ドアマット 菊池
「菊池! ドアマット!」
昼休みの教室で、同級生男子たちがドッと笑う。
俺は読んでいた本から顔を上げて一言「毎度!」と返事した。
「おう!」ドアマットと言った川崎が、笑顔で応える。
ドアマット、知る人ぞ知る、ドアの前で靴を綺麗にするドアマット。
創作界隈ではドアマットヒロインのことだと、オタクの同級生が長々と説明してくれたこともあったが、その界隈のことはあまり知らないのでスルーした。
だいたい俺、苗字『菊池』は性別『男』なのでヒロインにはなれない。
そして、いじめられっ子でもない。
実は『ドアマット 菊池』と言えば、この県内、いや両隣の県も含めた住民で知らないものはいない。
俺の祖父が創業し、今は父親が継いでいる会社。
それが『ドアマット 菊池』だ。
その名の通り創業者の苗字が菊池だっただけのドアマットメーカー。
最初は製造だけをやっていたが、顧客の需要に応じるうちに、レンタルや名入りオリジナルマットの製作及びクリーニングなど、一連の流れを商売にしている。
さっき声をかけて来た川崎は、周囲四県にその名を轟かす私立の大総合病院の息子だ。
『ドアマット 菊池』の大得意先のご子息である。
「菊池! ドアマット!」というのは、いつもの注文のこと。
と言っても病院の方は直接、営業に注文が行く。
川崎が俺を通すのは、自宅の方の注文である。
もちろん普段は定期的に交換するのだが、来客の予定があったり、子供や犬の悪戯で一枚だけ交換したいなんて時は、その方が早かったりする。
俺はまだ高校三年生だが、休みの日はドアマット交換のバイトとして働いている。
卒業したら、どうせ始める仕事だし、慣れるなら早い方がいい。
野球部を引退してからは、実家のバイトで身体を動かすのも、いい鍛錬になっている。
とりあえず、今日は帰りに川崎の自宅へ寄って、問題の出たドアマットを確認しなくてはいけない。
ふと目を上げると、手毬と目が合った。
手毬は黒髪ストレートロング、前髪パッツンの超日本美人になりかけている超可愛い女子である。
なぜか、俺を見るなり忙しなく瞬きしたかと思えば、目を伏せられてしまった。ちょっと色っぽい。
小さい時には、よく遊んだのにな。ちょっと寂しい。
手毬の机には散弾銃、じゃないや三段重が広げられていて、手毬の家に居候しているという佐倉がこれ見よがしに手毬寿司を食っている。
旨そうだ。
なぜか、あいつは、いつも俺に見せつけるように食べるのだ。
手毬の作る手毬寿司は、丁寧に漬けた野菜の漬物を使っていて、すごく旨い。
なんか俺に対して挑戦的な感じの佐倉は、ナントカ言う実践的格闘術の有段者で、物凄く強い。
女だてらに体育の授業で男子の柔道実技に混じり、黒帯の教師を投げ飛ばした。
それ以来、学校内で佐倉に逆らう者はいない。
佐倉は三年生に進級した日に転校してきたのだ。
スラリと長身でモデルのような美貌から、すぐに下級生女子が群がりだした。柔道の逸話後はそれも無くなったが、気付けば奴等は遠くから佐倉を拝む新興宗教の一団と化していた。
そんな俺たちの平凡な暮らしを彩るイベントも時に発生する。
なんと、俺たちの暮らす市で、世界の要人が集うサミットが開催されることになったのだ。
時期は夏休み前。
警備の関係から、学校行事やらなんやらも多少変更された。
そして、開催の数か月前から微妙に人口が増え、変に怪しくなさそうな大人がよく歩き回るようになった。
職質を受けたくなければ、さっさと家に帰れ、とホームルームで言われ、ニュースには毎日のように見慣れた市内の景色が流れる日々。
サミットに使用されたホテルにも、当然『ドアマット 菊池』が関わっている。
事前には、本社も工場もガサ入れされたらしい。
いつもと勝手が違い、かなり忙しい思いをしたらしいが、それは主に正社員の話。
アルバイトの俺は呼ばれもしなかったので、全くの無関係だった。
そして、無事、サミットが終わって、故郷が全国ニュースに見向きもされなくなった頃、学校は夏休みに入った。
大学進学はせず、卒業したら即、マット交換員になりたい俺は、張り切ってバイトに勤しんだ。
免許は無いので、社員の運転する車に乗せてもらい、マット交換に走り回る日々。
マットの周りは、どうしても汚れが溜まるので、そこを短時間で掃除したり、なるべく通る人たちの邪魔にならないように気を遣ったりと、なかなか大変な仕事なのだ。
一日中走り回るのにも慣れてきた頃。
その日の行き先は、あのサミットが開催された大ホテルだった。
ホテルともなれば、マットの使用枚数も半端ない。
というわけで、場所を絞っての交換作業になる。
俺の居るチームの担当はメインエントランス周辺。
入口を入ればロビーや土産物店などがあり、特に人通りが多い。
いつも以上に気を遣わなければと緊張した。
そして作業が始まって三十分ほどした頃のことだ。
どうもおかしい。
この頑丈な俺がふらつくのだ。
熱中症って、こんな感じ、なのかな~? あれ~?
そして、あっさりブラックアウトした。
気付けば、イグサの香りも高い和室に寝かされている。
天井の格子が高級っぽい。
クーラーがしっかり効いていて、布団は硬からず柔らか過ぎず。
「……何時間でも寝られそうだ」
「あ、起きた?」
そして、枕元には手毬。
ガバッと身を起こそうとしたら、止められた。
「急に起きないで。点滴の針もまだ刺さってるし」
「点滴?」
「熱中症。丁度、医師会があって通りかかった先生が、近所の訪問医の先生を呼んでくれたの。
気を失った後、眠ったみたいだから点滴しとこうって」
「それは、ご迷惑を。幾らだろう?」
「菊池君と一緒に来た人が、仕事中だから会社で払うって言ってた」
「そうか」
と言いつつも、経理に厳しいお袋が、小遣いから引くかもしれないと、ちょっと思った。
「夕方まで、ゆっくり寝てていいよ。
この部屋、今日は空いてるから」
「サミットが開かれる高級ホテルの部屋代の方が怖いな」
「取らないって。うちのお祖父ちゃん、出入りの人たちにも手厚いから」
「それは、ありがたい。ありがとう。お祖父さんによろしくお伝えください」
「わかった」
ドアのブザーが鳴らされた。
手毬が立ち上がって、遠ざかる。
バイト中かな? ホテルの売店の制服である作務衣姿だ。
和装も最高。後ろ姿も可愛い。
「菊池君、看護師さんが来てくれたよ」
「あ、気が付きましたね。気分どうですか?」
「すごくいいです」
「良かった。血圧測りますね」
「ちょっと低いかな。寝不足でしたか?」
「……暑くて少し寝苦しかったので」
「なるほど。出来れば、もう少し寝てた方がいいです。
今起きても、ふらついちゃうかも」
「わかりました。しっかり寝ててもらいます!」
なぜか、手毬が請け負う。
「では、水分をしっかりとって、お腹が空いたら何か食べても大丈夫ですよ。
お大事に」
「ありがとうございました」
「なんかまた、眠くなってきた」
「うん、寝てていいよ。
起きたら食欲出るといいんだけど」
「起きたら、あれ、食べたいな」
「あれって?」
「……手毬の作った手毬寿司」
「あ、うん……多分、用意できる」
「ごめんな、手毬も仕事中だったんだろう?」
「ううん。今日は午前中だけの予定だったから、午後は暇だったんだ」
「そっか……」
瞼が重くなってきた。
「ふふ、おやすみ」
手毬の声が遠くなる。
夢も見ず、ぐっすり寝て、ふと香ばしい匂いで目が覚めた。
「ほうじ茶の匂い」
「うん、手毬の手毬寿司もあるよ」
起き上がって、食事を始めることにした。
「はい、お手拭き」
「ありがとう」
久しぶりに食べる漬物の手毬寿司は、懐かしくも味わい深い。
「旨い!」
「ふふ。よかった」
「保育園でも、ままごとで、よく料理してたよな、手毬は」
「うん。お父さんみたいに、美味しい料理つくれる大人に憧れてた」
手毬のお祖父さんは、この大ホテルの創業者で今は会長。
彼女のお父さんは板前、お母さんは接客部門のマネージャーとして、このホテルで働いている。
お母さんが会長の娘なので、手毬は孫にあたる。
そして、手毬の伯父さんが今の社長だ。
「手毬も、ホテルで働くつもり?」
「ううん、わたしはこの手毬寿司で弁当屋をやりたいんだ」
「へえ、弁当屋」
「自分で作れる分だけにして、味を守るの」
「そうか」
「うまく行くまでは、ホテルで働かせてもらうけど」
「堅実」
「ふふ。菊池君は?」
「俺はなんも考えてない。
卒業したら家で働かせてもらう。
免許取って、マットの交換作業を粛々と」
「十分、堅実だと思う」
「そうか? うん。俺には特に夢は無いから、手毬の応援をする」
「ほんと?」
「うん」
「ありがとう」
「こっちこそ。手毬寿司、中学の卒業式の打ち上げ以来かな。
やっと食べられた」
「私も、やっと食べてもらえた」
「やっと?」
「……そろそろお迎えが来るんじゃない?」
手毬はなんとなく、話を逸らした。
それからは何のイベントも無く、宿題してバイトして、ちょっと体を鍛えて。
そして新学期がやって来た。
「臨時体育講師の佐倉だ。よろしく頼む」
自己紹介したのは、どっからどう見ても、あの佐倉だった。
謎の転校生佐倉は、挨拶もないまま一学期末に学校を去っていた。
二学期の頭、なぜか講師になって戻って来た。しかも、教えるのは男子。
「先生。質問良いですか?」
「私は構わんが、君の命に係わるかもしれない。
その覚悟があるなら、聞き給え」
「いえ、いいです。なんでもありません」
「そうか。君は賢明だな。何よりだ」
大人しく引き下がったのは、医学部進学予定の川崎だ。
秀才川崎が諦めたなら全員突っ込まない。それがこのクラスの不文律である。
意外と普通な体育授業を受けた後、お待ちかねの昼食だ。
いつもは購買のパンだが、今日は手毬が手毬寿司を御馳走してくれると言っていた。
着替えて、約束のベンチに行くと先客がいる。
「少年、お先にやってるぞ」
「佐倉……先生」
「済まなかった」
「何がです?」
「手毬の手毬寿司、彼女は君のために作っていたのに、ずっと横取りしてたんだ」
「え?」
手毬は黙って顔を赤くしている。
「実は、私は彼女のボディガードでな。
同級生のふりをして、側に居た」
「ボディガード?」
なんと、サミット会場になった大ホテルの会長の孫娘ということで、怪しい筋からの接触の危険があったらしい。
それで、縁戚の娘ということにして、生活を共にしていたのだ。
「じゃあ、毎日、俺にガンつけてたのは俺を遠ざけるため?」
もしかして、危険範囲が広がらないように?
「いや、手毬寿司を独り占めするためだ。それくらい気に入っていた。
誠に済まなかった」
唖然とするしかない。怒りもわかない。
「それにしても、訳ありっぽいとは思ったけど、年齢は疑ってなかったです」
「そうか、少年。女性の若さを信じることは寿命を延ばす」
「先達の教え、ありがたく心に刻みます」
「うむ」
「で、このまま非常勤講師を続けるんですか?」
「いや、他の体育教師が怯えるので、一か月で去って欲しいと土下座された」
「さもありなん」
「仕方が無いので、手毬のとこのホテルに入ってる警備会社に就職する」
「夜中に懐中電灯もってウロウロ?」
「主に、ピシッとスーツ姿でフロアを警戒だ。
ホテルの従業員と思わせて、実はスパイ、じゃなかったガードマンだ」
「どうしても手毬から離れないのか」
「疚しい想いはないぞ。手毬の作る手毬寿司が食べたいだけだ」
「一学期の間、俺のだったはずの手毬寿司を食い散らかしていたくせに」
「散らかしてはいない。ありがたく頂戴していた。
今では立派な中毒患者だ」
「佐倉先生? 私の料理を怪しいクスリみたいに言われると……」
「済まない。それくらい旨い。お陰で裏仕事から足を洗って表に出てきてしまった」
「ちょっと待って! 今のぶっちゃけって、川崎が聞くのを止めた命にかかわる話?」
「大丈夫だ、少年。過ぎた話は蒸し返されないし、私は自由だ。
あの時は、説明が面倒だから切り上げた。
つまり、お前には未来がある。
手毬を娶って、好きなだけ食わしてもらえ」
「娶って……」
「ん? まさか、手毬に近づくのは寿司だけが目的か?」
「いや、俺はずっと手毬のことを……」
好きだった。
保育園時代からずっとだ。
熱中症の原因になった寝不足だって、ホテルへ行ったら手毬に会えるかも、と思って眠れなかったんだ。
遠足の前の小学生か!
「手毬と会えるかもしれないホテルでの仕事って言うだけで、眠れないほど好きなんだろう?
さっさとくっついてしまえ。
それで、高校卒業と同時に結婚して、早く弁当屋を開くんだ。
弁当屋の従業員一号は私だ。今から予約を入れるぞ。
身元は怪しいが、力もあるし勘もいい。
料理より味見のほうが得意だが、まあ、なんとかなる。
それから、金なら唸ってる。出資ならいくらでもするぞ」
なかなか聞き逃すべきではない内容だが、今は聞き逃そう。
「菊池君が、眠れないほどわたしを好き?」
「……うん。保育園の時からずっと、俺は手毬一筋だ」
「保育園。手毬寿司を作れるようになる前からだ」
「そうだ。手毬寿司も好きだが、手毬のことは大好きだ」
「わたしも、菊池君が大好き」
「なかなか盛り上がってきたところ悪いが、そろそろ食わないと昼休み終わるぞ。
胸が一杯なら、私が食べきっておくが?」
「食うに決まってんだろ! 俺の手毬寿司だ」
「少年、いい気迫だ。私がブートキャンプを立ち上げた暁には、特待生として招待してやる」
弁当屋に就職するんじゃなかったんかい? と思ったが、突っ込んでる暇はない。手毬寿司を食わねば。
「菊池君、はい、お茶」
「……ありがとう、手毬」
「うん」
「いちゃついているところ悪いが、早く食べろ」
「食事が終わったんなら、席を外していただいて構わないのだが」
「いや、万一、一個でも残ったら文字通り宝の持ち腐れ。
重箱の隅まで確認しないと、立ち去るに立ち去れん」
「俺が平らげるから、安心して去れ」
「二人とも、もういいから。
後二個。一個ずつ食べちゃって」
「ありがとう手毬」
「最後の一個とは格別だ」
ごちそうさま、と手を合わせてから気付いた。
「手毬、自分の分、ちゃんと食べた?」
「え、ああ、大丈夫、ほら」
手毬の手元には、彼女に似合う可愛い弁当箱。
「こんなこともあろうかと思って、自分の分は確保しておいたし、ちゃんと食べきったよ」
「しっかり者だな、手毬。嫁に来い」
「いいの?」
「あ、嫁はダメかも」
「ダメなの?」
「うん、うちは兄貴が継ぐから、俺は外へ出るんだった。
嫁に来るのは家を建ててからだな」
「菊池君となら、どこだっていいよ」
「俺も」
「口約束が締結されたところで悪いが、そろそろ予鈴鳴るぞ」
「おっといけない」
そんなこんなで、それ以降、俺は週に一度、手毬の手毬寿司を御馳走になった。
他の日は、手毬寿司ではない手毬の手作り弁当を食った。
佐倉はなぜか、手毬寿司以外の日には、寄ってこないのである。
他の生徒の目はあるが、俺と手毬はそれなりにいちゃついた。
その後、無事に……いろいろ事件は起こったが、概ね無事に卒業し、俺は手毬と結婚した。
新居はまだ建たない。
そもそも、手毬を可愛がってるお祖父さんが敷地外で暮らすことに猛反対した。
で、しがないドアマット交換&クリーニング業の新人社員でしかない俺が、大ホテル経営者一族の住む敷地内にある離れに住んでいる。
離れは、一言で言えば、豪邸紹介番組で見るような感じのすごいやつ。
そして、離れにはさらに小ぶりの離れが付属しており、そこには佐倉が住んでいる。
そもそも、手毬のボディガードに佐倉を呼んだのは、お祖父さんなのだそうだ。
どういう人脈かは、知りたくないので聞かない。
「あなた、お弁当忘れないでね」
新妻手毬。恐るべき新妻だ。
可愛いお色気むんむんで、毎日が天国で地獄。
手毬は弁当屋の夢の方向修正をした。
どうしても、お祖父さんが手放したくないとごねるので、ホテルの敷地内に田舎風の茶屋を作ることにしたのだ。
甘味と軽食、小豆と漬物をメインにヘルシー路線で行くらしい。
こういうのは今、海外からのお客にも受けるんだと。
手毬本人がまだ、いろいろ修行中なので、茶屋も計画段階だ。
俺は、手毬が納得してるなら、それでいい。
「お早う! 今日もいい日だな」
毎日訪ねて来る佐倉は、弁当だけは手毬に頼んでいる。
そして、受け取ると、素直にホテルの警備員の仕事に出ていくのだ。
それはいいんだが、休みの日は暇さえあれば俺に格闘技を仕込もうとするのが厄介だ。
「野球部の技では、手毬を守り切れんだろう」
と、頷けるような首を傾げるような理屈をつけて、扱きに来る。
こっちも本気で相手をしないと、とんでもないことになる。
そうしているうちに、なんか、変な勘まで育ってきた。
マット交換の仕事中に、第六感的にヤバそうな人物を見つけ、盗撮して佐倉に送った。
「でかした! 危険人物を感知するとは、マット交換員にしておくには惜しい」
夕食に上がり込んできた佐倉が、何か言っている。
しかし、今夜は手毬の作った手毬寿司。
「佐倉、黙して味わえぬのであれば、去れ」
「む、返す言葉が無い。失礼した」
メニューが手毬寿司の日は、ぜったい佐倉が来るので、手毬はたっぷり作る。
俺の妻の料理を、一礼して恭しく食す人間を追い出すわけにはいかないのである。