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中篇



「紅茶を飲みますか?」




 真珠、と名乗った女は、百合の花のように首を傾げた。わたしは動けなかった。


「あなたがもうそんな馬鹿なことをしないというのなら、下へ行きましょう」


 真珠は、どこか東洋的な顔立ちをした人物だった。一輪の雛罌粟(コクリコ)めいて洗練された佇まいに、木造りの豪奢な椅子に座れば床まで垂れる、梯子代わりの淡い金髪。通った鼻筋に、気品のある、倒卵形の白い顔。肌理の細かい肌をほとんど出さない服装はすべて高級で上質な衣装に包まれ、指先まで銀の産湯で磨かれて育ってきたような、そんな人間だった。


 それほど高貴な身分の人物が、なぜ自らワゴンを押しているのか。ままごとを楽しむ子どものようだ。


 扉の鍵を開け、白い螺旋階段をくだると、一階の廊下に出た。二階にも増して広く、居間に通じる硝子戸は開け放たれ、明るかった。


 その居間の椅子に坐らされ、わたしは、目の前に運ばれてきた御茶会セットを、ただ観察した。


 滲みひとつなく磨き込まれた鏡のようなティーワゴンの上には、銀で薔薇の描かれた白磁のティーセットが一揃い、置かれていた。茶菓子は、桃とカスタードのプディングだった。


 わたしの前に置かれたソーサーには薔薇と菫の花びらを砂糖で絡めた、小さな干菓子があった。


「あなたのぶんは、お砂糖三つ、ミルクはたっぷり、と決まっているのです」


 わたしは紅茶を飲まない。そういった習慣がなかったからだ。しかしわたしは黙っている。真珠はわたしの返答も聴かずに、野ばらの形をした薄桃色と雪色の砂糖のかたまりを、ぽとん、ぽとん、と、夕焼けのいろをしたティーカップの紅茶に落としていく。


 紅茶に砂糖とミルクを入れると、色が濁る。おそらくは、味も濁る。ミルキーにぼやけた色合いと風味に、わたしは目を向けた。薫りが褪せる。


「アルシャンブルー、好きな薫りでしょう」


 優美なひびきの単語は、紅茶の銘柄らしい。


 アルシャンブルーは、ラベンダーと苺、そして矢車菊をアレンジした、ハーブのフレーバーティーだと、わたしが訊いてもいないことを、真珠は喋る。


 わたしが目線を真珠に向ければ、彼女は、アルカイックスマイルを浮かべて、頬杖をついた。


「あなたはアール・ヌーヴォーの絵のようですね。とても繊細で、仄暗い魅力がある」


 それがいいのです、いいのです、いいのです、と、反復する。


 真珠は尚も、わたしの瞳と、窓から吹き込む淡い潮風になびいた巻き毛を、人形のマネキンのようだと囁いた。そして肌は蝋細工のようだと、細い指先で、わたしの頬に触れて真珠は呟いた。


「きれいな青い瞳」


 真珠こそ、名に似合わない、瑠璃のようにあざやかなコバルトの瞳で、わたしを真っ直ぐに見据えた。


「そういえば、」


 その指をわたしの頬から離し、真珠は思案げなそぶりを見せた。


「矢車菊の色も、うつくしい青ですね」


 うつくしいですね、うつくしいですね、うつくしいですね。


 あざやかな紫みの青、所謂、コーンフラワーブルーであると、真珠は告げる。

 わたしは色には詳しくない。花にも詳しくない。


 真珠は微笑んだまま、わたしの返答を待つでもなく、ただ座っている。


 わたしは紅茶に目を戻した。


「その服はとても粗末ですね」


 灰水色の古ぼけた布地に瞳を向ける。


「どうして、あなたがそんなものを着ているのでしょう」


 どこか独りごとにも似た様子で、真珠は首をかしげ、白珊瑚の指先を尖った顎にあて、思案するような素振りをみせた。わたしは黙っている。

 絹の服、繻子の沓。天蓋に覆われた寝台、あるいは、塔の上が似合いそうな彼女は、不可解そうに、わたしの襤褸を見つめ、宝石色をした目を眇めた。


「不思議ですね、とても……不思議なことです」


 灰水色をした薄汚い木綿は、裾や襟がすり切れて、土に似た色になっていた。物珍しげにそれを見ながら、真珠は呟く。


 しばらく考えていた彼女は、やがて、そのおとがいから指を離し、


「ならば、まず、服をあつらえましょう」


 そう言い、真珠は、とても嬉しそうに笑った。





 室内の調度品や装飾から、この家の財を推し量ることはできても、真珠と云う人物については何も判ることはなかった。生活感のない美術品的な調度。最初にわたしが寝ていた部屋と同じ、白と水色を基調にした彩色と飾りの部屋はどこも燈りがともされておらず、薄暗い中から、明るい朝の光に溢れた外が、一階の開け放されたバルコニーの窓から見えた。白と白に近いほど淡い碧で塗られた木枠の窓と、鎧戸に似た壁面を持つ建築。窓の上には三角の破風がついている。


 そのまましばし待っていると、言った通り、真珠は、わたしには薔薇色のリボンタイに、襞の寄せられた紗の襟のついた象牙色のシャツに、濃紫の天鵞絨の半ズボンと、絹の靴下をあつらえた。首周りや襟元をさざ波のように取り巻くボビンレースに、正直なところわたしは辟易したが、真珠当人は、自分の趣味をすこしもおかしく思っていないようで、初めて見た時から、変わらない微笑をたたえている。もうひとつ、しつらえられている上下の衣服が目に入る。どうしてこんなに、少年用の服があるのだろうと、訝しく思う間もなく、それを胸元に宛がわれた。鮮やかな瑠璃色のブラッシュコットンのシャツに灰水色の上着を着て、濃紺の釦を全て上まで留めた首元に、純白のサテンリボンを大きく結ぶ。Le Col de Camelia Blanc――エレガントな白い椿を首に巻きつける。そのリボンを縁取る小さなパールは、淡いスミレ色から深いスミレ色へ、落ち着いた碧、艶やかな紅。色の入ったものだった。高価な品だ。やはり、良家のものだった。


 上質の衣服は、幾らでも衣装櫃に収まっていた。深い鞄型の櫃は、支え棒をしていないと、閉じられた蓋に呑みこまれそうなほどに大きく、重厚な、幾枚も煙のような羅紗を敷いたものだった。着せては脱がし、また、着せる。どれもこれも、一歩間違えれば悪趣味な、中世の貴族的な装束。ドレープやフリルやレースで飾り立てられたシャツに、折れそうな両足を晒す天鵞絨のズボン。けれども真珠は、また一枚、薄く畳まれた服を取り出した。男物にしては派手なマドラス・チェックのシャツ、女物みたいな色合いが倒錯的な。装飾の多い華美な衣装は、わたしを少女的にする。


 わたしが瞳を瞬かせると、彼女は艶然と微笑した。


 真珠は、わたしの胸元に紺青のサッシュを結んだ。彼女がわたしに着せる、そして彼女自身の着る衣装は、結び、あるいはほどく時、綺麗な音がする。


 さいごに、真珠は、深い瑠璃のツバメのペンダントを、わたしの首に飾った。


 窓の外から、波の音が聞こえる。


 ぱたり、ぱたり、とひるがえっている波が、その限りない繰返しが、気付かぬ間にわたしの中に滲み込んでくる。



「……海に、行きたいのですか」



 ぽつりと、真珠が呟いた。


 彼女もまた、窓の外へ目を向けた。吹きこむ風に、婚礼のリボンのように、金糸の髪がなびいた。


 まだ靄のまつわる朝方の浜辺。早朝の、まだ誰も歩いていない浜辺には、しばしば、海からの贈りものが届く。あてさき不明、はやいもの勝ち。


 真珠はそう言うと、視線をわたしの方へ戻し、口角を上げ、続けた。


「私も、いくつか蒐集しているのですよ。こう見えても、外歩きは好きなのです」


 雪花石膏より白く、なめらかな肌は、そうは見えない。静脈の透けてみえる首筋や、非現実的なほどに長い、絹糸のようなおぐし。極めつけに、裾をひきずる、花嫁衣装のようなレーシーなヴィンテージのネグリジェ。無論、白。まるで棺衣だ。


「あとで、行きましょうか」


 わたしは何も云わなかった。


 真珠は唐突に立ち上がるそぶりを見せた。動作を目で追うと、少し迷うような様子で、キッチンの方向を見た。


「今からでは、ブランチになってしまうでしょうけど――……」


 食事を、つくりましょうか。


 微笑んで、彼女はそう言った。






 真珠は明らかに、キッチンに立つことに不慣れな様子だった。飾り紐やビーズ、レースの海のようなオーガンジーやシフォンでつくられ、おまけにテープ状の細いリバーレースで作った花や葉が縫いつけられたエプロンは少女のためのとびきりのミニドレスのようだったし、白魚のような陶器のような手が、水仕事に晒されたものだとは到底思えなかった。


 真珠は嬉々として、拙い仕草でキッチンツールを扱っていた。包丁を持つ手も、鍋を掴む手も、危うい。けれども、楽しそうだった。


 ふと見れば、キッチンのテーブルの上に、紙片が置かれていた。それを取り上げ、ブルーブラックのインクの文字を読むと、洗練された筆記体で、料理名らしき単語が走り書きされてあった。


“林檎と梨のタルト、ビーツのポタージュ、野ぢしゃのサラド、……黒さくらんぼと桃のソルベ”


 目を細めた。到底、朝食にはなりえそうもないラインナップだった。これではまるでデセールだ。


 わたしは真珠に目を戻した。彼女は、楽しそうに、ボウルで卵白をかき混ぜている。タルトの生地だろうか。誰かのために、一生懸命な者のまなざしだった。


 わたしはその光景を、ただ黙って見ている。






 凝った蔓草の時計の針が、胡桃の殻が割れるような音を立てて、正午を指した。


 目前のテーブルに、ことんと音を立てて、碧いガラスのコップが置かれた。


 ディアボロミント。

 悪魔のおやつ。


 わたしがその泡立つエメラルドの飲み物を見つめていると、真珠は、やはり微笑したまま、もろい貝殻のような唇で、そう説明した。


「ミントのシロップを、リモナードというサイダーのような甘い炭酸で割ったものです」


 よくわからない。わたしは口をつけなかった。ただ、泡の弾ける音を、聴いていた。耳に快い音だった。


 あなたはこれが好きでしょう、と、真珠は笑む。


 わたしは黙っている。


 真珠も黙ったまま、微笑んで、「バルコニーへ出ましょう」と言いながら、真珠は出来上がった料理の皿を持ち、やはり、ゆっくりとした足取りで開け放たれた窓から一歩外へ出た。


 真珠の庭には、鳥たちの為のレストランが用意されており、小さなメザンジュが現れては消え、現れては消えていく。


 降り注ぐランチへのラズベリーソースを横目に、わたしは、浜辺に面したひかりの庭に、目を奪われていた。


 ここはヴィラのようだった。モザイクと漆喰細工と木彫りのガラスの天井は、大きく砂浜の方へせり出したバルコニーを、ひかりを透かして覆っている。低く垂れこめた雲のようだ。層が交互にいくつもかさなりあって丸屋根になっているのだ。まるで貝殻の中に入り込んだようだった。


 少し丘を上がったあたりに、あの、蠟燭のような灯台が見えた。


 手をつけられていないソルベが、音もなく雪のように溶けた。崩れた氷山のミニチュア。飾りのような料理たち。


 喋々とタルトの焼き加減の好みについて語っていた真珠が、ふと言葉を止めた。


「ねえ、久しぶりに、」


 あれを。


 言いながら、彼女はゆっくりと、立ち上がった。足を引き摺る動作だった。足に、鍵をかけられたような。


「あなたと集めた――――ほら、」


 居間と廊下を隔てる白い扉のところで、振り返り、わたしを手招きする。椅子から立ち上がり、廊下へ出る。長く、薄暗い廊下をすすみ、右に折れて、淡い翠色に塗られた扉の前に立つ。


 入ると、両側の壁には、マホガニーの色をした、重厚な本棚や飾り棚が並び、中央には、天板がガラスで出来た、背の低い机があった。それを挟むように、扉と同じ色のソファが二つ、並んでいる。


 麻の布がかけられたソファに腰掛けると、真珠は、嬉しそうに机の上の菓子の箱らしい深緑の紙箱を手元に引き寄せ、サテンのリボンをほどいて蓋を開けた。


 ENCRE ROUGE, 海に溶けた夕日のような赤と、金のラベルに浮かぶ船。インクボトル瓶。裏面には、獅子に引っ掻かれたような波模様が彫られている。赤いメダイユ入れの中には、紺青のベルベットの海。


 箱の中に行儀よくおさまっていた海のモチーフのアイテムを幾つか並べて、真珠は「これは、あなたがわざわざ取っておいたのですね」と、愛おしげにそれらに触れた。わたしは、見たこともないそれらの品々を見て、真珠の指先と一緒に目を移した。


 思い出として保存された品物や、海辺であつめた貝がらは、部屋のなかにあって、少しずつ変化する。その変わりゆく時間を、刻まれた作品のなかで味わう。瞬間をとどめた、というように考えるのではない。むしろ、瞬間というものが、あるのかどうかを疑う。


「石を見ましょうか」


 言いながら、天板を持ち上げる。蝶つがいが、貝殻が擦れる音を立てて、ガラスの蓋が開いた。中に眠るのは、静かにきらめく、鉱石たち。掌より小さい、水晶の塔もあるし、城のごとくかたまったアメジストの群晶が、目を惹いた。淡青色の世界がひらける藍方石の粒もあり、銀の羽のなかにうずもれている。漂着した船のようなCelesteite――結晶をたくさん積んで、どこかの港を出たのか、あるいは、なにかが結晶になりかわったのか。


 ガラス上には海図が広げられていた。真珠岩を母岩とする小さなオパールの原石のクラフトで、留められていた。ちらちらと見え隠れする結晶には、虹色の火がひそんでいる。


 グロッタに魅せられて目を凝らせば、めくるめく世界があらわれてくる。


 まるで机上が陳列棚だ。


 真珠は、木洩れ日の碧に染む麻の膝掛けをゆらして、ゆっくりと立ち上がろうとした。その体が傾ぐ。わたしが手をのばすと、真珠はわたしの腕を、つめたい掌でつかんでバランスを保った。


「ねえ、」


 ふと、真珠がわたしの方へ身を乗り出した。わたしもつられ、彼女の方へ少し移動した。衣摺れの音が近かった。


 真珠は、わたしの耳に唇を寄せて、囁いた。



「貝の中には、小さな海があるんですよ」



 銀の泡がはじけるような、きらきらとした声だった。瑞々しいささやき声。


 真珠は、海を持っていた。たとえば眼の中に、果てしない水平線を、たとえば髪の毛の中に、揺れやまぬ波を、たとえば細い肩に、貝殻のにおいを、たとえば声の中に、遠い潮騒を。


 彼女の髪には波が溢れていた。すくえば魚が指に絡まりそうだった。まさぐれば貝殻が掌にさわりそうだった。そしてわたしの指は、彼女の髪に溺れた。


 真珠はその、海より青い瞳を瞬かせた。



「――海へ、行きましょうか」



 わたしは頷いた。







 微かな水平線、静寂の波。



 Au Bord de la Mer. ―― La Jetée.

 海辺で、――波止場。船を眺める紳士。郷愁の海。

 Au Bord de la Mer. ―― La Jetée, par un Jour de gros temps.

 海辺で、――波止場、時化の日に。白い飛沫、聳え立つ灯台。

 Mon Petit Bateau, わたしの船。



 ウィスパーヴォイスが耳に届く。真珠が唄っている。囁き声で、潮騒にまぎれて。


 伏せた睫が、真珠の白い頬に、青い翳を落とす。薄く微笑みをたたえたまま、真珠は、たわむれるように台詞を紡ぎながら、裸足で真砂をこぼして歩いていく。


 ふ、と、音もなく彼女が屈んだ。水際に、指をあそばせる。


 指先をひたすと、そこはもう青い。


 とりわけ、濃い青色に惹かれるが、これも、マーブルとして、融けあうほかの青があるからこそ。


 瞑目した真珠は、そう云いながら、ピアノを弾くような仕草で、波をなぞった。


 わたしは、靴を脱いで、波打ち際に、一歩、右足を踏み出した。

 ぱしゃぱしゃと足元で存在感の薄い音がする。冷えた砂の感触が足裏から伝わってくる。一面に広がる空とは違う深み掛かった青は、段々とわたしを冷やしてゆく水温共々、やはり冷たく感じられた。


 振り返ると、わたしの履かされていた靴が、未だ砂浜の上で脱がれた時のままぽつりと主が帰ってくるのを待っているのが見えた。真珠が履いていた白いミュールも片方だけ、今にも波に飲まれそうになりながら、どうにかそこに留まっていた。片方だけになってしまった靴はこの先使うことは二度とないだろう。


 淡い波際でまどろむように、真珠が足を止める。


 ぱたり、ぱたり、とひるがえっている波が、その限りない繰返しが、彼女を攫っていってしまいそうだった。


 わたしは真珠の服の袖を、わずかに引いた。生地に縫いつけられたパールやサテンのリボンが、しゃらりと涼やかな音を立てた。


 波の音を聞きながら、躰の中に広がってゆくものをどうすることもできなかった。


 藍碧の海水と淡青い空の交わるところは、滲んだ水性紙のように染まっていた。


 午后二時を過ぎている。海はおだやかな碧さで広がっていた。


 耳に潮騒と混じった旋律が聴こえる。真珠が口ずさむ唄だった。潮風、波の音、かもめの啼き交わす声に、途切れ途切れに、うたう。



 彼女は声の代わりに、何を失ったのだろう。



 あてもなく、数十メートルほど砂浜を歩いた。足首までが、砂にまみれる。


 白くてきらきらひかる、貝が落ちていた。かがんで、それを拾った。わたしの掌の中央のくぼみに丁度収まってしまうくらいのそれは、しっとりと、手に馴染む温度だった。


 真珠が、ゆっくりと歩み寄ってくる。白珊瑚の指先が、その貝をそっと取り上げた。


 真珠はそれを、わたしの耳に宛がった。


 海の音がした。


 波の囁きが、海鳥の呼び声が、潮風のざわめきが、悠久をはらむ海の音が、鳴る。


 わたしの中に、海がある。


 その中では、白い砂浜も、碧い海も、空も雲も、すべてがわたし、あるいはわたしたちだけのためにあるのだった。


 悠久だった。


 そこには瞬間なんてなかった。わたしの中に反響する海の音も、見つめ合う真珠の青い瞳も、すべてが永遠だった。






 屋敷へ戻るあいだには、青々としてひんやりと冷たい夏草が茂っていた。砂のついた足をそのままに、靴も履かず、わずかに揺れる灌木の隙間を縫って、白い外観の家の中へ戻る。緑を抜けて海へと向かう風が、鬱陶しさをどこかへ払っていくようだった。


 わたしも、真珠も、無言だった。


 開け放たれた窓から、レースのカーテンが、風をはらんで舞い上がる。薄暗い室内に、何かが見えた。


 わたしは足を止める。


 屋敷の居間に、男が立っていた。


 黒いタキシードを着て、淡い色の髪を撫でつけ、黒い縁の眼鏡をかけていた。どこか殉教者めいた顔立ちの、男だった。


 一呼吸あとに、彼は、「真珠」と、私の隣に立ち竦んでいる真珠を呼んだ。低く、悲しげにしわがれた声だった。


「あ、――――」


 真珠の喉から、途切れた声が漏れた。パールが一粒、落ちたような音だった。


「真珠」


 男は彼女の名を繰り返し、黒く磨かれた革靴で、一歩、こちらに歩み寄った。


 わたしも真珠も、動けなかった。


 わたしは、隣に立つ、真珠の方へ瞳を向けた。


 硬く凍りついた表情で、彼女は、近づいてくる男を見つめていた。


 男が近付いてくる。あと五歩。あと四歩。あと三歩。あと二歩。目前。



 男は、真珠の頬をつよく打った。



 乾いた音がした。


 崩れ落ちた真珠の青い瞳に、瞬く間に、波が押し寄せるように、なみだが溢れ出た。



「ごめんなさい、」



 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と、真珠は、泣き崩れて謝り続けた。

 わたしもまた凍りつき、強張った腕をのばそうとする前に、男がわたしのその左腕をつかんだ。白い手袋の上からでも分かる、骨張った手だった。



「君はどこの子かな? ……妻が、迷惑をかけたね」



 深い皺の刻まれた眉間の下の双眸は、真珠とよく似た青い色をしていた。

 だが、その色は、俗世に倦んだ、ごくふつうの人間の瞳の、ミルクを垂らした紅茶のように濁っていた。



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