某日、秋月早紀の一番寒い日
これは私が中学2年生の時の話。
私、秋月早紀と日向灯花は、小学3年生の時に同じクラスになってから中学2年の今に至るまで一緒に登下校している。
灯花は私と違ってのんびりしている。待ち合わせに遅れることもあるし、ぼーっとして移動教室を忘れそうになることもある。
「灯花、遅い」
「ごめんごめん」
灯花が息を切らしながら走ってくる。寝坊したのか、髪がちょっとはねている。
「早く早く」
「わー、待って早紀ー」
いつもこんな調子。正直、登下校だって一人でした方が早い。
でも、なぜか一人で行こうとは思わなかった。たぶん庇護欲的なそういうものだ。灯花、私いなくなかったらダメそうだし。
「今日も寒いね~」
「うん」
冬の朝、白い息を吐きながら並んで歩く。
「早紀は寒くないの?」
「普通」
「え~、私すっごい寒いんだけど」
灯花が手のひらに小さな火を灯す。橙色の光が、白い息と一緒に揺れる。
「寒くても灯花は別に火出せるじゃん」
「えへへ、まぁ暖かいだけなんだけどね、私の火」
灯花は自分の異才をあんまり好きじゃないみたいだ。「役に立たない」ってよく言う。
でも私は、灯花の火を見るのが嫌いじゃなかった。
暖かい。それはそれで、十分じゃないかと思う。
◇◇◇
中学2年の冬。その日は朝から雪が降っていた。
「今日めっちゃ積もるらしいよ」
「ほんと? 帰り大丈夫かなぁ」
灯花が心配そうに空を見上げる。灰色の雲が低く垂れ込めていた。
「早めに帰ろ。早く早く」
放課後、私たちはいつもより早く学校を出た。
雪はどんどん強くなっていて、帰り道は真っ白だった。傘を差していても、風で雪が吹き込んでくる。
「さ、さむぅ」
「走れば暖かくなるよ。早くいこ」
私は灯花の手を引いて、近道を選んだ。川沿いの細い道。普段は何でもない道だけど、雪が踏み固められると滑りやすい。
そしてその時の私はそんなことを考えもせず、走って足元を滑らせた。
「あ」
体が傾く。踏ん張ろうとしたけど、間に合わなかった。とっさに灯花の手を離したから灯花は体勢を崩さなかったけど、私は冬の川に落ちた。
冷たい。
川の水が全身を包んだ。浅い川だ。膝上くらいの深さしかない。でも転んで胸元まで浸かった冬の水は想像以上に冷たくて、息ができなくなった。
「――」
立ち上がらなきゃ。わかってる。でも体が動かない。濡れた服が重くて、寒さで手足が痺れて、何もできない。
「早紀!」
私を呼ぶ灯花の声が聞こえた次の瞬間、灯花が川に入ってきた。いつものんびりしている灯花が、迷いなく。
「ちょ、灯花――」
「大丈夫、大丈夫」
灯花が私の腕を掴んで、引っ張り上げようとする。灯花だって濡れてるのに。灯花だって冷たいはずなのに。
「立てる? 早紀」
「……うん」
二人でなんとか岸に上がった。でも、上がったところで状況はあまり変わらない。全身びしょ濡れで、雪は降り続けていて、寒い。すごく寒い。
「さ、む……」
歯の根が合わない。体の震えが止まらない。
「早紀、こっち来て」
灯花が私を抱きしめた。
「ちょ、灯花」
「じっとして」
灯花も濡れている。灯花だって冷たいはずだ。なのに、灯花は私を離さない。
「……ごめん、大きい火は出せないけど」
灯花が私たちのそばに火を灯した。小さな火。いつもの、暖を取る時の火。
「これしかできないけど。でも、ないよりマシだと思う」
灯花の火が、私たちの近くでゆらゆら揺れる。
熱くない。全然熱くない。ただ、暖かい。
「大人の人、誰か来るまで……私がいるから。大丈夫だから」
灯花の声も震えていた。私を助けるために川に入って、私と同じくらい濡れてるのに。気丈に振る舞っている。
「灯花、あんただって寒いでしょ」
「平気」
平気なわけがない。火に照らされた灯花の唇は紫色になりかけてる。
「嘘」
「平気だよ。早紀が低体温症とかになったら困るから」
「……灯花だってなるでしょ」
「私は火が出せるから大丈夫」
そう言って、灯花は火を私の方に寄せた。自分より、私を暖めようとしている。
「……バカじゃないの」
「えー、助けたのにその言い方……」
灯花が唇を尖らせる。こんな状況なのに、いつもと変わらない反応。
「バカだよ。あんただって寒いくせに」
「早紀が心配だったんだもん。仕方ないでしょ」
灯花が困ったように笑った。
寒いはずなのに、胸の奥だけが熱かった。
それから近所の人が通りかかって、私たちを見つけてくれた。
二人とも毛布を借りて、ストーブの前で暖まって。大事には至らなかったけど、二人とも仲良くしばらく風邪を引いた。
「早紀、体調どう?」
次の日、灯花からメッセージが来た。
「まあまあ。そっちこそ」
「私は平気。火があるから暖かくできるし」
またそれだ。自分のことは後回し。
というか体調悪い時に家の中で火を使うのは絶対危ない。
とはいえ、それらをまとめてつっこむ気力はなかった。
「あっそ」
そこで会話を切ろうとして、やっぱりやめた。言わなきゃいけないことがある。
「ありがとう」
「え? 何が?」
メッセージが返ってくる早さからしてちょっと考えて、でも結局わからなかったのだろう。
「助けてくれたこと。私が勝手に滑って転んだのに、灯花まで濡れて」
「そんなの当たり前でしょ。早紀が困ってたんだから」
当たり前。灯花はそう言う。
自分も濡れて、自分も寒くて、風邪まで引いたのに。当たり前で済ませてしまう。
「早紀が無事でよかった。それだけで嬉しいよ」
灯花の返事を見て、胸が痛くなった。
なんだろう、この気持ち。
それから、私は前より灯花の火が好きになった。
暖かいだけの火。役に立たないと灯花は言うけど、私はあの火に救われた。
「今日も寒いね」
「うん」
冬の朝、一緒に登校する。灯花が手のひらに火を灯す。
「……早紀も暖まる?」
灯花が火を差し出してくる。いつものように、当たり前のように。
「いい、私は寒くないし」
「そう?」
灯花が首を傾げる。
本当は暖まりたい。灯花の火に手をかざしたい。でも、あの日のことを思い出してしまいそうで、なんとなく恥ずかしい。
――いつからだろう?
灯花の隣にいると、落ち着くようになったのは。灯花がいないと、寂しいと思うようになったのは。灯花の笑顔を見ると、胸が痛くなるようになったのは。
「早紀? どうしたの、ぼーっとして」
「……なんでもない。早く行くよ」
我ながら素っ気ない返事だと思う。でも、それ以外にどう返せばいいのか分からなかった。
「あ、待ってよー」
灯花に先立って歩き出す。
私は多分、灯花のことが好きだ。友達としてじゃなくて、それ以上の意味で。
いつから好きになったのか、はっきりとは分からない。あの川の日がきっかけだったのか、それともその前からだったのか。
でも、一つだけ確かなことがある。
灯花の火に、私は救われた。
暖かいだけ。役に立たない。灯花はそう言うけど、私にとっては違う。
灯花の火は、私の一番寒かった日に、そばにいてくれた火だ。




