某日、柚木詩織という『』
私が灯花ちゃんに出会ったのは、高校1年の春のこと。
それまでの私は、本ではなく書架だった。
誰かが書いた本を置く場所。並べる場所。
書架そのものには何の情報も知識も知恵もなく、ただ本を積むための隙間に過ぎない。
本を積むための隙間、空隙、虚無。
それが柚木詩織というものだった。
◇◇◇
異才が発現したのは、中学に上がってすぐの頃だった。
第五類異才「栞」。
読んだ本を忘れない。頁を繰るように記憶を辿れば、一字一句違わずその内容を思い出せる。
まるで頭の中に図書館があるようだった。目を閉じるだけで読んだことがあるあらゆる本を再び読むことができる。
もともと本が好きだった私は、その異才をどんなに喜んだだろう。
しかも教科書を読むだけで教科書のすべてを覚えられる。黒板の板書を見るだけでそのすべてを覚えられる。
先生には当然褒められたし、クラスメイトにも羨望の目で見られた。
この異才は祝福だとかそういう類のもので、私は特別なのだ。たしかにそう思っていた。
「でもさー、詩織って、異才で覚えてるだけでしょ?」
ある日、友達だと思っていた子たちが2人で話していた。
教室の隅で、私に聞こえるか聞こえないかの声で。
テストの結果が悪くて補修を受けることになったとか、そういう事情があったのだろう。あるいは私が、彼女たちの気に障る何かをしていたのかもしれない。
「ずるくない? 私たち必死に勉強してるのに」
「あれって別に本当に頭いいわけじゃないよね」
「読んだこと全部覚えられるならあたしだってテスト満点取れるし」
「あの子、異才なかったら何ができるんだって感じ」
その言葉が棘だった。毒だった。
抜こうともがくほど深く刺さり、身体中に回った。
私の異才は本や文字の情報を完全に覚えられること。文字じゃないから忘れられるはずのその言葉を、私は今でも一言一句覚えている。
◇◇◇
きっとその言葉は私以外も聞いていたのだろう。そしてみんな心のどこかではそう思っていたのかもしれない。
気づけば、私の周りには誰もいなくなっていた。教室で一人、お弁当を食べる日が増えた。
話しかけてくれる人がいても、心のどこかで身構えてしまう。この人も、いつか私を「ずるい」と言うのだろうか?
そしてそういう姿勢は私をさらに孤立させた。
彼女たちの言葉は正しかったのだと思う。
私は覚えているだけだ。本に書いてあることを、書き写しているだけ。
論述問題で高得点を取っても、それは本に書いてあったことを並べ替えただけで、言ってみれば積み木の組み換えみたいなもの。
積み木そのものを作ったわけじゃない。自分で考えたわけじゃない。自分の言葉で書いたわけじゃない。
要は空っぽなのだ。私という存在は、なんでもない。
その事実に気づいた夜、私は布団の中で泣いた。声を殺して、枕を濡らして、誰にも気づかれないように。だって、泣いている理由を説明する自分の言葉を持たなかったから。
「私はなんでもなかったんです。だから泣いているんです」。
分かってもらえるとは、思えなかった。
だから私は、物語の中に逃げ込んだ。
本を開けば、そこには私を否定する人はいなかった。
主人公たちは自分の言葉を持っていて、自分の意志で行動して、誰かの心を動かしていた。彼らの言葉は、借り物じゃない。彼らの物語は、彼ら自身が紡いでいる。
私もああなりたいと思った。物語の登場人物になりたいと思った。頁の中に溶け込んで、文字の一部になってしまいたかった。
現実の私は、なんでもないから。
頁の中でなら、私も誰かになれる。誰かの言葉を自分の言葉のように語れる。誰かの人生を、自分の人生のように生きられる。
逃避だった。現実から目を背けて、架空の世界に潜り込む。息を止めて水の底に沈んでいくような、静かな逃避。
その時の私にとっては、陽の光よりも水底の冷たさが必要だった。
◇◇◇
高校に入って、私は「おっとりしたお姉さん」になった。
自分を出さない。自分の意見を言わない。誰かを見守る側にいれば、「中身が空っぽ」だとバレない。私という本の白紙の頁を、誰にも見せなくて済む。
本から言葉を引用すれば、繕える。自分の言葉でなくても、誰かの言葉を借りれば、やり過ごせる。それは仮面を被るというよりは、本の表紙を自分の顔の前に掲げているようなもの。みんなが見ているのは本の表紙であって、私の顔ではない。
「詩織さんって物知りだよね」
「詩織さんに聞けば何でも分かる」
違う、私は何も知らない。本が知っているだけ。私はただの入れ物。図書館の書架と同じ。本を並べているだけで、書架自身は何も語れない。
図書室の窓際の席が、私の居場所だった。
本を読んでいれば、誰も私に話しかけてこない。物語の中に沈んでいれば、現実を忘れていられる。底は静かで、冷たくて、安全だった。
「あの、すみません」
声がして、私は水底に沈んでいた意識を浮上させる。
本の世界から引き剥がされるような、少しだけ不快な感覚。それでも顔を上げたのは、その声が遠慮がちで、押しつけがましくなかったからだ。
女の子が立っていた。明るい茶色の髪、琥珀色の目。西日を受けて、輪郭がぼんやりと光っている。見覚えがある。同じクラスの子だ。秋月さんや七瀬さんといつも一緒にいる、穏やかそうな子。
名前は、確か。
「何か探してるの?」
指で本の表紙を撫でながら数秒、考えても結局思い出せずに用向きを聞いた。私の異才はカメラアイのようなものではないから、興味を抱かず読み飛ばせば思い出せない。
「えっと……火の異才について書いてある本とか、ないかなって」
彼女は少し恥ずかしそうに言った。視線が泳いでいる。本を探しに来たのに、司書の先生に聞く勇気がなかったのかもしれない。
「火の異才?」
「私、火の異才なんですけど……あんまり上手く使えなくて。暖かいだけで、役に立たないっていうか、なんでもないっていうか」
その言葉に、本の表紙を撫でる私の指が止まった。
なんでもない。彼女は自分の異才を、そう言った。
胸の奥で、何かが小さく揺れた。泥濘に沈んでいた何かが、ふわりと浮き上がろうとするような。
「こっちよ。案内するわ」
私は立ち上がった。自分でも驚くほど自然に。
図書室の本の配置なら、全て頭に入っている。彼女の探している本はすぐに見つかるだろう。
◇◇◇
日向灯花。それが彼女の名前だった。
同じクラスなのに、私たちはお互いの名前を知らなかった。彼女は秋月さんや七瀬さんと一緒にいることが多くて、私は図書室にいることが多くて、接点がなかった。たとえ同じ教室にいても、見えない壁で隔てられているようかのようにきっと接点はなかったと思うけど。
でも今、その壁に小さな穴が開いた。
「ありがとうございます、柚木さん」
「詩織でいいわ」
なぜそう言ったのか、自分でも分からなかった。普段なら、苗字で呼ばれるままにしておく。距離を保っておいた方が、傷つかないから。
「じゃあ、私も灯花って呼んでください」
彼女は笑った。小さな火が灯るような、暖かい笑顔だった。
その笑顔を見た時、胸の奥で何かが温まるのを感じた。冷たい水底に陽の光が差し、ほんの少しだけ水温が上がったような。
その感覚を言い表す言葉を、私は持っていなかった。
◇◇◇
それから、灯花ちゃんは時々図書室に来るようになった。
秋月さんや七瀬さんと一緒の時もあれば、一人の時もあった。本を借りに来たり、私が勧めた本の感想を言いに来たり。
最初は戸惑った。こんなに何度も話しかけてくる人がいるなんて。裏があるんじゃないかと疑った。でも、灯花ちゃんの目には裏がなかった。澄んだ琥珀色の瞳が、まっすぐに私を見ていた。
「詩織さん、この本すごく面白かった!」
「そう? よかったわ」
私は本を勧めただけ。それなのに、灯花ちゃんは目を輝かせて感想を話してくれる。主人公がどうだった、あの場面がどうだった、最後の展開がどうだった。
私が勧めた本を、こんなに一生懸命読んでくれる人がいる。その事実が、小さな驚きだった。嬉しさ、と呼んでいいのか分からない。でも、胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
「主人公の最後の選択、詩織さんはどう思った?」
私は少し戸惑った。
どう思ったか。本の内容は覚えている。一字一句、違わずに。主人公の選択、その結果、作者の意図、文学的な評価。全部、頭の中にある。
「……そうね。書評だと――」
「あっ、えっと、書評に書いてあることじゃなくて」
灯花ちゃんが首を横に振った。髪が揺れて、夕日に光る。
「詩織さんがどう思ったか、聞きたくて」
私が。
私が、どう思ったか。
その問いかけは、思いがけず深く刺さった。棘でも毒でもなくもっと柔らかいもの。でも、棘よりも深く刺さり、毒よりも言葉を詰まらせた。
「詩織さん、いつも本の内容は教えてくれるけど、詩織さん自身の感想ってあんまり言わないよね?」
灯花ちゃんは不思議そうに首を傾げた。責めているのではない。純粋な疑問として、聞いている。
「詩織さんの言葉で聞きたいな。詩織さんが何を感じたか」
私の言葉。私の感想。そんなもの、あるのだろうか。本に書いてあること以外に、私が語れることなんて。
書架に、言葉はない。ただ置くだけ。並べるだけ。積むだけ。そもそも、書くべき言葉も書かれるべき頁も私は持っていない。
けれど。
灯花ちゃんが待っている。答えを急かすでもなく、ただ静かに、私の言葉を待っている。
その視線に促されるように、口が動いていた。
「……私は」
声が震えた。自分の言葉を口にするのが、こんなに怖いとは思わなかった。
「主人公は、彼女は。間違っていたと思うわ」
「間違ってた?」
「たとえば主人公を慕っていた魔法使いの子。あの子を頼っていれば、もっと良い結末があったはず。一人で抱え込まなくても良かった。彼女が一歩を踏み出しさえすれば、それを誠実に聞いてくれる人がそばにいたのに」
これは書評に書いてあったことじゃない。解説にも、あとがきにも、どこにも書いてなかった。
私が、思ったこと。私の、言葉。
表紙は薄い紙で、装丁は手書きかもしれなかった。糊ではなくステープラで紙が束ねられているかもしれない。
それでも私という本の白紙の頁に初めて言葉を書き込んだ。薄いインクで、震える手で。確かに私の言葉を書き込んだ。
「そっか。詩織さんはそう思うんだ」
灯花ちゃんがにっこり笑った。陽に照らされた花のような笑顔だった。
「詩織さんの感想、聞けて嬉しい」
その言葉が、胸に落ちてきた。
水面に落ちた雫が波紋を広げるように、静かに、深く。冷たかった水底が、また少し温まった気がした。
◇◇◇
ある日の放課後、図書室で灯花ちゃんと二人きりになった。
西日が窓から差し込んで、埃が金色に光っていた。本棚の影が長く伸びて、私たちを包んでいた。世界が、この図書室だけになったような静けさだった。
「詩織さんって、本当に本が好きだよね」
「ええ、好きよ」
それは本当だった。本は私を裏切らない。本は私を「ずるい」と言わない。本の中でなら、私は安全でいられる。
「どうして? そういえば聞いたことなかったと思って」
いつもなら、当たり障りのない答えを返すところだ。「面白いから」「知識が増えるから」。誰も傷つかない、私も傷つかない、安全な答え。
でも灯花ちゃんになら、言える。
なぜそう思ったのか、自分でも分からない。ただ、灯花ちゃんの琥珀色の目を見ていると、嘘をつきたくないと思った。
「……物語の中の人になりたいからかもしれないわ」
「物語の中の人?」
「物語の主人公は、自分の言葉を持っているでしょう? 自分の意志で行動して、誰かの心を動かして」
私は窓の外を見た。夕陽が沈みかけていて、空が茜色に染まっていた。燃えているみたいだった。
「私には、それがないの」
声が震えそうになるのを、必死に堪えた。
「本を覚えているだけ。借りてきた言葉を並べているだけ。空っぽなの。私」
口にしてしまった。誰にも言ったことがなかった言葉。胸の奥に沈めていた、重たい鉛のような言葉。
言ってしまったら、もう取り消せない。灯花ちゃんは私を軽蔑するだろうか。「そんなことないよ」と慰めてくれるだろうか。どちらにしても、私は傷つくのだろう。
灯花ちゃんは少し黙っていた。
私は後悔しかけていた。こんなこと、言うべきじゃなかった。重たい話をして、困らせてしまった。逃げ出したい。本の中に潜り込んで、この場面をなかったことにしたい。
「私も」
灯花ちゃんが口を開いた。
「自分の異才のこと、そう思ってる」
「灯花ちゃんが?」
「うん。火が出せるだけ。暖かいだけ。役に立たないって」
灯花ちゃんは自分の手のひらを見つめた。そこに小さな火が灯る。橙色の、優しい光。図書室の薄暗がりの中で、その火だけが生きているかのように揺れていた。
「でも、詩織さんは違うと思う」
灯花ちゃんが顔を上げて、私を見た。
「詩織さん、自分の言葉で話してくれたよね。『主人公は間違っていた』って。『誰かに頼れば良かった』って」
「それは……」
「それって、本に書いてあったことじゃないでしょ? 詩織さんが考えたことでしょ?」
私は言葉に詰まった。胸に何かが詰まっているようだった。
きっと、灯花ちゃんの柔らかい言葉が、胸に詰まっている。
「詩織さんは覚えてるだけじゃないよ」
灯花ちゃんはまっすぐに私を見た。夕陽が彼女の瞳を琥珀色に染めていた。その瞳の中に、私が映っていた。
小さくて、頼りなくて、でも確かにそこにいる私が。
「空っぽなんかじゃなくて、ちゃんと自分で考えて、自分の言葉を持ってる。私にはそう見える」
「……」
「詩織さんはなんでもなくなんかない。特別だよ」
特別。
その言葉が、胸に刺さった。
棘ではなく、光のように。冷たい水底に差し込んできた、一筋の光。
中学の時に言われた言葉が蘇る。「覚えてるだけ」「本当に頭がいいわけじゃない」「異才がなかったらなにもできない」。
あの言葉は今も私の中にある。抜けもせず、癒すこともできないまま、時々痛む。
でも、灯花ちゃんの言葉は違った。
種のような言葉だった。胸の奥に落ちて、そこで根を張ろうとしている。
自分の言葉を持っている。特別だ。
嘘だと思いたかった。お世辞だと思いたかった。でも、灯花ちゃんの目は真剣だった。本気で、そう思ってくれているのが分かった。だって灯花ちゃんは、嘘がつけない人だから。
「……灯花ちゃん。私の異才、見せたことなかったわよね?」
気づいたら、そう言っていた。
誰にも見せたことがなかった便利なだけの異才、覚えているだけの異才、のもう一つの力。見せたところでなんでもないと思っていた。
でも、灯花ちゃんになら。
灯花ちゃんだけには、見せてもいいと思った。
私が「栞」の異才を発動すれば、さっき話していた本の世界が、私たちの周りに広がる。
文字が光になって、情景が立ち上がって、物語の世界が現実に重なる。図書室の本棚が薄れて、代わりに草原が広がる。風が吹いて、草が波打つ。空は夕暮れで、遠くに街並みが見える。
主人公が立っていた丘。物語の中で、彼女が大切な選択をした場所。
全てが、私たちを包み込んだ。
「えっ……! すごい……!」
灯花ちゃんが息を呑んだ。目を見開いて、きょろきょろと周りを見回している。子供みたいな、純粋な驚き。
「便利なだけよ。本を覚えられて、再現できるだけ」
私は言った。予防線を張るように。期待されると、がっかりされた時に傷つくから。
「便利なだけじゃないよ」
灯花ちゃんが首を振った。髪が揺れて、物語の光を反射した。
手を伸ばして、光でできた草に触れようとしている。指先が草をすり抜ける。当然だ、実体はないのだから。でも灯花ちゃんは嬉しそうに笑っている。
「すっごく、素敵」
「……素敵?」
その言葉を、私は疑った。聞き間違いじゃないかと思った。
「うん。本の世界を見せてくれるなんて、魔法みたい」
灯花ちゃんがくるりと振り返った。夕陽と物語の光が混ざり合って、彼女を照らしていた。境界が分からなくなるほど、現実と物語が溶け合っていた。
「詩織さんの異才、うらやましいな」
便利、じゃなくて、素敵。
ずるい、じゃなくて、うらやましい。
「というか詩織さんって、こんな風にあの本を読んでたんだね」
灯花ちゃんが笑った。
「同じ本を読んだのに、私にはこんな景色見えなかったよ? だからこれって、本に書いてあったとか、誰かが言ってたことじゃなくて詩織さんだけのものなんじゃない?」
世界が滲んだ。
物語の光のせいじゃない。私の目に、涙が滲んでいた。
こらえようとした。こんなところで泣くなんて、みっともない。でも、涙は止まらなかった。胸の奥から込み上げてきて、目尻から溢れていく。
「詩織さん? どうしたの?」
「……なんでもないわ」
声が震えた。なんでもなくなんかない。全然、なんでもなくない。
胸の奥に埋まっていた棘は抜けたわけじゃない。でも、その周りに何か温かいものが流れ込んできて、痛みが和らいでいく。
「ありがとう、灯花ちゃん」
「え? 私は詩織さんに本の中の景色を見せてもらっただけだけど……」
何もしてない。灯花ちゃんはそう言う。きょとんとした顔で、本当に不思議そうに。
でも、全部灯花ちゃんのおかげだ。
書架に過ぎなかった自分を、本にできた。白紙に言葉を書き込めた。
自分はなんでもなくなんかない。そう思えることが、こんなに温かいなんて知らなかった。
私は「栞」の異才を解除した。物語の世界が薄れていって、図書室に戻る。本棚と、窓と、夕陽と。でも、胸の奥の温かさは消えなかった。
「でも灯花ちゃん、図書室で火は出しちゃだめよ」
「あっ!」
◇◇◇
それから、私は少しずつ変わっていった。
本の感想を聞かれた時、「本にはこう書いてあった」ではなく「私はこう思った」と言えるようになった。
最初は怖かった。自分の言葉なんて、価値がないと思っていたから。笑われるかもしれない。否定されるかもしれない。「そんなの間違ってる」と言われるかもしれない。
でも灯花ちゃんはいつも嬉しそうに聞いてくれた。
「詩織さんの感想、好きだな~。本を読んだ後に詩織さんと話すの、楽しい」
白紙だった頁に、少しずつ言葉が書き込まれていく。震える手で、薄いインクで。でも、消えない言葉。私自身の言葉。私自身の物語。
灯花ちゃんが、書き込んでくれている。いや、違う。灯花ちゃんが、私に筆を持たせてくれている。「書いていいんだよ」と、手を添えてくれている。
書いているのは、私自身だ。
物語の主人公になりたかった。
現実の私には価値がないと思っていたから。物語の中でしか、私は誰かになれないと思っていたから。
でも灯花ちゃんが教えてくれた。
現実の私にも、言葉がある。現実の私にも、誰かにとっての価値がある。
物語の外にも、私の居場所がある。
本を閉じても、世界は続いている。灯花ちゃんがいる世界が、続いている。
水底に沈んでいる必要はなかった。息を止めていなくても、ここで息ができた。灯花ちゃんがいれば、現実の空気も冷たくなかった。
◇◇◇
いつからだろう。
灯花ちゃんの顔を見ると、胸がどきりと鳴るようになったのは。
灯花ちゃんが他の誰かと話していると、胸の奥がきゅっと締め付けられるようになったのは。
灯花ちゃんが「詩織さん」と呼んでくれるだけで、心臓が跳ねるようになったのは。
物語の中で、何度も読んだ感情だった。
主人公が誰かを想う時の、あの描写。胸が締め付けられるような、でも温かいような、不思議な感覚。言葉にできない想いが溢れて、どうしていいか分からなくなる感覚。
文字で読んだ時は、分かったつもりでいた。ああ、これが恋というものか、と。分析して、理解して、棚に並べていた。本の一冊として。
でも、自分の身に起きてみると、全然違った。
こんなにも苦しくて、こんなにも幸せで、こんなにも怖い。本で読んだ百の言葉より、この胸の高鳴りの方がずっと雄弁だった。
灯花ちゃんが笑う。私の胸が熱くなる。
灯花ちゃんが話しかけてくる。私の心臓が跳ねる。
灯花ちゃんが隣にいる。それだけで、世界が明るくなる。
ああ、これは。
私は灯花ちゃんのことが、好きなんだ。
物語の中の感情じゃない。借り物の言葉じゃない。現実の私が、現実の灯花ちゃんを、好きになっている。
私は書架だった。なんでもなかった。
でも今は違う。
柚木詩織という本には、灯花ちゃんがくれた言葉が書いてある。「特別」という言葉が。「素敵」という言葉が。「うらやましい」という言葉が。
消えないインクで、私の頁に刻まれている。
そして今、新しい言葉が書き加えられる。
私自身の手で。私自身のインクで。
好き。
この感情を、何と呼ぶのか知っている。物語の中で、何度も読んできたから。
でも今は、本の中の言葉じゃなく、私自身の言葉で。
灯花ちゃんの笑顔を見ると、胸の奥がじんわりと温かくなる。冬の日に暖炉の前にいるような、安心する温かさ。
灯花ちゃんが誰かと楽しそうに話していると、胸がきゅっと締め付けられる。私も隣にいたいと思う。灯花ちゃんの声を、一番近くで聞いていたいと思う。
灯花ちゃんが困っている時は、そばにいたい。灯花ちゃんが泣いている時は、抱きしめたい。灯花ちゃんが笑っている時は、その笑顔をずっと見ていたい。
灯花ちゃんの隣にいると、私も笑っていいんだと思える。私の言葉にも価値があるんだと思える。
私は――。
……結局、好き、という言葉に辿り着いてしまう。
どれだけ言い換えようとしても、どれだけ自分の言葉を探しても、この感情を言い表せるのは、陳腐で、ありふれたその二文字だった。
借り物の言葉だと思っていた。物語の中で使い古された、誰でも知っている言葉。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
この二文字を、こんなにも実感を持って噛みしめたのは初めてだ。文字の形も、音の響きも、今までとは全然違って感じる。
同じ「好き」でも、私が灯花ちゃんに抱く「好き」は、私だけのものだ。
だからこれは、借り物なんかじゃない。私の言葉だ。
……なんて、まだ言い切れない。
もっと自分の言葉を持たなくちゃ。灯花ちゃんがくれた言葉に応えられるくらい、自分の言葉を。
これまでの私は、前書き。私の物語は、ここから始まる。
白紙だった頁に、初めての言葉が灯った。
それはきっと、灯花ちゃんの火のように――小さくて、頼りなくて、でも確かに暖かい。




