12月18日、ほんの些細な一大事
次の日。
灯花の席は空いていた。
山本先生が「日向さんは体調不良でお休みです」と言った時、ちょっと息が詰まったような感覚がした。
……私のせいだ。
彩羽と詩織も、灯花の席を見ていた。彩羽はいつものように振る舞おうとしているけど、どこかぎこちない。詩織は静かに窓の外を見ている。
転校生は――いつも通りだった。何も変わらない顔で、自分の席に座っている。
昼休み。
私は1人で屋上に向かった。誰とも話したくなかった。
屋上のドアを開けると、冬の冷たい風が吹き抜けた。
誰もいない、と思ったら、転校生がいた。
「……なんでここに」
「早紀を待ってた」
転校生が振り返った。
「私を?」
「うん。彩羽と詩織も呼んでる」
は? 何を言っているんだ、こいつは。
「話がある」
「話?」
「みんなに」
その時、屋上のドアが開いた。彩羽と詩織が入ってきた。
「花輪さんに呼ばれたんだけど……さきっちもいたんだ」
彩羽が言った。いつもより声が小さい。
詩織は無言で転校生を見つめている。
転校生が私たち3人を見た。
「今日、灯花は休んだ」
「知ってる」
私は短く答えた。
「みんなのせいじゃないって言いたいところだけど、たぶん関係はある」
転校生の言葉が、胸に刺さった。
「……分かってる」
彩羽が俯いた。
「昨日のこと。灯花がどう受け止めたか、分かる?」
転校生が聞いた。
「どうって……」
「『また人を傷つけちゃった』。そう思って自分を責めてる。そうだよね」
転校生の声は淡々としていた。責めているわけでもない。ただ、事実を述べているだけ。
「……それは」
私は言葉に詰まった。
分かっていた。灯花がそう思うことくらい。でも、止められなかった。
「傷つくなとは言わない。傷ついたということを伝えるなとも言わない」
転校生が続けた。
「でも、それを伝えられた灯花がどう思うかは、考えないとダメだと思う」
「……分かってる」
私は呟いた。分かっている。分かっているけど。
「あのさ」
彩羽が口を開いた。
「花輪さん、なんでこんな話を私たちに? 灯花のこと心配してるのは分かるけど、わざわざ3人集めてまで……」
転校生は少し間を置いてから、答えた。
「みんな、灯花のことが好きでしょう」
空気が凍った。
「友達として、じゃなくて」
転校生が続けた。
「……っ」
私は息を呑んだ。彩羽も詩織も、固まっている。
「なんで……」
彩羽が呟いた。
「見てれば分かる。灯花を見る目、私と話す時の態度、昨日の反応。全部」
転校生は淡々と言った。
「私に対するちょっとした敵意も、嫉妬も、全部わかる」
反論できなかった。見抜かれていた。全部。
「……それで?」
私は聞いた。
「灯花に告げ口でもするの?」
「しない」
転校生が首を振った。
「ただ、みんなに聞きたい」
転校生が私たち3人を見た。
「みんなは灯花が好き? それとも、灯花が自分を好いているのが好き?」
何を言っているんだ。
「どういう意味?」
彩羽が聞いた。
「みんなの恋は、言ってみれば愛されたいという気持ち」
転校生が言った。
「灯花に大切にされたい。灯花に特別扱いされたい。灯花の一番になりたい。そういう気持ち」
図星だった。
「だから、灯花が私に心を開いたのが許せなかった。自分たちより先に、自分たちより深く」
「……っ」
私は唇を噛んだ。
「それを恋じゃないとは言わない。でも、それだけじゃ足りない」
転校生が私たちを見た。
「恋するなら恋することを、愛するなら愛することを、知らなきゃダメ」
「……どういう意味よ」
私は聞いた。
「恋されることじゃなくて、恋すること。愛されることじゃなくて、愛すること。その違い」
転校生の言葉が、胸に落ちてきた。
私は灯花に恋している。でも、私がしてきたのは――灯花に愛されることを求めていただけだったのか?
「あんたに灯花の何が分かるの」
気づいたら、そう言っていた。
「あんたは転校してきて2週間。私は6年、灯花のそばにいた。あんたより灯花のことを知ってる」
「みんなのほうが灯花のことを知っているなら、どうすればいいか分かるはず」
私の反駁に、転校生はなんでもないことかのように言い返す。何も反論できなかった。
「私より灯花のことを知っているなら、灯花が何を言われたら傷つくか、分かるはず。灯花がどう自分を責めるか、分かるはず」
分かっていた。分かっていたのに、私は昨日、灯花を責めた。
「灯花のことを知っているなら、灯花のために何ができるか、考えられるはず」
さっきは腑落ちした転校生の言葉が、今度は胸に突き刺さる。
私は灯花のことを知っている。6年間、ずっとそばにいた。
でも、その知識を、灯花のために使っていたか?
灯花が傷つくと分かっていて、それでも自分の感情をぶつけた。
それは――灯花のためじゃない。自分のためだ。
「……私、最低だ」
気づいたら、そう呟いていた。
「最低じゃない」
転校生が言った。
「ただ、間違えただけ。正せばいい」
「正せる……?」
「灯花は、みんなのことが好き。それは変わらない」
転校生が空を見上げた。
「みんなが傷ついたことも、灯花は分かってる。だから自分を責めてる」
「……うん」
「みんなはどう? 自分に心を開いてくれない灯花なんて、嫌い?」
「……そんなわけない」
そんなわけない。大好きだ。
そうだ。
灯花は、私たちに嫌われたと思っているかもしれない。
だから今日、学校に来られなかったのかもしれない。
「……花輪さん」
彩羽が口を開いた。
「花輪さんは、灯花のこと、どう思ってるの?」
転校生は少し考えてから、答えた。
「大切だと思ってる」
「恋とかじゃなくて?」
「恋じゃない」
即答した。
「未来永劫しないとは言えないけど、今は少なくとも」
転校生が少し口角を上げる。
「だから、私がもし灯花に恋したら大変。たぶん灯花は私のもの。それでもいいの?」
彼女がそんな風に笑うのをはじめて見た。
「……っ」
私は言葉を失った。
冗談なのか本気なのか、分からない。
「脅し?」
彩羽が聞いた。
「忠告」
転校生が答えた。
「私は今、灯花に恋してない。でも、みんながこのままぐずぐずしてたら、どうなるか分からない」
「……それって」
「もし私が灯花に恋して、灯花と付き合いたいってなったら、今のままなら灯花は私を選ぶ」
それは……嫌だ。そんな風に、灯花の隣に立てなくなるのは、嫌。
「だから、みんなが本気なら、ちゃんと向き合って。灯花と。自分と」
転校生はそう言って、空を見上げた。
「私に取られたくないなら、ね」
「……上等」
私は呟いた。
「そっちこそ、私たちに取られて火の練習とやらができなくなっても知らないからね」
転校生が少しだけ目を細めた。
「……そっか」
彩羽が少しだけ、表情を緩めた。
「私たちがどうすればいいか、分かった気がするわ」
詩織が静かに言った。
「灯花ちゃんに会いに行かなきゃ。嫌いになったわけじゃないって、伝えなきゃ」
「……うん」
私も頷いた。
灯花のところに行こう。
灯花に伝えよう。
私は灯花のことが好きだ。灯花を傷つけたくて言ったんじゃない。ただ、自分の感情を抑えられなかっただけ。
それは言い訳かもしれない。でも、伝えないよりはマシだ。
「行こう」
私は言った。
彩羽と詩織が頷いた。
転校生は、何も言わなかった。ただ、さっきの笑みの余韻が、まだ残っているような気がした。
◇◇◇
転校生の言葉が、頭の中で繰り返されている。
「今のままなら灯花は私を選ぶ」
悔しい。でも、否定できない。
転校生は2週間で灯花の心を開いた。私は6年かかっても開けなかった扉を。
「恋するなら恋することを、愛するなら愛することを、知らなきゃダメ」
私は灯花に恋している。
でも、私がしてきたのは何だったんだろう。
灯花のそばにいたかった。灯花に必要とされたかった。灯花の一番になりたかった。
それは——灯花を愛していたのか? それとも、灯花に愛されたかっただけなのか?
昨日、私は灯花を責めた。「私の言葉は届いていなかったのか」と。
でもそれは、灯花のための言葉じゃなかった。
私が傷ついたから。私が悔しかったから。だから灯花にぶつけた。
灯花がどう感じるか、考えもしなかった。
私より灯花のことを知っているなら——転校生はそう言った。
私は6年間、灯花のそばにいた。灯花が自分を責めやすいことも、灯花が人を傷つけるのを怖がっていることも、知っていた。
知っていたのに、私は灯花を傷つけた。
知っていたからこそ、傷つけてしまった。
最低だ。
でも——転校生は言った。間違いは正せる、と。
「上等」
私はさっき、そう言い返した。
負けない。転校生にも、自分の弱さにも。
灯花のために。
今度こそ、本当に灯花のために。
◇◇◇
環さんの言葉が、ずっと胸に残っている。
「今のままなら灯花は私を選ぶ」
ずるい。そんなこと言われたら、黙ってられないじゃん。
でもたぶん、本当のことだ。
環さんは灯花と同じ火の異才を持ってる。灯花の火を「暖かい」って言って、灯花の過去を受け止めて、灯花を変えた。
私には、それができなかった。
「みんなは灯花が好き? それとも灯花が自分を好いているのが好き?」
私は灯花が好き。それは本当。
でも、私が求めていたのは何だったんだろう。
灯花に特別扱いされたかった。灯花の一番になりたかった。灯花に恋してほしかった。
それって――灯花を好きなのとは、ちょっと違う気のかも。
灯花のためじゃなくて、自分のため。
環さんが言った「愛されたいという気持ち」。
それ、まさに私だ。
恋するなら恋することを知らなきゃダメ。
恋することって、何だろう。
灯花のことを考えること? 灯花のために何かすること? 灯花が幸せならそれでいいって思うこと?
……最後のは、まだ無理かもしれない。
でも、負けたくない。環さんにも。自分の弱さにも。
私は灯花の友達でいたい。灯花の恋人にもなりたい。
でも、その前に灯花を傷つけたことを、謝らなきゃ。
そこからだ。
◇◇◇
花輪さんの言葉が、波紋のように広がっていく。
「今のままなら灯花は私を選ぶ」
物語の中で、こういう場面を何度も読んできた。
ライバルの登場。宣戦布告。そして、主人公たちは奮起する。
今、私たちは物語の中にいる。
でも、これは本で読む物語じゃない。私自身の物語だ。
「恋するなら恋することを、愛するなら愛することを、知らなきゃダメ」
恋すること。愛すること。
私はそれを知っているだろうか。
物語の中で、たくさんの恋を見てきた。たくさんの愛を読んできた。
でも、それは借り物の知識だ。私自身が恋をすること、愛することとは、違う。
私は灯花ちゃんを愛していると言えるだろうか。
灯花ちゃんに私の言葉を届けたかった。灯花ちゃんの心に触れたかった。灯花ちゃんに必要とされたかった。
でもそれは、灯花ちゃんのためだったのだろうか。
それとも、私が「灯花ちゃんを救った人」になりたかっただけなのだろうか。
花輪さんは灯花ちゃんを救った。私にはできなかったことを、花輪さんはやってのけた。
それが悔しかった。嫉妬した。
でも本当に灯花ちゃんを愛しているなら、灯花ちゃんが救われたことを喜ぶべきだったのではないか。
誰が救ったかなんて、関係ない。灯花ちゃんが楽になれたなら、それでいいはずだ。
なのに私は、自分が救えなかったことを嘆いていた。
それは愛ではない。
自己愛だ。
物語の中で、何度も読んだはずだった。本当の愛は見返りを求めないと。本当の愛は相手の幸せを願うものだと。
知っていたはずなのに、私は分かっていなかった。
知識と実践は違う。言葉と心は違う。
私は今から、学ばなければならない。
恋することを。愛することを。
花輪さんに負けないために――いいえ、違う。
灯花ちゃんのために。
◇◇◇
3人が屋上を出ていった後、環は1人で空を見ていた。
冬の空は高く、冷たく澄んでいる。
しばらくして、環も屋上を後にした。職員室に向かう。
職員室のドアを開けると、担任の山本がデスクで書類を整理していた。
「花輪さん。どうしたの?」
「秋月さんと七瀬さんと柚木さんが早退しました」
環が淡々と告げた。
「え? 3人とも?」
山本が目を丸くした。
「日向さんの家に行くそうです」
「日向さんの……?」
山本は困惑した表情を浮かべた。
「な、なにかあった?」
環は少しだけ間を置いてから、答えた。
「ほんの些細な。でも彼女たちにとっては一大事があって」




