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紫陽花は知っている  作者: 原田はとる
1/4

1 白


 ぽつ、とビニール傘に付着した、最初の雨粒は小さかった。

 陽日(はるひ)がぱちぱち、と瞬きをする間に、雨粒が点々とビニール傘にくっつく。粒が大きくなるにつれ、陽日の周囲から聞こえてくる雨音も強くなっていった。


 今日から、梅雨が始まる。

 今朝のテレビで天気予報士が告げた言葉を思い出しながら、陽日は深々とため息を吐いた。

(最悪の始まりだな、くそ)



 数十分前。帰りのHRを終え、陽日も他のクラスメイトと同様、下校を急ぐつもりだった。

 しかし、昇降口にたどり着く前に忘れ物に気づき、陽日は慌てて三階にある教室へ戻って行った。その時の陽日の頭の中は、窓から見えた禍々しい黒雲のことでいっぱいで、降られる前に塾へたどり着かなければ、と焦っていた。

 そのベージュの戸に手を掛けた時、その声は唐突に聞こえてきた。


『桃はやっぱり陽日はるひくんが好きなんでしょ?』


 自分の名前と、隣に住む少女の名前。それを聞いた途端、陽日は戸に手を掛けたまま、動けなくなってしまった。

 おずおず、と戸の上部のガラス窓を覗き込むと、五人程の体操着姿女子が円陣を作っている。その中に混じる、ピンク色のリボンをした二つ括りの少女。陽日がよく知る彼女の横顔は、不満そうだった。


『は? 何ではるなの?』

『幼馴染みなんでしょ? 家も隣同士だし』

『教科書貸してあげたり、お弁当分けてあげたりしてるじゃん』

『実はもう付き合ってるとか』

『ないし』

『じゃあ、付き合っちゃえばいいじゃん。陽日くん、可愛い顔してるんだからさ』

 

 女子たちの口から零れる自分の名前や大胆な発言に、陽日は咄嗟に俯いてしまった。

 ダメだ、迂闊に聞いちゃいけない。そう思って、陽日が両耳を塞ごうとした時には、もう遅かった。


『絶対ない。はるが彼氏なんて、あたし、絶対やだから』


 はっきりと聞こえてきた幼馴染みの声は、無防備だった陽日の心を鋭く斬りつけた。じわじわと、血に似た何かが溢れてくるのを感じながら、陽日は即座に回れ右をし、慌ただしくその場を立ち去ったのだった。




(絶対ない、か。そりゃそうだよな)

 粒が粒を押しつぶし、最早原型がなくなっていくのをビニール傘越しに見つめながら、陽日は唇の端を歪めた。

(幼馴染みってだけで、僕と桃は特別な関係って訳じゃない。幼馴染みってだけで勝手にカップル認定されたら、嫌に決まってる。ましてや、口数が少なくて、何を考えているかも分からない男が相手なんて)

 ビニール傘の端からぱらぱら、と雨水が滴って、陽日の紺色のズボンを濡らす。

 先週衣替えしたばかりで、生地が薄くなったズボン。染み込む雨水の冷たさに、陽日はぎゅっと下唇を噛んだ。

(桃は優しいから、僕は時々、変な勘違いをしそうになる。その勘違いのせいで変なことを言う前に、桃の口から聞いておいて良かったかも)

 また一粒、更に一粒。ズボンに点々と雨水が染み込んでいく。

(告白なんて、するつもりなかったけど)

 ズボンだけでなく、スニーカーも爪先からじわじわと雨水が染み込んできている。じっとりとした感触がすると同時に、陽日の口の中に鉄の味が広がった。

「〜〜〜っ! ああ、もうっ!」

 叫ぶと同時に、陽日は持っていたビニール傘を雨雲に向かって放り上げた。

 宙でくるり、と逆さまになったビニール傘は、すぐにとすん、と陽日の背後に落下する。

 それを拾い上げることなく、陽日はじっと雨空を見上げた。

(思ってたより、気持いいな、雨)

 陽日の顔面を濡らす雨水は柔らかく、特に火照っていた頬には心地よい冷たさだ。あまりの心地よさに、陽日は瞼をそっと下ろした。

(このまま、全部雨に流されちゃえばいい。全部、何も感じなかったことになればいい)

 脳裏に過るセピア色の映像。そのどれにも、桃がいた。



『はるのばか。こわいからってにげないの。あたしがいっしょにいってあげるから』

『また教科書忘れたの? も〜……しょうがないから貸してあげるけど、今回だけね? え? いらない? ダメでしょ、ちゃんと勉強しなさいよ』

『作りすぎちゃったから、おかず、あげる。感謝しなさいよね』



 口が悪いものの何だかんだで手を差し伸べてくれるお節介な幼馴染み。彼女に陽日が明確に恋心を抱いたのは、いつのことだったか。

 ただ、今の陽日にはっきりと分かるのは、桃の口から『はるは彼氏にしたくない』と聞いてしまったこと。それに対し、陽日が密かに抱いていた恋心が大きくひび割れたことだった。

(全部、忘れられたらいいのに)

 ぐ、と両手に拳を作り、陽日が項垂れたその時。



「何を、忘れたいの?」



 するり、と陽日の鼓膜を揺さぶったのは、静かな声音だった。

 はっとして陽日が振り向くと、二段上でしゃがみ込み、こちらを見つめる少年がいた。

 傘も差さずに佇む少年の肌も髪も異様に白く、陽日はぞくりと嫌な寒気を覚えた。

「何を、忘れたいの? 君は」

「え」

 少年に尋ねられ、陽日は咄嗟に自分の口を覆った。

(僕、無意識の内に口に出してたのか?)

 焦る陽日をよそに、少年はゆっくりと立ち上がると、階段を一つ下りた。

 そこに落ちていた陽日のビニール傘を拾い上げると、

「はい」

 と迷うことなく陽日に差し出してきた。

 その途端、ビニール傘内側にたまった雨水が、ぽたぽたと滴り落ちる。

「……いらないの?」

「今は、雨に当たりたい気分だから」

 素っ気なく言って、陽日は少年に背を向ける。

 すると少しの間を置いて、ぴちゃぴちゃ、と水が跳ねる音がした。

「どうして雨に当たりたいの?」

「な、何でそんなこと答えなくちゃいけないんだよっ」

「何でだろうって思うから」

「何だっていいだろ。っていうか、何で隣に座るんだよ」

「ダメなの?」

 ビニール傘を畳み、きょとんとする少年。

 まるで小動物に見上げられているかのような眼差しに、陽日は内側に生じた苛立ちが虚しさに変わるのを感じた。

(今日はついてないな。失恋の上に、変なヤツに絡まれて)

 少年が身に纏っている半袖のシャツも紺色のズボンも、陽日の着ている制服と全く同じだった。更に、学年ごとに異なるネクタイも、陽日と同じ中学三年生を示す青。どうやら同い年のようだが、陽日はその顔立ちに見覚えがなかった。

「君も座ったら?」

 少年が、立ったままの陽日のズボンの端を引っ張る。

 最初に感じた不気味さはどこへやら。

 彼の幼い仕草に、ますます小動物を相手にしているような錯覚を覚えながら、渋々陽日は冷たいコンクリートの階段に腰掛けた。

「忘れたいこと、あるんだね」

「……ある」

 少年の問いかけに、陽日は素直に答えた。

「何を忘れたいの?」

「幼馴染みのこと」

「嫌いだから?」

「違う。……好き、だったから」

 言葉にして、初めて陽日は喉を締め付けられるような苦しさを覚えた。

 その途端、心地よく感じていた雨が刺すように痛く感じられ、冷たさに全身ががくがくと震え始める。

「好きなのに、忘れたいんだ?」

「好きだからこそ、だよ。向こうは全然……むしろ迷惑だから」

「分かるの?」

「分かる。本人の口から聞いたから」

 そこまで告げて、陽日は静かに俯いた。

 足下の、濡れた地面に点々と白い花びらが落ちている。

「君はどうして、その幼馴染みが好きなの?」

「え」

「理由はないの?」

「な、ないこともないけど……っていうか、何でそんなに聞いてくるんだよ。お前、誰だよ」

紫乃(しの)

 唐突に出た聞き覚えのない名前に、陽日は思わず顔を上げた。

 白髪の少年は相変わらずまっすぐに、陽日を見つめていて。

「ぼくの名前は紫乃」

紫乃、と陽日がその名前を口にすると、紫乃と名乗った少年は真っ白な唇に笑みを浮かべた。




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