3 桃
「今日は話さないの? 彼女のこと」
静かな雨が降る中、右隣に腰掛けた紫乃が不思議そうに首を傾げる。
その言葉を聞いて、陽日はようやく桃のことを思い出した。
「うん、今日は一度も会ってないし。話してもいないし」
「辛くない?」
「平気だよ。むしろ、紫乃に聞かれて、今、桃のこと思い出したくらいだから」
「そう」
陽日の返答に満足したかのように、紫乃が真っ白な唇の端を上げた。
「そういえば、いつの間にか桃のこと、考えなくなってたな。紫乃には毎日のようにあいつの話をしてるのに」
「話しているからこそ、だよ」
「え?」
「君がずっと貯めていた彼女のことを、ここで綺麗さっぱり洗い流してるんだよ。だからすっきりしているでしょう?」
「……うん」
「良かったね」
うん、と頷きかけて、ふと陽日は紫乃の顔を凝視した。
「紫乃って、髪、そんな色だったっけ」
「髪?」
「うん。初めて会った時は、こんな紫っぽくなくて、真っ白だったような……?」
そっと陽日が紫乃の紫色の髪に触れる。降り注ぐ雨にしっとりと濡れながらも、紫乃の髪は陽日の指先をいとも簡単にすり抜けていく。
その指がくすぐったかったのか、紫乃は微かに目を細めた。
「そう。ぼくはちゃんと、君の救いになれているんだね」
「どういう意味、それ」
「ただの独り言だよ、気にしないで」
そう告げると、紫乃はそっと左脇で揺れている紫陽花へ視線を向けた。
(……あれ? ここの紫陽花って、白だったはずじゃ……?)
頭の中で引っ掛かる記憶と異なる紫陽花の色に、陽日はぼんやりと首を傾げた。
「はるっ!」
切羽詰まったような桃に声をかけられたのは、その日の帰り道。
陽日が自宅にたどり着く手前のことだった。
ぴちゃぴちゃと雨水を鳴らしながら、駆け寄ってきた桃の顔は強ばっていた。
「っな、何でびしょ濡れなのよ! 傘は?!」
「あるよ、ほら」
「じゃあ差しなさいよ! 何で差さないのよっ!」
「雨に打たれたい気分だから、差してないだけだよ」
「何それ、意味分かんない。風邪引くでしょっ!」
「大丈夫だよ、案外、引かないものだから」
笑顔を浮かべて陽日は答えてみたが、桃の表情はますます険しくなるばかり。
「あたし、知ってるんだから。アンタが毎日のようにずぶ濡れで帰って来るの」
「えっ」
「ねえ、どうしてずぶ濡れで帰って来るの? まさかアンタ、いじめにあってるとか、そんなことはないわよね? どうなのっ?」
「いじめられてなんかないよ。ただ濡れたいから濡れてるだけだって」
「うそ! だって最近のはる、おかしいもん!」
ずいっと身を寄せてくる桃に、思わず陽日は一歩後ずさりをした。
吊り上がった桃の目に、じわりと滲む涙を見つけたのは、その時だった。
「ねえ、一体どうしちゃったの、はる」
「ど、どうもしてないよ。僕は僕のままで」
「ッ本当は、辛いこと、あるんじゃないの……? アンタ、昔からそうじゃない。本当に辛くて仕方ない時、我慢しちゃうの、あたし知ってるよ?」
桃の震えに合わせて、その桃色の傘がかたかたと揺れる。
「辛いことがあるなら話してよ……あたし、ちゃんと聞くから」
「……っ桃の方こそ、何か変だよ。何で泣くのさ、僕なんかのことで」
「っ『なんか』じゃないもん! あたし、はるのことが好きなんだからっ!!」
桃がそう叫んだ途端、陽日は耳の奥で鋭い雷鳴の音を聞いたような気がした。
ぞくぞく、と体中に込み上げてくる寒気と、対照的に頬を焦がすジリジリとした熱さが、陽日の心を掻き乱していく。
「……冗談、だろ?」
「冗談で、こんなこと言わないよ。あたしは、昔からアンタのことが好きなの」
「嘘」
「っだから、嘘じゃないの! はるにとっては、あたしなんてお節介でうるさい幼馴染みかもしれないけど……っ、あたしにとって、はるは大切な幼馴染みなんだってば!」
ぽろぽろと泣きながら必死に桃が訴えてくる。
その彼女を前にして、陽日は何も言えなかった。
心臓はドキドキしているし、体中を這う寒気も、頬の火照りもある。
だが、陽日の内側には、何の感情も――記憶も、浮かばない。
(僕にとって、桃はどんな子だったっけ……?)
懸命に記憶を辿っても、桃に関することは何も浮かばない。
そこだけ、はさみで切り取られたように。
『君がずっと貯めていた彼女のことを、ここで綺麗さっぱり洗い流してるんだよ』
『良かったね』
紫乃の囁きと、しっとりと濡れた紫色の髪の感触。
それを思い出した瞬間、陽日は桃を振り切って自宅へ駆け出した。
「はるっ!」
自分を呼ぶ彼女の声に、心臓がばくばくと早鐘で返事をしている。
だが、やはり、陽日の中に、桃に関することは何一つ浮かばなかった。
翌朝。陽日はいつもより早起きし、自宅を出た。
向かった先は学校ではなく、紫乃と会っている公園。
紫乃はやはり、陽日よりも先に階段の真ん中で腰掛け、傘も差さずにぼんやりと雨に打たれていた。
「早いね。何かあった?」
不思議そうに首を傾げる紫乃に、陽日は差したビニール傘の柄を強く握りしめながら口を開いた。
「桃のことが思い出せないんだ、何も」
「うん。君が願ったことだからね」
あっさりと頷いて答えた紫乃に、陽日は自分の頬が強ばるのを感じた。
「今の君が失った彼女のことは全部、ここにあるよ」
紫乃が白い手で指差したのは、彼自身だった。
「君から溢れ出す彼女のことを全部掬い取って、全部ぼくの中に入れたんだ」
「……何、それ」
「本当だよ。君の望みを叶えるには、そうするしかなかったんだ」
紫乃は表情一つ変えずに、さらりとそう答えた。
あまりにも奇想天外すぎる答え。しかし、紫乃の不可思議な雰囲気や今までの言動が、本当に彼が目には見えないはずの『思い』や『記憶』を吸収したのだと、陽日に思わせるのだ。
「じ、じゃあ、桃のことを話せって言ったのは、そのために……?」
「そうだよ。それがどうしたの?」
「……それ、返してくれって言ったら、返してくれるか」
陽日の言葉に、紫乃が大きく目を見開いた。
「どうして?」
「昨日、桃に言われたんだ。僕のことが、好きなんだって。ただの幼馴染みじゃない、大切だって」
「そう」
「でも、僕は何も言えなかった。告白されてドキドキしてるのに、心はまるで他人事みたいに静かで、桃のこと何一つ思い出せなくて……それが、何か、嫌だって思って」
「彼女のこと、思い出せないのが嫌なの? 君が望んだことなのに?」
ぱちぱち、と不思議そうに瞬きをする紫乃に、陽日は苦いものが喉の奥から込み上げてくるのを感じた。
「桃が僕のこと好きだって知って、やっぱり桃のこと忘れたくないって思うのは、虫が良すぎる話だって分かってる。でも……それでも、嫌なんだ。桃を見て、何も思わない自分が。小さい頃のこととか、色んなことが思い出せないことが」
「……そう、なんだ」
「紫乃、頼む。僕に返して欲しい。桃のことを」
紫乃は何も言わずに、じっと陽日を見つめている。
感情の見えない紫乃の目に、陽日はぐっと奥歯に力を入れて、彼の言葉を待った。
「いいよ。それが君の望みなら」
「本当?」
「うん、でもね」
頷いた紫乃がゆっくりと立ち上がり、階段を上り始めた。
「そしたら君、死んじゃうかもしれない」
「……え?」
唐突に突きつけられた『死』の言葉に、陽日は全身が強ばるのを感じた。
「ぼくの体には、毒があるんだ」
「毒?」
「そう。ぼくが触れたり、触れられたりする分には平気なんだけど、内側は生き物を苦しめる、毒がある。ぼくの中にあるものは、どんなものでもその毒が染み込んでしまう。君がくれた、彼女への思いも、記憶も、ぼくの毒に浸ってる」
一段、また一段、とゆっくりと階段を上る紫乃。
そして、一歩も動けない陽日の手前まで来ると、じっと、あの小動物を思わせる眼差しを向けてきた。
「だから、君にこれを返したら、その毒で死んじゃうかもしれないんだ」
「……そんな」
「でも、君がくれた思いも記憶も、全部が全部、毒で犯されているとは限らない。傘が雨を防ぐように、君がくれたものも、完全には毒に浸っていないかも」
「えっ」
「少量の毒なら、雨のように君の体を濡らすだけで、殺しはしないかもしれない。こればかりは、残念だけどぼくにも分からないんだ。ぼく自身も、自分がどういう存在なのか、理解できていないから」
「じゃあ、死なないかもしれない……のか」
「分からないけどね。それで、君はどうする?」
紫乃が小さく首を傾げる。
さらり、と音を立てた彼の、青紫に染まった髪が、今の陽日にはとても恐ろしいものに見えた。
「ぼくは君が死んじゃうのは嫌だから、できれば返さずにいたいと思うんだ。でも、君がそれでもと言うなら、返すよ」
「……っ」
「今すぐに決めなくてもいいよ。よく考えて、決めて。それまで、ぼくはここで待ってるから」