独白
私、戸部茅美は猫が好きだ。寝起きのように爆発した毛並みもブラッシングが行き届いたおぼっちゃまのような毛並みも好きだ。人を寄せ付けない孤高な性格も外に出したら一瞬で他の飼い猫になってしまうような人懐っこい性格も好きだ。
そんな愛してやまない存在が危機というなら私は危険を顧みずに助ける。
それはそう、一生を左右されると言われる高校受験の日でもだ。
少し話がそれるが私は自分の髪を悩みとしている。日本人ではやや珍しい赤みのかかった栗毛だった。友人は褒めてくれるので自慢ではあったがそれは小学生までであり、中学からは違った。担任が更年期真っ最中のオバハンになり、状況は一変した。そのオバハンは私の髪を茶色に染めていると言いがかりをつけてくるのだ。それはもうたまったもんじゃなかった。すぐに親に相談し、学校からも注意を受けてもオバハンは廊下ですれ違ってもネチネチと嫌味を言ってくる。それが耐えられず、悔しかったけど私は自慢のこの髪を黒く染めることに決めた。そして、高校は髪の色にうるさくない学校にしようとも決心した。
徳川家康が敗走した後家来に自分の醜い顔を描かせたように髪をさらに黒く染めるなど気合は充分で、熱が冷めないまま受験当日は会場に六時に着いてしまった。さすがに早すぎて校門は開いていなかったので校内を散策することにした。ここに入った時のシチュエーションをし、モチベーションを高めるためだった。気分転換の目的もありました。
散歩していると頭上から猫の声が聞こえた。猫センサーには自信があったので瞬時に猫がどこの枝にいるのか見つけた。
蕾もない、寂しい桜の木の枝に、猫はいました。みゃーと心細そうに鳴く。
早速、第一希望の高校の桜の木にスカートを気にせずに登り、私は手を差し伸べる。
「ネコさん、こっちだよーおいでー」
手の先には枝の上に丸まり、動かなくなってしまっている老けた三毛猫が袋小路に追い詰められたネズミのように怯えた様子で私を見ている。まあその反応は当然だろう、だから私は精一杯、敵ではないとジェスチャーする。
「にゃーにゃーにゃー」
鳴き声も真似る。友好的意思を伝えるためには手段を厭わない。
「……」
猫用の缶詰があれば少しは懐いてくれるかもしれないけど生憎猫への愛情だけで手一杯でした。
手詰まりか、と思ったその時でした。
「そこの君、何してるの」
木の下で一人の男子生徒が立っていた。制服ですぐに未来の先輩だとわかった。
「危ないよ、すぐに降りてきて」
危ないなんてことは言われなくてもわかってる。
私は猫の救出の協力を仰ぐ。
「すみません、そこの人! 食べ物持ってませんか!」
「何、お腹空いてるの、君は」
「私じゃありません! 猫を助けるのに必要なんです! できるなら猫の缶詰があるとベストなんですけど持ってませんよね……」
「猫の缶詰ならあるよ、偶然」
「あるんですか!? 奇跡ですね!?」
なら話が早い。
「それでしたら、開けて渡してくれませんか? なかなか懐いてくれないんです、この子」
「うん、わかった。ちょっと待っててね」
彼がプルタブを引き、中から人間から見ても美味しそうな肉が姿を現した瞬間、
「みゃー!!」
ネジを全回転して放した玩具のように老猫は飛び出し、私の頭上を軽々と越え、木の幹を身軽に降りていき、彼の手にあった缶詰を奪って、どこかへ走り去っていきました。
この薄情さに、猫好きだった私は、猫が嫌いになりました。
「あんの猫! 次会ったら三味線にしてやるからな! 覚えとけよ!」
「まあまあ、猫はああいう生き物だからそんなに怒らないで」
見ず知らずの男の人になだめられる。そして、ついうっかり汚い言葉を口走ってしまったことが恥ずかしくなる。
「猫は助かったんだし、そろそろ降りてこない?」
「そうですね、今おりま……」
猫に夢中になってて気付かなかったが、現在位置が二階の高さほどあることに気づく。
恐怖で足が震え、声が出なくなる。二次要救助者の出来上がりです。
「どうしたの? 早く降りvてきて」
「……」
「もしかして……怖くて降りられない?」
かろうじて首を縦に振る。あちゃー、と先輩が顔を手で覆う。
「私、一生ここで暮らします……」
「ネガティブなのかポジティブなのかわからない弱音やめて! 諦めないで!」
「た、助けて下さい……」
私の言葉に意を決したように先輩は両腕を広げ、
「俺がキャッチするから! 勇気を出して、飛び込んで!」
「い、いいんですか、見ず知らずの私を……この、人生を左右する大事な日にペットでもない猫を助けようとお節介焼いたのにあっさりと見捨てられ面倒くさい弱音を吐く厄介者を助けてくれるんですか……?」
「助けるから! 俺を信じて!」
この、人生を左右する大事な日にペットでもない猫を助けようとお節介焼いたのにあっさりと見捨てられ面倒くさい弱音を吐く厄介者にも彼は真摯と真っ向からそう言ってくれた。
私は彼を信じることにした。
「い、行きますよ……?」
私は枝から飛び落ちる。
彼は私を、私のおでこをおでこでキャッチした。
彼は微妙に私を裏切った。
頭の衝突のショックで私は気を失った。目覚めた時には受験開始ぎりぎりの時間で、場所は保健室だった。
状況を把握しきれないまま、私は受験会場に連行された。
額の絆創膏下の傷が痛むが、試験に差し支えはなかった。むしろ朝の出来事のおかげで捗ったと言って良い。助けてくれた先輩にお礼を言わなくてはいけない。何としてでも入学し、お礼を言いたかった。
受験は無事合格した。合格発表会場で彼に会えると期待したが見つからなかった。
ふと彼の学年について不安を覚える。彼があの時点で三年生だったらどうしようかと。三年生で学校行事に関わることはありえないと思えますが、一度沼にはまってしまうと抜け出せなくなるものです。
しかしそれは杞憂でした。入学前のオリエンテーションで再会した。看板を持って道案内している彼を見つけた。遠くから、彼の顔を見る。木の上からでわからなかったが離れて見ても身長は高く、少しどきりとした。髪型は当時と同じだった。間違いなく、彼だった。
深呼吸してから彼の側に駆け寄る。彼も私に気付いた。
あぁ、やっとお礼が言える。
ここから、私の青春が始まる。
「あああののあのあのあの! あのととときは!」
開口一番から異星語が飛び出た。断っておきますが私は異星人ではありません、そう、少し、異性と話すのが苦手な乙女なんです。
……少し話が逸れますが、共学でしたが異性と話す機会は皆無でした。担任も三年間ずっとイチャモンオバハンだったため、めぼしい体験談がありません。修学旅行も男女混合でしたけど、先生にばれないように現地では別々に行動していました。
それでも、あの時の人生を左右する大事な日にペットでもない猫を助けようとお節介焼いたのにあっさりと見捨てられ面倒くさい弱音を吐く厄介者だと彼の中で印象が強く残っているはず! そう一縷の望みにかけましたが、
「……あぁ、迷子かな。会場はこっちだよ、ついてきて」
彼はまたしても私を裏切ったのでした。
何故だ、と原因を追求するとその理由が何となくだかわかった。
髪の色、だと私は推測した。今朝鏡を見て、自分の髪にうっとりしたものだ。しかしそのせいで一気に印象が変わっていたかもしれない。
「会場はここだから。もう少し待っててね。それじゃ」
「あ、あの……」
挽回する間なく、彼は立ち去ってしまう。
これが彼との二回目の出会いでした。
オリエンテーションではいくつか大事な連絡があった気がしたけど頭に届かないどころか耳に入らなかった。あまりの情けなさに茫然自失してしまいました。
オリエンテーション終了後にまた彼を探すも見つけられませんでした。
しかし私はまだ諦めません。絶対に彼にお礼を言いたかった。
そのためには手段を厭わない。不服でしたが元クラスメイトの男子と同等に普段全く話さない姉を頼ることにした。平日の真昼間から飲酒し、買いもしない通販番組を見て、何故かゲラゲラ笑ってる姉を。
「お姉ちゃん……ちょっと良い」
「忙しいから後でー」
そう言いながら姉は寝転びながら粉だけになったポテチを食べる。
「どうしてもお姉ちゃんに頼りたいことがあるんだけど」
「お金の相談は無理よー。来月旅行だからー」
こうような取り合ってもらえない時の対処法を私は知っている。用件は短く、大きな声で、だ。
「お姉ちゃん! 私、男の子と仲良くなりたい」
「……何何面白そ、お姉ちゃんに聞かせて」
しかしここで私は致命的なミスを犯した。用件を短く伝えることを念頭に置いたばかりに会話に齟齬が生じたこと、そしてもう一つ、こちらが本当に失敗だった。後にも先にもこんなミスは二度と無いだろう。自分の過去の黒歴史を一つだけ決めるというなら、私はこの時の失敗を真っ先に浮かべる。
そのミスとは、大事な相談相手を姉にしてしまったことだ。
紆余曲折を経て、私の格好はビッチみたいになった。
触ったことのないメイクをし、頑なに外さなかった第一ボタンをはずすどころか、第二ボタンまで外し、何が面白いのかわからない流行語を話す。イケイケ(死語)のギャル(死語)に変身しました。
見た目の違いで特定されなかったのに、さらに見た目を変えてしまうってバカ丸出しの過ちに気づかず姉の「これで男の子とだったら誰とでも仲良くなれるわ!男の子の方から話しかけてくるわよ!」というアドバイスを真に受けてしまいました。会話って大事ですね、ほんと。家族間だったら尚更です。
そんなこんなで入学初日。
またも私は彼と再会を果たす。廊下ではしごを壁に立てかけ、貼り紙をしている彼を見かけた。
一度女子トイレに駆け込み、鏡で自分の格好を確認。髪良し、眉毛良し、まつ毛良し、鼻良し、目良し、頬良し、唇良し、上半身良し、下半身良し。指差し確認した後、念のため、もう一度上から見直す。
一分で身支度の確認を終え、トイレを出て、彼のもとへ走る。
彼はまだ同じ場所で一人で作業を続けていた。彼に手の届く距離まで後一歩のところで、私はフリーズする。どう話しかけるべきか、今頃になり考え始め、迷い果てる。ついでに入学前に自分がすべき努力に気付く。お姉ちゃんのバカー。
彼が私に気付く。無言で突っ立っている、不審な女だと思われたかもしれない。そんなのは嫌だった。曲がりなりにも努力をし、彼に会うのを指折りで待っていたのに、嫌われるかもしれない。
咄嗟に私はこう言った。その言葉は御礼の言葉ではなかった。その言葉は今後の方針を決める一言だった。
「何かお困りですか」
それは彼との距離を縮められた魔法の言葉だった。その後、私はほんの一時だったが、彼と会話を続けられた。助けてくれた時と立場は逆なものの、状況が似ているので思い出してくれるかもしれないという淡い希望を抱くも相変わらず私のことは覚えていないようで話にあがらなかった。けれども他愛のない世間話を交わし、その短い会話の中で彼は生徒会に強制的に所属させられ年齢不詳の校務員の代わりに雑務をこなしているという情報を手に入れた。
またチャンスは巡ってくる。
勇往邁進。その言葉を胸に私のことを思い出してくれるまで陰ながら支えようと決めたのだった。
しかし問題が起きました。
それは彼があまりにも万能だということでした。
ヨボヨボの校務員さん(愛称やそじぃ)に代わり、校内全部の雑務を担っているのだがどれも一人で解決してしまう要領の良さだった。
電球の交換から庭の芝刈り、終いにはスズメバチの巣の撤去までやってのけてみせました。力を貸したい身としては彼にどんどん仕事がやってきているのは嬉しい状況なのですが、やそじぃ、ちょっとは仕事して。
そこで発送の転換だ、彼が困る状況がないのなら作ればいい。
ちょっとやそっとでは万能な彼は困らない。隙を突かなければならない。そうするなら……罠が一番だろう。