トモダチはおしまい?
「陽菜、あんた玉砕しておいで」
「え?」
アヤちゃん大きな丸い瞳をツイっと細めて笑う。
何でもないことのように、コンビニにおにぎりでも買ってきてと頼むような調子だ。
「佐川のこと、好きなんでしょ?」
「でも、絶対にダメだよ?」
「このままずっと友達がいいの?」
彼の一番に唯一に特別になりたい。友達じゃもう嫌だ。そう思うのは間違いないけれど、それ以上に彼と会えなくなることが辛い。もう二度とあの温もりの中で眠れないことも、辛い。
もう誰にも頼れない、一人きりになるのことも、辛い。
「アヤちゃん……、だって無理だよ。この仕事してたら、出会いなんてないし、独りは寂しいよ」
アヤちゃんみたいにコンビニで声をかけられるくらい美人なら、こんなに悩まない。
「……よし、わかった。すっきり振られたら、私が陽菜にとびきりいい人を紹介するわ。気合いで探す!絶対に見つけるっ!任せてよ?だから、ちゃんと気持ち伝えておいでね?」
何か自信に溢れるアヤちゃんの微笑みに言い返す言葉を見つけられないでいた。
わたしはガタガタと鳴る窓に目を向けると、粉雪が強い風に舞っていることに気づく。雪は積もることはなく、アスファルトの上を弾むように転がる。
空は抜けるように晴れ渡り、やわらかな太陽光を受けて、雪はキラキラと光る。
付けっぱなしにして、たいして見てはいないテレビは、一人きりの部屋では、耳障りに感じる。
わたしは、立ち上がるとパチンとテレビの電源を切り、身支度を整える。
首に軽く巻いたマフラーが夜の身を切るように冷たい風にはためく。マフラーを顔が隠れるくらいぐるぐるにして、冷気から逃れるように車に乗り込む。エンジンを回す前に、スマホを手にする。
もしかしたら、いないかもしれない。
マンションの前を通って、部屋に灯りがともっていなかったら、そのまま帰ってこよう。
彼がいなければ、告白なんて出来ないのだから。
ピンポーン
通いつめたエントランスの床が冷たいく光り、響きわたる音。
『おう……』
耳に馴染んだ声、この声をもう二度と聞くことが出来ないのかと思うと、鼻の奥がツンとしてくる。
『あ……、開けてくれる?』
中に入って彼を前にして、思いを伝えることが出来るのだろうか。
この扉をくぐれば、彼はもうすぐ目の前に現れるけれど、何と言っていいのかまだ、わからないでいる。
エレベーターに乗り、彼のへやの部屋の前に立つ。
もうここに二度と来れないのかと思うと、胸が締め付けられるように痛む。
「やっほ。今日も寒いね」
洗い髪を無動作にかきあげ、すっきりと整った眉をツイっとあげる、口では、迷惑そうな言葉を吐くも、いつだってその目は優しく細められる。
そんな彼と、もう会うことが出来なくなる。
でも、言わなきゃ。だって、トモダチじゃ嫌だから。
わたしじゃあ、ダメかな?わたしは女だけどいいかな?
言葉にしようとするけれど、苦しくて言葉にならず、鼻の奥がツンと痛くなってくる。
「どうした?」
優しく問いかける声と柔らかく細められる瞳が、わたしの堪えていた涙を溢れさせる。
「わたし、女だけどいいかな?」
声が震えて、漏れる嗚咽に紛れたけれど、何とか言葉を紡ぐ。でも彼は、何か痛みをこらえるように瞳を閉じたままで、答えてはくれない。
そして、小さくこぼれた言葉は、わたしを拒絶するものだった。
「いいわけない」
やっぱりダメなんだ。わたしじゃ、ダメなんだ。断られることがわかっているのに気持ちを伝えることは出来ない。
誰かを、佐川くんじゃない誰かを紹介されても、わたしはきっと好きになれない。
佐川くんがいい。
「ダメ、ダメだよ。無理」
彼のそばにいたい。トモダチじゃ嫌だけど、そばにいたい。
「言えないよ、アヤちゃん」
もう、どうすればいいのかわからない。けれども、ここにいては行けないことはわかる。
彼の顔は見れなかった。泣いているわけを話すわけにはいかないから。
わたしは、尻尾を巻いて逃げ出した。
昼間、パラパラと降ったり止んだりしていた雨は夜半から雪になるらしく、冷たい風が吹いているようだった。
空調のよく効いた病棟にいては、外の寒さは全くわからない。
わたしは仕事を終え、休憩室でカバンからスマホを取り出す。ボタンを押してもスマホの液晶は真っ暗なままだった。
壁の時計を見ると夜中の2時前。朝には満タンだったけれど、彼からの前にもらった短いメールを何度も開いて眺めていたせいか、充電がなくなったらしい。
上手くいかない日は、何もかも上手くいかないのだろうか。
白衣を脱いで着替えを済ませ、駐車場に向かう。
予報通り、チラチラと雪がが舞い落ちてきて、車や街路樹をうっすらと白く染めていて、街灯の光をうけている。
ーーわぁ、キレイ
ぱっと嬉しい気持ちが一瞬にして、寂しさに変わる。一緒に見たい彼の顔が浮かんでしまったから。
あの日から、彼はもちろん、アヤちゃんにも会えない。
何もかもなくなって、わたしは本当にひとりぼっちになってしまった。
ヒラヒラと落ちる雪は、アスファルトの上に落ちるとすぐに溶けて消えてしまう。わたしの思いも、こんな風に簡単に溶けてしまえば、もっと楽チンなのに。
わたしはいつだって、届かない。
ーーわたしじゃ、なかったら。あの人は死なずに済んだのかな?
後悔が胸の奥に染みる。それは消えてなくなることはなく、わたしの胸を締め付ける。
誰もがわかっていたことだった。
いつ旅立ってもおかしくはなかった。
ほんの数時間だけ、自宅に戻った妻。
そのすぐ後に、その人は急変して旅立った。
あと、もう少しで妻が戻るはずだった。
わたしが、あのとき吸痰をしていたら、体位変換をしなかったら、妻に今日は雪だからと、引き留めていたら……。
思っても仕方のないことだと、わかっている。けれども、わたしはわたしが嫌になる。
わたしじゃない、他の看護師なら、もっと上手くできたのではないかと、もっと穏やかに最後を迎えられて、もっと少ない後悔で家族は見送ることができたのではないかと、思う。
わたしはハンドルに頭を乗せたまま、動けずにいた。
フロントガラスにも、うっすらと雪がつもり始める。これ以上、積もってしまうと車を走らせることが出来なくなる。
わたしは、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
いつもの走り慣れた道も、うっすらと雪が積もり、見知らぬ場所のように感じる。
濡れたアスファルトにも積もり始めた雪を踏んでアパートの階段をのぼる。
カバンから部屋の鍵を出したとき、後ろに人の気配を感じて、身体が跳ねる。
後ろを振り返ると、困ったように笑う佐川くんがいた。
髪にも肩にも、少し雪をのせている。
「おう?」
筋の通った鼻を赤く染めて、黒い瞳はゆらゆらと落ち着かない。
「さっ、佐川くん?どうしたの、こんな時間に?」
「……会いに来た」
「えっ……」
「一応、連絡はしたけど」
「あっ、仕事中に充電切れた……、ごめん」
「……仕事だったか」
「うん、今日は準夜勤務。いつ来た?ずっと待っててくれたの?」
「……」
ちらりと気まずそうに見つめた先には、佐川くんの車が停めてある。その車には雪が積もっていて、彼が降りだす前からここにいたことがわかる。
「佐川くん……?ずっと待って……、どうしたの?何かあった?……フラれちゃったとか?」
「……そうじゃない」
「何?とりあえず、上がってよ?寒いし、佐川くんの家みたいに床暖房ないけど」
「……上がらない」
「どうして?」
彼は何か苦いものでも、口に含んだかのように顔をしかめる。
「……それよりも、どうかしたのは有沢のほうだろう?仕事で何かあったのか?」
「えっ……」
「えらい、しょんぼりして。どんよりしてたぞ?」
どうしてわかってしまうのだろうか。彼にはわたしの思いが伝わってしまうのだろうか。
「ちょっと辛いことあっただけ、まぁ、守秘義務ってことで……」
ゆらりと彼が近付いて、その腕の中に閉じ込められる。
彼の香りが身体に染み渡り、心地よくて思わずわたしも腕をまわして、しがみついてしまう。
ーーあぁ、わたしは佐川くんが大好きだ。
いつも背中に感じていた彼の温もりが、わたしの頬と胸を温める。
心の隅まで染み渡り、涙が溢れてしまう。
「……俺はそんな顔してるお前のそばにいたい。来るのを待ってるんじゃなくて、会いに来たんだ、そうしたら、お前は泣きそうな顔してた。俺……、自分で自分のこと、ほんとに嫌になった。お前がうちにくるときだけ、俺に会いにくるときだけ、辛い訳じゃないんだな。……いつだって、お前のそばには、誰かの死があるんだな」
「……佐川くん……?」
どうしてわかってしまうのだろうか。腕の中から驚きとともに顔を上げると、彼はホロリと笑って言葉をつなぐ。
「ずいぶん前に、バーで言ってただろ?いつもこれでいいのかと、悩むって……。そのときと同じ顔をしてたから、誰か亡くなったのかと思った」
ーーあぁ、やっぱりわたし、佐川くんが大好きだ。他の誰かじゃ嫌だ。佐川くんじゃなきゃダメだ。
腕に力が入り、彼をぎゅっと締める。
「……佐川くん」
思いを伝えたいのに、その言葉を連ねることが出来ない。
「……有沢、結婚しょうか?」
「…………え?ええっ?」
「ずっと、一緒にいよう。ずっと、そばにいたい」
「……ど、どうしたの?佐川くん。もしかして……、酔っぱらってるとか?」
「酔ってない」
「……、わたし、女だけど?」
「結婚は、女としか出来ない、同性の結婚は認められていないから」
「そだね……、じゃあ、何で?」
「……有沢が好きだから」
「え?ええっ?」
「俺は、ずっと有沢が好きだから。……男が好きだったことなんかない」
「佐川くん……?」
「お前が勝手にそう思い込んでただけだから」
「何で、いってくれなかったの?……わたし、佐川くんは女は興味ないって……」
「……当分、無理とは、言ったかな。……俺は酔っぱらって正体をなくしたヤツに手を出す趣味はない」
「え……」
「もう、トモダチは無理だから。……有沢が俺のこと、何とも思ってないのはわかってる」
彼の手のひらが、頬に触れて、ゆるゆると髪をすいていく。あまりの気持ち良さにうっとりと瞳を閉じてしまう。
雪が降り続けていて、辺りはシンと静まりかえって、わたしの心臓がドキリドキリと打つ音が耳にこだまする。
ーーあぁ、目を開けると全部、嘘になってしまうんじゃないかな。
ふわふわと浮かんでいた彼の言葉が、雪のように頭の中に舞い降りてきて、ゆっくり溶けるように染み込んでくる。
彼はゲイじゃなかった、わたしのことが好きだと、一緒にいたいと言う。嬉しい、こんなにも心が温かい。何か忘れている気がする。
ーーさっき、結婚しようって言ったよね?!
ゆっくりと目を開けると、ふうと彼の吐く息が真っ白に染まるのが見える。
彼の瞳がゆらりと悲しそうに揺れて、わたしは、彼の問いに答えていないことに気づく。
「佐川くんっ!わたし、結婚するっ!佐川くんと結婚するっ!わたし、佐川くんが大好き。ずっと、大好きだよ。一緒にいたいよ。アヤちゃんに告白してこいって、フラれたら、イイ人紹介するって言われても、やっぱり佐川くんがいいから、言えなくて。トモダチでもいいって思ってたけど、足りなくなってきちゃったよ?」
彼は目を閉じて、ぎゅっとわたしを抱きしめる。何も言わずにただ、抱きしめる腕は固く、それがとても心地いい。ここにいていいと言われているようだ。
「わたし、佐川くんの玉子焼きが食べたい……」
だしが香る玉子焼きが突然、頭に浮かんでそのまま、言葉にする。
彼はふっと小さく笑う。
「……だし巻き卵な。玉子焼きじゃない。俺は、お前が食べたい」




