4 紫陽花は知っている
学校へ行った後も、陽日の頭の中は紫乃の言葉でいっぱいだった。
『毒で死んじゃうかもしれない』
『君がそれでもと言うなら、返すよ』
紫乃の口から出たのは、不可思議な言葉たち。普通なら真に受ける方がどうかしている。
しかし、陽日は馬鹿げた話だと笑い飛ばすことができなかった。
(僕の中から、桃のことがすっぽり抜けたのは事実だ。だって、いくら頭の中を探っても、見つからない)
読経のように平淡な教師の声音を聞きながら、陽日は斜め後ろに座る桃へ視線を寄せる。
すると、ちょうど桃もこちらを見ていたようで、慌てて教科書で顔を隠されてしまった。
学校に来てから、桃はずっと陽日を避けている。
先に逃げ出したのは陽日の方だったが、桃も桃で思わず告白したことに混乱しているのだろう。陽日を見るなりそそくさと離れて行く桃は、らしくなかった。
(桃は、僕を好きだと言った。僕も、少し前はそうだったはずだ……だけど、何も浮かばない。思い出せるのは、雨の冷たさと、紫乃に話を聞いてもらっていたことだけ……)
『好きなのに、忘れたいんだ?』
記憶の中の紫乃が、陽日にそう囁く。
(あの時は忘れたくて仕方なかったんだよな。でも、今は……)
帰りのHRを終え、クラスメイトたちはそれぞれ部活や下校のために動き出す。
その最中、陽日は桃の席を振り返った。
するとちょうど、席を立った彼女がこちらに背を向けて駆け出す姿が見えて、
「っ桃、待って!」
慌ててその腕を掴むと、桃が鋭く陽日を睨みつけてきた。
「急いでるんだけど」
「ごめん。でも、話がしたくて」
「あたしは話したくない。はるの顔、見るのも嫌」
はっきりとした拒絶に陽日は一瞬怯んだが、それでも桃の腕を話さなかった。
「僕、ちゃんと答えたいんだ。昨日、桃が言ってくれたことに」
「……っあれは、じょ、冗談で」
「冗談でも、僕にとっては大切なことなんだ」
その言葉に、桃がはっとして陽日を見つめる。
今にも泣き出しそうに眉を寄せている彼女に、陽日は鼓動が速くなるのを感じながら続けた。
「明日、必ず答えるから。待っててくれる?」
「明日……?」
「そう、明日。今すぐ答えたいけど、やらなくちゃいけないことがあるから」
「……」
「必ず答えるって、約束するから」
やがて桃は微かに首を縦に振り、そっと小さな声でこう告げた。
「じ、冗談だったら、一生口聞かないからね」
「うん、分かった」
桃の返答に、陽日は笑って頷いた。
「紫乃」
夕方は朝と異なり、土砂降りの雨になっていた。
激しく傘を揺さぶる雨の中、陽日は紫乃と対峙していた。
激しい雨の中でも、紫乃は平然と立っていた。穏やかな雨に打たれていた時のように、その青紫色の髪はふわふわと揺れていて、陽日と同じ制服はその真っ白な肌を微かに透かす程度にしか濡れていない。
「決めたんだ?」
「うん。やっぱり、紫乃に聞いてもらった桃への思いも、記憶も、僕のものであって欲しいから」
「君を殺すかもしれない毒を孕んでいると、分かっていても?」
「それは一度桃から逃げ出した僕への罰だって、そう思うんだ」
「……辛くない?」
こて、と紫乃が首を傾ける。
陽日は迷いなく頷いて、
「辛くないよ。もう、大丈夫だから」
「そう」
紫乃はゆっくりと陽日の方へ歩み寄ってくると、おもむろに彼の頬に手を当てた。
ぞっとするような冷たさに、陽日は思わずびくり、と肩を揺らした。
「君が幸せなら、ぼくも幸せだよ」
「え?」
「さよなら、陽日」
その言葉の意味を理解できないまま、陽日は近づいてくる紫乃の唇が自分のそれと重なるのを感じた。
氷のように冷たい唇。その先端が燃えるように熱い、と陽日が感じた瞬間、全身から力が抜けていった。
ばしゃ、と音を立てて、陽日の顔面に泥水が掛かる。それが陽日の舌先に触れた途端、陽日は喉の奥が強く圧迫されるような苦しさを覚えた。
(ああ。これが、『毒』か……僕、死ぬの、か)
ばしゃばしゃ、と遠くで泥水を掻く音が聞こえる中、陽日の意識はゆっくりと遠ざかっていった。
『はる、み〜つけた!』
『もも、どうしてここがわかったの?』
『はる、ここのあじさいがすきだって、まえにおしえてくれたでしょ? だから、あじさいのうしろにかくれてるかもっておもったの!』
『すごいね、ももは』
『すごいでしょ。でも、もも、このあじさい、すき! まっしろでかわいいよね』
『うん』
セピア色の映像の中で、幼い桃が笑っている。
その傍らには、純白の紫陽花がいくつも咲いていて。
「……る、はる、はるってば!!」
全身を揺さぶられる感覚と、自分の名前を必死に呼ぶ彼女の声。
その二つに促されるように、陽日はそっと瞼を押し上げる。
視界に飛び込んできたのは、幼馴染みの泣き顔だった。
「はるっ! 大丈夫?!」
「……桃?」
「っもう、ばか! 何でこんなところで倒れてるのよ! 死んじゃってるかと思ったじゃない!」
ばしばしと陽日の肩を叩きながら、桃がぽろぽろと涙を零す。
慌てて起き上がった陽日は、ぐるり、と辺りを見回す。
あれだけ降っていた雨の気配はないどころか、陽日が横たわっていた地面は乾いている。まるで、最初から降っていなかったと言わんばかりに。
「ちょ、ちょっと、はる、本当に大丈夫なの? っていうか、一体何があっ」
「桃、どうして僕がここにいるって分かったの?」
桃の言葉を遮って、陽日は尋ねた。
すると、桃は気まずそうに俯いて、
「……今日のはる、おかしかったから、どうしても気になっちゃって。で、はるの家に行ったら、まだ帰ってきてないって聞いて。塾もないのに、一体どこに行ったんだろうって考えたら、ここのことを思い出したの。はる、あそこの紫陽花が咲いてる階段、好きでしょ? 小さい時から、落ち込んだりすると、よくあそこにいたよね」
桃が、そっと階段の方を指差す。
陽日が見ると、そこには白い紫陽花が静かにこちらを見返す姿があった。
「……そっか」
「本当に何があったの、はる。あんなところに倒れてるって、普通じゃないよ」
「うん。普通じゃないこと、色々起きてたんだよ、桃」
「何それ」
「僕にもよく分からない。……でも」
陽日は白い紫陽花から、怪訝そうにこちらを見る桃に視線を移した。
「な、何」
「桃が僕のこと見つけてくれて、嬉しかった」
「……っ、な、何言ってるのよ、やっぱりはる、色々おかしいよっ」
「桃にはそう見えるのかもしれないけど、僕はそんなことないよ。むしろ、元の僕に戻ったんだ」
「はあ?」
眉間に皺を寄せる幼馴染みに、陽日は内側から込み上げる懐かしい感情を感じていた。
一度手放し、毒を帯びたはずの思いと記憶。
「桃、僕も、桃のことがずっと好きだったんだ」
「え」
「僕と、付き合って下さい」
「……」
「桃?」
「っちょ、ちょっと! 明日! 返事は明日じゃなかったの!?」
「ごめん。どうしても、今言いたくなったんだ」
「もお!」
ぷっくりと頬を膨らませてそっぽを向いた桃。その耳が名前の通り桃色に染まるのを見つめながら、陽日は唇の端を緩めた。
その後、陽日が紫乃の姿を見ることは一度もなかった。
それでも、陽日は雨が降ると、必ず公園の出入り口の階段へ足を運んだ。
ある時、陽日は真っ白な紫陽花が咲き乱れる中で、一つだけ、中心がほんのり青紫のものを見つけた。
陽日が最後に見た、彼の髪の色だ。
『もう、辛くない?』
その紫陽花から紫乃の声が聞こえた気がして、陽日はそっと答えた。
「幸せだよ」