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トモダチの理由

 スマホの充電はあまりに早くなくなる。


 帰宅するとすぐに充電器にカチリと差込み、改めて着信がないかを確認する。

 彼女からの連絡はいつも突然で直前で、何の前触れもない。

 週に何度も来ることもあれば、1ヶ月間、全く音沙汰がないこともある、彼女の訪問は全く読めない。

 それでも、俺は彼女からの連絡をいつも待っている。


 くるくると変わる表情、目を細めて笑うと、丸く白い頬にはくっきりとえくぼが浮かぶ。

 小さな桜色の唇はよく動き、言葉をつむぎ、食べる。その姿は見ているほうが嬉しくなるくらい楽しそうだ。

 少し黄みを帯びた茶色の髪はベッドで眠るときも肩に流してゆるくまとめて、うなじと耳たぶの小さな耳がよく見える。すっぽりと収まってしまう背中と肩は柔らかく、ひんやりと冷たくて、熱を帯びてくる体にちょうどいい。彼女に自分の熱が移るころ、規則正しいリズムで彼女の胸が上下する。ほんの少しだけ口をあけて眠る彼女を見るたびに腹のそこが重くなり、耐えかねて大きくため息をついてしまう。


 ――彼女は俺を男と思ってはいない。


 3LDKの分譲マンションのローンはまだ、20年以上も残っている。

 さっさと売り払って、独り身にふさわしいアパートに引っ越す予定だったけれど、彼女がリビングの床暖房をいたく気に入っているために、それができないでいる。余分に部屋があるから、招かざる客も拒めない、そんな自分にため息が出る。


「なんだよ?ため息ばっかりつきやがって」

 出し巻き卵をつまみに焼酎のお湯割をチビチビ飲むのは、職場の先輩の大崎さんだ。奥さんが里帰り出産中のため、こうして俺の部屋に入り浸っている。買出しに出ている隙に勝手に風呂まで済ませ、見慣れた部屋着に、先日洗濯したタオルでガシガシと頭を拭いている。


「……」またため息をつきそうになるのを寸前で堪え、冷えた缶ビールのプルタブを鳴らして、のどに流し込んだ。

 大崎さんは口元をだらしなく緩め、にやにやと笑っている。


「それにしてもえらいかわいい子だな?」

「何なんですか、急に」

「…いや、さっき来てな」

「えっ?」

「すぐに、帰ってくるからって引きとめたけど、帰ったぞ」

 誰のことか確かめるまでもない、彼女だ。スマホには何の連絡もない。思わず舌打ちをしてしまい、車のキーを手に取り、立ち上がる。

「おいおい、待てって。どこ行くんだよ?飲酒運転はまずい。飲んだら飲むな、飲むなら乗るなだぞ?仕事なくすぞ。やめとけって。もう、結構前だしな。……それに、なんだか妙なこと言ってたぞ?『佐川君をよろしくお願いします』だったか?仲よさそうに、手ぇつないでトモダチ?」

 彼女を追いかけることを断念して、際限なくあふれ出そうなため息をビールで押さえ込み、どさりとじんわりと暖かい床に座り込む。

「……トモダチっすよ」

「じゃ、紹介しろよ?」

「無理です。奥さんどうするんですか?」

「大丈夫、うまくやる」

「そういう問題じゃないですよ」

「じゃ、福祉課の黒田に紹介してやれよ?あいつ、この間、彼女と別れたらしくて、誰かいませんかって言ってたし」

「……」

「お前、バカだろ?なにやってんだよ」

「……彼女は俺のこと、男だと思ってないんですよ。戦力外通知もらったみたいなもんですから」

「なんだよそれ?お前がバツ、ついてるからか?」

「それなら、いいですよ、まだ。……あいつ、俺のこと、女に興味のない、ゲイだって思ってるんすよ。ゲイでよかったって言って、急に来て、酒飲んで、グーグー寝て。あげく、寒いから一緒に寝てくれって、俺の横でグーーグー寝るんですよ?いったい何の嫌がらせだっつうの」

「はぁ?そんでお前、横で寝てんのかよ?……それって、ある意味、手を出さないと失礼なレベルなんじゃ?」

「ノーガードの相手を殴れます?安心しきって、マッハで寝る女に手ぇ出せますか?ちょっとでも、気があれば警戒するでしょ?寝ないでしょ普通?」

「そんで、お前、『ゲイのトモダチ』やってんのかよ?俺はゲイじゃね、お前が好きだで済む話だろ?」

「……あいつ、男ができたって、別れたって、逐一報告に来るんですよ?もう、あいつにとっては、俺はトモダチ以外の何者でもないんすよ」


 嬉々として話す新しい男こと、赤裸々に話す終わった男のこと、頭の奥がしびれるくらいイライラする。鉛を飲み込んだように腹の底が重くなる。何かが刺さったように息が苦しい。それでも、もう来るなと、もう聞きたくないと、俺は彼女に言えない。

 つらいとき、寂しいとき、彼女が涙を流すとき、そのそばにいたいから。




 ねっとりと熱がまとわりつくような夜、街灯の光を受けて、電柱にとまったセミが鳴いていた。

 俺は居酒屋のテーブルの端にすわって、大してうまくもない枝豆と冷奴をつまみに、ビールを飲んでいた。

「おっす!」

 明るく笑う彼女が誰かわからなかった。くっきり浮かぶ頬のえくぼと、目を細めて笑う顔に記憶の糸を手繰る。記憶の引き出しの奥の奥にあった、真っ黒に日焼けしたショートカットの笑顔と重なって、彼女が有沢だとわかる。あの頃とは違う彼女の印象に全く知らない女の子と話している気分になって、うまく返事ができない。

「あ……、有沢さん」

 満足そうに微笑み、彼女は勢いよく話し始める。彼女は看護師として市立病院で働いているという。彼氏はいないらしいこと、見た映画の感想、友達と行ったランチの内容、仕事の失敗、彼女の話題は尽きることなく、次から次へと話続ける。そして、次から次へと、グラスを空ける。

 かなりのアルコールを摂取しているにも関わらず、ほんの少し頬を赤く染めているくらいで、足取りも口調も全く変わりはなく、しっかりとしている。

「アヤちゃーん、もっと飲みにいこ?佐川くんもいこ?」

 それでもまだ、彼女は飲み足りないらしく、平原と三人で二件目に移動する。


 まとわりつく熱気ただよう闇は、建ち並ぶビルのネオンをにじせている。

 カウンターとテーブル席が二つ、三つ並ぶ、こじんまりとしたバーで、グラスを傾ける。

 ジンバックのほどよい酸味が、熱気を冷ましてくれる。

 さっきとは打って変わって、言葉少ない彼女はカクテルグラスを手に頬をついて、ぼんやりとカウンターに置かれた小さなキャンドルを見つめていた。黒い瞳にゆらゆらと灯りが映りこみ、肩に髪が緩やかに流れ落ちている姿に目を離せないでいると、彼女はポツリと呟いた。


「やさしい人だったね」

 一瞬、なんのことをいっているのかわからなかった。

「あぁ、外科入院だったね」平原はぽつりと呟き、ちらりと目が合う。

「えっ?もしかして、いたのか?」

「うん、いたよ。担当じゃないから、関わることあんまりなかったけどね」

「あぁ、そうか」

 三年前から闘病していた母親がなくなった。入退院を繰り返していた外科病棟で彼女は働いていたらしい。ほぼ、毎日病院に行っていたにもかかわらず、彼女に気づくことはなかった。お世話になりましたと、挨拶をするべきなのだろうか。

「平原もいたのか?」

「ううん、私はちがうとこ」

「……声、かけてくれたらよかったのに」

「気の利いたこと、言えないしね」

 彼女の瞳は相変わらず、ゆらゆらと光を宿したまま、ぼんやりと空を見つめている。

「私、いっつも思うよ。悪いことした、嫌な人だけが病気になればいいのにって」

「うん、そうね」

 白い床、白い壁、いつも空調の効いている院内は空気がよどんでいるような、足を踏み入れた瞬間、なんともいえない異臭がする。そこで目にする白衣に身を包み、微笑を浮かべて、いつもせわしなく立ち去っていく看護師の姿と、目の前にいる二人の人物がうまく、重ならない。話しかけるタイミングもなければ、何を話せばいいのかもわからなかった。たくさん言いたいことも、聴いてほしいこともあったように思う。彼女たちにとって、俺たちは記憶に残る存在には思えない。

「そんなの、すぐに忘れてしまうんだろ?」

 二人は俺の声が聞こえなかったかのように、何も答えない。平原はゆっくりと髪をかき上げるけれども、言葉を発しはしない。


「患者さんの死が、つらくないことはないよ。うまくやり過ごせるようにはなるけど、馴れてしまうことも、すぐに忘れてしまうこともないよ。ずっとずっと心に引っかかったままのことだってあるよ。次はもっとああしよう、こうしようって思うよ、わたしはね」

 彼女はゆらりと視線を泳がせて、こちらをじっと見つめてくる。俺はその視線を受けきれずに、グラスに落とす。


 取り留めのない話をぽつりぽつりとこぼす。


「今日は指輪、してないんだね?」彼女が俺の左手を見つめながら呟く。

「……別れたんだ」

「ふーん、そっか」彼女は何でもないことのようにあっさり答え、それ以上の問いを投げかけることはなかった。そのせいだろうか、俺はきかれてもいないのにポツリとこぼす。

「もう、当分、女は無理だな」

「そう」平原はたいして興味のない様子で短く相槌を打つ。

 誰からともなく席を立ち、帰路に着く。

 店から自宅までの道のりを鑑みて、彼女と同じタクシーに乗り込む。

「とりあえず、市立病院のほうに」そう言った彼女はそのまま、ぐっすりと眠ってしまった。自宅の詳しい場所を運転手に伝えてはおらず、何をしても目を覚まさない彼女をやむなく自分のマンションに連れ帰った。

 リビングのソファにそっと下ろす。一瞬、目を開けたように見えたけれども、彼女は小さく寝息を立てていた。

 あの時、平原に連絡して、引取りを頼めばよかったと気づいたのはずいぶんと後になったからだった。





 チロリンとスマホが音を鳴らす。

 意外な人からの連絡に動揺を隠せない。

 来週の木曜か金曜の夕方19時以降、駅前のコーヒーチェーン店。少し確認したいことがあるだけなので時間はとらせない、無理なら来週の火曜か木曜でどうか?

 誰かと何かの約束をする際には、自分の希望、相手の都合、前もって確認をするべきだ。まちがっても、出かけた後に連絡するべきではない。同じ同級生でもこうも違うものかと、笑えてくる。


 木曜日の19時、すっかり日が沈み、昼間のささやかな日差しに暖められた空気はすでになく、冷たい風がきつく吹きつけている。仕事を終えて待ち合わせのコーヒーショップに向かい、車から降りると思わず、足が速くなる。


 店内を見渡すと、すでに平原はマグカップを片手にカウチに座っていた。カウンターでコーヒーを受け取り、その前に座る。平原は目を落としていたスマホから顔を上げる。

「お疲れ様、急に呼び出してごめんね」

「いや、全然。急じゃないだろ?」

「……陽菜がおかしいのよ、一緒にしないで」

頬を緩ませ、肩をすくませる。ふうと大きく息を吐くと、まっすぐに見つめて言葉を続ける。

「手短に聞くわ。佐川って、女より、男がいいタイプなの?」

 全く予想してない質問ではなかったが、混雑とはいえないが周りに人がたくさんいるところで、着いてすぐにふられる話ではない。口に含んでいたコーヒーが少し飛んだことは大目にみてもらわねば。

 ちょっとやめてよと平原の抗議の声は無視してその問いに答える。

「そんなわけないだろう」

「……一応、確認よ、確認。もしかして、もしかするじゃない」

「改めて、確認がいることか?……どこからの情報かはわかってるけどな」


「……ねぇ、佐川、陽菜ね、バカでしょ?バカでかわいくて、やさしくてイイ子なのよ。寂しがりやで、弱虫で泣き虫で、自分に自信がなくて、男を見る目がないの。全然、自分のこと大事にできなくて……、ううん、大事にされたことなくて、やさしくされたことないの」


「……知ってる」


「そっか、じゃあさ、つらいときとか、悲しいときに、そばにいるんじゃなくてさ。あの子のこと、泣かないでいいよう守ってやってよ。自分のこと大事にできるように、いっぱい大事にしてやってよ?どうして好きな女のトモダチなんかしてるのよ」


「……」


「……否定しないのは、肯定ってことね。このビビりっ!好きなら好きって、はっきり言えばいいのに」


「そんなもん、わかってる。でも、俺じゃ、ダメなんだよ。トモダチにしか、なれねぇんだよ。それ以外になれるもんがないから、トモダチやってんだよ」

「何を根拠にそんな風に言い切るのよ」

「あいつ、寝るんだよ……。俺のベッドの中で、俺の腕の中で」

「……私の仕事って何か知ってるよね?みんなが寝てるころ、働いてるの。昼間働いて、夜中に起きて、また働いてるの。三十目前で、ほんとに体、きついよ?……寝ちゃうのよ、それを理由にしないで。夜勤を一度、やってみたらいいのよ、ほんとにっ。布団がここにあったら、私も五分あったら寝れるよ。……ちなみに私はデート中に寝たわよ。平日の昼間の水族館でね」

「マジか?ありえねぇな」

「言うな」

 

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