前篇
学校でちょこっと描いた作品。
あえて心情描写は抑えてあります。
遠く、波の音がした。
目を開けた。
瞳に映る、天井か、それとも天蓋の内側に描かれていたまるで雲間のような白い蔓草模様が目に入った。その四辺からは、白く塗られた、同じ意匠の凝った彫刻が施されている。その上から十重二十重と垂れ落ちる薄いヴェールが、わずかに風をはらんで舞い上がった。
わたしが寝かされている、その天蓋付きの寝台には、夏麻が敷かれていた。背に触れる感触は粗末なぼろ布ではなかった。上質な、すみれの薫る寝台。
身を起こした。寝台は広く、調度の少ない部屋の中央に、静かに座していた。左手に、開け放たれた窓が見えた。バルコニーらしきところから、光と、潮風が吹きこんでくる。それに乗って、また、あえかな潮騒が、耳に届いた。淡白な音。主観を差し挟まないで、わたしはそれを聞く。
室内に調度品は何もなかった。ベッドサイドの棚やクローゼットもなく、薄い水色に白い浮き彫りめいた蔓草模様の壁紙が、窓から入り込むひかりに淡くかすんでいた。とにかく、明るい室内だった。
ベッドから降り、窓へ歩み寄った。レースのカーテンをかき分け、溢れだす光のもとへ歩み出た。頬にもつれてかかっていた髪が風になぶられ、わたしが身にまとっている、薄汚れた灰水色の大きなシャツの裾を舞い上げた。バルコニーの白く塗られた手すりに身を預け、遠くまで見渡した。
きらきらと宝石を散らしたような海面には、白い帆を広げた船が幾つか見えた。眼下は砂浜だった。銀に近いオパールのような白の砂が、窓から身を乗り出して左を見れば、三日月のようにずっと向こうまで続いていた。その前には、紺青の海が広がり、時折かもめの白のようなレース細工の波が寄せては返す。右手の方には、小高い丘、あるいは崖に似た、岬があり、その上には、鐘楼にも似た、白い灯台が、ぽつりと立っていた。蠟燭のように背が高く、その周りを、幾羽かの、海鳥が飛んでいた。その向こうに、白くふくれ上がった、メレンゲのような夏の雲が、澄んだ水平線のその先からそびえていた。淡い空の青と、すこしインクを垂らしたように深みのある海の青が、その雲の真珠母のような白で、互いによく馴染んで、絵画のような光景だった。ひとすじの風のとおったあとに、みずみずしい潮風が薫りたつ。何とはいうことなしに、朝だ、と感じた。
わたしは室内に目を戻した。薄暗い部屋は、見知らぬ場所だ。なぜここにいるのかは解らなかった。わたしはまた、ささくれた裸足で、つめたく落ち着いた感触の床を踏み、ベッドの近くまで戻った。わたしが先程まで寝ていた痕跡をそのままに少し乱れた寝台を見つめて、わたしはしばし考えた。それから、ともあれ、自分の意思で来た場所でないところにいるのは危険なことであるという結論に落ち着き、シーツを一枚はがし、歯でその端を裂いた。上質な麻は、歯を食い縛ってもなかなか裂けることがなかった。ようやっと切れ目を入れ、そこから縦にそれを引き裂いた。木々の葉ずれのような音がした。その縦に細長くなったシーツを、さらにまた二つに裂いた。四本の幅広な包帯のようになった夏麻の端をつよく縛って束ね、それを編み始めた。中途に、胡桃のように硬い結び目を幾つか作っておく。これを掴み、足場にして降りる。
しばらく無心に編んでいた。
その麻のロープが、バルコニーから下の砂浜まで届くくらいに長く編み込まれたとき、ふと、木の廊下がきしむ音がした。
咄嗟に、手に持ったロープが少年ひとりの体重に耐えられるかどうか強く引っ張って確かめたが、緩慢に近づいてくる足音との距離では、ロープを船乗りの結び方でバルコニーの手すりに結び付ける時間までは無かった。
扉が開いた。
真鍮のドアノブはよく磨き込まれて艶を放っている。天蓋と壁紙と同じように、精緻な蔓草模様の浮き彫りが施された象牙色の扉から現れたのは、白いひとだった。
しゃらり、と、絹ずれの音がした。
床につきそうな、幾重もの波のレースが、目前を通った。繊細な泡飾りのようなレースが、水際のさざ波のように床を擦った。わたしは息を殺し、それを見送った。
後ろ姿が、ベッドに近づく。どことなく、足を引きずった歩き方だった。長い金の髪が、膕の辺りまで垂れ、陽光を反射し、パールを散らした蜜のようにきらめいていた。
わたしは、扉の裏から身を屈めたまま飛び出し、床を蹴った。
背後で、入ってきた人物が振り返るような気配がした。わたしは意に介さずに、出来る限りの俊敏さで、薄く開いたままの扉を抜けた。
扉の向こうは広く長い廊下だった。部屋のひとつと言っても通じそうなほどだった。
わたしは床を蹴り、右方向に足を向けた。先程、足音が近付いてきた方向だった。やはり薄い水色をした壁がずっと続き、数メートルの間隔で、小さな版画が飾られていた。ぽつんと置かれた腰掛けや観葉植物も大概が色の薄いものだった。突きあたりにまっ白な扉がまたあり、内側に蝶つがいがついていた。金いろに鈍くきらめくノブに、わたしは手をかけ、勢いよく引いた。
扉には鍵がかかっていた。
背後から、ゆっくりと、靴音が近付いてきた。室内履きのようだった。
「馬鹿な少年ですね」
振り返ると、トゥーシューズのように光沢のある白いサテンでできた靴を履いた足を引きずりながら、近づいてきた人物が、わたしを見て、ひどく艶麗に、微笑んだ。
うつくしい女だった。
わたしは振り返ったまま、その姿を見ていた。
何とはなしに、ひとでないような雰囲気を感じさせる、美しいかんばせ、うつくしい容貌だった。膝丈の、長くまっ直ぐなブロンドに、大理石のような肌。まとった、繭のような白いネグリジェが、風を孕んで、帆のように、羽根のようにふわりと、踊った。若く見える年も、判然としなかった。その、まぼろしのような美貌で、女は、わたしに微笑んだ。
真珠を吐かない方がおかしいほどの唇で、譬えるなら、そう、人魚姫のように、うたうような口調で、繰り返した。
「馬鹿な少年ですね。鍵がかかっていないとでも思ったのですか?」
馬鹿ですね、馬鹿ですね、馬鹿ですね、と、いっそ稚拙な罵倒を、なぜか慈しむように繰り返した。真珠の粒がころがるようなアルトだった。
喋れるのか。
わたしは彼女の目を見た。
はっとするほどの深いアンティークブルーの瞳だった。
涯のない、海のような青だった。
ゆっくりと、女は、足を引き摺りながら、固まったままのわたしに近づいた。
わたしは動けなかった。
女が身を屈めると、また、あの、しゃらりという、すずやかな絹ずれの音がした。どこか、遠い潮騒にも似ていた。
「全く、馬鹿で、いとしい子」
そう言い、彼女は、わたしの頬に口付けた。
すみれと、潮風の薫りがした。
わたしはただ、彼女を見つめたまま、立ち尽くしていた。
鍵をかけられているということは閉じ込められていることだ。そしてそれは同時に、この人物が、わたしを閉じ込めようとしている証左でもある。
しかし、わたしは、彼女から瞳を離せなかった。
彼女は、その海の瞳でわたしを見つめて、淡く蜜をふくんだ唇で、幾つかの音をかたどった。声はなかった。わたしが目を瞬かせると、薄く微笑み、囁いた。
私を忘れたのですか、と、少し悲しげに、それでもどこか微笑をのこしたままで、彼女は、とっておきの秘密をうち明けるように、わたしの耳に、声を寄せた。
「私の名は、真珠です」