小さな部屋
苦痛にゆがむ顔、傷口に刺さる包丁、流れ出る血、全てが俺の網膜に焼き付いた。鏡だけ置かれた狭いこの部屋中に満たされている血、生温かい血、赤黒い血、次々と流れ出てくる血、俺の指を伝い床に落ちる血、服を染め上げた血、そして目の前にいる“彼”の血――。血に染まった服、血に濡れた手、血に汚れた心、血に沈んだ“彼”。…そうか、俺が“彼”を殺したのか。何でだっけ?数分前まで仲良く笑い合っていたのに。何があった?何をした?何でこうなった?知らない、そんなの知らない、理由なんて知らない、知りたくもない。唯、此処に事実があるだけだ。俺が“彼”を殺したという事実だけが――。でも、思い出したんだ。仲が良かったのは表面だけだったて事に。俺は心の底では“彼”のことを嫌っていた。そのことに気づいたからなのかもしれない。台所から包丁を持ってくると、そのまま“彼”に襲いかかった。でも、“彼”はあっさりとそれを受け止めて見せた。――“彼”の手にあった包丁で――。そう、彼も俺と同じだったんだ。そのまま俺と“彼”は死闘を繰り広げたのだ。――この部屋で。俺が“彼”の腹に包丁を突き刺すとそれで決着が付いた。“彼”は大きな傷のできた腹を抱え、俺を睨んだ。その顔は苦痛に歪み、憎しみがにじみ出ていた。俺の中ではそのまま時が止まっていた。
…気が付いた。そこには微笑む“彼”がいた。…どういう事だ?“彼”の腹を見る。傷口は無かった。包丁は刺さってなかった。“彼”の手のには血がベットリと付いている。俺は部屋を見渡した。部屋中に満たされている液体、生温かい液体、赤黒い液体、次々に流れ出てくる液体、“彼”の指を伝い床に落ちる液体、服を染め上げた液体、そして鏡に映る自分の――
鏡に映る自分。苦痛に顔を歪めていた。腹に包丁が深々と刺さっていた。腹の傷から赤黒く生温かいドロッとした液体が流れ出していた。そう、刺されたのは自分だった。先に襲ってきたのは“彼”だった。俺は包丁なんて持っていなかった。“彼”の持つ包丁は深々と俺の腹に突き刺さった。俺は膝をつく。傷口の開いた腹を抱えた。苦痛に顔を歪めた。「なんで…」と何度も呟いた。俺の目からは血ではない液体がこぼれ落ちた。何度も何度も…。悲しかった。“彼”を殺そうとしたことが。哀れだった。自分自身が。悔しかった。“彼”の気持ちに気づけなかったことが。嬉しかった。俺が“彼”を殺していなかったという事実が--。
“彼”はまだ微笑んでいた。嫌な笑みを浮かべていた。俺が最期に見た物は“彼”の嫌な微笑みだった。視界が段々暗くなり、狭くなる。体の感覚が全て鈍っている感じだ。体が冷たくなるのを感じる。力が抜けていく。目の前の出来事が全て他人事のように思えてくる。体が軽くなる。白くふわふわした羽の生えた人達が俺の元へ舞い降りてくる。あぁ、迎えが来たんだ。そう思った。けれど、その人達は何もせずにそこにいるだけだったのだ。何か踊りを踊っていた。その踊りがピタリと止まると、真っ暗な世界の中、人の足音と救急車の音が聞こえた。羽の生えた人達は、俺の失った視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の内、聴覚だけを戻してくれたようだ。救急車に乗せられるような音、降ろさせる音、手術室に入る音、手術をする音、ピッピッという機械音。ピッピッと鳴っていた音が段々鳴る間隔が長くなっていった。最期には『ピー』という音が部屋に響くのが聞こえた。母親の「どうでしたかっ!?」という切羽詰まった声、医者の「残念ですが…」という声。泣き声が聞こえた。嗚咽を漏らし、泣き続ける声が一つ、俺の耳にこびり付いた何度も頭の中でその泣き声が繰り返された。