希望
「蛍って一日で死ぬんでしょう?」
彼女からの弱々しい声音が僕の心を揺さぶる。僕は項垂れていた頭を上げ、彼女の顔を眼と鼻がくっつかんばかりの距離で凝視する。長い黒髪、ぱっちりとした目、右眼の下のほくろにモデルのような小顔が僕の視界に飛び込む。
彼女は椅子に腰掛けている体勢であった為、僕の予想外の反応に驚き、少し後ろに仰け反った。
僕はその様子を見て、両手を突き出し、
「大丈夫?驚かせてごめんね」
と声をかけた。その声がはっきりと届いたせいか、若干彼女の頬に赤みがさしたように見えた。彼女は体勢を立て直し、少し俯きながら右手で長くなった髪をいじりだした。
僕は彼女に驚かせてしまった罪悪感を抱くも、すぐに口元に笑みを携え、場の空気を和ませようとする。ここでは、重苦しい空気は禁物だ。僕はそう考えている。
明るい話題に変えようと、今日あった面白い出来事を冗談めかして言う。しかし、彼女は俯いた顔を上げないまま、僕の言葉を遮り、口を開いた。
「さっきの続きだけど、蛍を間近で見たいと思わない?」
僕は首を左右に振る。そもそも、虫は苦手の部類に入り、見る事も触る事も苦手だ。夜に見られる、蛍の光が織り成す光景が頭に浮かぶが、虫と認識した途端、頭に浮かんだ光景は途切れ、後は真っ暗な闇が続くだけだった。
次の言葉が思い浮かばず、頭をかきむしる。そんな僕の態度を、彼女は顔を上げ、眉根を寄せて不安げな表情で見つめていた。
「そっか。虫嫌いだったね。ごめんなさい」
僕は頭をかきむしるのを止め、もう一度彼女を見つめ、笑顔を見せる。彼女も微笑んでくれた。
もう今日はこれで満足だ。軽く別れの言葉を告げると、僕は椅子から立ち上がり、後ろにあるドアを開き通路に出た。
通路を歩いていると、制服やスーツに身を包んだ人とすれ違った。家にたどり着き、居間のテレビの電源を点ける。
チャンネルを切り替えるとニュース番組が表示された。何気無く眼をやる。
殺人未遂の容疑で逮捕された犯人の顔写真が映し出されていた。長い黒髪、ぱっちりとした目、右眼の下のほくろにモデルのような小顔。
この事件は、約三ヶ月程前から、今にかけても時々報道されている。テレビのスピーカーから、ニュースキャスターの男の声が響き渡る。
『同棲中の男の顔を鋭利なナイフで切り付け、更には男にまたがり、ナイフで指を切り落としたとのこと。残虐な行為であり、専門家からは、精神面での不安定が招いた事件ではないかと示唆する人物が出る程です』
僕は無くなった右手の中指と薬指があった部分をじっと見つめる。あの時は、激痛で顔が歪む僕を彼女は見て、一言
「ねぇ。痛い?」
と問いかけてきた。痛みで頭の中が真っ白になり、返事等出来る状況では無かった。僕にまたがったまま、続けざまに彼女は口を開いた。
「私、毎日毎日あなたから言われる言葉で、心を痛めたの。同じ痛みを共有してほしくて。どう?その痛みが、今の私の心の痛み。よく分かった?」
涙ながらに、激痛で意識が飛びそうになりながらも、僕は首を縦に振って頷いた。同棲を始めて、約一年が経つ頃、彼女の精神面が不安定である事に気付き、さり気なく専門の病院へ一緒に受診に行ったりしないか相談はしていた。
しかし、毎日は言い続けていない。今までの僕の心配する言動が耳に焼き付いて離れなかったのだろうか。始めは、ただくすぶっていただけの不安感が、僕の言動で更に助長する形になってしまったのだろうか。
彼女は立ち上がると、満足そうに血の滴るナイフをシンクで洗い、笑顔で
「今から食事行ってくるね」
と言い放つと、居間から出て行った。
二、三十分経った頃、やっと立ち上がる事が出来た僕はすぐに警察に通報。彼女は友達と食事中に取り押さえられ、逮捕された。
彼女が逮捕されて、もう三ヶ月は経つ。今日は僕が希望した週一の面会日であった。ガラス越しに見る彼女は化粧をしていなくても、息を飲むほどに美しかった。
僕の両親は事件以来、彼女とは別れるように強く言ってきた。けれど、僕はそんな勿体無い事はしたくなかった。
右手の中指と薬指が無くなった部分を見つめる内に、胸の中に少しずつわだかまりが増えていった。このわだかまりを解消するには、相手に同じ痛みを与えないといけないだろうと思えた。
そうでないと、自分自身を保てなくなりそうだった。
僕は彼女が留置場内で自殺する事が無いように、面会時は何気ない日常の会話や動作で落ち着ける雰囲気を保てるように気を付けている。
いつかまた、以前のように同棲生活に戻れたら、その時は僕のほうから彼女の白くて細い指を切り落としてあげよう。
そう決意を胸に秘めながら、毎週行われる面会を、僕は眼を輝かせながら、毎日の生きる希望として楽しみに待っている。