ー1ー
「先生! マーセル先生はいらっしゃいますか!」
激しくドアが叩かれる。オーク製の重厚な造りだが、勢いで閂が軽く跳ねた。
「何事だね」
そろそろ就寝しようかとしていた。ランプを掲げると、薄闇の中、血塗れの男が左右両側から肩を担がれている。
「ペケルさんが、何かに襲われたらしい!」
担いでいる右側の男、背の高いカドレーが訴える。左側の小太りの男、ベルグも強張った眼差しを投げてくる。2人とも村の西端で、羊やヤギを飼っている隣人同士だ。
そして中央――ぐったりと頭を前に落とし、動かない男は、ペケル。村の領主ランスト公の従者だ。血の気が失せた土気色の肌は、命を吹き返すには手遅れのように見える――が。
「診療台に乗せて。ミゲル!」
それでも助かる可能性があるなら、見捨てる訳にはいかない。私は、弟子であり助手の少年の名を呼んだ。
「はい、先生」
ヒョロリとやせ形の少年は、やや眠そうな顔で隣室から飛んできた。
「お湯を準備して」
「はいっ!」
診療台の急患に視線を走らせると、ミゲルは鳶色の瞳を丸くして台所に消えた。
「状況を聞かせてくれるかね?」
ダラリと人形のように脱力したペケルの上着を静かに剥がす。固まりつつある血液で、べったりと貼り付いている。かなり出血が多い。
「へぇ……ウチの羊達がやけに鳴くんで、狼の奴がまた来たかと思って、飛び出したんです。そしたら、公爵様の馬車が止まってたんで」
禿げ上がった額に脂汗を浮かべ、ベルグは困惑した様子で話しながら、壁際の椅子に腰掛けた。
「止まってた? 御者はいなかったのかね」
ペケルの傷は深い。左の首の付け根から胸にかけて、皮膚ごと肉がえぐられている。鋭利な刃物で切り裂かれた傷でも、狼の牙による傷でもない。
「ええ。ペケルさんだけ、御者台に倒れるように座ってたんです」
「意識は?」
「なかったです。荒く息をしてたんですが」
カドレーが答えていると、お湯を張ったタライを抱えて、ミゲルが入ってきた。テーブルの上に置き、タオルを浸して絞り、ペケルの傷口周辺の血を拭き取っていく。
私は脈を探しながら、質問を続けた。
「今、馬車は?」
「息子が、公爵様の館に引いていきました」
ベルグは袖で汗を拭う。残念。馬車があれば、体毛や爪痕など襲撃者の手がかりが見つけられたかもしれないのだが。
「……積み荷を見たかね?」
「いいえ、滅相もない!」
男達は2人して、大きく頭を振った。
ランスト公爵は毎月、領地の外にペケルを走らせる。その理由は、公に語られることはない。何やら秘密の取引を行っているのだ――と、もっぱらの噂だ。
「そうか……賢明だったな」
駄目だ。脈が触れない。
「ミゲル、もういい。残念だが、事切れている」
瞼の下の瞳に灯りを近付けるも、開いた瞳孔に反応がない。
「ああ……そんな」
男達は肩を落とした。
「死亡診断書を書いておくから、一先ず公爵様に知らせてくれるかね」
「分かりました」
2人は揃って立ち上がる。彼らを見送りにドアに向かった、その時――。
「ぎゃああああ?!」
診察室の奥から、酷い叫び声が響いた。
「助けて!! 先生、助けてぇー!!」
私達が慌てて駆け戻ると――ペケルに右腕を噛み付かれたミゲルが、真っ青になって泣きわめいている。
「な、何だ?!」
「ミゲル!」
「ペケルさん!!」
一瞬怯んだが、すぐに男達がペケルを引き剥がしにかかった。が――。
ぶちぶちぶちぶちっ
「ぅぎゃああああぁっ!!」
ミゲルの腕が肩から喰いちぎられた。上半身裸のペケルは、鮮血滴る少年の腕をバリボリと貪る。白眼を剥き、口から泡を吹いたミゲルが、ズルリと床に崩れた。辺りは迸る彼の体液で、みるみる朱に染まっていく。
「……だ、駄目だ! 2人とも離れろ!!」
土気色の、死人の肌のまま、ペケルは獣の如く、生肉を平らげた。そして白濁した狂気の目が、手近にいたベルグを捕らえた。
「ヒッ……」
「逃げろぉっ!!」
叫びながら、果敢にもカドレーは、振り上げた椅子でペケルの頭を殴り付けた。木片が飛び散り、グキャッと首の骨が折れた音がして、診療台の向こうにペケルが転がり落ちた。
「……やったのか」
静寂が戻り、椅子の残骸を握り締めた手をカドレーが下ろした時。
「――ぅぐるる……」
「2人とも、逃げろ!」
唸り声に叫んだが、遅かった。とんでもない素早さで、飛びかかったペケルが、カドレーの長身を床に押し倒した。
「ぐあーーっ!?」
引き剥がす間もなく、喉が、ペケルに喰い破られた。再び鮮血が天井まで飛び散る。カドレーは長い手足をバタつかせて抵抗を見せたものの、やがて痙攣に変わった。
覆い被さったペケルは、ぐちゃぐちゃ音を立てながら、なおもカドレーを喰らっている。
「……ぁ……ひっ……!」
ゆっくりと後退りかけたベルグだったが――数歩動いたところで、固まった。
「ぁ……あっ……離せ……」
ミゲルの左手が、ベルグの足首を掴んでいた。
「止めろ、ミゲル!」
私は、狼避けの護身用のライフルを構え、白濁した瞳で起き上がった愛弟子の胸を撃った。化け物に堕ちて人を殺める前に、私の手で救いたかった。
銃声が響き、ミゲルの細い身体が弾かれた。足首を掴まれていたベルグも引きずられて、尻餅を付いた。
その騒ぎにペケルが振り向いた。顔も手も、カドレーの血で真っ赤に染まっている。
私は迷わなかった。ギラついた異形の眼差しを消したいと、本能的に感じたのだろう。こちらへ飛びかかってくる前に、もう一度引き金を引いた。
銃声と共に、ペケルの脳が吹き飛び――グシャッと糸の切れた人形さながらに、その場に崩れた。
「はっ、はな……離せっ!」
恐怖で上擦ったベルグの声が繰り返される。
胸を、心臓付近を撃ち抜かれてもなお、ミゲルは死んでいなかった。
握られたままの足首から指を外そうと、ベルグは半狂乱だ。
この化け物は、一体――。
躊躇った私の間隙を突いて、ミゲルがベルグの太股に噛み付いた。
「ぎゃあ! 先生、た、助け――」
倒れたベルグに、もう1つの影が覆い被さった。喉から胸まで喰い荒らされた、カドレーだった。
この化け物は死なない。そればかりか、喰われると仲間になってしまう。恐らく、言葉も通じない。
残りの銃弾は4発。私の腕前は、決して上手くはない。
もし、彼らを倒し損ねたら、診療所に火を放つ。身体が燃え尽きれば、流石に息絶えるだろう。
願わくば、私自身の口から公爵様に、直接ご報告出来れば良いのだが――。