ウサギ印の肝試し(中)
十五分後。
腕時計を見ていた倖魅が、同部署の後輩である一誠に向かって言った。
「それじゃあ、いっちゃん。行こうか」
普段情報処理室に籠りきりの一誠は、猫背で肌が青白く、一見すると幽霊と見分けがつかない程影が薄い。
そんな幽霊じみた一誠と共に、倖魅は「楽しみだなぁー」と、鼻歌でも口遊みそうな様子で“シャイニングハイツ一号館”へ乗り込んだ。
ろうそくの形をした安物の光りが、微かに室内の様子を浮かび上がらせる。ライトを持っている一誠の青白い顔も、闇に浮かび上がっている。
玄関から通路を進むと、小さな居間があり、奥に食卓がある。
「ふふ。いっちゃんが隣に居るだけでお化け屋敷が五十倍くらい楽しくなるよ」
「どういう事ですか」
不満そうな声は、囁きのようなボリュームだ。
「分かってるくせにー。君は、そこに立ってるだけで人を怖がらせる事が出来るという才能を持っているんだよ」
あぁはいはい、と一誠は嘆息し、室内を見回した。ボロボロのテーブルクロスが掛かった卓上に、肉じゃが、漬物、その他香辛料などが載っている。
(食品サンプルか。良く出来てるな)
と、奈良漬の小鉢を見ていた一誠の足首が勢いよく掴まれ、テーブル下に引きずり込まれた。
「えー? いっちゃんが居なくなったら、よく見えないんだけどぉー」
突然消えた今日の相方を心配する様子のない倖魅の耳に、劈くような一誠の悲鳴が届いた。
普段の、蚊の羽音のように小さな声からは想像し難い声量だ。その声は建物外にも漏れており、時計を見ながら外で待機している最年少コンビを震え上がらせた。
倖魅は、下から「ぎゃっ」とか「ひぃっ」とか聞こえる、ガタガタと小刻みに振動しているテーブルには近付かず、小型のブラウン管テレビを眺めている。
頭上にセンサーらしきものを見付け、わざとそこに立ってみると、テレビの画面に白黒の砂嵐が映し出され、ザー、というホワイトノイズが鳴り響いた。センサーから足を外してもその音は鳴りやまない。
「へー、よく出来てるなぁ。ねぇ、いっちゃん。おいでよ」
だが、返事が無い。いつの間にかノイズも止まり、室内には再び、静寂が訪れた。
倖魅は、シンクの前で血糊まみれの包丁を持って、うつ伏せで倒れている母親のマネキンの傍でしゃがんだ。エプロン姿の母親の周りにも、血糊が散っている。倖魅は指輪を抜き取り、歩き出した。
「じゃ、ボクは先に進むから」
「って、もうちょっと探すとか何とかしてくださいよぉぉお!」
と勢いよくテーブル下から飛び出してきたのは、一誠だ。
「何だ。居るんじゃん。異世界への扉でも見つけたのかと思っちゃったよ。何で隠れてたの?」
「隠れてたんじゃないです。引きずり込まれたんです。ちょっと腰も打って、痛いです」
そう言って見せてきた一誠の足首には、掴まれた手形があった。
「所長、出てきてください」
テーブルクロスを捲って出てきたのは、こんにゃくと保冷剤を両手に持った泰騎だった。
「うん。そんな事じゃないかと思ったよ。ところで、時間があと十分しかないんだけど」
倖魅に催促され、泰騎は「いやぁー、倖ちゃんはお化け屋敷でも倖ちゃんじゃな」と、こんにゃくと保冷剤を持ったまま、またテーブル下へ引っ込んだ。
倖魅と一誠は突然開いたトイレのドアや、チカチカと今にも切れそうな豆球の灯っている廊下をスルーし、階段を上がって二階へ辿り着いた。
二階はまず寝室があり、並んでいるシングルベッドの脇を通ると、布団の中からシリコン製の腕が六本飛び出してきた。さすがに掴まれはしないが、指が数本可動式になっている。そして、やはり何故か血糊まみれだ。
天井には蜘蛛の巣。ベッド脇の小さなテーブルには、時間の止まった目覚まし時計。古びた母子の写真が数枚、壁に貼り付けられている。
寝室の先には、幸子が居るであろう最後の部屋だ。
(ふふふ。どうせ潤ちゃんが幸子役をやってボクらを驚かせるんでしょ)
部屋のど真ん中、椅子に座っている純白のドレスを着た女性を見据え、倖魅はほくそ笑んだ。
女性は長い黒髪で、少し俯いている顔は白いヴェールに隠れており、表情を窺う事は出来ない。白い手は、膝の上で組まれている。
ヴェールを頭上へ捲り上げると、倖魅は幸子の頬に、思い切り自分の唇を押し付けた。目の前のあまりの光景に、一誠は口をパクパクさせている。
(ヴェールを上げたら、誓いのキスでしょ! 流石に唇にはやりたくないけど!)
と、ドヤ顔を披露している倖魅は、自分の口を手で拭った。しかし、倖魅の予想と反して、幸子は動かない。
(あれ? 潤ちゃん、ビックリして固まっちゃったのかな)
幸子の顔を覗き込むと、それは人間によく似た人形だった。
そう。本物の“幸子”だ。
倖魅が腑に落ちないまま、幸子の薬指に指輪をはめていると――
ザリ、ザリ、ガサ……カサ、カサ……と、すぐ背後の下方から音がした。
倖魅と一誠は振り向き、一誠が音のする方をライトで照らすと、一階で倒れていた母親が這いずりながらこちらへ向かってきている。黒く長い髪は乱れ、時折呻くような声を発しながら近付いてくる。
今まで飄々としていた倖魅の顔が、初めて引き攣った。
血まみれの母親は力なく立ち上がると、全身脱力しているような見た目に反して、凄い力で倖魅の両肩を掴んだ。その拍子に、倖魅の口からしゃっくりのような、引き攣った声が漏れた。
母親は、血の滴っている口を倖魅の耳元へ近付けると、地下から響くように低く、しかし消え入りそうな声で、こう言った。
「ウチの……、幸子、を……宜しく、お願い……します」
一誠の悲鳴が再度建物外へ漏れ出し、外に居る最年少コンビは震え、泰騎はそんなふたりに「あと五分待ってなー」と言って、戻っていった。大地は震える手でスマートフォンを取り出し、近所の居酒屋へ行っている先輩へ五分ずれ込む旨を伝えると、言われた通り待機した。
「倖ちゃんって、実は怖いの苦手なんよなー」
と言うのは、二階に駆け上がって来るなり、保冷剤を首元に当てて涼んでいる泰騎だ。
意識を手放して横たわっている倖魅の傍らでは、黒いボサボサ頭のカツラを手に持った、顔中血糊だらけの潤――髪はまとめられている――が、しゃがんでいる。
「倖魅、すまない……まさか、こんなに驚いてくれるとは……」
「副所長、ノリノリじゃないですか……。まさか、一階に倒れていた母親がマネキンじゃなくて副所長だったなんて……。完全に騙されました」
一誠は降参した、と肩を竦めて見せた。
「暗いから身長がちょっとでかくても、そんなに気にならんしな」
泰騎は保冷剤で倖魅の頬を叩いて目を覚まさせると、次の段取りの説明を始めた。
《P×P》最年少コンビ。まだ義務教育を受けていなければならない年齢のふたりだ。柄は違うがふたりとも、耳と手足の長いウサギ――ピスミ――のTシャツを着ている。
時間が来たので、恐る恐る、ライトを持った歩がドアノブに手を掛けた。
一番に目に飛び込んで来たのは、蜘蛛の巣と埃にまみれた、ツッカケと、黒いパンプスと、スニーカーだった。そこを土足で通り過ぎ、無人の居間も通り過ぎて台所兼食卓へ。
歩は腕を伸ばしてライトで辺りを照らしながら、ゆっくり進んでいく。天然の薄い茶髪が、僅かばかりの灯りを吸収して、角度によって黄金に視える。
歩の足に紐が引っ掛かり、テーブルクロスの下から冷やかな煙と共にシリコン製の腕が飛び出し、剥き出しの大地の足首にクリーンヒット。シリコン独特の柔らかい感触に大地は跳ね上がり、その音に驚いた歩は悲鳴と共にライトを放り投げ、そのライトが大地に直撃した。
「いってぇ!」
「なに、なに!? 何が起きたの? 何も見えないよ!」
「お前がライトを投げるからだろ!」
大地は、少し硬めの自分の金髪に刺さってきたライトを手に取ると、歩の代わりに室内を照らした。
「この下から手みたいのが出てきた」
とテーブルの下を照らしてみるが、今は何もない。どんな仕掛けなのかと、大地がテーブルクロスを捲ろうとした瞬間――、
「ひぎゃ――ッ!?」
歩の、尻尾を踏み付けられた猫のような声と、バタン、という扉が閉まるような音が聞こえた。
大地が音のした方を見てみたが、歩の姿は無い。歩は164センチメートルと、男にしては小柄ななりをしてはいるが、見失う程小さくはない。
「歩?」
相方の名を呼んでみるが、返事はない。
大地は室内を一週、歩いて回ってみた。急にテレビが『ザザ、ザー……』と鳴り出し、ビビッて「ひょわっ!」と、変な声が出てしまった。
更に足元から、ドンドンドンドン! と、金貸しが借金の取り立てが来たのではないかという音がした。立て続けにシンク下の扉が開き、ハーフパンツを穿いている大地の膝下に、イソギンチャクのような形状をした、濡れた何かが絡み付いてきた。
「ぎゃぁああああああああああ!!」
膝下にある、何だかグニャグニャしている正体不明の物体を慌てて掃い退ける。イソギンチャクのようなものの正体は、イトコンニャクだった。結ばれた糸こんにゃくが、ベチャっと床に転がった。
「んだよ、糸こんかよ……」
安堵の息を漏らす。だが、安心してもいられない。糸こんにゃくが飛び出してきたという事は、このシンク下の中にも、何かしらの仕掛けがあるのだろう。思い切って扉を開くと、血塗れの歩の頭がゴトリと出てきた。
「ぎゃぁああああああああああ!!」
本日二度目の絶叫。
よく見てみると、幸い、頭と体は繋がっている。血も、ハロウィンによく使われる、ペイントだ。
「大地、叫びすぎじゃで」
シンク下の、歩が上半身を出しているのとは別の扉から出てきた泰騎は、呆れたように糸こんにゃくを大地に投げた。
今度は手で糸こんにゃくをキャッチし、大地はむすりと口を尖らせた。
「いや、だって、めっちゃ怖いんですもん」
「お前なぁ……ワシらの仕事は、忍んで殺すか、ささっと殺すか、サクッと殺すか、じゃで? そんな大声出しとったら、ザクッと殺されるわ」
大地の「一誠さんの大声も聞こえたんですけど」という小さな小さな呟きは無視し、泰騎は「ほれ、伸びとる歩を起こして、先に行き」と促した。
階段に向かうには、廊下を抜けなければならない。廊下には、トイレがある。トイレといえば、お化けが出る定番の場所だ。
確実に何か仕掛けが有るだろうと構えつつ、トイレの前に差し掛かった。すると、バンッ、と急に扉が開いた。だが他に何も起きず、扉はひとりでに閉まった。
安心して階段に足を掛けた時だ。上から、物音がした。視線を上げると、四本足で階段を下りてくる人間が。しかも首が180度回った状態で、蜘蛛が走るようにこっちへやってくる。
「ぎゃぁああああああああああ!!」
歩と大地は綺麗に悲鳴をハモらせ、半泣き状態でお互いに抱き付いた。何ともむさ苦しい絵面だが、この状況では仕方がない。
四本足走行の人間は、抱き合ったままその場にへたり込んでしまっているふたりの前で止まった。後ろ頭に顔面が来るように被っていたお面を取って上げられた顔は、ふたりの先輩である一誠のものだった。
「ふたりとも……驚き過――」
「うぎゃぁああああああああああ!!」
先程よりも大きな悲鳴が、暗い廊下にこだました。
「……ちょっと、ショックなんだけど……」
一誠は溜め息を吐いて、ふたりが来た方向を指差した。
「ふたりとも、お母さんの指輪、忘れてるよ」
指摘され、ふたりは「えぇっ!? また台所に戻らなきゃならないんですか!?」と渋ったのだが、来た順路を逆走していった。
そして、大地がしっかりと指輪を握りしめ、ふたりは走って戻ってきた。
「もう少しだから、がんばってー」
覇気のない、幽霊じみた声で喝を送られ、ふたりは階段を上がっていく。
着いたのは、寝室だ。寝室も、お化けが出てくる定番だろう。ふたりはへっぴり腰のまま、一歩一歩進んでいく。
ベッドから作り物の腕が六本程出てきたが、ビクッとなった程度で、スルーできた。
いよいよ、最後の部屋だ。ドレスに身を包んだ幸子が椅子に座っている。
指輪を持っている大地が、歩の前に出た。
まごまごしながらヴェールをたくし上げ、幸子の冷たい左手の薬指に指輪をはめ込み、ミッションクリア――とは、素直に行くはずもない。
幸子の手が、油の切れた機械のように動き出した。更に、酒焼けを起こしたような擦れた声で、ふふふ、と笑い始めた。そして大地の両手を握り、「うれしい」とひと言。
歩の両肩には、後ろから手が添えられ、今度は音もなく闇の中から現れた母親が、歩の耳付近で「ありがとう」と囁いた。
「ぎゃぁああああああああああ!!」
何度目になるか……ふたりの見事なハモり絶叫が、建物内に響き渡った。
ただ、今回は時間が押している。ふたりが叫び声を上げきる前に、吐血している母親はその場を走り去っていった。
「何だか、凄い声が聞こえたんだけど」
入り口のドアを閉めた尚巳が、二階を見上げた。対して祐稀は、悩ましげな溜め息を吐いている。
「あぁ……恵未先輩と凌先輩をふたりきり、居酒屋に残すだなんて……。私は悔いしか残して来られなかったです」
「大丈夫。お金も残してきたからさ」
「そういう事を言っているわけじゃないです」
普段殆ど接点のない尚巳と祐稀だが、尚巳は元々誰とでも話せる性分だし、祐稀も――想い人である――恵未以外とはしっかり話しが出来る性格なので、それなりにコンビとして成り立っている。
尚巳がライトを持ち、周りを観察しながら進む。
台所へ着くと、尚巳が感嘆の声を漏らした。
「へぇー。一戸の壁を殆どぶち抜いて、ひと部屋分にしてるんだ。広いし、よく作り込んでるなー」
「先輩。この紐を引っ張ると、テーブル下から手が出てきますよ。ドライアイスでしょうか……煙が涼しいです」
祐稀はテーブルクロスから伸びている紐をグイグイ引っ張って、血糊にまみれた腕を出し入れして遊んでいる。
「へぇ。思ったより凝ってるんだなー。あ、こっちはセンサー感知でテレビが点いた」
と、尚巳も室内にある仕掛けを見付けながら室内を歩いている。調理台に差し掛かったところで、尚巳の足が止まった。足元を指差し、
「祐稀。ここに母親が居るぞ」
「指輪を抜き取れば良いんですね」
冷蔵庫を開けて中を見ていた祐稀も、母親に視線を落とした。血濡れた包丁を握ったまま、倒れている。
「随分と大きなお母さんですね。人形の発注サイズを間違えたんでしょうか」
「これだけ拘ってんのに、それはないんじゃないかな。あと、気になってる事があってさ」
母親を挟んで、会話を続ける。
「さっきこっちに帰って来るとき、建物の裏側を見たんだけど、誰も居なかったんだよな。で、表にも誰も居なかっただろ? この建物に屋上はないし……だとしたら、先に入った皆は、どこに居るんだと思う?」
「……この建物の中、って事ですか?」
「そ。で、泰騎先輩の性格からして、九割の確率で、脅かしに掛かってくる」
「つまり、仕掛けは人形だけじゃないって事ですね」
そこまで話し、ふたり揃って母親を見下ろした。
「って事で、どうですかね? それとも、気付かない振りをして指輪を取って行きましょうか?」
尚巳が倒れている母親に問うと、母親は大きく息を吸った。深呼吸を数回繰り返し、乱れた髪の母親が、むくりと上体を起こした。
母親の顔を確認し、少し意外そうに尚巳が言った。
「潤先輩でしたか。泰騎先輩かと思いました。ずっと息、止めてたんですか?」
「あぁ。そろそろ限界だった」
潤は指輪を抜いて、祐稀に渡した。
「副所長。その格好、似合ってます」
真顔で感想を述べる祐稀に、潤は苦笑で返す。
「血塗れのエプロンにワンピースは、あまり似合いたくないな……」
と添えて伸びをすると、潤は血塗れのエプロン姿のまま流し台に凭れてふたりを見送った。
ふたりが扉を閉めて部屋から居なくなると、腕時計を確認しながら小さな声で「バレた」とひと言呟き、スペアの指輪を左手の薬指にはめ込んだ。
尚巳と祐稀は洗面所へ入って、仕掛けらしい仕掛けを暴いては少しずつ先へ進んでいた。
「この辺りも、ホラー映画じゃお決まりの場所だよな」
「洗面台に長髪の黒髪が詰まっていなかったのには、がっかりです」
真顔で落胆の意を示す祐稀。そんな祐稀の顔が、風呂場の扉を開けた瞬間、僅かばかり驚きの色を見せた。
眼前に在るのは、頭や口や胸元やらを血に染めた、歩だ。水が抜かれ、蓋が半分閉まった状態の浴槽内で、力のない体育座りをしている。剥き出しの白目が、なかなかのホラー感を演出していた。
「お、歩。結構演技派なんだな」
能天気に声を掛けた尚巳だが、歩からの返事は無い。
尚巳は歩の近くに手を持っていき、あぁ、と呟いた。
「気絶してるわ。息はあるから、死んではないな」
「少しびっくりしてしまった事が、何だか悔しいです」
意識のない歩の頬を突くと、歩の体は滑るようにして浴槽内に倒れ込んだ。呻き声が聞こえた気がしたが、尚巳と祐稀はそれを無視する。
「風呂場は仕掛けが無いのかな……あ」
尚巳が浴室の真ん中に立つと――これもセンサー感知で作動する仕掛けらしい――天井から人工の白い煙が、モクモクと出てきた。
「まぁ、お湯や水が出るとお客さんが濡れるし、こんなもんかな」
独りごちると、尚巳は浴室を後にした。
次に向かったのは、トイレだ。木製の扉には、所々引っ掻いたような傷がある。祐稀がノックをしてみると、扉が独りでに開いた。
中を覗いてみると、洋式の便座――蓋は閉まった状態だ――に、大地が座っている。歩と違い血糊にまみれてはいない。
ただ、やはり意識はないようだ。半開きの口角は僅かに上がっていて、ふふふ、ふふふ、と笑い声が漏れている。
「何こいつ。怖いんだけど」
とは、ここに来て初めて顔を渋くしている、尚巳の言葉だ。
死体に扮していた“いかにも”な歩と違い、一見すると一般的な風貌ではあるが――気絶しているのに声を出して笑っている様というのは、不気味なものだ。
「あ、ここには髪がある」
これは祐稀の声だ。
トイレ内にある、小さな手洗い場の排水口に詰まっている黒髪の塊を見ている。そしてまた足元にセンサーを見付け、祐稀がそこに立つと――自動で蛇口から水が出てきて、排水口の髪を濡らした。髪は、むくむくと増えていく。
「これは……増えるワカメ的な仕掛けなのでしょうか」
祐稀は仕掛けを興味深そうに観察している。
「あ、やべ。時間が押してるわ。祐稀、行くぞ」
尚巳に呼ばれ、祐稀も階段に向かった。二階からは、四足歩行の人間が――
「一誠じゃないか。どうしたんだ? そのお面。なかなかのセンスだな」
祐稀は、四足歩行で階段を下りてくる人間の顔面をもぎ取って、まじまじと眺めている。
「少しは驚くとか……――」
「驚く要素が何ひとつ無いのに、何故驚かなければならないんだ」
一誠の控えめな申し入れは、無情にもドきっぱりと却下された。一誠と祐稀は、普段の部署は違うが、特務職中は組んで仕事をしている関係だ。他人の血にまみれた一誠の姿を見慣れているだけに、今更青白いだけの顔を見たところで、祐稀は何とも思わない。
一誠は、「まぁ、予想はしてたけど」と溜め息を吐き出すと、尚巳と祐稀に向かって「どうぞ」と道を譲った。
寝室だ。ベッドから、まだらに赤い腕が出てきている。
「ここは誰も居ないのかな」
尚巳が、一番隠れやすそうなベッドに視線をやった。作り物の腕以外には、何も出てきていない。不自然な膨らみも確認できない。
(まぁ、泰騎先輩が隠れやすいトコに隠れて、おれらを待ってるわけないか)
尚巳がライトをベッドから離すと、板貼りの床を黒い影が走った。
(天井!? さっき見た時は何も――)
「ぅわッ!?」
祐稀の短い悲鳴が上がり、何かがポトリと床へ落ちた。
手のひらサイズの、柔らかい保冷剤だ。
咄嗟に祐稀が飛び退くと、さっきまで立っていた場所に、大量のタランチュラとムカデが落ちてきた。
一匹や二匹なら何ともない虫だが、大量に……となると、さすがに祐稀も驚いた。声は出なかったが、顔が引き攣っている。
「泰騎先輩、百均でめっちゃ買って来てるじゃないですか」
尚巳がライトを天井へ向けると、アメリカ産蜘蛛男よろしく、泰騎が天井に貼り付いていた。
「最近のゴム玩具はよう出来とってええなぁ」
笑いながら降りてくると、泰騎は床に散らばっている虫のおもちゃを拾い上げ、投げ散らかした。
「尚ちゃんと祐稀ちゃんを相手にドッキリは難しいと思うとったからなぁ。幼稚じゃけど、ちょっとした驚きの提供を出来てよかったわ」
「相変わらず、全力で遊びますね」
「折角生きとんじゃから、楽しまにゃ損じゃで」
あとは最後の部屋だけじゃからなー、とふたりに告げると、泰騎は腕の蠢くベッドに腰を下ろして手を振った。
最後の、幸子の居る部屋へ辿り着いた尚巳と祐稀は、まだ登場していない人物がそこに居るのだと思って、純白の花嫁に近付いたのだが――予想に反して、そこに座っていたのは、正真正銘、人形の幸子だった。
指輪を得た人形はぎこちない動きで首を擡げ、大きな黒い瞳を見開くと、端から血の流れている口を開いて「ありがとう」という電子音を発した。




