プロローグ 2
お読みいただきありがとうございます!
(冗談じゃないわあのデブ‼ あんな気持ち悪い男に嫁がせようなんて、きっと大金をもらう約束でもしたのね‼ くそったれ‼)
心の中で悪態をつきつつ、ドレスの裾を掴んで大きく持ち上げ、セレアは大急ぎで邸の外へ向かっていた。
すれ違う人が何事かと振り返っているが、そんなのに構っていられない。
(とにかく逃げないと! 貴族なんてもうこりごりよ‼)
もともとセレアは市井での生活が気に入っていたのだ。
お金がないから贅沢はできないし、しんどいこともたくさんあるが、それでも市井での暮らしは自由だった。
ゴーチェに連れ帰られてからと言うもの、アマンダにはいじめられるし、淑女教育だなんだのと面倒臭いことを覚えさせられるし、そしてデュフール男爵家にはもう一人ヤバいやつがいるしで、もうたくさん!
邸から庭に飛び出すと、セレアはとにかく隠れなければと近くにあった木の陰に回り込んだ。
ここから逃げるにしても慎重にいかないと、ゴーチェやあのエドメ・ボランとか言う男に見つかってしまう。
ガス灯が当たっていないところで、さらに木の陰になっているところをこそこそと匍匐前進で進みながら、セレアは裏門を探した。大きな貴族の邸には正面の大きな門以外に、使用人や商人が使う裏門があるのである。
表門は目立つが、裏門からならうまく逃げだせるかもしれない。
のそのそと慣れない匍匐前進をしていると、途中でびりびりとドレスが裂けるような音がした。たぶん、枝か何かに引っ掛けたのだろう。だが、そんな小さな問題にいちいち構ってはいられない。
(まるで泥棒にでもなった気分だわ)
それもこれもあのデブのせいだと舌打ちしたセレアが、裏門までの距離を確かめるために顔を上げたときだった。
ぬっと、目の前に二本の足が現れた。
(見つかった!)
悲鳴を上げそうになって、必死に飲み込むと、セレアは顔を上げてさーっと青ざめた。
そこに立っていたのは、あのデブの息子で、セレアの異母兄にあたるアルマン・デュフールだったのだ。あのアマンダババアの一人息子である。
濃い金髪に灰色の瞳のアルマンは、デブともババアともあまり似ていない、そこそこ顔立ちの整った十九歳の青年だったが、見た目で判断はできない。なぜならこの男は性根が腐っていて、それからかなり頭がおかしいヤバいやつなのだ。
「面白いことをしてるなセレア」
アルマンはにやにやと笑いながら、セレアの目の前にしゃがみこんだ。
「知ってるぜ? 親父のやつが、お前をボラン侯爵に売りつけようとしてんだろ?」
「……知ってるならそこをどいてよ」
「やだね」
アルマンは手を伸ばして、セレアの赤銅色の髪をひと房掴むと、くるくると指に巻き付ける。
「知ってるか? 親父のやつ、お前と引き換えに、ボラン侯爵から大金と、そして貴族議員の議席を用意してもらう気でいるんだぜ?」
(そんなことだろうと思ったわ)
金だけでなく議席まで手に入れようとしていたことに少し驚いたが、まあ想定の範囲内だ。ゴーチェは小物のくせに出世欲が強い。そして、自分の能力で上に上がれないことも理解しているので、セレアを利用してのし上がろうと、ずいぶん前から計画していたのである。
「馬鹿だよな。せっかく聖女が手の内にあるんだから、もっと有効な使い方をすべきだろ? そう思わないか」
あのデブが馬鹿なことには大いに同意するが、アルマンに同調はしたくない。
アルマンはセレアの髪から手を離すと、ずいっと酒臭い顔を近づけてきた。
「俺が助けてやってもいいぜ?」
「お断りよ」
ゴーチェもおかしいが、アルマンは彼に輪をかけておかしいのだ。この男の手を取ったが最後、どんな目に遭わされるかわかったものではない。
「そういうなって」
アルマンは笑みを深くして、そして突然セレアを抑えつけるとのしかかって来た。
「ちょ――なにす……」
セレアの言葉が途中で途切れる。
アルマンがセレアのドレスの胸元を引き裂いたからだ。
下にシュミーズもコルセットも着ているが、突然の暴挙にセレアは息を呑んで硬直した。
「俺のものになれよ。悪いようにはしねーからさ」
「あんた、頭おかしいんじゃないの⁉ わたしはあんたの……」
「妹? は! そんな証拠どこにあるんだ。親父が勝手に言ってるだけだろ? どーせ、聖女を見つけて、その母親が昔手を付けた女だったから、自分の娘だって言い張ってるだけだって」
アルマンがそう言いながら顔を近づけてくる。
「お前は平民だが顔はいいからな。安心しろよ、俺がお前の力をうまく使って贅沢させてやるからさ」
(冗談じゃないわ!)
酒臭い息が顔にかかる。
セレアはぎゅっと唇をかみしめて、そして、力いっぱいアルマンの股間を蹴り上げた。
「ぐ――」
「ふざけんじゃないわよバーカ‼」
力が緩んだすきにアルマンを突き飛ばし、セレアはそのまま駆けだそうとした。けれど――
「っざけんな‼」
ぐっと髪が掴まれたと思うとその場に引き倒されて、そして腹を思いっきり殴られる。
「っ――」
一瞬で目の前が真っ赤に染まって、セレアは意識が途切れる寸前、絶望しながら思った。
(聖女なんて、くそくらえ‼)