うるさい
ぶぅ……ん、
扇風機の羽が唸る音が鼓膜に響く。
戸田が無職になったのは38歳の時だ。
それまで商社マンとして仕事一筋に働き続けていた会社を辞め、今は独り、築30年の古いアパートに住んでいる。
以前住んでいた家とは違い、隣部屋の物音が聞こえるような安普請だが、周囲が詮索してこない気安さを戸田は気に入っていた。
ここならば、日がな一日カーテンを閉め切って、中で何をしていようとも誰も何も言ってこない。
独りきり。
静かだ。
どんな声も、ここには、無い。
ぶぅ……ん、
扇風機の三枚羽が空気を揺らす。
戸田が退職後に選んだのは、アンティークの転売だった。
それまで仕事で培った知識やノウハウを生かし、インターネットを駆使して国内外から買い付けたアンティークを、ネット上で注文してきた別の者に売る。
そこにはただ文字と数字のやりとりがあるのみ。
直接対面はしない。
品物は運送屋が部屋へ運び、ここで保管する。
客もこちらで選ぶ。
騒がしい客には売らない。
そういうえり好みをできるだけの転売屋としての素質が、幸いにも戸田にはあった。
ぶぅ……ん、
扇風機が首をゆっくりと横にむけてゆく。
今、戸田が見ているのは、先日送ったクレームについての問い合わせだった。
今回購入したのは、普段戸田が扱う食器やアクセサリーといった小さなアンティーク品とは分野の異なる、腰の丈ほどの高さのあるマホガニー製のコーヒーテーブルだった。
チェコから取り寄せたそれの、写真には写っていなかった場所に傷を発見したのだ。
丸い天板の下、ろくろ足の付け根近く、浅く縦についた筋のような傷。
ライトを当てて撮影した証拠写真とともに『話が違う。この品には提示された金額は支払えない』そう突っ返したが、はたしてどのような返事が来ているのか。
思案しつつメールを開くと、そこには数行、返事が書かれていた。
『話は分かった。そちらの付けた値段で良い』
戸田は拍子抜けして、了承の意を返した。
もっとごねられるかと思ったが、案外すんなり通ったことにホッとする反面、物足りなさを覚える。
(まあ、良いか……)
この部屋は安い代わりに広さもそれなりだ。
テーブルが一つ増えればその分手狭になる。
さっさと手放すためにも、話は早く済んだ方が良い。
戸田は満足して、さらに次のアンティーク品を探すためスマホの画面をフリックした。
ぶぅ……ん、ぃ、
ぶぅ……ん、……ぃ……ぃ、
真夏ともなれば、扇風機は昼夜を問わず部屋の空気を掻きまわす。
夜中に喉の渇きを覚えて起きた戸田は、水道の蛇口からコップに水を汲んでふと顔を扇風機に向けた。
聞きなれた扇風機の羽音に、異音が混ざった気がしたのだ。
視線の先で、扇風機がゆっくりと首を左右に振っている。
四角い、無骨な台座が闇の中に白く浮かび上がっている。
(気のせいか……)
温い水を喉に流し込み、戸田はごろりと布団に横になった。
ぶぅ……ん、か……ぃかりぃ、
ぶぅ……ん、……りぃかりぃ、
鼓膜をひっかくような違和感に、戸田は振り返った。
視線の先では、古くなった扇風機が青い羽を回している。
ガードの部分はところどころ錆びて茶色く、蛍光灯の下でぼんやりと光っていた。
(……故障か?)
古い扇風機が発火したというネットで見たニュースが戸田の脳裏を掠めた。
まさかと思いつつ、ざりざりと畳の上を膝で這いずって近寄り、羽の傍で耳を澄ます。
ぶぅううううぅぅうん、かりぃ、かりぃかりぃ、
ぶぅうぅぅぅうぅううん、かりぃ……りぃかりぃ、かりぃ、かりかりぃ、
聞こえる。
何か、薄いものがひっかくような音。
しかし扇風機からでは無い。
扇風機の風が戸田の汗を後ろへ流す。
視線を向けた先にはマホガニー製のテーブルが鎮座していた。
ぶぅうぅぅううぅぅうん、かりぃ、
ぶぅうううぅぅうううんかりかりかりぃ、
、
ゴクリとつばを飲み込む音が鼓膜に響く。
確認するべきだ。
虫が居るのかもしれない。
きっとそうだ。
あの野郎、もっと安く買いたたけば良かった。
ああ、うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
「黙れ!」
ばぁんと叩いた天板が揺れ、
――かり。
小さい女の爪がぽとんと落ちた。
かりりかりかりかりかりかりかりかりかりりりりぃ、
かりかかかりりりぃぃりぃかりぃかりぃぃかりいぃいいりりりりりりりりぃっ、
「うわあああああっ!」
どすん、とのけ反った体が後ろに倒れる。
振り回した腕が扇風機に当たり、がたん、と床に倒れた。
扇風機はその羽をぶぅん、と回して、それきり動かなくなった。
かりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり、
音は止まない。
そして、畳の上にはぽろん、ぽとん、と続けて爪が落ちてくる。
「なん、何なんだ! いったい! 何なんだよ!」
ぽとん、ぽつん、と爪が落ちてくる。
喚いた頬から汗が飛び散る。
扇風機が止まった部屋の中は空気が固まり、蒸し暑さが足の裏から押し上げてくる。
その蒸した部屋の畳の上に、小さい爪が散らばる。
ばらばらばらっ、
畳を叩く音に目を向ければ、小雨のように象牙色の爪が天板と脚の隙間から、ろくろ足のくびれから、次々とあふれて落ちてくるのが見えた。
カッと戸田の顔に血が上った。
「この、な、ふ、ふざけ、ふざけるのも大概にしろ! こんな、この、こんな!」
反射的に手で床の上を払いのけると、乾いた爪がぱらぱらと音を立てて飛び散った。
「はっ、はっ、はぁっ、はっ、はっ、ははは、はははははは、ど、どうだ」
暗がりの隅に追いやられた爪を見やって、戸田はひきつった笑い声を立てる。
「ひひっ、俺を、馬鹿に、しやがって……こ、こんなもの、さっさと売り飛ばしてやるぞ……そ、そうだ、今すぐ、今すぐにだ」
座り込んだまま腕を振り回して周囲を探り、戸田は脱いだシャツの下にあったスマホを探り当てると、震える指を画面に押し当てる。
一番安い値段をつけても良い。
とにかく、これを早くここから追い出してしまいたい。
そうすればまた静かな生活が戻ってくる。
扇風機の羽の音だけが響く、あの静かな生活が。
ガチガチと必死に両手で文字を入力する戸田の親指のうえに、
はらり、
黒い線が落ちた。
髪の毛だった。
「ひいっ!」
振り払おうとした拍子にスマホが手を離れ、キッチンの方へ飛んで行った。
どん、と壁にぶつかった音が鳴り、遅れてごとんと床に落ちた音がする。
「な、何だ! 今度は何なんだ!」
汗ばんだ皮膚に張り付いて剥がれない髪を何とか引きはがし、戸田は顔を上げ、
目が、合った。
最初に見つけた、天板近くの足の傷。
爪でひっかいたようなソレはいつの間にか大きな亀裂に形を変え、その隙間から濡れた眼球が戸田を見つめていた。
そして、その内側から小さな女の爪が、亀裂の縁をかりぃ、かりぃと引っ掻いていた。
ぽとん、
女の指から剥がれ落ちた爪が、戸田の汗で濡れた肌に乗った。
かりぃ、
亀裂をひっかく音がする。
かりかりかりぃぃかりかりぃりりかりかぃりかりぃかかりぃいかりぃ、
亀裂が広がる音がする。
かりかりかりぃぃかりかりぃりりかりかぃりかりぃかかりぃいかりぃかりかりかりぃぃかりかりぃりりかりかぃりかりぃかかりぃいかりぃかりかかかりりりぃりりかりかりぃぃかりかりぃりりかりかぃりかりぃかかりぃいかりぃかりかかかりりりぃりりぃぃりぃかりぃかりぃぃいいかりかりりぃぃりぃかりぃかりぃぃいいかりかぃりぃかりぃかりぃぃいいかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかりかり、
「うるさあああぁぁぁぁあああああああああああい!」
叫ぶ声がして。それきり、静寂。