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後篇

完結編です。

 廊下を歩く。つま先から、ゆっくりと、音のしないように、静かに。床に踵をつける。ひたり、と、薄暗がりに無音が響く。窓から四角く切り取られた月光と星灯りの合間を、月下の水面を渡るように、向かう場所。ぼうっと、窓から差し込むひかりに淡く発光しているような、白い縦長の扉を見つけた。


 音を立ててはいけなかった。わたしは真鍮の取っ手をひっそりと握り、鍵のかかっていないことを祈りながら、ゆっくりと扉を押し開けた。少しずつ、少しずつ。隙間から洩れる月明かりが、床に細い光の道を描いた。


 白い部屋だった。家具などの調度は何もなかった。燈りもつけずに、真珠は床に座り込んでいた。金の髪と、白い服の裾が、床に波紋のように広がっていた。


 わたしの方を振り返った彼女に、駆け寄って、その腕を取った。


 折れそうなほどに細く、白い腕だった。しっかりと握っても、波打ち際の白砂のように、すり抜けてしまいそうな腕だった。


 わたしはそれを強く握り締めて、真っ直ぐに彼女を瞳を見た。



「いこう」



 わたしは、はじめて、彼女に言葉をかけた。









 白くぼうっと浮かび上がる砂浜は、まるで銀の星をまいたようだった。


 ヴィラの脇を下りて、丘をくだる細い脇道を、月灯りだけを頼りに、繁る細い夏草をかきわけて、浜辺へでた。はだしで踏む砂は、ひんやりと冷たかった。


 飾り立てられた靴は脱ぎ捨ててきた。桜貝のような、小さく、白い陶器のような真珠のつまさきと、皮が剥がれ、変色して歪な関節の見えるわたしの足先が、星のひかりのような砂を蹴って、きらきらと銀を散らした。きしきしと泣く砂は、そのなかに海を持っているように白銀にきらめいた。透明な水がはねるような色をしていた。


 目がさえるほど澄みきった海が、潮騒で、わたしたちの足音と呼吸音を消してくれると、信じたかった。



 真珠が連れていかれる。

 然るべき場所に。

 それは、どこだ。



 真珠の夫は俗人だ。靄がかかったように疲れた濁りを浮かべている青い瞳。彼は真珠を理解しない。彼は真珠をあきらめるだろう。仕方がないのだ。あの男に真珠のうつくしさは永遠に解りはしない。あわれな妻を、こわれた真珠を、慈しむべきものとしてとらえる。そして、彼女を、彼女の純粋さを、殺してしまうに違いない。彼女の胸に、杭だの矢だの短剣だのを、突き立てて。


 慈しみが人魚を殺すなら。



 どこかへいってしまう、

 真珠が、どこかへいってしまう。



 海辺を、ただひたすらに、走った。

 きらきらと、銀波の残映のように散る砂が、わたしたちをどこか遠いところへ連れていってくれるのなら、と、かんがえた。祈った。祈らずにはいられなかった。このまま、踏む砂が道となって、天の水脈となって、ふたりで、星座のみちしるべを踏みこえて、どこか、どこか遠い、ここからずっと遠いところへ。


 向かうあてはない。けれどもわたしたちは走った。わたしは真珠の手を取り、彼女は私の手に縋り。行くあてはなかった。けれども確信はあった。わたしたちはここにはいられない。わたしたちは目指すべきだ。涯のない海のすぐ隣を走っていれば、いつかたどりつける気がした。わたしの目指すところ、彼女がいるべきところ、もうなにも喪うことのない、そんなところへ。

 泡になるくらいなら、どうして。


 そのとき、小さなつま先を砂に取られ、真珠が地面に倒れ込んだ。握っていた手がほどける。わたしは慌てて立ち止まり、彼女に手を伸ばした。

 立つのを促すように指先を動かすと、彼女はその場に座り込んだまま、ふ、と笑った。


 わたしはなぜ彼女が笑ったのか解らず、急いて、もう一度手を伸ばした。と、その掌をやわく取られて引かれ、わたしもバランスを崩し、彼女の隣に倒れ込んだ。


 顔が、意外なほどの近さで向かい合う。


 鼻先がふれあうほどの距離で、真珠の、青い瞳がまたたいていた。


 青いその瞳が、まっすぐにわたしの瞳とまじわった。


 きらきらと、瞼に流星群が降ったような瞳だった。


 ただ、壊れかけた砂城をなでるように、真珠は、わたしの指先をにぎった。


「ねえ」


 真珠の声が、夜をゆらした。




「月がきれいですね」




 ふたりで、夜を見上げた。


 月が、まっ白な真珠のようだった。



 うつくしかった。



 わたしは、真珠のてのひらをつよくにぎった。


 目の端で捉える白い月の降るようなかがやきに包まれて、わたしたちが横たわる砂が弾けるように白くちらちらときらめいていた。絶えまないさざ波の声と、弾ける音が聴こえると錯覚してしまいそうな砂のきらめきで、寸の間、何もわからなくなった。


 手に、ぬくもりがふれた。わたしは真珠とつないでいるはずのてのひらに瞳を向けた。


 ぬくもりと錯覚したのはあの小さな貝殻で、月明かりの下で、それはきらきらときらめいていて、どんな宝石よりうつくしく、それこそ、真珠のようで。


 海の音がひびいた。



「……これを」



 波にまぎれてしまいそうな声で、真珠は囁いた。地に立つには脆過ぎた彼女は、微笑んだまま、わたしの掌にそれを握らせて、ゆっくりと、手を離した。ゆっくりと。掌からぬくもりが消えていく。指先が離れる。

 その直前にわたしはもう一度、彼女の手を掴んで引き寄せる。


 つめたい掌だった。


 けれど、あたたかかった。


 彼女は驚いたように、少しその青い眸を瞠った。けれど、すぐに、微笑んだ。



「……ありがとう」



 頬に、つめたいしずくが落ちた。










 海沿いの遊歩道を、たったひとつ鞄を持って歩く。使い古されて四つの角が擦り切れた革の鞄。中身はほとんど入っていない。軽いその中に、たったひとつ、入っているものが、歩調に合わせてかたかたと音を立てた。


 頬を撫でる潮風が、髪を踊らせた。額にかかった前髪を払い、手を握りしめた。


 ずっと握っていたから、まだ感触を覚えている。まだ、わたしは彼女の掌のぬくもりを、覚えている。


 わたしは握った手をそのままに、顔を上げて、続いている道と広がる海を見た。



 名前を呼んでほしかった。



 わたしは立ち止まる。



 潮騒が耳に届いた。海岸通りの軽やかな喧騒が遠のく。漣のひびきと、淡い海のこえが、わたしを包み込んだ。


 足先に、ふと、波の感触をおぼえた、気がした。


 耳の奥に、あの海の音が、ひびく。


目を閉じた。記憶の縁をつよくなぞる。あのぬくもりも、この音も、わたしはけして忘れないだろう。


 目を開けた。海も道も、変わらずに続いていた。


 深呼吸して、もう一度、足を踏み出した。


 わたしのはだしは永遠に凍えたままだろう。


 いっそ、泡になれればどんなに楽か。


 譬えるなら、そう、人魚姫のように。



 わたしは歩む。



 声を失くして、かがやく小さなナイフひと振り。この手に、代りに握り締め、嵐が丘を、わたしは上ろう。慣れ合った水はあたたかく、這い上がる丘、荒む風、凍えることもあるだろう。それでも岸に上る明日に、ひとつねがいがかなうなら、どうかあなたが。





誰が人魚だったのだろう。

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