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トモダチのうち

「赤ちゃんができたかもしれないの……」


 わたしは、どこかでわかっていた。


 彼は顔をひきつらせ、ぴたりとその動きを止める。ぎゅっと眉間にシワをよせて、明らかな嫌悪を漂わせる。


 ーーそう、決して喜ぶことはないと。



 暦の上では、すでに、春だというのに街路樹をすり抜ける風は身を切るように冷たく、抜けるように澄んだ空からふり注ぐ太陽の日差しは、まだ温もりをはらんではいない。

 わたしは、夜勤明けの重い身体を引きずるようにアパートに帰り、玄関の戸を開けると、一目ですべてが見渡せる狭い部屋をエアコンで温める。シャワーを浴びている間に、動き始めたエアコンはゴーと低い耳鳴りに似た音を立てて、乾いた風を吐き出す。


 東側の窓から差し込む光を厚い遮光カーテンで遮り、ベッドに潜り込み、目を閉じる。


 休日の昼間、一人きりの部屋には、エアコンの風の音、走り去るエンジン音、そしてときおり、甲高い子供の声が聞こえる。


 大きくため息がこぼれる。

 身体は重く、ベッドに沈み混むように動かないけれど、まぶたはきつく閉じておかないと、涙がこぼれてしまいそうになる。


 うつらうつらと眠ったような、起きていたような、はっきりとしない記憶。どれくらい時間が経ったのかわからない。ほんの少しと言われれば、そのような気もする。

 カーテンの隙間からこぼれていた光が全くないことが、今は日が沈んだ証。かなり、眠っていたようだ。

 ベッドからはい出て、電気をつけると、その明るさに目が眩む。


 お腹空いた……。

 冷蔵庫には、うっすらと色が変わっているマヨネーズといつからそこにあるのかもう記憶が定かではないチューブ生姜、缶ビールが3本。

 今から、買い物に行って何かを作る気にもなれず、適当に済ませようにも食べるものもない。空腹を紛らわすためにビールを飲むことも憚られた。

 あきらめて、身支度をする。


 今更ながらに、歩いて行けるところにコンビニがある物件にしなかったことを後悔してしまう。けれども、寒空のもと歩いてコンビニにいけないかも……。


 車のエンジンを回す。


 コンビニのおにぎりをかじり、白々しい笑い声の響くテレビをつけて、ビールを飲むわたしが、ありありと頭に浮かぶ。


 目を閉じて、ハンドルに頭をのせる。


 スマホを手にして、『緊急避難場所』に連絡を済ませ、最寄りのコンビニを通り越して、車を走らせる。


 一階のエントランスで部屋番号を押す。


『……はい』

 愛想のない低い声がエントランスに響く。

「ども?わたし、わたし」

 小さなカメラから見えていることはわかっているので、にこやかに手を振る。


『……』

 ため息が聞こえたような気がするが、ガチャリと解錠の音を歓迎の合図と受け取り、聞こえなかったことにする。



 エレベーターを降りて、部屋の戸の横のインターフォンを押すと、すぐにその戸は開かれる。


「ども?お邪魔します?」


「お前なぁ?」少しくたびれたトレーナーとゆるいジーンズ、整えられていない髪をぐしゃぐしゃとかきながら、 思い切りため息をこぼされる。


「いーじゃん。減るもんじゃないし、部屋は広いんだし、暖房もねぇ?エコだよ!エコ」


 嫌そうなことを言っても、彼はわたしを部屋にあげてくれる。

 いつだってそうだ、彼は優しい。わたしを拒むことはしない。

 なんていいヤツ!最高の友達!!


 わたしは、彼との再会を神様に感謝してる。


 玄関で靴を脱ぎ、廊下を進むと突き当たりには15畳はあるリビングダイニング。床暖房で暖められた部屋はじんわりと暖かい。

「おー、相変わらずキレイにしてるね」

「誰かさんが急に来たりするからなっ!」

「わたし、ビールで!」

「うるせー!お前に飲ます酒はないっ!」

「えーー、じゃ、ご飯にする」

「じゃ、じゃねぇ!急に来て、ビールだの飯だの、何様のつもりなんだよっ!ほんとに、急に来て、なんだよ」


 口ではあんなことを言いながら、彼は手際よく、テーブルに料理を並べていく。

 まさに神業っ!ありがとう、佐川さん!



「もう少し早めに連絡すれば、もっとまともなもん食わしてやるのに、いつもいつも、『今から行くわ』って、ほんとにふざけてんのかよ!こっちの都合は全く無視しやがってっ!」


「玉子焼き、おいひぃ〜」噛むとふんわりだしの香り。おにぎりの中は昆布、ちろっと横からはみ出している姿がなんともかわいらしいっ!


「おいっ!人の話、聞いてんのかよっ!」

 スッキリと通った鼻梁、形よく整った眉はきゅっと寄せられて、口元は真っ直ぐに結ばれているけれど、黒い瞳は、心配そうに揺れている。


「……」

 かじりついたおにぎりを手にしたまま、わたしは大きくため息をこぼしてしまった。

「……何だよ、またフラレたのか?」


「またって言うな……、またって」

 不覚にも、鼻がツンとしたと思ったときには涙がこぼれていた。


「ほんとのことだろう?そんなことより、どうしたんだよ?ラブラブだって言ってなかったか?」


「……喜ばないとはわかってたけど、驚くだろうなとは思ってたけど……、あいつ……、俺の子じゃないって!!」


「……はぁ?」


「いっつも、着けてって、赤ちゃん出来るよって、わたし言ってたのにっ!あいつ、大丈夫だからって……、わたし、赤ちゃん出来ても大丈夫なんだって……、思ってたのに」

 悔しい、悔しくて、悲しくて、バカらしくて、涙が止まらない。

「あいつ……、外で出してるから大丈夫って!!だから、俺の子じゃないって!!」

「……お前、中学生と付き合ってんのかよ?それ、成人男子なら完全に馬鹿だぞ?お前の男の趣味どうなってんだ?」


「うっ……、うるさいっ!」


「……それで、妊娠してるのか?」

 彼の手がゆっくりと伸びて、わたしの前におかれた缶ビールを取る。


「……違った」


「んだよ……、人騒がせなっ」


「だって!わたし夜勤してんだよ?不規則な生活してるんだよ?生理、遅れやすいけど、避妊しないでしたら、そうかもって思うじゃん?」


「ちゃんと、避妊くらいしろよ!」


「女の避妊は、ピル飲むしかないのっ!わたし、不規則な生活で薬、飲むの忘れるのっ!しかも、副作用で結構しんどかったし……」


「……それで、その男とはどうなったんだ?」


「生理が来て、すぐに別れた……」


「……お前、もっと男、見る目を養え。二股かけられたり、金をせびられたり……」大きくため息をつかれて、節のある長い指の大きな手から、ビールを渡される。


「いいよね?佐川くんは、妊娠の心配なんてないんだもん」

 少しぬるくなったビールが喉を滑り落ちていく。


「……」

 なにも言わずに鼻でふんっと笑って、空になったビールを奪いとり、冷蔵庫から冷えた缶を取りだし、プシュっと開けてから、手渡してくれる。


 ティッシュを投げられ、二枚勢いよく抜き取り、思い切り鼻をかんだ。

 とても、すっきりする。


 いつだってそうだ、彼といるとすっきりする。いつもより深く息が出来る、たくさん肺に酸素が取り込まれ、身体がゆったりと滑らかに動く。


 あぁ、なんていいヤツ!

 佐川くんがゲイで本当によかった。



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