスターとスライドのあいだに安全ブロックを入れる。プラグを抜けば操作回路が切れて、機械は動かない。


 そこまでやったうえで、なお、二人。


 なぜかは書いていない。


 *


 同じような行が、全部で十七あった。


 私はそれを一覧にした。理由の書かれていない手順、十七件。


 黒木工場長に見せると、少し困った顔をした。


 「田島さんは、そういう人でしたから」


 「聞けば教えてくれましたか」


 「どうかな。あの人、あんまり喋らないんですよ」


 *


 私は十七件を三つに分けた。


 法令や取扱説明書に根拠のあるもの。これは残す。八件あった。


 明らかに古い設備の名残で、いまの機械には関係のないもの。これは消す。六件あった。


 たとえば「油圧の元栓は始業時に半回転戻す」という行がある。これは平成十年に更新される前のポンプの話で、いまのポンプには元栓そのものがない。田島さんは、たぶん書き写すときに一緒に写しただけだ。


 こういうものは、消していい。消さないと、手順書は読まれなくなる。読まれない手順書は、ないのと同じだ。


 残り三件は、根拠が分からない。


 三号機の二人作業は、その三件の中にあった。


 *


 人は足りていなかった。


 四月に二人辞めて、補充は一人だった。製造課は八人になった。八人で三交代は組めないので、日勤と準夜勤の二本にした。それでも回らない。


 型交換は一日に四回か五回ある。一回に四十分。二人でやれば八十分の人工が消える。それが一日に四回。


 数字にすると、はっきりする。


 *


 六月に、私は三号機の手順を書き換えた。


 ——三号機の型交換は、安全ブロックを使用し、安全プラグを抜いたうえで行う。


 二人、という言葉を消した。


 消す前に、私は自分に三回確認した。


 法令に違反していないか。していない。安全ブロックの使用は規則どおりだ。


 取扱説明書に二人と書いてあるか。書いていない。確認した。


 二人でなければ防げない危険があるか。思いつかない。プラグを抜けば機械は動かない。抜いたプラグは作業者が自分のポケットに入れる。誰かが挿し直すことはできない。


 三回とも、答えは同じだった。


 *


 三上に最初にやらせたのは、七月の頭だった。


 三上は二十四で、入って二年目だった。真面目な子だ。手順書を読み込んでくる。読み込んだうえで、いつも何か一つ質問してくる。


 前に一度、なぜそんなに聞くのかと言ったことがある。嫌味ではなく、感心して言った。


 三上はこう答えた。


 「分からないままやると、手が止まるんです。止まると危ないので」


 いい答えだと思った。私はそれを、朝礼で全員に紹介した。


 その日も質問してきた。


 「前は二人でやってたって聞いたんですけど」


 「うん。理由が分からなくてね」


 「あ、そうなんですか」


 「田島さんの癖だと思う。心配性だったんじゃないかな」


 私はそう言った。


 三上は「なるほど」と言って、笑った。


 *


 事故は八月二十日の、午後四時十分に起きた。


 その日は暑かった。工場の中は三十五度を超えていた。私は事務所で、九月の人員表を作っていた。


 三上は三号機の型を替えていた。安全ブロックは入っていた。あとで労基署が確認している。安全プラグも抜いてあった。ズボンの右のポケットに入っていた。


 それでもスライドが降りた。


 *


 音は聞こえなかった。


 プレスの音がしなかったから、誰も気づかなかった。スライドはゆっくり降りたわけではない。ただ、型を替えている最中の三号機は、いつもと違う音をしない。


 最初に気づいたのは、隣のラインの人だった。三上が声を出さなかったからだ、とあとで聞いた。声を出さずに、左手で自分の右腕を掴んで立っていたそうだ。


 *


 三上は右手の指を三本、潰した。


 救急車が来るまでのあいだ、三上は喋っていた。すみません、と何度も言っていた。私は違う、と言い続けた。違う、と言いながら、何が違うのか自分でも分かっていなかった。


 事務所に戻って、私は九月の人員表を閉じた。閉じるときに、三上の欄が目に入った。日勤、日勤、日勤、と並んでいた。


 *


 原因は、三号機の操作回路だった。


 プラグの接点が摩耗していて、抜いても完全には切れないことがあった。稀に、というのが調査の言葉だ。数百回に一度。条件は特定できていない。


 誰かが操作盤に触ったわけではない。誤操作でもない。ただ、切れているはずの回路が切れていなかった。


 三号機は昭和六十年の製造だった。四十年、動いていた。


 *


 安全ブロックは、仕事をした。


 スライドはブロックに当たって止まった。止まらなければ、三上は右手ごと持っていかれていた。


 ただ、当たるまでは降りる。ブロックは、スライドが降りきるのを防ぐものであって、降りることそのものは防がない。


 当たるまでのあいだに、三上の右手は上型と下型のあいだにあった。


 *


 労基署が入って、二週間で終わった。


 私は責任を問われなかった。手順書に「二人」と書かれていた事実はある。だが法令上の義務は安全ブロックの使用であって、それは守られていた。二人作業を義務づける規定はない。手順書の改定も、私の権限の範囲だった。


 黒木工場長は、私に一度も、なぜ消したのかと聞かなかった。


 会社は今回、きちんと報告した。休業四日以上だから様式二十三号。遅滞なく、と規則には書いてある。九月の頭には提出されていた。


 *


 三上は退院して、事務に移った。右手はまだ使えない。


 私は毎日、三上の横を通る。三上は毎回、こちらを見て会釈する。恨んでいる顔ではない。それがつらい、と思ってしまう自分が、いちばんつらかった。


 *


 田島さんの家に行ったのは、十月だった。


 電話番号は総務にあった。かけると、あっさり出た。声は元気だった。


 「ああ、はいはい。どうぞ」


 家は工場から車で二十分の、古い住宅地にあった。庭に鉢がたくさん並んでいた。全部、同じ種類の草だった。名前は知らない。


 田島さんは麦茶を出してくれた。工場で見ていたときより、少しだけ小さく見えた。作業着でない人を見るのは初めてだった。


 私は事故のことを話した。


 田島さんは黙って聞いていた。最後まで聞いて、それから、湯呑みを置いた。


 「三号機のね」


 「はい」


 「あれ、二人って書いてあったでしょう」


 「はい。消しました」


 「うん」


 田島さんはうなずいた。責める顔ではなかった。


 *


 「なぜ二人なのか、書いてくださっていれば」


 私はそう言った。


 言ってから、これは責任の押しつけだと分かった。分かったが、止められなかった。


 田島さんは、少しだけ黙った。


 それから、こう言った。


 「書いたよ」


 *


 「え」


 「書いた。最初の手順書にはね、理由も書いてあった。三号機はプラグが甘いことがある、だから外に一人立てる、って」


 「……それは」


 「消されたの」


 *


 田島さんは、麦茶を一口飲んだ。


 「平成十六年に、同じことがあってね。うちの人が手を挟まれた。私の後輩。左手の親指」


 「事故の記録は、なかったです」


 「ないよ」


 田島さんは、そう言った。


 「四日休ませなかったから」


 *


 私は、意味が分かるまでに少し時間がかかった。


 休業四日以上なら、様式二十三号で、遅滞なく労基署に出さなければいけない。三日以内なら様式二十四号で、四半期ごとにまとめて出せばいい。


 四日目に出勤させれば、三日になる。


 「本人は納得したんですか」


 「したよ。うちの会社、いい会社だったからね。ずっと面倒みてもらってるし、と言ってた」


 田島さんは、そこで初めて、少し笑った。


 「いい会社だったんだ。本当に」


 *


 「私が理由を書いた手順書はね、一回だけ回覧に出したの。そしたら、次の日には差し替わってた」


 「誰が」


 「さあ。誰でもいいでしょう。会社が困ることは、会社が消すよ」


 田島さんはそう言って、私の顔を見た。


 「だからね、理由は書かないことにしたの。理由を書くと、理由ごと消される。手順だけなら、残るから」


 *


 残った。


 二十年、残っていた。


 私が消すまでは。


 *


 帰り道、私は車を停めて、しばらく動けなかった。


 私は法令を守った。手順書も確認した。取扱説明書も読んだ。三回確認した。全部、正しかった。


 正しくなかったのは、私が「理由がないもの」と「理由が書かれていないもの」を、同じものとして扱ったことだ。


 書かれていないことには、書かれていない理由がある。


 そんなことは、言葉にしてみれば当たり前だった。


 *


 十一月に、私は手順書を作り直した。


 三号機は入れ替えが決まっている。来年の春だ。それまでは動く。


 私は、こう書いた。


 ——三号機の型交換は二人で行う。一人は操作盤の前に立つこと。


 *


 カーソルを、その行の後ろに置いた。


 理由を書くつもりだった。プラグの接点が摩耗している。抜いても切れないことがある。平成十六年に事故があった。だから外に一人立てる。


 全部、事実だ。書けば、次の人は消さない。


 私は、その行を最後まで打った。


 打ってから、消した。


 *


 消したのは、会社が怖かったからではない、と思う。


 平成十六年のことを書けば、労働者死傷病報告の話になる。四日を三日にした話になる。それを書いた文書が社内に残れば、いつか誰かが見つける。


 見つけたら、その人は、それを消す。


 消すときに、二人という行も一緒に消える。


 *


 だから私は、理由を書かなかった。


 手順だけを残した。


 三上が、いつかこれを読む。読んで、なぜ二人なのかと思う。思って、私に聞きに来るかもしれない。


 来たら、答えるつもりだ。


 来なかったときのことは、考えないようにしている。


 *


 十二月に、派遣で若い人が入った。


 二十二だと言っていた。飲み込みが早い。手順書もよく読む。


 その人が、三日目に聞いてきた。


 「三号機って、なんで二人なんですか」


 *


 私は口を開いた。


 開いてから、話し始めるまでに、少し間があった。


 プラグの接点のことを言えば、平成十六年のことを言わなければならない。平成十六年のことを言えば、四日を三日にした話をしなければならない。それを聞いた人が、次に誰に話すかは分からない。


 私は、こう言った。


 「決まりだから」


 *


 その人は「はい」と言って、それ以上は聞かなかった。


 いい返事だった。素直な子だ。


 私は自分の席に戻って、椅子に座った。座ってから、前の会社の伝票のことを思い出した。


 なぜ作るのかと聞いた私に、事務の人は、決まりだからです、と答えた。


 あのとき私は、その人のことを、何も考えていない人だと思った。


 *


 保存した日付は、十一月十四日になっている。


 バインダーは三冊のままだ。背の字だけ、私が書き直した。田島さんの字より、少し小さい。


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