某日、千の面を持つ少女
私、七瀬彩羽が日向灯花に恋をしたのは、たぶん高校1年の秋のこと。
私は小さい頃から空気を読むのが得意だった。
お父さんが疲れている時は静かにしていた方がいい。お母さんが忙しそうな時は甘えない方がいい。先生が求めている答えはこれ。友達が喜ぶ反応はこれ。
全部、分かった。
「彩羽は賢いね」
「彩羽は手がかからなくて助かるわ」
褒められるたびに、私は「分かる子」でいようと思った。
わがままを言ったことはほとんどない。言う必要がなかった。相手が望むことを先回りして、望まれる自分でいれば円滑に毎日が過ぎていったから。
異才が発現したのは、中学に上がってすぐの頃だった。
変身。自分の姿を自由に変えられる能力。
最初に思ったのは「私にぴったりだ」ということだった。
だって私はずっと「変身」してきたようなものだから。場所によって、相手によって、自分を変えてきた。心だけじゃなくて見た目まで変えられるようになったのは、むしろ自然な進化のような気がした。
◇◇◇
高校に入って、演劇部に入部した。手品同好会にも入ったけど、そっちは趣味みたいなもの。
演劇部では、私の才能はすぐに認められた。演技がうまいと褒められた。当然だと思った。だってずっとやってきたことだから。
高校1年生の夏、文化祭の演目の配役発表があった。
「主役は七瀬さんにお願いしたいと思います」
顧問の先生がそう言った時、先輩たちがざわついた。1年生が主役なんて前例がないから、当然の反応だ。
「変身能力があるから、この役にぴったりなのよ」
先生はそう説明した。確かに今回の主役は「姿を変えられる不死者」という役だ。演技中に本当に姿を変えられる私は、確かに適役だろう。
「もちろんそれだけじゃありません。七瀬さんの演技力を買っての起用です」
先生がそう付け加えてくれて、嬉しかった。
嬉しかったはずなのに、なぜか胸がざわついた。
『千の面を持つ者』
それが今回の演目のタイトルだった。
太古から生きる不死者の物語。主人公は姿を自在に変えられる能力を持ち、時代ごとに別人として生きてきた。出会いと別れを繰り返す中で、かつて愛した人々の顔も、自分が何者だったのかも、少しずつ忘れていく。
でも得るものもある。新しい出会い、新しい感情、新しい自分。
そして物語の最後、主人公は問いかける。
「私は誰なのだろうか」
答えは出ない。でも、それでいいのかもしれない。すべての姿が自分なのだから――そう独白して、幕が下りる。
何度も脚本を読み返した。役作りのために、というのは建前で、本当は読むたびに胸がざわついて仕方なかったから。
「私は誰なのだろうか」
そのセリフが、頭から離れなかった。
練習が始まって二週間が経った頃、私は家の鏡の前に立っていた。
今の姿は、いつもクラスで見せている姿だ。明るい茶色の髪、緑の目、小柄で可愛らしい印象。みんなが知っている「七瀬彩羽」の姿。
でも、これは変身した姿だ。
本当の姿じゃない。
「……戻ってみよう」
変身を解く。
鏡に映る顔が変わる。髪の色、目の色、顔の輪郭。全部が「本来の自分」に戻っていく。
「……」
鏡を見つめる。
これが本当の私。これが素の私。変身していない、生まれたままの私。
なのに。
「……なんか違う」
思わず呟いてしまった。
見慣れない顔だった。自分の顔じゃないみたいだった。変身した姿の方がよっぽど「自分らしい」気がする。
変身した姿の方が自分らしいって、何それ。おかしくない?
本当の自分って、どれ?
鏡を見つめながら、ぞっとした。
◇◇◇
その次の日、学校ではいつも通りに振る舞った。明るく、元気に、ムードメーカーとして。
でも頭の中は、昨夜のことでいっぱいだった。
本当の自分。本当の顔。私は誰。
考えても答えが出ない。
だから、誰かに聞いてみたくなった。
「ねえねえ」
クラスメイトに声をかけた。軽い調子で、いつもの私らしく。
「私の本当の顔ってどんなだと思う?」
「え?」
クラスメイトが困惑した顔をする。
「本当の顔って……?」
「え、もしかして七瀬さんって今も変身してるの?」
「でも七瀬さんのことだし、可愛いんだろうなぁ」
予想していた反応だった。
深刻にはなりすぎず、あくまで「また彩羽がちょっと変なこと言ってるな」。
そんな反応。
本当の顔なんて見せたことないんだから、誰も答えられるはずがない。
分かってた。分かってて聞いた。
でも、誰かに「これが本当の彩羽だよ」って言ってほしかった。
「彩羽ちゃん、どうしたの?」
声をかけてきたのは、灯花だった。
日向灯花。高校に入ってから仲良くなった子の一人。
灯花のことは好きだった。
からかうと面白いくらいに反応してくれるし、抱きついても怒らないし、一緒にいて楽だった。
灯花は嘘をつかない。演技をしない。思ったことがそのまま顔に出る。
私とは正反対だ。
だから最初は「この子、大丈夫かな」と思っていた。そんなに素直で、やっていけるのかなって。
でも最近は分かる。灯花は素直なまま、ちゃんと生きている。自分みたいに演技しなくても、ちゃんとみんなに好かれている。
それが眩しくて、ちょっとだけ羨ましかった。
「あ、灯花。おはよー」
「おはよう。何の話してたの?」
「あー、うん。ちょっとね」
誤魔化しても良かったけど、灯花にも聞いてみたくなった。
いつもからかうと良い反応をするこの子は、いったいどんな反応をするのだろう?
困惑する? 慌てる?
「ねえ灯花、私の本当の顔ってどれだと思う?」
灯花は少し考えるように首を傾げた。
「本当の顔?」
「そう。私、変身能力あるじゃん? だから今の顔は本当の顔じゃないんだよね。でも本当の顔がどんなだったか、自分でもよく分かんなくなっちゃったんだ」
言ってから気が付く。今のは本音だ。クラスのみんなには言わなかった本音。それが灯花には口をついて出た。
そして灯花は少し困ったような顔をして、言葉を続けた。
「んー、たぶんだけど、彩羽ちゃんは彩羽ちゃんじゃない?」
「……っていうと?」
「変身してても、してなくても、彩羽ちゃんは彩羽ちゃんでしょ?」
灯花は当たり前のことを言うみたいに、あっさりと続けた。
「全部彩羽ちゃんなんだから、私は全部好きだよ」
そう言ってから、灯花は少し困ったように眉を下げた。
「あ、でも彩羽ちゃんが本気で演技したら私には絶対見抜けないし……ちょっと言い過ぎたかも?」
――ずるい。
そういうこと、さらっと言うの、ずるいよ灯花。
私がずっと欲しかった言葉を、当たり前みたいに言う。
全部好き、なんて。
変身してても、してなくても、全部彩羽ちゃんだって。
しかも、それを本心で言える。そんなの――そんなの、ずるい。
小さい頃からずっと、私は「望まれる自分」でいようとしてきた。
お父さんの前ではこう。お母さんの前ではこう。先生の前ではこう。友達の前ではこう。
場所によって、相手によって、自分を変えてきた。
「彩羽は賢いね」
「彩羽は空気が読めるね」
そう言われるたびに、私は正解を出せたんだと思った。
でも同時に、どこかで分かってた。褒められているのは「本当の私」じゃない。相手が望む「彩羽」を演じた結果を褒められているだけ。
舞台の上の不死者と同じだ。姿を変え続けて、相手に合わせて自分を作り変え続けて。そのうちに「本当の自分」がどこかに行ってしまう。
脚本を読んだ時、あの台詞が怖かった。
「私は誰なのだろうか」
これは不死者の言葉じゃない。私の言葉だ。私がずっと心の奥で思ってたこと。
誰かに「本当の姿を見せて」と言われるのが怖かった。
見せたところで、その姿を好きになってもらえる保証なんてない。
「思ってたのと違う」ってがっかりされるかもしれない。今まで見せてきた姿の方が良かったって言われるかもしれない。
だから聞いたのだ。「本当の顔ってどれだと思う?」って。
誰かに決めてほしかった。これが本当の彩羽だよって、誰かに言ってほしかった。
もし誰かが本当の「彩羽」を示してくれたなら、「そう」であればいいのだから。
でも灯花の答えは違った。
「変身してても、してなくても、全部好き」
本当の姿を見せなくてもいい。どの姿でも、全部私だと言ってくれる。全部含めて好きだと言ってくれる。
「本当のあなたを見せて」じゃなくて、「どのあなたも本当のあなただよ」って。
それは多分私がずっと欲しかった言葉。誰にも言ってもらえなかった言葉。
灯花は、それを当たり前みたいに言った。
「……っ」
こぼれ落ちそうになった涙をまばたき一つでこらえる。
そういう空気じゃないし。七瀬彩羽は明るいムードメーカーだし。深刻な顔はふさわしくない。
だから私は、いつものように笑った。
「……ぷっ、あはは! ごめんごめん、今の演劇の練習!」
声が震えていないか、一瞬だけ不安になった。大丈夫。ちゃんと明るい声が出てる。いつも通りの七瀬彩羽の声だ。
「えっ?」
灯花が目を丸くする。
「いやー、役作りでさ、こういうこと悩んでるキャラなんだよね。どうどう? うまかった?」
おどけて両手を広げてみせる。灯花の顔が、困惑から安堵に変わっていく。
「ちょっと! 心配しちゃったじゃん!」
「あははー! 灯花の反応最高だった! マジで心配してくれた? 嬉しいなー」
灯花に軽く抱きつく。いつもみたいにスキンシップ。
「もー、深刻な話かと思ってドキドキしたんだから……」
灯花がほっとしたように笑う。私も笑う。
いつも通り。いつも通りの七瀬彩羽。
でも胸の奥だけは、全然いつも通りじゃなかった。
心臓がうるさい。灯花の言葉がずっと頭の中で響いてる。
「全部彩羽ちゃんなんだから、私は全部好きだよ」
やめて。何回も再生しないで。
灯花が自分の席に戻っていく。その後ろ姿を、なぜか目で追ってしまう。
暖かい。胸の奥がじんわり暖かい。灯花の火に手をかざした時みたいだ。
……なにこれ。私、どうしちゃったんだろう。
◇◇◇
文化祭当日。
私は舞台の上に立っていた。
何度も姿を変えながら、不死者の人生を演じる。時代が変わるたびに、出会いと別れを繰り返す。そのたびに何かを失って、何かを得て。
そして最後のシーン。
私は舞台の中央に立ち、客席を見つめた。
暗い客席の中で、灯花の姿が見えた。心配そうな顔で、真剣に舞台を見てくれている。
「私は誰なのだろうか」
答えは出ない。きっとこれからも出ない。
でも、それでいいのかもしれない。
だって、「全部好き」と言ってくれる人がいるから。
どんな姿でも「彩羽ちゃん」だと言ってくれる人がいるから。
「すべての姿が、私なのだから」
最後の台詞を言い終えて、幕が下りる。
拍手が響く中、彩羽は思った。
私は多分、灯花のことが好きだ。
演技じゃない。変身でもない。これは本当の気持ちだ。
灯花だけが、私の全部を好きだと言ってくれた。変身した私も、素の私も、演技してる私も、全部含めて。
こんな気持ちになったのは、生まれて初めてだった。
「彩羽ちゃん、すごかったよ!」
終演後、着替えを済ませて客席に出ると、灯花たちが待っていてくれた。
「えへへ、ありがと」
「なんていうか、マジでよかった。普通に感動したんだけど」
早紀が腕を組みながら言う。素直に褒めるのが照れくさいのか、ちょっとそっぽを向いている。
「彩羽ちゃん、主役の貫禄だったわよ」
詩織さんがにこにこと拍手してくれる。
「最後の台詞、なんか泣きそうになっちゃった。いっぱい辛いこととかもあったけど、そういうことも全部認められたんだな、って」
灯花がそう言うと、早紀と詩織さんも頷いた。
「わかる。『すべての姿が、私なのだから』ってやつでしょ?」
「彩羽ちゃんの演技あっての感動だったと思うわ」
「ふっふーん。私の演技力もなかなかでしょ?」
胸を張ってみせる。3人ともお世辞で言っているわけじゃない。それが分かるから、素直に嬉しかった。
灯花が少し声のトーンを落として聞いてきた。
「……ねえ、彩羽ちゃん」
「ん?」
「あの時の……クラスで聞いてたの、演劇の練習だったんだよね」
早紀と詩織さんが「何の話?」という顔をしている。あの日のことを知っているのは灯花だけだ。
「うん。おかげで役作りバッチリだったでしょ?」
「そっか。よかった」
灯花がほっとしたように笑う。私も笑った。いつものように、明るく。
嘘はついていない。あれは演劇の練習だった。ちょっとだけ本音が混じっていたけど、それはもういいのだ。
だって灯花が答えをくれたから。
変身してても、してなくても、全部好き。
その言葉があれば、私は大丈夫。
「ねえ灯花」
「なに?」
「ありがとね」
灯花が不思議そうに首を傾げる。
「え? 何が?」
「んー、見に来てくれたこと」
「ちょっと、私たちもいるんだけど?」
早紀がジト目でツッコんでくる。
「あはは、さきっちと詩織ねぇもありがとね!」
「なんか今の、取ってつけた感がすごくなかった?」
「気のせい気のせい」
詩織さんがくすくす笑っている。灯花も笑っている。
私も笑った。今度は、演技じゃなく。
本当は違う。見に来てくれたことだけじゃない。
全部好きだって言ってくれたこと。
私を私のままでいいって言ってくれたこと。
そのおかげで、私は舞台に立てた。
「すべての姿が、私なのだから」
あの台詞を、心から言えた。
だから、ありがとう。
大好きだよ、灯花。
――もちろん、それは口には出さないけど。




