表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

黒い影の殺人


 とある満月の夜、帰宅途中のひとりの女性が、細く長い道を歩いていた。彼女の仕事場から駅に向かう経路としては、この暗く不吉な道がもっとも近道になるからである。この道は様々な意味で呪われていた。


 ここで起きたことを簡略化して説明すれば、過去数か月のうちに五人もの罪もない人が、この道の途上で何者かに刺殺される事件が起きていた。これまで刺された人々に、目立った共通点はなく、犯人の姿を見た者も存在しなかった。警察は厳戒態勢をとって犯人の行方を追っているが、多くの無実の人を厳しく取り調べただけに終わり、殺人犯は今も特定されていない。付近に住居を構える住民たちも、自らが不幸に遭うことを避けるために、夕方になると家に引きこもり、夜の外出を控えることにしていた。


 五人もの人が、ほぼ同じ場所で刺されているのに、事件から数か月が経っても、犯人の目星もつかない現在の状況は、極めて異常である。警察機関が捜査に力を入れても、容疑者はころころと変わった。罪もない人々に次々とあらぬ疑いがかかっていくだけで、その影のような犯罪者を捕らえることはできなかった。


 帰宅を急ぐこの女性は、そのような不吉な現実をさほど受け入れなかった。世の多くの人々がそう感じるように、『過去は過去であり、この自分だけは被害に遭うはずがない』と強く信じ込んでいた。この通りは二百五十メートルほどの長さがあり、その向こうにはすぐ駅があった。例え、多少の危険があるにせよ、この道を通らないで、わざわざ遠回りして帰宅するなど、馬鹿げた選択にさえ思えた。夜の道が暗いのは当たり前。身に迫る危険など、どの道を通っても一緒だ。これまで不幸に遭った人々に、運がなさ過ぎただけだ、と彼女はそこまで考えていた。駅までの道の途上の半分ほどにまで到達したとき、電信柱に大きな看板が掛けられているのを見つけた。それがいつ頃掛けられたのかは分からなかったが、そこにはこう書かれていた。


『過去数か月の内に、五人もの方が、この付近で不幸にも亡くなりました。呪われた通り魔は未だに逮捕されていません。さあ、次に狙われるのは貴女かもしれませんね』


 もしかすると、警察機関が創作した看板かもしれないが、事件の解決に向けて前向きな文言とは、とても思えなかった。急に不安感が増してきた。彼女は辺りを見回した。金曜の夜にしては人通りは非常に少なく思えた。しかし、帰宅途中のサラリーマンの姿を、ちらほらと見かけることができた。勇気を奮い起こして、そっと後ろを振り返ってみた。彼女の五十メートルほど後にも、黒スーツの仕事帰りが歩いていた。前方にはすっかり飲み疲れたカップルが、ふらふらとした足取りで、これもまた駅に向けて歩いていた。そうだ、これだけの視線があれば、通り魔も現れないだろう。彼は五件もの事件を起こしながら、まったく尻尾をつかませぬほど慎重な男。今夜に限っては、絶対に安心なはずだ。自分だけは被害者になるわけがない。彼女はそのように念じることで、何とか恐怖を打ち捨て、自分を励まそうとした。しかし、直後に出会った電柱には、誰が書いたかも知れない、次のような文言が掛けられていた。


『油断してはいけません。通り魔はきっと意外な人物ですよ。目に見えない危険が、貴女のすぐ傍まで迫っている……』


 相手が立派なスーツを着ているからといって、それだけを頼みに安心してはいけないのかも知れない。あるいは、犯人は上品そうな老年の女性かも知れない……。彼女は再び強い不安に襲われるようになった。これまで刺された被害者たちも、相手が毒を感じさせない普通の人間に見えたからこそ、油断してしまい、その鋭いナイフの間合いに入ってしまったのかもしれないではないか……。


 彼女は再び後ろを振り返った。黒スーツの男性の姿は、先ほどよりもずっと近づいており、彼女の十歩ほど背後にまで迫っていた。その人物の顔の部分は陰になってしまっていて、よく見えなかった。自分の前方にいたはずのカップルたちの姿は、横道に逸れて行ったのか、もう見えなくなっていた。


 シニアルキラーとは、無害な人々を殺害すること自体を楽しむ人種である。被害者を執拗に追い詰めていくことに快楽を感じる人種である。もし、背後を歩くあの男性が通り魔だと仮定したら、どうだろう……。まずは恐怖感を植え付けて、その反応を見るために、この私に話しかけてくるだろうか……。そこまで思ったとき、後ろから冷たい声が響いてきた。


「お嬢さん、この道をひとりで歩くのは危険ですよ」


 余りにも低く冷たい声だったので、本当にそう喋ったのかは分からないが、それに近いことを言われたのは事実だった。彼女の不安は頂点にまで達した。


「もしかして……、あ……、貴方が殺人犯なんですか?」


 もはや、聞き取れないほどの小さな声で、彼女はそう尋ねた。


「私がどのような人間かは関係ないでしょう。今、大事なことは、うら若き女性がこんな危険な道の暗がりを、たったひとりで歩いているという信じがたい事実です。世間を賑わせている、通り魔殺人の犯人は、思ったよりも貴女のすぐ傍にまで迫っているのかもしれません。さあ、私と一緒に駅まで向かいませんか……?」


 その男性の冷たい手のひらが彼女の肩に触れた。すっかり追い詰められた心境の女性は、肩にかけていたハンドバックの中に利き手を入れると、防犯用に持ち歩いていたサバイバルナイフを取り出した。そして、素早く振り返ると、その黒い影のような男に向けて、力いっぱいそれを振り下ろした。断末魔の悲鳴が辺りに響き渡った。


 この女性にとって幸いなことに、付近には今の出来事を見ていた人間はいないようだった。足元に転がっている血まみれの死体を一瞥すると、彼女は慣れた手つきで、ハンカチを用いてナイフにこびりついた血液をふき取り、それをカバンの奥にしまった。『また、やってしまった……』そんなことを考えたかもしれない。


 ひとつの哀れな遺体を置き去りにして、その女性は再び駅に向けて歩み出した。これらの事件の加害者は決して人間ではない。この道のあちこちに存在している、多くの不安と恐怖という思念が具現化した姿なのである。やがて、その女性の細い身体は、この道の地面に真っ黒な影となって染みこんでいった。明日の深夜、次の獲物を探すべく、何も知らぬふりをして、再びこの通りに現れるのだろう。


 以上が六回目の殺人劇の詳細である。この事件の発生からどれほどの時間が経とうとしても、結局のところ、警察は犯人を捕らえることができなかった。

 

 最後まで読んで頂いて誠にありがとうございました。また、よろしくお願いいたします。他にもいくつかの完結済みの短編作品があります。もし、気が向かれたら、そちらもぜひ、ご覧ください。2024年9月22日

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ