プロローグ 1
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春も半ばになると、各家でパーティーが開かれることも少なくなる。
社交シーズンの終わりに差しかかったアングラード国の王都。
散りはじめたサクランボの白い花びらが、数年前に開発され、上位貴族を中心に急速に取り入れられはじめたガス灯に照らされた庭に舞っているのが見えた。
ガス灯が灯る場所だけがくっきりと浮かび上がる、夜の庭は、どこか神秘的で、それでいて感傷的な、不思議な雰囲気を纏っている。
パーティー会場でもある二階の大広間のバルコニーから見下ろすアングラード国屈指のお金持ちカロン侯爵家の庭は、平民上がりで貴族生活になじめないセレア・デュフールの目にも見事としか言いようがないものだった。
しかし、眼下の庭も、そして背後で盛り上がっているパーティーも、セレアにとってはどこか他人事で、そして自分とは切り離された別世界のようだった。
それもそのはず、普段のセレアには、このような場所は無縁なのだ。
それなのに、いつもは義母に殴られようがどうしようが、見て見ないふりをする軽薄な父ゴーチェ・デュフール男爵が、どういう腹積もりか、セレアをこれでもかと着飾らせてここへ連れてきた。
「……はあ」
ため息が、バルコニーに吹き込んできた風に攫われていく。
(あのデブは、いったい何を企んでいるのかしら?)
セレアは、自分の父親であるゴーチェのことを、腹の中では「デブ」と呼んでいた。
というのも、ゴーチェは自分がセレアの父だと言って、今から七年前――ちょうどセレアが十歳の時に迎えに来たが、はっきり言って、セレアは彼のことを「父親」だとはこれっぽっちも思っていないからだ。
何故ならセレアは、十歳の時まで父親を知らずに市井で育った。
八歳の時に母親が流行り病で亡くなってからも、隣のパン屋のマリーおばさんと、それからマリーおばさんの一人息子である一つ年上の幼馴染のバジルに助けられて、がんばって生きてきたのだ。
(力を使っちゃったわたしが悪いんだけど……聖女だって噂になった途端に迎えに来るなんて、あのデブとの間に本当に血のつながりがあったとしても、父親なんて思えないわ)
ゴーチェは、セレアを利用することしか考えていない。
この国に今聖女が何人いるのかは知らないが、聖女は十万人に一人誕生するかしないかという低い確率で生まれる、浄化の力を持った女性のことである。
聖女は瘴気溜まりと言われる魔物の発生源を浄化できる唯一の存在で、発見されれば高い確率で貴族、もしくは王族に取り込まれる。
ゴーチェがセレアを迎えに来たのも、セレアが聖女の力を持っていたからだ。
あのデブは、貴族――特に領地持ちの高位貴族が喉から手が出るほど欲しがる「聖女」を使って、自分がのし上がることしか考えていないのだから。
(あのデブは、わたしをどこに嫁がせるかずっと考えていたみたいだし……もしかして、今日この場で、その結婚相手と顔合わせさせるつもりでいるのかしら?)
セレアがパーティーに連れてこられたことはほとんどない。
普段はセレアのことが気に入らない義母アマンダ――セレアは心の中でババアと呼んでいる――が、セレアをいじめるためだけに使用人のように扱っているからだ。
(今朝、あのババアは妙に機嫌がよかったから、多分この予想は間違っていない気がするわ)
デュフール男爵家が一年ほど前から借金取りに追われていることをセレアは知っていた。
どうやら祖父が残した金を使いきったゴーチェが、自分たちが豊かな生活を送るためにあちこちから金を借りて回っていたらしい。
金を借りるところがなくなって、自分のドレスや宝石に回せる金が底をついたせいか、アマンダはこの一年間というものずっと機嫌が悪かった。
金切り声で叫んで、セレアに花瓶や熱い紅茶の入ったティーカップを投げつけてくることは日常茶飯事。掃除をしているセレアの背中を踏みつけ蹴とばし、先月はナイフまで持って来た。それを見つけたゴーチェが「商品価値が下がる!」と慌ててアマンダの手からナイフを取り上げたので、切り付けられることはなかったが、あの時のことを思い出すだけでゾッとする。
そんな年中機嫌の悪いアマンダが、今日は上機嫌でセレアにイヤリングまで貸してくれたのだ。
セレアのドレス自体は、こうしたパーティーの時のために数着用意されていたが、さすがにアクセサリーまでは持っていなかった。
はっきり言ってババアのイヤリングなど身につけたくはなかったが、つけろといわれたので、趣味の悪い大きなルビーのイヤリングを、渋々耳につけてきた。このイヤリングは重すぎて耳朶が痛いから外したくて仕方がないが、パーティーが終わらないことには外すことはできない。
もう何度目になるかわからないため息を吐いたとき、席を外していたゴーチェが戻って来た。
「わしの可愛いセレア」
ぞっとするような猫なで声でセレアの名を呼んだゴーチェに、セレアは二の腕に鳥肌が立つのを感じながら振り返る。
見れば、ゴーチェの隣には、四十歳ほどの、ゴーチェに負けず劣らずでっぷりと太った二重顎の男の姿があった。
(誰これ?)
丸くて短くて太い指先には、趣味の悪いごてごてした指輪がわんさかとはめられている。
自分の年を考えろよと突っ込みたくなるような派手な深紅のクラバットに、髪が薄いくせに整髪料をたっぷりと塗ったから頭皮が見えているテカテカした頭。
そして何より、セレアの顔から足元までを舐めるように見てニヤニヤと笑う顔に、ぞわわっと背筋に怖気が走る。
(キモッ‼)
生理的に受け付けないとはこのことだろうか。
触れられたわけではないのに、見られるだけで犯されたような気分になって、セレアは後ずさり、背後のバルコニーの手すりに背中を押し付けた。
セレアが必死に気分の悪さと戦っているというのに、ゴーチェはにこにこと、こちらも気味の悪い笑顔を浮かべている。
「セレア、こちらはエドメ・ボラン侯爵様だよ。名前くらいは、お前も知っているだろう?」
(知らねーよ)
とセレアは心の中で悪態をついた。
セレアはゴーチェに市井から連れ帰られてからと言うもの、家の中に押し込められていることがほとんどで、人付き合いなどしたことがないからだ。もっとも、人付き合いを勧められていたとしても、ゴーチェやアマンダをはじめ、貴族なんて碌な人間がいないだろうから、自分から近づこうとはしなかっただろうが。
「ボラン侯爵様はお前も知っての通り大臣様だ。そして光栄なことに、ボラン侯爵はお前のことがとても気に入ってくださったみたいだよ」
(だから知らな――は?)
セレアは目を点にした。
(このデブ、今なんて言った⁉)
セレアは頭から冷水をかぶせられた気分だった。
真冬にアマンダからバケツで水をかけられたことがあるが、そのときと同じような気分だ。
急速に体の芯が冷えていくような感覚の中で、ゴーチェの陽気な声が幾重にも重なって聞こえる。
「嬉しいだろう、セレア。お前は侯爵夫人になれるんだ」
ゴーチェの猫なで声と、にやにやといやらしい目で見てくるデブ二号――もとい、エドメ・ボラン。
真っ青になったセレアは、倒れそうになるのを必死でこらえて、にこりとエドメ・ボランに向かって微笑んだ。そして――
「光栄ですわ、お父様。でも、お話は少し待っていただいてもいいでしょうか? ちょっと、お手洗いに……」
「おおそうか、じゃあここで待っているから早くいっておいで」
「ええ……」
セレアはエドメ・ボランに向かって丁寧に会釈すると、パーティー会場を横切って広間の外に出ると、廊下をトワレットがある方角に向かって――
そして、逃げ出した。
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