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紫陽花は知っている  作者: 原田はとる
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2 紫

「おはよ、はる」

 教室に入った途端、待ち構えていたかのように桃が声を掛けてきた。

 その途端、陽日は背負ったリュックがずしりと重みを増したように感じた。

「お、おはよ」

「あんた、昨日塾に来なかったでしょ。ずぶ濡れで家に帰って来たって、おばさんから聞いたよ」

 腕を組み、じろ、と陽日を睨みつける桃。

 その視線を避けるように、陽日は桃の背後にある窓へ目を向けた。

 今の陽日の心にぴったりの、鈍色の空だ。

「別に、昨日はちょっと調子が悪かっただけだから」

「それならまっすぐ家に帰りなさいよね。塾サボってずぶ濡れになって帰って来るって意味分かんない」

「……ごめん」

「これ、宿題と、昨日塾でやったところを纏めたノート。ノートは復習で使いたいから、早く返してよね。じゃ」

 陽日の胸元にプリントの束と一冊のノートを押しつけ、桃は軽やかな足取りで離れて行った。

ちら、とその行方を視線で追いかけると、教室の後ろで談笑している女子たちに混ざりにいく桃の後ろ姿があった。

(……くそ)

 ぎゅう、と受け取ったノートとプリントを握りしめ、陽日は唇を噛み締めた。





「こんにちは」

 学校の帰り道。陽日が訪れたのは、家の近所にある公園。その出入り口には、白い紫陽花が並ぶコンクリートの階段がある。昨日、失恋した陽日が物思いにふけっていた場所だ。

 まるでそこにいるのが当たり前、と言わんばかりに、昨日出会った少年・紫乃がいた。

 昨日と同じく、傘も差さず、朝から止まない雨に打たれている。

「お前、何してるんだよ。傘も差さないで」

「ここ、好きなんだ、ぼくも。それに、君もまた来ると思ったから、待ってたんだ」

「えっ」

「君も、また雨で洗い流しにきたの? 忘れたい幼馴染みのこと」

 小さく首を傾げる紫乃に、陽日はどきり、とした。

「また、話を聞かせてくれる?」

 とん、と空いた左側に手を置く紫乃に、陽日は躊躇いながらも頷いた。



「桃は何も知らない。だから、僕への接し方が変わってないのは当たり前なんだ。あの話を、僕が聞いてるなんて、思いもしてない」

「うん」

「だけど、僕は違う。桃の顔を見るだけで、あの言葉を聞いてしまった時と同じように、胸の奥が苦しくなって、息が出来なくなりそうになる。桃のノートも、結局そのまま突っ返した。桃の文字も、見たくなかったんだ」

 降り続く雨のように、陽日の口から零れ落ちるのは桃のことばかり。

 学校で会った時や、その名前を聞いた時は、それだけで陽日の気分はずるずると下降していく。本当なら、こうやって彼女のことを話すのも辛いはずだった。

 しかし、静かな雨音と冷たい感触と、そして右隣で相づちをうつ少年の傍では、陽日の心は波紋一つ立たない湖のように穏やかでいられた。

「返す時も、桃とは直接会えなかった。あいつが机から離れたのを見計らって、こっそりノートを突っ込んだんだ」

「会うと、辛くなるから?」

「そう。けど、桃は隣の家に住んでいるし、クラスも同じだし、塾も同じ……会わないようにするのが難しいんだ。僕の方から話しかけることはないけど、桃は何かとつっかかってくるから、それが困る」

「君のことが放っておけないんだね、彼女は」

「昔からそうだ。でも、僕に必要以上に構えば、またあの時みたいに誤解される。そう思われたくないなら、近づかないで欲しいのに」

「でも、君はまだ彼女のことが好きなままだよね?」

「……だから、辛い」

 はあ、とため息を一つ零す陽日に、紫乃はそっとその頭を撫でた。

「な、何」

「君が、どうしたら辛くなるか考えてたんだ」

「だ、だからって、何で撫でるんだよ」

「こうされると、辛さが消えるかなって。どう?」

「どうって……男に撫でられてもな……」

 そう答えつつも、陽日は髪の隙間に入り込む紫乃の指が心地よく感じていた。

(桃も、小さい時、よくこうやって慰めてくれたっけ)

 陽日の頭の中にある、セピア色の幼い桃。その笑顔と、小さな手のひらの感触を思い出し、陽日はぐっと下唇を噛み締めた。

「……そっか、ぼくじゃ、やっぱりダメなんだ」

「? 何が」

 するりと、遠ざかった紫乃の手と、その口から零れた呟きに、陽日は首を傾げた。

「ねえ、彼女のこと、本当に忘れたいと思ってる?」

「え」

「君が望むなら、その方法、あるよ」

 紫乃の言葉に、陽日は息を呑んだ。

「知りたい?」

「……うん」

 紫乃の透き通るような黒い目に吸い込まれるように、陽日はこくりと頷く。

「じゃあ、ぼくにもっと、彼女のことを話して」

「何、それ」

「君が彼女のことを忘れる方法。忘れたいんでしょう?」

「そ、そうだけど、そんなんで忘れられたら苦労しないって」

「できるよ。大丈夫」

 まっすぐな目で、迷いなく言い切る紫乃に、陽日はこくり、と喉を鳴らした。




 その日以降、学校帰りに紫乃に会うのが陽日の日課になった。

 その度にずぶ濡れになるので、帰宅後は親にバレないよう、着替えなくてはならない。だが、そんな手間は気にならなかった。

 紫乃に話した後の陽日の心は、不思議と軽くなったから。





「桃、悪いけど国語のノート貸して。書き忘れたところがあって」

「えっ」

 ある日、国語の授業の終了後、陽日は桃にそう話しかけた。

 その途端、まるで恐ろしいものを見たかのように固まってしまった桃に、陽日はきょとんとして首を傾げた。

「だから、ノート、貸してくれってば」

「……」

「桃?」

「い、いい、けど……」

「? 何だよ?」

「め、珍しいなって思って。アンタから、話しかけてくるの」

 視線を彷徨わせながら、もじもじと体を揺する桃を見て、陽日はようやく気がついた。

(そっか、僕から桃に話しかけたことって、ほとんどなかったっけ。桃に話しかけたくても、いつも胸が……)

 と、そこまで考えて、陽日はあることに気がついた。

 桃に話しかけるどころか、こうして目の当たりにする度に心臓を高鳴らせていたのに、今は嘘のように落ち着いている。

「は、はる……」

「ん? 何?」

 おどおどと話しかけてくる桃は、いつもと比べてどこかぎこちない。

 しかし、そんな桃を見ても、やはり陽日の心臓が高鳴ることはなくて。

「……っう、ううん、何でも無いっ! ほら、さっさと持って行ってよ」

 慌てたように首を横に振って、ノートを突き出す桃に礼を告げながら、陽日は紫乃のことを思い出していた。


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